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10.音楽論 音楽が感情を生み出す、という神話

この記事は「インタラクティブミュージックについての12の神話」連載の、10個目になります。単体でも問題なく読めます。インタラクティブミュージックを略して「IM」とすることがあります。

これまでの連載ではゲームにおける「インタラクティブミュージック」という演出を中心に語ってきたが、ここで、少し毛色を変えて、「音楽」そのものに向き合う。

あくまで、自分がゲームと音楽に向き合ってきた中で生まれた「仮説」なので、少し気楽に読んでもらい、皆さんの意見も聞けたら幸いだ。



音楽によって、感情は操れるのか?

音楽は、感情を操る、とよく言われる。

実際に、感動した作品では、音楽で心が動いた、と感じることがある。

では、音楽はあなたの(私の)感情を、「操って」いるのか?


私の答えは、はっきりと「否」だ。


1,音楽で感情は上書きされない

これは非常に単純な仮定をしただけで誰もが一瞬でわかる話だ。

例えば、あなたが心底感動したシーンの音楽を、何でも良いが、あなたが心底笑ったお笑いの動画であったり、あなたが心底嫌いな人間の動画であったり……そういうものに乗せたとして、感動するか?というと、そんなわけはない。台無しにされるだけだ(この場合は音楽のほうが)。

つまり、音楽によって感情が「上書き」のようにコントロールされることはまずありえない。これは誰もが直感的には理解している大前提である。


2,音楽に感情は影響される

にも関わらず、音や音楽に関する講習だったり番組だったりで、頻繁に次のような実験が行われる。

何の変哲もない動画が与えられる。

そこに、シリアスな曲で演出したバージョンと、コミカルな曲で演出したバージョンが用意される。

続けて見てみると、それは可笑しいほどに、映像の印象がガラリと変わる。音楽って、選曲って、大事でしょう、面白いでしょう。

サカナクションの音楽実験番組「シュガー&シュガー」の1コーナーである「シュガシュガ選曲家劇場」では、そのような実験がさまざまな映像、さまざまな選曲家によって繰り広げられ、めちゃくちゃ面白かった。


さて、ここに1つの矛盾というか、欺瞞を感じないだろうか。

もし、映像が既に強い感情を引き起こす場合は、音楽のみによってそれを「上書き」することはできない。よって、こうした選曲による感情の変化が起こる映像は、元から、ある程度解釈の幅があり、その幅から上手く想像可能な範囲で適切に音楽を当てているからこそ、あちらにも、こちらにも印象を変えられる。

だからそれは、そのように「余白をもたせた映像」を用意するセンス、および、その「映像から無理なく広げられる解釈」をピックアップしている選曲家がすごいのであって、決して、音楽「だけ」の力でそれが誰でも再現されるわけではない、という事だ。

念の為繰り返しておくが、だからこういう実験は間違いだ!というわけではなく、こういうのはめっちゃ面白いので、もっと皆やってみたほうが良い。そして、「意外と音楽だけではどうにもならなくて、あんな風に音楽を変化させても説得力があるのは、かなり凄い」という事に気がついて欲しい、という事だ。


まとめ:音楽は感情を「引っ張る」

大前提の整理として、音楽は感情を「上書き」するほどの力はないものの、しかし、特定の方向に「引っ張る」力はある、と言えるだろう。映像だったり、元となる情報から解釈可能な範囲に上手く引っ張ることで、音楽がその感情を生み出した、と錯覚できる状態になる。


音楽がないと、どんな感情になるのか?

「音楽を付ける前の、素の映像に対する感情」とはどんなものだろうか。

ゲームや映像を作っていれば、それは嫌というほど目にする機会があるわけだが、そうでなければ意外と「音楽がつく前はどれほど悲惨なものに見えるか」を体験する機会が少ないかもしれない。

そこで、格好の素材を用意した。「ミュージックレス・ミュージックビデオ」というネタとして一部界隈で有名な、あのマイケル・ジャクソンのMVから音楽だけを完全に消し去った(上で、おそらくフォーリーサウンドなどを露悪的に足した)という、悪趣味極まる作品だ。

誰がこんなひどいものを作ったんだ。マジで面白い。勘弁してくれ。

ただ、マイケル・ジャクソンが世界一のポップスターだという事を知らない現代人にとっては、笑うどころか、「何このおじさん、怖い……」となってしまうかもしれない。

だが、安心してほしい。それは音楽がついてないからだ。上のビデオはあくまで露悪的に音楽を消してポップスターが怖いおじさんになる様子のコントラストを笑うネタであって、ここにマイケル・ジャクソンのバチバチにカッコいいトラックが重なることで、この動画は完成するのである。

歌詞の意味が知りたい方はこちら

うん。

(……今見ると、音楽ありでも若干怖いおじさんだな……)

(そして、公式動画からして、演出的に音楽を消してる箇所がいくつかあり、そこから「これ全部消したらやばくね?」という発想が自然と出てくるのもわかるな)

いやただ!待って欲しい。つまり、それは時代が変化した事によるもので、マイケル・ジャクソンが当時も(私が子どもの頃も)世界最高のポップスターであったことは世界の誰もが認める揺るぎない事実なのだから。


さて、この2つを見比べて、自分の感情がどのように反応するかを内面的に観察し、私は以下のような仮説を立てた。

1,音楽がないと、状況を俯瞰的に見てしまい、この動画を「怪しいおじさんが変な行動をしている」と解釈すべきか、「ポップスターがカッコよく踊っている」と解釈すべきか、不安になってしまう

2,音楽があると、正しい1つの視点が与えられ、この動画を「ポップスターがカッコよく踊っている」と解釈して良いという確信が得られる

CEDEC+KYUSHU 2019 ゲーム音楽演出を進化させる
「インタラクティブミュージック」と「音楽的ゲームデザイン」

(3,音楽があっても、映像そのものから(時代の変化などで)意味が伝わらないと、人によっては疑問が残ってしまう)


繰り返すが、これは単に私個人の内面から分析した事なので、他の人達に同様に当てはまるかは保証できないが、少なくとも、私の音楽体験はこの形でうまく言語化できるように思っている。


音楽が「空気」を支配する

音楽がない状態というのは(つまり、日常の空間すべてがその状態なわけだが)、ある言動や状況に対して、それがシリアスなのか、コメディなのか、カッコいいのかカワイイのか、良いのか悪いのか、正義か悪か、そうした解釈が揺らいでいて、どっちつかずの状態である。

それは自分で時間をかけて判断をする事もあるし、ときに、場の「空気」が醸成されて、「こいつは悪」「こいつは善」という事が決まってしまう事もある。

彼女の声が真剣に受け止められるかは、場の空気次第。
UnsplashAntennaが撮影した写真

今、場の「空気」と言ったが、音楽もまさに、「空気」を揺るがして作り出すものだ。

場の「空気」によって特定の意見がバイアスされてしまう事と、音楽という「空気」の振動によって特定の視点が強調されてしまう事は、無視できない共通項があるように思える。この共通性は言語的な偶然というよりは、「空気」という「包みこまれるもの=逃げられないもの」という性質が生み出す特徴であるからだ。

場の「空気」は、まさにそのような同調圧力からの逃れ難さをイメージした言葉ではないか。そして、「空気」を揺るがす音楽は、その特性ゆえに「その場全体を支配する」力があるのではないか

「フェス」という空間は、その場をすべて支配する。

音楽は、空間的に拡散する。ライブハウスであれ教会であれ野外であれ、その「空間」を共有する人々がその音を毛嫌う場合、音楽がそこに存在して良いとする理由はたちまち立ち消える。「嫌なら見なければ良い」という論理は成り立たない。耳をふさぐにしても限界がある。

音楽は、重ねることができない。絵画のように、横に並べたり反対側に別の絵があるという事は許されない。音楽が減衰しきる所まで、その空間は1つの音楽に支配されなければ、それは音響設計上の重大なミスである。場合によっては、会場で鳴る小さなノイズや子どもの声や携帯の着信音などであっても音楽を破壊するのに十分であったりもする。

逆説的に、今日残っている「音楽の場」は、全てが奇跡的なほど、同じ空間に同じ願いを共有する仲間を集め、余計な音をすべて廃して、ミュージシャンが発する「俺達はこう感じる」という音楽に、ほとんど全ての人間が「私たちもそう感じたい」と賛意を同時に顕にする場になっている。すなわち、音楽とは、すべからく何らかの讃歌なのだ(それが、希望を讃えるのか、絶望を讃えるのか、中身は無限にあるけれど)。私達は音楽によって、その場の「空気」が1つの巨大かつ唯一のものに収束する奇跡を見ている。

去年のMontreux Jazz Festival Japan、最高だった~
その場の全員がHerbie Hancock「カメレオン」のあのフレーズを望んでいた。

その場にいるとウッカリ「全人類がこの音楽でつながれば平和になるのに」と思ってしまうし、そう思わせる力が音楽にある事は否定しないが、それはこうした空間が「その音楽を別に好きじゃない人」を最初から招いていないから成り立っているのであって、もしこれが際限なく多くの人の耳に入った場合は騒音だとかそうじゃないとかで争いになるだけだ(実際あったね)。


音楽が場の「空気」から1つの「賛意」を生み出す

まとめると、音楽というのは、その成り立ちからして、「その場の全員が共有する価値への讃歌」「その場を支配する音を定めて、それ以外を排除するルール」として機能してきた。

そうした音楽の力が作品にもたらされる時、それが物語やキャラクターへの強烈な賛意を誘導し、またそれ以外の解釈を排除しようとする力として働く、という仮説が成り立つのである。

FF16のトレイラーで鳴る「Find the Flame」を聴いて、クライブが抱く正義や運命に共感しないことができるのか、っていうね(私はクリアしたうえでFF16のシナリオには納得いってませんが……)


音楽を鳴らすと、結局何が起こるのか?

音楽演出や、インタラクティブミュージックの効果を説明するうえで、さまざまな言語表現がなされるが、なかなかしっくり来る言葉が見つからない場合がある。

「感情を操る?」言い過ぎかな……「没入感が高まる?」ふわっとしてて分からないな……「感情を増幅する?」そんな単純な話じゃないんだよな……

もちろん私も場面によってあれこれ表現を使い分けるのだが、基本的には、音楽は視聴者やプレイヤーの感情を「否定しない」ようにして、「あなたの感じた感情は、間違っていないよ、私も賛成だよ」という形で感情に賛意を与え、確信を与え、赦しを与える存在であるように考えている。

それで、ゲームゲノムでFF15の「チョコボ」の音楽変化を解説する際にも、ユーザーの気持ちを「否定しない」、という表現を選んだ。


感情の種に、確信を与える

音楽は感情を否定しないだけで、音楽から感情が生まれるわけではない(実は、それはゲームなどの付随音楽に限らず、ジャズやロックやクラシック等の純粋音楽においても同様だと考えているが、ここでは割愛する)。そうした感情の種となるものは、必ず音楽を抜いた状態でも存在しなければならない。その種を大切に守り、花開かせることが音楽の力なのだ。

もし音楽が突然無音にフェードアウトしてしまったりすると、感情の種が育たずに、「これ、本当に倒してよかったのかな?」といった、場の空気が定まっていない不安な状況にプレイヤーを置いてしまう。音楽を繋げて終わらせることで「お前は正しい事をしたんだ」と、プレイヤーに確信を与えることができる、というわけだ。


「違う方向に引っ張る」「引っ張る手を離す」

ただし、このように音楽を肯定的に感じられるはあくまで、プレイヤーが与えられた感情の方向性と音楽が与える方向性が一致した場合であって、それが不一致である場合には真逆の不快な反応を引き起こすこともある。

プレイヤーが望んだ感情と別の方向に無理やり引っ張ることで、「音楽で操ろうとしている」というネガティブな印象にもなりうるし、フェードアウトなどで無音にすることで「突然手を離された」ような不安な気持ちに置き去りにすることもできる(そうした効果を意図的に用いることすらできる)。

RPGなどで「戦闘曲が鳴るはずの場面で、フィールド曲が継続する(あるいは、より悲しい曲に変化する)」といった演出によって、「戦闘=正義」という引力を引き剥がし、印象を変えるような表現も、期待と違う方向に音楽を利用することで感情を揺さぶる例と言える。何のゲームとは言わないが。

感動的なシーンで、これでもかと感動的な曲が流れるのは「苦手だ」と公言する人も実は少なくない。どれくらいの強さで音楽に感情を引っ張ってほしいか、というのも好みによる所だろう。

究極的に、音楽による賛意(=皆もこう感じてますよ!)という後押しなんかがなくても、純粋にそのシーンの意味から感情が溢れてくるような場合は、音楽による引力そのものがノイズになってしまう可能性がある。


音楽を鳴らす前に、どうあるべきなのか?

ここまでで、音楽は一体何をしているのか?という疑問に答えてきた。私なりの理解だが、参考になれば幸いだ。

そして、最後に元も子もない結論を言う。

音楽が力を発揮するには、「感情の種」が必要と言った。

つまり、音楽演出だけでどうにかなると思わないことだ


ゲーム開発を甘く見ない

音楽演出とか、インタラクティブミュージックとか、そういうのはしっかりとゲームプレイから感情の種を生み出して、この気持ちを誰かに肯定してほしい、という段階になって最大の力を発揮する。

だから私はIM演出のことを(ゲームゲノムの番組内でも)「画竜点睛」と呼んだのだ。あれは、それくらい大事だという意味であると同時に、目を描くより前にまず龍を描け、それが下手なら話にならん、という意味である。

だから私はゲーム開発全体に関する話なども書いている。音楽どうこう以前にゲーム開発そのものが難しすぎるという事を、実感できてない人間が多すぎる。デカいプロジェクトを自分でやって後悔しないと理解しないのだろう。これは(学生時代からそういうのを何度も経験して)後悔した人間からの心からの叫びだ。ゲーム開発を甘く見ないで欲しい


まずは面白いゲームを作ろう

私がやってるような「音楽を主体にしたゲーム」であっても実は、音楽を生み出すより前に「ゲームとして面白い」事が大前提である。

たまに、どうしたらインタラクティブミュージックを活かすゲームが作れるのか、と相談されるが、そういう人は大抵「音楽で何かしよう」からスタートしており、ゲーム開発としては、それでは話にならない(ゲームじゃなくて単にそういう表現だ、というなら止めはしないが)。ゲームはまずそれ単体で面白さが伝わらなければ、音楽がどう変化したところでそれに興味を持ってもらうことすら出来ない。

だから私の作品はほとんどの場合、「既に面白さがわかっているゲーム」から、「どのように音楽を生み出すと、そのゲームの面白さが音楽的に表現されるのか」という観点で設計されている。さめがめ、ブロック崩し、マインスイーパー、Pong、などなど……

司会の宇川さんから「良い音楽、っていうのも難しいよね」という大変鋭いテーマが投げかけられました。
私の答えは、「このゲームにおいて良い音楽というのは、ゲームを上手くプレイできていることを確信させる機能を持った音楽である」ということです。むしろ、「ゲームが上手く行っている感覚のほうが、音楽の良さを規定している」とも考えられます。

ゲームプレイを音楽として再解釈する より

プレイヤーが「このゲーム面白い、俺は上手い」と感じるゲーム本来の楽しさに、音楽的に「そうだ!お前は本当に上手い!それに美しい!」と賛同し確信させるための音楽を生成しているのであり、音楽それ自体から感情を生み出しているわけではないのだ。

そういった事を自覚して表現することで、「音楽で感情が動いた」という「錯覚」を提示できるのではないだろうか。そして、その錯覚ほどに甘美なものはないと私は信じている。


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