初めての保護猫 第7話(#シロクマ文芸部)
<あらすじ>
妻に先立たれ、やもめ暮らしの75歳の主人公は、買い物帰りに近所の田んぼのあぜ道で、泥だらけになっている猫を『初子』と名付け保護することにした。ところがその猫は妊娠していて、しかも猫エイズキャリアだった。 数日後、5匹の仔猫の出産に立ち会い、仔猫の里親探しをする為、『ポチたま保護の会』主催の里親譲渡会への参加をすることになるり、近所のホームセンターで勤める理恵さんに手伝ってもらうことになった。生後2ヶ月を前に仔猫5匹のワクチン接種に連れて行くことに・・・。
甘いものを食べたのは久しぶりで、喉につかえる。
妻の遺影に供えていたお下がりのケーキを三口ほど食べてやめた。
昔は妻に誘われてケーキショップをはしごしたこともあった。
一人で食べるケーキは味気ない。
「初子がケーキ食べられたらいいのにな」ポツリとつぶやく。
仔猫たちは部屋中を走り回りじゃれ合って賑やかだ。初子はその様子を静かに見守り寝そべっている。
病院でもらった薬を飲んで体調が良くなったと思っていたが、薬がなくなったからだろうか、数日前から寝ていることが多くなった。来週には仔猫のワクチン接種に病院へ連れて行くから、初子も連れて行くことにする。
仔猫たちは離乳もほぼ完了し、カリカリの餌をお湯で少しふやかして食べるようになった。
まだ乳を欲しがる時もあるが、初子は乳離れを促すように仔猫たちを払いのけている。
面白いもので、仔猫たちも生後1ヶ月半を過ぎた頃から、それぞれの個性もはっきりしてきた。
一番の大食漢は一番最初に生まれてきた長子だ。体は兄弟の中で一番小さいくせに、餌を食べる時は他のオスの兄弟たちを乗り越えてガツガツ食べている。気も強そうでじゃじゃ馬だ。
反対に一番体が大きい斑はおっとりしていて、時々母猫の乳を求めて初子を追いかけることもある。しっぽの先が直角に曲がっている尾曲は、長子にとって一番のライバルで勇敢なところがある。先日、理恵さんが譲渡会用のパネルを作る為に訪れてくれた時、他の兄弟を守るような仕草を見せていた。
前身真っ白な白はひとり遊びが上手だ。他の4匹でじゃれ合って遊んでいても、白は少し離れた場所でひとりで遊んでいて、孤高の猫を気取っている様にも見える。豆男はどの兄弟とも仲良く遊べるバランス感覚に長けたところがあるようだ。
仔猫の成長は嬉しいが、心配なのは初子の体調だ。
仔猫たちが乳を欲しがらなくなったこともあるが、初子はあまり水を飲まなくなった。食欲も落ちている。目ヤニも気になるのだが、初子は触らせてくれないので綺麗に拭いてやることもできない。
猫の扱いに慣れている人だったら、無理に抑え込まずに手早く手当てが出来るのだろうが、抵抗する初子に対してどうしても力任せになってしまう。すると益々初子が警戒し、いつまで経っても距離が縮まらない。
だいたい初子にとって病院へ行くということ自体がストレスで、治療をすると認識してないので厄介だ。今まであの鋭いで爪で何度も引っ掻かれ、私の体は傷だらけだ。
週明けの月曜日。
仔猫のワクチン接種を受ける為にタクシーで動物病院へ向かう。
仔猫も成長して、1匹だと1kg弱くらいだ。でもそれが5匹もいるのだから、5kgのお米を持ち上げた時とかわらない。いや、お米の袋ならじっとしているだけマシだ。こっちは中でゴソゴソ動き回るし、5匹がひっきりなしに『ニャア、ニャアー』と鳴くものだから、周囲の人の視線も気になる。
その上初子を入れたゲージもあって、両手にゲージを2つ、ずっしりとした重みが握力の限界を感じる。
よろよろと病院に到着し、受付を済ませる。週明けとあって待合室は満員で座る場所もない。犬も猫も不安感からゲージの中で鳴いていて、待合室に流れるBGMがかき消されている。こんな落ち着かない状態での長丁場を覚悟したが、予約をしていたおかげですぐに診察室に呼ばれた。
井上先生はまず仔猫5匹の診察を丁寧に済ませ、順にワクチンを接種していく。
「みんな元気ですね。体重もまずまずです」
ここで理恵さんに書いてもらった、仔猫の里親募集のチラシを取り出して
「5匹の里親を捜したいので、このチラシを待合室に貼らせてもらってもいいですか?」とお願いしてみた。
「早く見つかると良いですね」と井上先生は笑顔で了承してくれて、隣で介助していた看護士に、待合室に掲示するように指示をしてくれた。
仔猫たちは注射を刺される瞬間だけ痛がる仕草を見せたが、暴れることはなく、終わった後は看護士さんから「良い子だったね」とご褒美におやつをもらっていた。
そして初子の番になると、井上先生の表情が硬くなった。聴診器を当てたまま、しばらく沈黙した後『……うん?』と、小さく呟く。
「食欲がないんですね、水もあまり飲まなくなったということで脱水症をおこしてます、とりあえず乳酸リンゲル液を皮下点滴しますね」
初子は抵抗もせずじっとしている。
点滴をしている間も井上先生は丁寧に診察をしていく。初子の口の中を見て「口内炎が出来ています。これじゃ餌は食べられないでしょうね。FIVを発症している典型的な症状です」
続けて治療方針を説明し始めた。
「仔猫の離乳も完了しいたということなので、口内炎の緩和の為に抗生剤を使いましょう。それから、免疫力をサポートするインターフェロン療法という選択肢もあります。ただ、これは効果に個体差があって、劇的に良くなるわけではないんです。それに、定期的な投与が必要になるので、費用もそれなりにかかります。もしご希望があれば、取り入れることもできますが……どうされますか?」
「そう言われましても・・・」思わず言い淀んでしまう。
静かに点滴を受けている初子をそっと撫でてみた。
こんなにじっくりと初子を触ったのは初めてだ。今まで触るたびに鋭い爪が飛んできたから、正直、怖くて手が出せなかった。
けれど今の初子は、ただじっとしている。抵抗する力もないのか、それとももう警戒する気力さえ残っていないのか——。
初子の背中を撫でると、背骨の感触が手に伝わってくる。こんなに痩せていたのか。毛艶もなく撫でるたびに指先に纏わりついて抜けていく。
「衰弱した状態で出産をして、しかも仔猫5匹に栄養を取られていたはずで、初子ちゃんの頑張りには奇跡を感じますよ」
今まで初子の様子をずっと見てきて、体調が悪いことにはうすうす気づいていたのに、仔猫の里親探しばかり心配していた。
それにしても、ここまで痩せていたとは・・・どうして今まで放っておいたんだろう。仔猫の世話にかまけて、見ないふりをしていたのかもしれない——そんな自分が、情けなくて仕方ない。
「先生、お金が掛かる治療は・・・年金生活の私には難しいです。せめて初子を仔猫たちと隔離せず、今まで通り一緒に居させてやりたいんですが・・・」
井上先生は少し考え込むようにしてから、静かに答えた。
「FIVは主に唾液を介して感染します。なので、完全に隔離する必要はありませんが、ゲージに入れて、仔猫の姿が見える状態にすると初子ちゃんも安心するでしょう。トイレや食器の共有は避けて、衛生管理に気をつければ、感染リスクを抑えられますよ」
「やっぱり仔猫たちも感染しているんでしょうか?」
「この段階での検査では、母猫の抗体の影響で陽性反応が出る可能性があります。でも、生後6ヶ月を過ぎてから再検査をすれば、本当に感染しているかどうかが分かります。感染していない可能性もわずかながらあるので、今の段階では初子ちゃんと仔猫との接触はなるべく避けた方がいいんですよ」
井上先生の説明はわかりやすい。言葉のニュアンスで初子の寿命がそう長くないということは察しがついた。
初子の治療が終わるのを待って、仔猫と一緒に連れて帰った。
電気ストーブの側にゲージを置き、暖かい環境を作って初子を寝かせてあげた。仔猫たちがゲージの中に入らないように扉を閉める。
すると仔猫たちは母親のぬくもりを求めてゲージの中に入りたがった。しきりにゲージの隙間に頭を突っ込んだり、鳴いて初子を呼んでいる。
「おいおい、お母さんは病気なんだから、そっとしてあげなさい」
言葉が通じるわけはないのだが、仔猫たちの必死さがいじらしい。
今日はやけに疲れた。初子も疲れたろう。
「今日は早めに寝ような。仔猫の世話は心配しなくても大丈夫だ。俺がするから安心して寝なさい」
もう一度初子を撫でると、喉をゴロゴロ鳴らし、静かに目を閉じた。
