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箸墓が300年前後の新根拠:布留式期・楽浪系土器・台与

箸墓古墳の年代が300年前後、ホケノ山古墳が270年前後だというのは、僕が2023年4月から主張している説です。根拠は炭素14年代ですが、試料数が少ないことと、箸墓の試料(小枝)は開放されている周濠からの出土だという問題(不確かさ)があります。

ホケノ山が270年前後を側面から支える根拠として、ホケノ山から出土した画文帯神獣鏡の破鏡(B鏡)が挙げられます。B鏡は中国で230~250年に製作されたと推定されていて、ホケノ山が270年後という年代と矛盾しません。箸墓はホケノ山の後ですから、300年前後にも整合性があります。

今回、もう1つ、箸墓が300年前後を裏づける根拠に気づいたので、紹介します。今回の根拠から、箸墓は300年前後の可能性が高いことが、かなり確信がもてるようになりました。

※トップ画像:箸墓古墳(2024年10月撮影)


箸墓は布留0式期の築造

箸墓は土器の布留0式古相段階の築造とされることが多いです。寺沢薫さん(纒向学研究センター)は「<箸墓の>土器を分析すると、おしなべて布留0式の古相を示すが、内濠の土器にやや新しい要素が見られる」と述べています(『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中央公論新社、2023年))。

歴博の炭素14年代に関する2011年論文(表1)では、築造直後の箸墓周濠小枝(NRSK–C21)は布留0式新相と位置づけられています。寺沢さんも「新しい要素が見られる」としていますので、僕は箸墓は布留0式新相としています。古相から新相に差しかかる年代、境界の年代だといっていいでしょう。

僕は、2025/6/28noteで示した年表のとおり、庄内3式~布留0式期の実年代を下表のように捉えています。

楽浪系土器は布留式古相に激減

ところで、九州北部での楽浪系土器は、布留式古相併行期に激減したことがわかっています。各地の楽浪系土器を集成した寺井誠さん(大阪歴史博物館)は以下のように述べます。

▶時期区分は弥生時代中期末、弥生時代後期前半、同後半、古墳時代前期初頭、同前葉、同中葉、同後葉の7期に区分した
▶庄内式併行期は「弥生時代終末」と言われることもあるが、本稿では「古墳時代前期初頭」と呼ぶ…。布留式古相・中相・新相併行期は古墳時代前期前葉・中葉・後葉と呼ぶ
▶楽浪系土器は…急増するのは弥生時代後期後半から古墳時代前期初頭である
楽浪系土器は古墳時代前期前葉以降に激減し、それに代わって朝鮮半島南部、特に南西部に当たる湖西・湖南地方(忠清道・全羅道)の土器が急激に増加する
▶これはまさに、楽浪・帯方郡の没落とともに、朝鮮半島南部の諸集団の政治的・社会的成長を示し、以後、湖西・湖南地方の勢力が楽浪・帯方郡や中国との交渉の仲介者となったのであろう

寺井誠「日本列島出土楽浪系土器についての基礎的研究」(『古文化談叢』56、2007年)

寺井さんがまとめた「各地の楽浪系土器の変遷」(点数)の表を見ると、古墳時代前期初頭→前期前葉にかけて、出土の中心となる壱岐・糸島・福岡平野は34点から20点へと激減しています(単純な点数からは激減とまでは見えないかもしれませんが、土器片も1点とカウントしている(例えば前期前葉の原の辻遺跡に胴部片8のカウントがある)ので、土器に復元するともっと減少している可能性があると思います)。

楽浪系土器(伊都国歴史博物館展示)

台与の266年遣使を最後に外交関係は途絶える

寺井さんは楽浪系土器の減少の理由は、楽浪・帯方郡の没落だとします。

倭国から中国への遣使は、卑弥呼の死後も続きました。晋書(7世紀)と日本書紀(8世紀)は以下のように記述します。

【晋書】(仮訳)

晋書 倭人伝
▶宣帝(司馬懿[しば・い]=西晋の創業者)が公孫氏を平らげると、その女王(卑弥呼)は使者を帯方郡に送り朝見した
▶その後も訪れて貢ぐことは絶えなかった
▶文帝(司馬昭)が魏の相国[しょうこく=首相]になると(263年)、また数度やって来た
▶泰始元年(265年)に使者を送ってきて土産を献じた

晋書 帝紀第3(武帝紀)
▶泰始二年(266年)11月、倭人が来て貢を納めた

※司馬懿(宣帝)の子が司馬昭(文帝)です。その子が司馬炎(武帝)で265年に魏を建国し、年号を泰始と改め、初代皇帝(武帝)になりました。

【日本書紀】

▶<神功皇后>六十六年、この年は晋<西晋>の武帝の泰初<泰始の誤り>ニ年<266年>である
▶晋の国の天子の言行などを記した起居注[きちょちゅう]に、武帝の泰初<泰始>ニ年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している

『全現代語訳日本書紀(上)』(宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年)

※晋の起居注は現在は失われていて(日本書紀など)他の歴史書での引用で部分的に知られます。

整理すると以下のとおりです。

  • 卑弥呼による遣使以降も遣使が続いた(晋書)

  • 263年以降、遣使が数度あった(晋書)

  • 265年・266年に遣使があった(晋書)

  • 266年に倭の女王が遣使したという(日本書紀)

晋書では卑弥呼から続く記述であること、日本書紀に266年は女王とあること、魏志倭人伝では卑弥呼の死後に宗女(親族の女性)・台与が王になったとしていることから、これらの情報を組み合わせて、266年の遣使は卑弥呼の後を継いだ女王・台与の遣使であるとされています。僕もその通説どおりで問題ないと思います。

266年の台与の遣使を最後に、倭国からの遣使は途絶えます。寺井さんの指摘のとおり、高句麗の南下によって、楽浪・帯方郡が混乱を極めたことが要因でしょう。2郡が滅亡するのは313年です。

※帯方郡滅亡の年(313年か、314年か)や主体(高句麗単独か、韓などとの協力によるものか)、そもそも帯方郡は消滅したのか、については中国の歴史書などに明確な根拠が見出せません。僕のnoteではわかりやすく「高句麗によって(楽浪郡と同じ)313年に滅亡」とします。

楽浪系土器の激減=布留式古相=箸墓は3世紀第4四半期以降

よって、以下のことが言えると思います。

  • 箸墓の年代は布留0式期(布留式古相)である

  • 布留式古相併行期=古墳時代前期前葉には、九州北部の楽浪系土器が激減している

  • 楽浪系土器の激減は、楽浪・帯方郡を通じた倭国と中国との外交関係が途絶えたことを意味する

  • 文献によると、台与の遣使は266年まで続いた

  • 外交関係が途絶えたのは266年以降であり、布留式古相は3世紀第4四半期以降と見なせる

この結論は、箸墓(布留0式期)が300年前後だという僕の推定とも整合します。

逆にいうと、布留0式期を3世紀中頃とか、第3四半期という早い年代に置くと、まだ台与の遣使が続いていた年代に楽浪系土器が激減するというおかしなことになってしまいます。

楽浪系土器の激減という考古学的成果と文献学を組み合わせて考えることによって、箸墓の年代が300年前後という説の確からしさがより裏づけられたと思います。

(最終更新2025/11/1)

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