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エッセイ - 喪失、傷を癒す、その他のこと 〜 なぜ自分語りなのか②

①はこちら↓

前回、ものの姿、実感、佇まいこそを「生命」として認知していたのかもしれない少年期のことを綴った。

今こうして続きを書いているのだが、SNSの醍醐味というか、記事にさっそく反応をいただいた。いまぼくはそのコメントに思考が引っ張られている。

"ぼくが親しみを持って眺めていたのは自動車、酒屋のビールケース及び空き瓶、電柱や電線、レゴブロックのピース、街灯に照らされる自分の影、マンホールの蓋"

これはすごい…
マンホールの蓋は町という生き物の血管の入り口…カサブタ?
電柱や電線は神経や毛、レゴは細胞の最小単位。
ビールケースと瓶は赤血球のような物質を掴んでは放すもの、自分という生き物の写像のような町、人工的秩序は生命の生き写し…ということなのか…

前回の記事へのみぎわさんのコメントを転載

(※みぎわさんとは"ザクロ荘"で知り合い、仲を深めた間柄でもある。批評眼というのか、彼女のフィルターを通して見る世界はぼくの狭くなりがちな視野をいつも広げてくれる。)

この「人工的秩序=生命の生き写し」という部分。これはなんだかズバリというか、たしかにそう感じる気質を今でもぼくは持っているのだろう。

例えばバイクのエンジン。人の手で創り出した造形である以上、意図や役割の統合なわけだが、にしても。魅入られる個体というのが確かにあって、それは何度見てもやはり"なまめかしい"のだ。意図の塊なのにうるさくない、ひとつとして無理のない、そういうもの。衣服についても同じように思うものがある。ほかには街灯が等間隔で立っている姿などを見てもそうだ。

(そういうところを見越した上でFUUDのドローイングをもしも見て頂けているのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。これこそまさに交感だ。しかしこのエッセイはぼくの作品論ではない。それはまた別の機会に。)

話を戻そう。
生命とは本来、人工的なものではなく、あくまで自然に由来するものだろうと思うのだ。そこで思う。

ならば「人間」はどうだ?

ぼくはいつもこの問いに困惑してきたんじゃないかと思うのだ、幼いころから。自然由来の生命を宿した動物として人間を眺めるには、その行動や生態はあまりにも「人工的」すぎやしないか?人間とはいったい、自然の恵みなのか、人工物なのか?(いやいや、その両方だろうとはぼくも思っているところだ。しかし、わかっていてもなお、困惑する場面というのは日常にごろごろしている。)

そんなぼくでも思春期以前は賢く立ち回ることができていた。場に求められる態度というのは実にわかりやすいものだ。その求めに応じてさえいれば「人として立派だ」とさえ言われる。では問おう。そこに自然由来の何かはあるか?

場の要請とは人工物だろう、というのがぼくの実感だ。しかもそこにぼくはある種の工業製品のような美しさを感じたことがないのだ、残念なことに。艶かしくもなければ、畏敬の念も持てない。どこか諦めたような気もちでそれを眺めてきたように思うのだ、子どもの頃から。



今回こそ、喪失や傷、またそれを癒すことなどについて綴りたかったのだけれど。だいぶ近づいてはきたものの、またまた辿り着かないままに1200字が過ぎた。

いったんはここまでにして、続きはまた後ほどしたためようと思う。
それでは今日はこのへんで。

FUUDの自分語り」一覧

③(完結)はこちら↓

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