同接2人の配信から、世界線を救うことになりました〜AI軍師と始める敗北ログ攻略〜 #11
SAVE11 もう関わらない
朝、リビングに凪沙はいなかった。
テーブルには皿が二枚。トーストが一枚、ラップをかけられて置いてある。牛乳は冷蔵庫。のど飴は、ない。
それだけで、部屋の温度が少し違って見えた。
「凪沙は」
キッチンにいた母さんが、振り返らずに答える。
「先に学校行ったわよ」
「早くない?」
「知らないけど、今日は早く出るって」
トーストのラップに、小さなメモが貼ってあった。
冷める前に食べて凪沙の字だった。
俺はそのメモを剥がす。剥がしたあと、どうすればいいか分からなくて、しばらく指先で持ったまま立っていた。
謝るなら、今だった。
スマホを出す。メッセージアプリを開く。
昨日はごめんそこまで打って、手が止まった。
何に対して。
余計なことと言ったこと。もう関わるなと言ったこと。凪沙が俺を応援してくれていたのに、怒りをぶつけたこと。
どれも一行に収まらない。
打った文字を消す。
昨日のことだけど違う。
消す。
帰ったら話せる?送信ボタンの上で、指が止まる。
話す。
接触。
関連情報の強化。
ミナミの声が、勝手に頭の中で再生される。
俺はスマホを伏せた。
何をしているんだ。
謝ることまで、AIの言葉で止まっている。
テーブルの上のメモを見る。
冷める前に食べて俺はそれをノートに貼った。
貼ってから、胸の奥が少し重くなった。
謝る前に、記録している。
そんな自分の手順が、嫌だった。
*
部屋に戻ると、ミナミはもう起動していた。
白いホログラムの輪郭は、昨日より少し安定している。安定していることが、逆に腹立たしかった。
「昨夜のログ解析が完了しました」
「聞いてない」
「第三章ボス、目配りの群れミハリメを撃破。二次観測の遮断に成功しました」
「でも監視対象は記録済み」
「はい」
「成功って言うな」
ミナミは一拍置いた。
「二次観測の拡散速度は低下しています」
「凪沙は?」
「白瀬凪沙さんに関する削除処理の即時実行は確認されていません」
「即時じゃないだけだろ」
「はい」
机の上のノートを開く。昨日のページには、まだ文字が残っている。
切り抜きを作っていたのは凪沙。
俺は「余計なこと」と言った。
俺は「もう俺の配信に関わるな」と言った。その下に、書き足す。
朝、先に学校へ行った。
メモ「冷める前に食べて」
まだ字は残っている。最後の行を書いて、ペン先が止まった。
まだ字は残っている。
そんな確認の仕方をする日が来るとは思わなかった。
「本日の配信開始時刻は二十時十二分を推奨します」
ミナミが言った。
「しない」
「非推奨です」
「凪沙に謝る」
「直接接触は非推奨です」
「うるさい」
「関連情報の強化により、対象者の検知リスクが上昇します」
「じゃあ、喧嘩したままでいろって?」
「短期的には、接触回避を推奨します」
「短期的には?」
「第四章ボスへの到達後、削除処理の一部遮断が可能になる可能性があります」
「またボスか」
「はい」
「倒せば凪沙は助かるのか」
ミナミは答えなかった。
俺は顔を上げる。
「ミナミ」
「第四章ボスの撃破は、SLOT4への接続条件です」
「SLOT4?」
「現在の通常進行では、白瀬凪沙さんの消失処理を完全停止できません」
喉の奥が詰まった。
ミナミの言葉は、いつも少し遅れて刺さる。
「通常進行では、ってことは」
「SLOT4への接続が必要です」
「門番か」
「はい」
ホログラムの横に、文字が浮かぶ。
第四章推定ボス:
GATEKEEPER ZEROGATEKEEPER。
門番。
ZERO。
ゼロ。
店の名前。GATE。門。
全部が、嫌な方向に繋がっていく。
「それを倒せば、凪沙は助かるんだな」
「勝利条件に近づきます」
「助かるかって聞いてる」
「勝利条件に近づきます」
「言い換えるな」
ミナミは黙った。
答えない。
つまり、助かるとは言えない。
それでも、他に道がない。
俺はノートに書いた。
第四章ボス:GATEKEEPER ZERO
SLOT4への接続条件。
ミナミは「凪沙が助かる」とは言わなかった。書きながら、奥歯を噛んだ。
*
昼過ぎ、牧野からメッセージが来た。
今日大学来てる?俺はしばらく画面を見てから、返信した。
行ってないすぐ返ってくる。
だと思った
最近大丈夫か?大丈夫ではない。
でも、どう説明すればいいか分からない。
駅前のゲーム屋が消えた。店員の佐伯さんも見つからない。妹が切り抜きを作っていて、ゲームに監視対象として記録された。俺はその妹に、余計なことと言った。
文章にした瞬間、何もかもがおかしい。
俺は返信欄に打つ。
変なこと聞いていい?いいよ少し迷ってから、送った。
俺に妹いるの知ってる?送信した直後、心臓のあたりが一度だけ強く鳴った。
既読がつく。
少し間が空く。
凪沙ちゃん?息が抜けた。
椅子にもたれた背中が、急に重くなる。
牧野は覚えている。
少なくとも、今は。
知ってる
なんで?俺はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
助かった、ではない。
残っている。
それだけだ。
でも、その「それだけ」に、今はすがるしかない。
いや、確認確認って何だよ怖いなそのあと、もう一通来る。
この前おすすめに流れてきた切り抜き、妹さんが見たら怒りそうだなとは思った俺は画面を見た。
牧野は知らない。
切り抜き主が凪沙だとは知らない。俺が昨日、何を言ったかも知らない。
それが少しだけ救いで、同時にひどく苦しかった。
返信できずにいると、またメッセージが来る。
無理すんなよ俺はその一文をノートに写した。
牧野は凪沙を覚えている。
「凪沙ちゃん?」と返信。書いたあと、ページの端に小さく加える。
今は。*
夕方になっても、凪沙は帰ってこなかった。
いつもなら、制服のままリビングに鞄を置いて、冷蔵庫を開けて、牛乳を飲む。それが、今日はない。
母さんに聞くと、「友達と寄り道じゃない?」と言われた。
スマホを見る。
凪沙に送っていないメッセージが、まだ下書きに残っている。
帰ったら話せる?送れない。
消せない。
画面を閉じる。
また開く。
同じ文字がある。
送れなかった。
送らなかった。
その間違いを、俺はその時まだ分かっていなかった。
十九時を過ぎても、玄関のドアは開かなかった。
凪沙の部屋の明かりもつかない。
でも、母さんは特に気にしていない。
俺だけが、何度も階段の方を見る。
スマホには、まだ下書き。
帰ったら話せる?送信ボタンは、押せなかった。
その時、玄関の鍵が回る音がした。
俺はスマホを握ったまま、廊下に出た。
ドアが開く。
凪沙が立っていた。
制服のまま、鞄を肩にかけている。顔は少し伏せていて、前髪で目元が隠れていた。
靴を脱ぐ音だけが、玄関に小さく響く。
俺は口を開きかけた。
昨日は。
ごめん。
少し話せるか。
どの言葉も、喉の手前で止まった。
凪沙は俺の横を通った。
ほんの少しだけ、制服の袖が俺の腕に触れた。
俺は振り返った。
凪沙は顔を伏せたまま階段を上がっていく。
自分の部屋のドアが開く音。
閉まる音。
それだけで終わった。
スマホの画面には、まだ下書きが残っている。
帰ったら話せる?帰ってきた。
部屋に入った。
ドアの向こうにいる。
それだけを確認した途端、膝の力が少し抜けた。握っていたスマホが手の中でずれて、慌てて持ち直す。
送らなくても、あとで言えばいい。
直接、ちゃんと言えばいい。
そう思った。
思ってしまった。
送信ボタンは、結局押さなかった。
*
二十時前。
配信準備を始めても、凪沙は部屋に来なかった。
マグカップもない。
のど飴もない。
ノートの位置を直してくれる手もない。
それだけで、机の上が妙に広い。
「開始時刻まで、残り十二分です」
ミナミが言う。
「今日は、タイトルも時間も変えない」
「推奨手順への復帰を確認しました」
「コメントも拾わない。切り抜きにも触れない。GATEにもGEROにも触れない」
「適切です」
「それでいいんだろ」
「はい」
「全部、お前の言う通りにする」
ミナミは、少しだけ黙った。
「推奨手順の遵守率上昇を確認しました」
「言い方」
俺は配信設定を開く。
【続き】検索しても出ないRPGをAI軍師と進めます推奨タイトル。
そのまま。
開始時刻。
二十時十二分。
そのまま。
禁止事項。
・SLOT4を見ない
・切り抜き投稿者への言及禁止
・妹への言及禁止
・コメント要求による進行変更禁止
・終了時刻を守る妹への言及禁止。
その一行だけ、黒く見えた。
「凪沙は」
「白瀬凪沙さんへの直接言及は非推奨です」
「違う。今、部屋にいるか」
「観測できません」
「役に立たないな」
「家庭内の物理位置情報は取得していません」
「そういう意味じゃない」
俺はヘッドホンをつける。
マイクチェック。
声が少し乾いている。
マグカップはない。
のど飴もない。
俺は水を一口飲んだ。
*
二十時十二分。
配信開始。
赤いランプが点く。
同時接続は、開始時点で五十八人。
昨日より多い。
切り抜きから来た人が、さらに増えている。
来た
昨日の妹発言から来ました
切り抜き見た
今日はどうなる?
ミハリメ戦やばかった妹発言。
もう、そういう入口ができている。
胃のあたりが沈む。
拾わない。
拾わない。
画面だけを見る。
「こんばんは、ミハルです。今日も『クロノ・ブレイブ戦記』を進めます」
声は出た。
でも、いつもより低い。
「本日は第四章に進行します」
ミナミが言う。
ゲームを起動する。
SAVE 1 MIHARU CHAPTER 4
SAVE 2 NO DATA
SAVE 3 NO DATA
SAVE 4 MIHARU PLAY TIME 999:59SLOT4。
見ない。
SLOT1。
決定。
画面が暗転した。
しばらくして、白い場所に出た。
森でも、町でも、塔でもない。
床も壁も白い。
遠くに、黒い門だけが立っている。
門の上には、文字がある。
NORMAL ENDコメント欄が動く。
え、最終章?
NORMAL END?
門?俺は拾わない。
主人公を前に進める。
白い床に、足音だけが響く。
一歩。
二歩。
三歩。
画面右上のOBSERVATION COUNTは出ていない。
森の目もない。
名前の欠損もない。
何もない。
何もないことが、逆に落ち着かなかった。
「第四章では、観測表示が出ないのか」
「現時点では確認されていません」
「いいこと?」
「不明です」
黒い門の前に着く。
門の中央に、セーブスロットのような四つの枠が並んでいる。
SLOT 1 OPEN
SLOT 2 LOCKED
SLOT 3 LOCKED
SLOT 4 DENIEDSLOT4だけ、文字が赤い。
DENIED。
拒否。
ミナミのホログラムが薄く乱れた。
「門番ゼロの出現条件を満たしています」
画面が揺れる。
黒い門の奥から、白い人影が出てきた。
顔はない。
体もほとんど輪郭だけ。
ただ、胸のあたりにゼロの形をした穴がある。
その穴の奥に、セーブデータの文字列が回っている。
MIHARU
NORMAL END
SLOT4 DENIED画面中央に文字が出る。
門番ゼロコメント欄が流れる。
門番ゼロきた
GATEKEEPER?
ラスボス?ミナミが言う。
「第四章ボス戦を確認しました」
「こいつを倒せば、SLOT4に行けるんだな」
「はい」
「SLOT4に行けば、凪沙の削除処理を止められる可能性がある」
「はい」
「可能性じゃなくて」
言いかけて、止めた。
配信中だ。
妹への言及禁止。
もう言わない。
言わない方がいい。
俺は口を閉じた。
でも、コメント欄は見逃さなかった。
今、凪沙って言いかけた?
妹?言っていない。
でも、言いかけただけで拾われる。
ミナミが言う。
「発話抑制を確認しました」
「黙ってろ」
門番ゼロが、ゆっくりと腕を上げる。
門番ゼロ:通常エンドを維持します。
門番ゼロ:SLOT4への接続は許可されていません。ボス戦開始。
ミナミが即座に指示を出す。
推奨行動:
1. 初手、防御
2. 「通常化」発動時、記録剣を温存
3. 「接続拒否」後、古い護符
4. 八ターン目、門の隙間を攻撃
5. 撃破後、SLOT4を選択しない「撃破後も選ばないのか」
「はい。今回は接続条件の開放のみを目的とします」
「すぐ行かない?」
「即時接続は非推奨です」
「なんで」
「準備が不足しています」
「凪沙は待ってくれるのか」
言った。
言ってしまった。
コメント欄が反応する。
凪沙?
やっぱ妹?
守りたい人?ミナミのホログラムが乱れる。
「妹への言及は禁止事項です」
「分かってる!」
声が荒くなる。
まただ。
また増える。
また繋がる。
でも、今度は止まれない。
門番ゼロの初手。
通常化画面の色が淡くなる。
コメント欄の一部が、普通のコメントに置き換わっていく。
演出すごい
ゲーム実況うまい
これ自作ゲーム?さっきまでの「妹」「凪沙」が、流れていく。
消えたのではない。
普通のコメントに押し流されている。
「通常化って」
「異常情報を通常の娯楽情報へ変換する処理です」
「演出扱いにするってことか」
「はい」
演出。
またその言葉。
凪沙が狙われても、店が消えても、佐伯さんがいなくなっても、見ている人の多くは演出として受け取る。
それが普通だ。
普通だから、世界はそこへ逃がす。
俺は防御を選ぶ。
次のターン。
接続拒否門番ゼロの胸の穴が黒く光る。
主人公のコマンド欄から、SLOT4の文字が一瞬だけ浮かんで、すぐ消えた。
ミナミが言う。
「古い護符を使用してください」
俺はアイテム欄を開く。
古い護符:
記録されないものを、一度だけ紙に留める。ノートを見る。
忘れたら終わり。
その下に貼った、凪沙のメモ。
冷める前に食べて。
俺は古い護符を選ぶ。
白い光が出る。
門の表面に、小さなひびが入った。
コメント欄が少し沸く。
護符きた
紙アイテム重要だな
ノートと繋がってる?拾わない。
四ターン目。
五ターン目。
六ターン目。
ミナミの指示通りに動く。
コメントは拾わない。
タイトルも変えていない。
SLOT4も触らない。
終了時刻も守るつもりでいる。
今度こそ、全部言う通りにしている。
八ターン目。
「門の隙間を攻撃してください」
ミナミが言う。
画面中央、黒い門に細い白い線が入っている。
そこへカーソルを合わせる。
攻撃。
主人公が剣を振る。
門番ゼロの胸の穴が広がる。
中から、セーブデータの文字がこぼれた。
SAVE 4
MIHARU
PLAY TIME 999:59
NULL STREAMコメント欄が流れる。
SLOT4出た!
NULL STREAM?
触るなってやつ触らない。
まだ触らない。
門番ゼロのHPが赤くなる。
「最終攻撃です」
ミナミが言う。
「通常攻撃で撃破可能です」
俺は息を吸う。
今度こそ、勝つ。
今度こそ、守る。
言葉にはしない。
言えば増える。
だから、言わない。
決定ボタンを押す。
主人公が剣を振る。
門番ゼロの体に、白い亀裂が走る。
顔のない輪郭が崩れていく。
最後に、画面中央に文字が出た。
GATEKEEPER ZERO
ACCESS DENIED解除続けて、もう一行。
SLOT4 UNLOCKEDコメント欄が爆発する。
開いた!
SLOT4きた!
見る?
見るしかないだろ見ない。
ミナミが言う。
「本日のSLOT4選択は非推奨です」
「分かってる」
「配信終了を推奨します」
「分かってる」
俺はセーブ画面を見る。
SAVE 1 MIHARU CHAPTER 4 CLEAR
SAVE 2 NO DATA
SAVE 3 NO DATA
SAVE 4 MIHARU PLAY TIME 999:59 NULL STREAM俺はコントローラーを置いた。
「今日はここまでにします」
コメント欄が流れる。
えー
SLOT4見ないの?
ここで終わるの強い
続き気になる「見に来てくれて、ありがとうございました」
終了ボタンを押す。
赤いランプが消える。
*
配信結果。
最大同時接続:96
コメント数:521
新規登録者:73
アーカイブ初期再生数:1,486数字は伸びた。
でも、今日は見なかった。
コメントに乗らなかった。
SLOT4も触らなかった。
ミナミの指示通りにした。
全部。
全部、守った。
「門番ゼロの撃破を確認しました」
ミナミが言う。
「SLOT4接続条件が開放されました」
「凪沙は」
「削除処理の即時実行は確認されていません」
即時。
その言葉に、喉が詰まる。
「今日は大丈夫ってことか」
「現時点では」
「現時点では、な」
「はい」
俺は椅子から立ち上がった。
今度こそ謝る。
配信は終わった。
SLOT4も開いた。
今日は指示を守った。
もう、少しくらい話してもいいはずだ。
廊下へ出る。
凪沙の部屋の前に立つ。
明かりはついていなかった。
俺はノックした。
「凪沙」
返事はない。
もう一度ノックする。
「凪沙、昨日のこと」
返事はない。
「ごめん」
ドア越しに言った。
声が小さかった。
もう一度言う。
「昨日、言いすぎた。ごめん」
沈黙。
部屋の中からは、何も聞こえない。
スマホの通知音も、布団が擦れる音も、椅子が動く音もない。
俺はドアノブに手をかける。
開いた。
「入るぞ、なぎ――」
言いかけた声が、喉の奥で止まった。
呼びかけの残りだけが、口の中に残った。
中は、物置だった。
段ボール。
使っていない扇風機。
古い布団。
母さんが季節外れの服を入れている衣装ケース。
ベッドがない。
机がない。
充電器がない。
のど飴の袋も、スマホスタンドも、制服のハンガーもない。
凪沙の部屋だった場所に、凪沙のものが一つもなかった。
俺は一歩、部屋に入った。
床がきしむ。
この床は、こんな音だっただろうか。
机があった場所には、折りたたまれた古いカーペットが立てかけられている。ベッドがあった場所には、段ボールが三つ積まれている。一番上の箱には、母さんの字で「冬物」と書かれていた。
凪沙の匂いがしない。
シャンプーの匂いも、制服の布の匂いもない。
ただ、埃っぽい布と、閉め切った部屋の匂いがした。
「……凪沙」
声に出した。
部屋は返事をしなかった。
*
「母さん…!!」
声が変なところで裏返った。
リビングにいた母さんが、廊下に顔を出す。
「何?そんな慌てて」
「凪沙は」
母さんが眉を寄せた。
「凪沙って…?」
冗談だと思った。
思いたかった。
「誰って、妹だよ。俺の」
母さんは、俺の顔を見ている。
怒っている顔ではなかった。
呆れている顔でもなかった。
知らない名前を聞いた時の顔だった。
「俺の妹。あんたの娘だよ」
母さんは少し困ったように笑った。
その笑い方が、一番嫌だった。
「妹ってあんた……」
「一人っ子でしょ?」
