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『みいちゃんと山田さん』反対運動への所見

1. 批判の拙さ


みいちゃんと山田さん』のアニメ化に対して、「性風俗のノーマライズ」と「知的・発達特性のある人へのスティグマ再生産」を理由に反対する声がある。代表的な郡司真子氏は、支援者・母親としての立場から「加害性」を指摘し、アニメ化に反対する。論理的に整理された体裁を取っているが、作品批判としては端的に拙い。

2. 飛躍した因果関係


作品が描いたキャラクター像がネット上で蔑称化し、からかわれて不登校になった事例が報告されている事実を認めるとしても、そこから「作品に間接的な加害性がある」とまで帰責し、映像化を止めるべきだと結論づけるのは飛躍だろう。ネット文化の消費様式、既存の知的障害や境界知能に対する潜在的な侮蔑、支援制度の穴、性風俗産業の構造といった諸要因を無視して、作品を直接の原因のように扱っている。間接的な被害までを作品の原因に帰すのは、飛躍だ。

3. 「自認みいちゃん」が証明したもの


むしろ注目すべきは、「自認みいちゃん」——みいちゃんの特性に自分や周囲の人を重ねて認識する人たちが一定数現れたという事実である。識字の困難、空気の読めなさ、プライドの高さ、「バカ」という言葉への過敏な反応、性的接触を安易な解決手段としやすい傾向、支援を拒む姿勢。これらが作品の中で一貫して描かれた結果、多くの人が自己または知人の状況を当てはめ認識し、名前を付けて語り始めたのだ。
この「自認」の発生は、作品の描き方がかなりの程度妥当だったことを、グレーゾーン層自身が事後的に立証してしまった結果だと言える。もし描写が現実から大きく乖離した漫画的誇張や悪意あるステレオタイプにすぎなかったなら、これほど急速に「当てはめ」が起き、これほど多くの人が自分や他者をその枠で語り始めることはなかっただろう。名前が付いたからこそ、それまで曖昧だったカテゴリーが可視化された。蔑称化はその副作用であり、可視化そのものの否定にはならない。

4. 知の不可逆性


「知る」という認知プロセスの特徴は、その不可逆性にある。すでに「みいちゃん」という語が社会に定着した以上、私たちはみぃちゃん以前の世界には戻れない。名前が付く前の、より曖昧で見えにくい差別の方がマシだった、と考える人もいるかもしれない。しかし、曖昧なまま放置されていた状態が当事者にとって本当に良かったのかは、別問題だ。可視化された現実から目を背け、表現を抑圧して「以前」に戻ろうとすることは、およそ現実的ではない。

5. 「アフターみいちゃん」の世界へ


志向すべきは、未来だ。名前が付いてしまった現実を前提に、その先をどう語るか、どう描くかだ。表現が不快な現実を可視化したとき、ただ表現を抑え込むことでは、問題を消すことはできない。むしろ、可視化された現実に対して、より精緻な物語を重ねていくことこそが、本当の応答だ。

物語はその有効な手段の一つになりうる。「本当の知的障害者のリアル」や、グレーゾーンを生きる人たちの複雑さを、より力強く、より正確に描く方向にエネルギーを向けるべきだ。

みいちゃん以前には戻れない。

私たちは、先に進む必要がある。

(7/26追記:はてなブックマークコメント分析は別記事)


7/29追記:

  1. 郡司氏のフレームが自己増殖したことにより、彼女の誤解が作品を断罪する材料として機能している。郡司フレームの見分け方のヒントを示した。

  2. アニメ化声明文の読解。ヤバいものを作りますという声明に見える。

  3. 左翼というか、もはやバーサーカーとなり、攻撃することが目的化してしまった方々の記録。

7/31 追記
批判アカウントの語彙を分析して、何を守ろうとして、何を封殺しようとしているのか、分析した。

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