双葉(ふたば)

双葉は新芽です。
見渡せばどこにでも芽吹いている存在。
だけどちゃんと意識をしないと見えないもの。
母がなくなって生まれた世界。

母をなくして
母が亡くなったとき、私はただ、その悲しみの中にいました。何かをしようと思ったわけではありません。
でも、気づけばキャンバスに向かい、双葉を描いていました。
なぜ自分が双葉を描いているのか、最初はわかりませんでした。けれど、時間が経つにつれて、少しずつ気づいていったのです。
双葉は、どこにでもあるのに、意識しなければ見えないもの。道端にも、公園にも、庭にも、あたりまえのように芽吹いている。
でも、それをじっと見つめることは、意外と少ないものです。それはまるで、私たちが「当たり前」と思っているもの に似ていました。
家族や友人との会話、
ふと見上げる空の色、
肌に触れる風のやわらかさ、
そばにいてくれる人のぬくもり。
いつもそばにあるものほど、気づかないまま過ぎていく。
「当たり前」と呼んでいるものは、私たちの日常の中に、いつもそっと存在しています。
しかし、多くの場合、それが本当に大切だったと気づくのは、残念ながら、それを失ったあとではないでしょうか。そんなふうに、当たり前の尊さに気づかないまま進んでいく競争社会の一端が、見えてきました。

そこで私は、「双葉を通して見る世界」という、循環をつくりたいと思っています。
それは、これまで見過ごされがちだった「当たり前」を、改めて見つめ直すことができる循環です。
私たちは不安から「足りていない」と感じやすいところがあるように思います。でも、実はすでに十分に恵まれている。その可能性を感じられたら、私たちの行動や選択は、どう変わるでしょうか。
たとえば、普段は意識しない健康が崩れたとき、「健康でいられるだけでよかったんだ」としみじみ思うかもしれません。また、大切な人が突然いなくなってしまうと、「ただ生きていてくれるだけで幸せだった」と気づくことも
今ある「当たり前」に慣れてしまうと、それが常にあるものとして安心しきってしまいがちです。その結果、本当に大事なものを見失ってしまうことがあり、あとになって「しまった」と後悔してしまう。
でも私たちは「足りない」と思った時、いま手の中にあるものを見つめてみることで、本当はどれだけたくさんのものを持っているのか、与えられているのかに気づけるのではないでしょうか。
私も改めて、「当たり前だと思っていたもの」は、決して当たり前ではなかったのだと感じるようになりました。
この循環が、誰かの気づきにつながれば嬉しいです。



双葉を通して見る世界の概要(循環)
詳しくは以下のリンクをご覧ください。
いつでもできることをするのは難しい
いつでもできるから
できないこと
それをする時間。
双葉を通して見る世界はそれをつくりだす活動です。








メッセージ
ふたば
それは「いのち」でした。
この世に生きるわたしたちが、心の奥底で求め、守り抜き、そして育んでゆくべき優先順位とは何なのでしょうか。
人によって信条も境遇も異なるこの世界にあって、ひとつの正解があるわけではありません。しかしながら、命ある限り尊重したい、普遍とも呼べる大切な要素、それは、わからなくても今なお、存在しているのかもしれません。
この大切な要素に、いのちの尊さを知ることがあげられるのではないでしょうか。何よりもまず、自らのいのち、そして他者のいのちを尊ぶ姿勢がすべての基礎となることをこれからお伝えしたいと思います。
この世に生きるわたしたちは、日々の営みの中でさまざまな感情を抱きながら、自分自身のいのちをもてあまし、あるいは見失いそうになることがあるかもしれません。しかし、どんなときもまずは「わたしが今ここに生きている」という驚くべき事実を見つめ直してみることが実は私たち人類にとっての初心なのではないでしょうか。
生きていることは、時に当たり前のように感じられます。毎朝目覚め、深呼吸をして、食事をし、歩き、働き、そして眠る。その繰り返しは単調にも思えますが、実は一つひとつの営みが奇跡に満ちているともいえるのです。

呼吸をし、心臓が脈を打ち、血が巡り、五感がはたらいている。それだけで実は、とてつもなく尊い奇跡なのだと気づくことができたら、自然に日常の一瞬一瞬がかけがえのないものに変っていきます。
そして、ふと周囲に目をやると、自分と同じように息づくたくさんのいのちに溢れていることに驚くかもしれません。隣の家で笑い合う家族の声、道ばたの小さな草花の逞しさ、空を舞う鳥の姿、土の中で蠢く虫たちの営み。それらはすべて、わたしたちと同じように“生きる力”を宿しており、お互いに支え合ってこの世界を織り成している。
わたしたちが食卓で口にする一切れのパンや一粒のお米、果実にも、もとは土や水や陽光が注がれ、動植物たちのいのちの連鎖があってこそ育まれたという事実があります。その壮大な循環の中で、わたしたちは決してひとり孤独に存在しているわけではなく、むしろあらゆる生命の力を借りながら生かされています。
ですから、自分のいのちを大切にすることはもちろん、他の人びとに対しても、自然界に暮らすさまざまな生き物たちに対しても、敬意と感謝の念を抱いていたわろうとする姿勢が、傷ついた心を慰めるときも、落胆や悲しみを抱えている誰かを支えるときも、あるいは小さな虫や儚げな花の存在を見つけて心がほっと和むときも、互いを思いやり、慈しみ合うことで、わたしたちは自分の存在を確かめると同時に、世界を彩るさまざまな命をともに、いのちを大切に育むことができるのです。

一方で、わたしたちは往々にして“他者のいのち”をおろそかにしがちです。自分の都合や感情にまかせて相手を傷つけたり、無理解や偏見で差別的な言動をとってしまったり。そうした行いは、いのちを見失った行為であり、そこには後悔や苦さだけが残ります。相手がいのちを持つ存在であると深く認識すれば、むやみに踏みにじることはできません。互いを尊重し、ときに譲り合い、想い合うことこそが、いのちを大切にする具体的な証となるのではないでしょうか。(人以外の命も含む)
そして「いのち」は、それ自体が神秘に満ちていて、科学の進歩がいくら進んでも、この尊さを完全には解き明すことは現時点においては不可能ですが、この不可能が、尊さ(計り知れない価値)を表しているようにも見えてきます。
わたしたちが互いの「いのち」の尊さを理解しようと努めるとき、そこには深い畏敬の念と、それを大切に扱おうとする優しさが育まれます。優しさは単なる甘さや弱さではなく、強さと豊かさの源となってくれるものです。
最後に、この「いのちの尊さ」を知ることは、わたしたちの生き方すべてに関わる大きな礎である、という点を改めて心に留めたいと思います。
結局のところ、わたしたちが守り抜くべき「いのち」とは、自分だけではなく、人も、動物も、草花も、すべてが繋がり合う大切な共同の財産です。その尊さを胸に抱くとき、わたしたちはきっと、限りある時間をいっそう輝かせ、ここに生きた証を噛みしめながら、精一杯、そして幸せに生き抜くことができるのではないでしょうか。

双葉を通して見る世界について
以下のリンクは、
双葉を通して見る世界が生まれた背景になります。
背景
詳細
最近大切なおじいちゃんをなくしました。
本当にまさか、でした。
当たり前なんてなくて、日々が奇跡でした。
以下のリンクは私のおじいちゃんへの思いです。
「いつでもできる」ように感じることは、案外、先延ばしにしてしまいがちではないでしょうか。
その一つが、身近な人へ伝える感謝の気持ちです。
忙しさや競争に追われる社会では、私たちは目の前にある大切なことよりも、見えない何かを追いかけやすいです。または忙しさに追われてしまう。
でもその時、
突然別れがきた時、
涙を流すことは知っています。
私は双葉を通して見る世界を通して、
少しでも悔いが残らないように、
しっかりと届き合う世界へ
向かっていきたいと思っています。






































