『生前の面目既に足り、老後の栄華亦極まる』-自民党総裁選に群がる人々
今日はベトナム史から脱線して旬の話題、『自民党総裁選』を取り上げようと思います。。😅
つい先日、You Tubeに上がってたこの動画を見ました。⇩
詳しい内容は、是非本編を。。。
ムズカシイ政治や政党の深い話や裏話はさて置いて、、冒頭お二人のこんな会話に、“おおっ!!”、と思うところがアリ。⇩
- 辞めるならパっと辞める、辞めないんだったら自民党が滅ぶまで引っ張る(方が良かった)。
ー ほんと、破れかぶれ解散をやってくれた方が良かった。…中途半端にするんじゃなくて、…国民に信を問うんだと。
ー 自爆テロを待っていたんですよ。
ー 結局、ああいう形で辞める形になった。。。
ととと、、、本当に。昔はもの凄く “尖った反骨”そぶりの石破さんが、総理大臣になった途端、覇気が消え失せ、のらりくらり。(とワタシには見えた。😅)
そして、殆ど何もせぬまま短期間で辞任、『第102代総理大臣』の肩書を手に入れて、花道を去って行きました。。
子供の頃から、テレビの画面を見ながら、
“なんでだろう、、、何故、日本の総理大臣はこんなにコロコロと変るんだろう、、😲😲”
と、ずっと不思議に思ってましたが、或る日書籍の中にこの『原型(モデル)』を発見して、腑に落ちたワタシ。。😀
今日は、それを書いてみたいと思います。
その『書籍』とは、先の記事(⇒僧衣に兵杖を帯びた異形の集団『僧兵』、どこの誰、どこへ消えた?)(停電の夜は...落語 de night! ~私のベトナム備忘録😅~)で紹介した勝野隆信先生著『僧兵(そうへい)』(1955)です。
『僧兵(そうへい)』とは?!を、勝野先生のお言葉から要約すると、⇩
「わが国の歴史にとって不思議な存在、それが “そうへい”。
世間から疎外される畸形児に生まれた悲しみや怒り、憎しみ、呪い、嘆きの中、彼等は生きて来た。
彼等を生んだのは仏教、これを生ませたのはその時代。これを育てたのはその両者であろう。」。。。
僧兵(そうへい)とは、僧侶(そうりょ)が集団をなして武器を執った姿である。…
我が国も平安期になると、律令の無力化と社会情勢の変化に伴って、仏教寺院も著しく相貌を変えて来た。その一は経済力の増大であり、他の一は、其の処に住する僧侶の素質の低下である。
律令の規定に従えば、天下の土地は悉く公地であり、天下の民は悉く公民であるべきであったが、段々私有地が認められるようになり、開墾や寄付によって寺田は拡大され、その上不輸租の特権を持って、富の蓄積は増大の一途である。寺領荘園の住民とは主従の関係を生じて、徴兵制度に類する荘丁徴発の法も発生するに至った。
これと同時に、僧尼令の規定も全く崩れて、官許に依らない得度、すなわち私度がみだりに行われ、従ってその資格についても、規定された厳重な条件が無視され、その結果は、…「…形は沙門に似て、心は屠児のような悪僧が天下に充満し、その甚だしきは聚りて群盗となる」に至ったのである。
これが平安期頃の日本。。。その平安日本の様子を。。。
⇒令和の現代日本へ置き換えてみることにします!!😱😱
⇩ ⇩ ⇩
「或る信者や党員とは、或る人々が集団をなして宣伝・言論・メディアを武器に、既存社会へ反旗を翻す姿である。…
我が国日本も戦後、司法の無力化と社会情勢の変化に伴って、各派の姿も著しく相貌を変えて来た。その一は経済力の増大であり、他の一は、其々の派閥・教団の思想・信仰の素質の低下である。
憲法の規定に従えば、天下の土地は悉く公地であり、天下の民は悉く公民であるべきであったが、戦後彼らは派閥・団体で結束し私有地を増やし、開墾、寄付、その上脱税・免税の特権を持ち、富の蓄積は増大の一途である。党員・信者たちと主従関係を生じ、あたかも徴兵制度に類する公職選挙動員、SNS集団攻撃をも発生するに至った。
今や代議士・聖職者の規定も全く崩れて、忖度、縁故、学歴詐称、職歴ロンダリングが横行し、その資質・資格についても、規定の試験や条件など全く無視されて、その結果、形は代議士・聖職者に似てはいるが、心は餓鬼のような国賊が霞が関や地方自治の場に充満し、彼らは群れて『国富の群盗』となるに至ったのである。」
Σ(・□・;)Σ(・□・;)💦💦
なんだろう、、この凄いフィット感は。。。(笑)
えー、平安時代に話を戻します。
時代の風潮に流された、時の仏教陣営は、見栄やプライドで一度無頼人(ヤ〇ザ)衆を頼んだのが運の尽、それが『僧兵(そうへい)』爆誕の始まりだったこと、詳細は先の記事(僧衣に兵杖を帯びた異形の集団『僧兵』、どこの誰、どこへ消えた?)をご一読お願いします。😌😌
で、肝心の、“何故かコロコロ変わる”『自民党総裁選』についてです。😀😀😀
“ああーー、これだ!!💡💡”
と、目からウロコのソノ原型が、勝野隆信先生著『僧兵(そうへい)』の『七、比叡山の巻』に書いてありました。⇩
歴史上僧兵の代表的な存在とされるのは、山法師と呼ばれた比叡山の僧徒である。…
この山法師とならび称せられるものに寺法師がある。三井寺、すなわち園城寺を単に寺と称することは、比叡山を単に山と云うが如く、京都における古いならわしである。
…山・寺共に天台宗であるから、その関係は密接で、通俗的には兄弟ほどの間柄と見られて良いのであるが、この兄弟、極めて仲が悪く、事毎にいがみ合い、罵り合い、果ては乱暴狼藉の限りを尽くし合うこと数百年という、まことに歴史的な記録を残しているのである。
…「兄弟は他人のはじまり」という諺があるが、むしろ全くの他人なら、これほどのつまらない喧嘩もしなかったであろうに、なまじ兄弟であったばかりに長い間争い続けたのである。…
そのトラブルの元凶・源流は、いつ?何処から??⇩
山・寺争闘の宿命
寺門三井寺の開祖智証大師円珍の師の義真は、比叡山の開祖伝教大師最澄の弟子で、14歳の年下である。…、若くして唐語を習ったので、最澄入唐の際は、訳語僧としてこれに従い、最澄と同列で天台・禅・密・戒等を伝受して帰って来た。…
その(弘仁4年(813))前年に最澄が病重く、後事を弟子たちに遺言した時には、山の総別当には泰範、伝法の座主に円澄を定めているが、弘仁13年入寂の際の遺書には、「天台の一宗は、先帝(桓武)の公験に依って同じく入唐受法の沙門義真に授く」と見える。…
さ~あ、大変!!😂😂 ⇩
ここにおいて最澄直系の門下がこれに承服せず、円修に党する者50余人を排斥し、争論八か月に及ぶという、叡山最初の紛糾を起こしたのである。
偉大なる開祖・教祖の死後に、必ず勃発する『お家騒動』。。
あるある。(笑)
最澄の高弟光定は、この年十月二十四日には延暦寺別当大納言藤原三守に宛てて、書を送り、…義真の後は当然円澄が山の総帥であるべきことを力説している。その主張が認められ、勅使右大弁和気真綱が登山して、円修の職を停止されたので、…
このようにして義真門下の円修が山を去り、承和元年(834)三月、官牒を以て円澄が伝法の師と定められ、同三年入寂の後、17年間は上座の者を定めず、…
斉衛元年(854)四月、慈覚大師円仁がはじめて天台座主に補任された。彼は…謂わば最澄の子飼いの弟子である。
その(円仁)入寂後、弟子の安恵がこれを嗣いで在任4年、その入寂によって第五世の座主になったのが智証大師円珍である。…
比叡山の勢力はここに円仁と円珍、更に遡って最澄と義真の二つの門流に二分されたかの観がある。
なんというか『モスラ対キングギドラ』を連想してしまう、そんなワタシは不徳者。😂
良源の治山十九年。その在任中に両門下の勢力争いがついに激発したのである。
天元二年(979)に園城寺の長吏に補せられた権少僧都余慶が、同四年十二月に法性寺(円仁派)座主に補任せられるや、円仁門下から、…よろしくこれを停止せらるべしと訴え出た。
然るに朝廷は、…諭したけれどもきかず、山の僧綱阿闍梨等22人、これに従う諸寺の従僧等200余人の総勢で、関白頼忠の邸に至り乱暴を働いたので、朝廷はそのもの共の封職を停止した。
…
かくて余慶はついに法性寺座主を辞退し、…円仁・円珍両門徒の間に、抜き難い溝を造ってしまったのである。
さて、ここから。⇩
永祚元年(989)九月、…良源に次いでその弟子尋禅は…在職三年、病弱の故をもって辞退したので、…71歳の余慶が再び用いられて、新たに天台座主の職に就いた。
その年十月一日、余慶に座主を命ずるため、勅使少納言源能遠が宣命を棒持して登山した所、山僧数百人が道をふさいで登山を妨げたので、...検非違使を率いて重ねて登山させたが、衆徒はその宣命を奪い取り、勅使を追い帰してしまった。
(その後)余慶は座主に就任したが、衆徒は承服せず、寺務は行えず、在任三か月にして辞退のやむ無きに至った。(その後、)余慶の弟子戒算が、悪僧を率いて円仁の遺跡赤山禅院を荒らしたことから端を発して、…山徒は山上に在る円珍門流の坊舎を襲い、40余宇を破壊し、千手院を焼き、門徒一千余人を追放した。
なんというか、、神戸辺りの『〇〇組 対 ✖✖組の仁義なき戦い』を連想してしまう、そんなワタシは不届者。😂
第27世の座主慶命が、長暦二年(1038)九月七日に亡くなると、三井寺の明尊がその後任を望んだのを知って、山門の徒は大いに騒ぎ、…洛中に出て示威運動を始めたので、その後任には山門の教円が補任され、(その入寂後)、朝廷は山徒の反対を押し切って、明尊を第29世の座主に任命した。彼は余慶の弟子で、…山門側は直ぐに上奏して之を拒んだ。
座主補任の宣命は勅使が比叡山に持参して、就任の式場で直接本人に授けるものである。此の時の勅使は少納言藤原永職、あらかじめ山上の空気を察してか、宣命を下役に渡し、自分は胸の病と称して山の途中から引き返してしまった。或いははじめから登らなかったとも伝える。最初からこんな事態では、職務執行など到底望むべくもなく、在任三日目にして明尊は辞表を提出、たとえ三日でも「生前の面目既に足り、老後の栄華亦極まる」と述べている。
勅使藤原氏は空気を読んで逃げ帰り…
勅使源氏はけんもほろろに追い返され…
ゼンゼン頼りにならないジャン。。。( ´∀` )
中一代おいて第31世の座主に権僧正源泉が78歳で補任された。彼も亦寺門の出である。この時の勅使は少納言藤原貞章、同じく山上の騒動を察して、叡山の麓まで行ったが敢えて登らず、宣命を木の枝にさしはさみ、西坂本勧学堂付近の田の中に立てて、そのまま帰京した。
依って源泉も在任三日で辞表を出したが、…
第3回は、34世覚円の場合である。
…47歳の若さで補任せられたのであるが、権門勢家の出自も山門には容れられず、翌日辞退した。この時の勅使は少納言源基綱、宣命を家来に渡し、山上大講堂の庭に置いてくるように言い含めて、自分は賀茂の河原から帰宅してしまった。
第4回は39世の大僧正増誉の補任である。…長治二年(1105)…に宣下になったが、勅使少納言源明賢は山上の騒ぎを知って登山せず、部下のものに宣命を持たせてやったが、何処へ棄てて来たか、宣命の行方がわからなかった。増誉も翌日上表して辞退した。
第5回は44世の大僧正行尊、保安四年(1123)…補任、これは座主拝賀の式を無事に終わったが早速辞退、在任は六日、勅使源俊隆はやはり登山しなかった。
第6回は47世大僧正覚猷、…保延四年(1138)…86歳の高齢で補任されたが三日目に辞退した。
第7回は50世の権僧正覚忠、…応保二年(1162)二月一日に補任されて、同三日に辞したが、勅使源顕信は、宣命を月輪寺の鳥居に結い付けて帰った。…
第8回は60世の大僧正公顕の場合である。建久元年(1190)…補任で、…何れにしても大衆が騒いだので四日目に辞退した。
寺門出身の天台座主は60世公顕をもって最後とする。この頃から山門の中においても段々派閥の色彩が濃くなって来て、青蓮院・梶井(三千院)・妙法院の、所謂山門の三門跡のいずれかが座主を占めることとなって、他門から割り込む余地など全くなくなってしまったことが第一の原因であろう。
それに座主の問題は戒担のそれとは事情を全く異にし、謂わば当人の個人的な名誉慾からでもあったので、山門側で反対すれば、寺門の衆徒としても血を流してまで、これに応酬せねばならぬ理由もなく、当の本人も、宣下を受けて、その名を座主歴代に載せさえすれば事足ると云った様子が見られるので、紛争の種にはなったが、争闘の展開までには至らなかったのである。
💡宣下を受けて、その名を座主歴代に載せさえすれば事足る、、
💡たとえ三日でも、生前の面目既に足り、老後の栄華亦極まる、、
全く同じだ。近年の『自民党総裁選』と。😂😂😂
*******
ここでワタシは、、
ゾルゲ事件で逮捕、死刑になった尾﨑秀美(おざき ほつみ)氏が獄中から家族に送った書簡の言葉をなんとなく思い出すのです。⇩
…
時に明後日は愈々判決の日です。この手紙が家につく時には既に運命が決していると思いますから、率直に私の心境を語っておきます。私は今日まで引き続き水の如き冷静な心境でした。実は自分でも不思議なくらいです。…虚勢でなく心の動揺はありませんでした。…今は常識以上のものが働いている時代だと思います。謂わば私の立場にとっては時が悪いのだと思います。最悪の場合が十分予想されるのです。
死はしかし格別の大事ではありません。ことに今は世界的人類大屠殺の時代です。一千万人以上の人が既に死に、現に毎日何千の人たちが戦争によって斃れて行きつつあるのです。…
(昭和18年9月27日朝)
…
昨日(面会の時に)英子(=尾崎氏の奥様)が着ていた着物は柄は見覚えがありましたが、裁ち方は実に珍しいものでした。英子によく似合っていました。あれが戦時下の標準の婦人服(第何号かの)であるとすれば、なかなかいいものだと思いました。服装の点でも戦争は日本の旧弊を打破する一契機をなしております。実に各般にわたり否応なしに、古いものがこわれてゆきますね。待合や、高級料理店、歌舞伎芝居のための大劇場ーーそうしたものは当然清算さるべきだったのです。古い封建的なものが、明治以後の資本主義的な外被を借りて生き残って来たのです。…
(昭和19年3月30日)
尾﨑秀美氏は、死刑判決を受けた獄中にあっても尚、日本の行く先を思い、『明治維新以後に資本主義の皮を被って生き残っていた待合(風俗営業)や高級料理店、歌舞伎、大劇場等の日本の旧弊=古い封建的遺物が清算され、一掃されるならそれは良かった。』と書いてます。。。
だからワタシは。死んであの世で尾﨑秀美氏と逢ったら、絶対に質問されると思うのです。
“おおー、あれからどうなった? あの戦争で、古い封建的な旧弊は日本から一掃されたんだろ??”と。
でも、正直にこう答えるしかない。
⇩ ⇩ ⇩
“いやいや、トンデモナイ! とうとう日本の政治は、平安時代まで遡っちゃいましたよ!!😂😂😂💦💦💦”
