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1000文字掌編「ぬるいお茶」

 私が中二の頃、母方の祖母が認知症になった。虫垂炎を長く我慢して、腹の中に膿が広がった。一命をとりとめて目を覚ました祖母は、駆けつけた母に「あんた、だれ?」と言ったらしい。

 明治生まれの厳格な祖父が、しばらく自宅で介護をした。でも、すぐに無理になった。母は「お父さんは役に立たん」と怒っていた。「じいちゃんに直接言えば」と口を出すと、母は片側の鼻の横をひくつかせた。

「それが言えるなら、あんたに言われんうちに言うとるわ。余計な口を出さんで」

 祖母は歩けなくなって、施設に入った。

 私が物心ついた時から、祖母は優しかった。祖父が怖い人だったので、祖母は見つからないように「ほら、これ買うといたで。飲み」と、瓶のコーラをケースで買っておいてくれた。あの頃の夏は今ほど暑くなかった。植えたのか勝手に生えたのか見分けもつかない鬱蒼とした庭の奥に、小さな井戸があった。祖母は取っ手のついた桶を鎖で落として水を汲み、タライに張り、そこに瓶を沈めてくれた。ミンミンゼミが激しく鳴いていた。栓を抜いて一気に飲んだ。喉を下る泡。ミーンミンミンミン。喉が痛くなり、ミーンミンミン。

 中学生だったので、施設にはそう会いに行けなかった。母はしょっちゅう通っていた。行った日の夜の母は、荒れていた。日曜日、母と一緒に会いに行った。施設の人が「お茶を飲ませてあげますか」と私に言った。怖くて「いいです」と答えたのに、OKと受け取られて、湯呑みを持たされた。

 祖母が手を出した。もし何かあったら、と思うと近寄れなかった。母が私から湯呑みを奪って、「いるんか。茶や」と言った。祖母は、いらんいらん、と子供のように首を振る。

「じゃあ、ここに置いとくで。飲みたかったら飲みや」

 母は湯呑みをテーブルに置いた。祖母は時々うめき、わけのわからない言葉を言った。母はベッドの柵を握ったまま、ぼーっとしている。私は拠り所がなくて、もっとぼーっとしたふりをした。でも耳だけが、部屋の外の音を拾っていた。廊下を、誰かの足音が行ったり来たりする。どこへ行くのか、戻ってくる。デイルームのほうから、賑やかとも、そうでないとも取れる声が、途切れずに聞こえていた。誰かが何かを、ずっと呼んでいるようだった。施設の中は暑くも寒くもない適温に整えられて、尿の匂いがそこはかとなく漂っていた。本当は嫌だった。帰りたかった。

 もう帰ろう、と言った。母はちょっと待ちや、と答えた。

 「ばあちゃんが寂しいやろ。あんた、可愛がってもらったんやから、もうちょっとおり」

 母は祖母の髪を、気だるそうに手で梳いた。

 祖母の思い出は、いろいろある。なのに、いつ亡くなったのか、葬式がどうだったのか、なぜか何も覚えていない。祖父より長く生きた、という記憶だけが残っている。時が経った。

    *

 私も、人生の残りの方が短くなった。

 離婚して、娘を一人で育てている。いつだったか、なんとなく娘に言った。ママが突然死んだら、と。危ない話ではなく、少しずつ話しておこうと思っただけだ。娘は言った。

「大丈夫、施設に入れるから」

 お金かかるよ、と言うと、

「じゃあ、稼いどいて。ちゃんとするけど、私も自分の生活で大変だと思うから、いざとなったら自分を優先させてもらうと思う」

 それでいいよ、と答えた。話はそれで終わった。施設代は、どう考えても払えない。私が年を取る頃には、選ばれた者しか入れんようになるのかもしれない。ぼんやり、そう思った。

 盆が来た。娘も誘ったが、断られた。出しなに、冷茶ポットから水筒へ麦茶を入れる。ポットの隣に、見覚えのないエナドリの缶が目に入った。また徹夜でゲームか。一人で出た。電車を乗り継ぐ。

 猛暑の中、鎖骨に張り付くTシャツの襟元を剥がしながら、山肌を登る。水筒を口につけると、朝入れた麦茶がぬるくなっていた。それでも、喉が鳴いた。

 草は思ったほど生えていなかった。酷暑のせいか。どこかでツクツクボウシが鳴いていた。五分ほどで抜いてゴミ袋に入れ、軍手のまま墓石を拭く。父の最後の道楽だった御影石だ。

 私はぬるくなった麦茶を、墓の上から注いだ。キャップを閉め、来た道を戻った。



1000字掌編30日チャレンジ、30日目。
AIに、30日分のタイトルを作ってもらいました。一時間以内に制作という自主条件で、挑戦中です。
今回は『ぬるいお茶』というお題より、適温はひと次第だな、と思って書きました。

おかげさまで30日のチャレンジを完遂できました。
ありがとうございました。

 1日目「鍵の行方」
 2日目「氷の入ったコップ」
 3日目「母の字」
 4日目「朝の電車」
 5日目「塩の量」
 6日目「隣の声」
 7日目「写真の整理」
 8日目「友人の幸福」
 9日目「傘の骨」
 10日目「時間の貸し借り」
 11日目「声の高さ」
 12日目「週末の約束」
 13日目「名前を呼ぶ練習」
 14日目「コーヒーカップの欠け」
 15日目「雨の夜の帰宅」
 16日目「窓の外の木」
 17日目「忘れた約束」
 18日目「口紅の蓋」
 19日目「二つの傘立て」
 20日目「返事の遅さ」
 21日目「砂糖の位置」
 22日目「走る練習」
 23日目「先に寝る」
 24日目「知らない町の地図」
 25日目「誕生日の電話」
 26日目「夏の嘘」
 27日目「図書館の予約」
 28日目「夕方と影」
 29日目「手紙の封」
🍵30日目「ぬるいお茶」


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