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9.演出論 インタラクティブミュージックを知ればゲーム音楽演出ができる、という神話、あるいは、ゲームならではの音楽演出について

この記事は「インタラクティブミュージックについての12の神話」連載の、9つ目になります。単体でも問題なく読めます。インタラクティブミュージックを略して「IM」とすることがあります。

インタラクティブミュージックってなんか、過度に持て囃されすぎなんですよ(お前が言うな)。

そんな事以前に、「どこで」「どんな」曲を流すべきなのか?という根本的な音楽演出について、語られることがあまりにも少ない。

もっと言うと、音楽デザイン以前にまず「ゲームがどうなっていれば」音楽で心が震えるような状態になるのか、という、ゲームデザインの観点も欠かせない。

本項では、そんな「ゲーム音楽演出の理想」について、より広い視点から考える。



ゲームにおける映画的な音楽演出

音楽演出の話は、大前提として「映像における音楽演出」の技法や考え方がゲームにおいても重要になる。これだけで分厚い本が1冊と言わず何冊も出ているような、非常に奥深い領域である。

映画や映像に対して、どこにどのような音楽を当てれば良いか、
という事をすべてマニュアル化した、フィルムスクールの教本

(↑の本は読んでないので私は知らないが)言い換えると映像の音楽演出にはある種の「正解」があるわけだから、ゲームという不確定な状況に対して音楽を紡ぐ「手段」さえあれば、あとは「正解」に則ってやれば良い。その「手段」として強力なのがインタラクティブミュージックである。


映画的な音楽演出のためのインタラクティブミュージック

インタラクティブミュージックの効果が測れる、という神話においては、「IMだから没入感が上がる」といった神話を否定し、IMはあくまで問題解決の手段として捉え、一連のシーンが1曲で表現されることが、音楽演出の理想とした。

短くまとめると、

IMは「曲を切り替える」と「曲を切り替えない」の間で、「適度に切り替える」という間の子の選択肢を提供するためのものだよ。

そのどちらから見るかによって、「ダイナミック化した」とも言えるし「シームレス化した」とも言えるよ。

これを踏まえて、ゲームの音楽デザインにおいてIMというのは、「どこからどこまでを1曲で繋げるか」という事を念頭に考えると良いよ。

という話になる。


さて、こうした映画的な音楽演出についてもIM以外に考慮すべき事柄が色々あるのだが、それは完全に私の手に余るテーマなので本項では取り扱わず、代わりに、以下に参考となるリンクをいくつか提示するに留めたい。


映画的な音楽演出のためのインタラクティブミュージック「だけじゃない」音楽演出

IM以外の音楽演出を私は「音楽を切り替えるか、切り替えないか」と単純化して話してきたが、実は、その「切り替える」のも決して単純ではない。

  • フェードアウト時間

  • フェードアウトカーブ

  • ディレイ時間(フェード完了後の余白)

  • フェードイン時間

  • フェードインカーブ

  • 次の曲を頭出しするか、続きから復帰するか、etc…

などなど、これらの変数を組み替えるだけでも、音楽が与える印象が大きく変わる。そのあたりの技術については、以前こちらの記事にまとめた。

(記事より引用)
フェード時間は大切です。フェード時間は大切です。大事なんで何度でも言います。フェード時間に気を使ってください。一律で1秒とかでいっか♪とか言って最初にStopBGM(fadeTime = 1.0f)などとデフォルト引数を設定しても何ら解決はしません。


青木さんによる以下のnoteは、ゲーム音楽の仕事の作曲「以外」の部分にスポットを当てた「鳴らし方」の仕事に関するものだ。ここでもやはり、映像作品に対する音楽演出を指標としながら、ゲームにおいてどのような演出作成、指示が必要なのかといった実際の開発の際にクリティカルとなる概念を(IMも含めて)整理されている。

(記事より引用)
ゲームに曲を入れる上で参考になるのがアニメやドラマ等の映像作品です。インタラクティブでない映像作品では、既に完成した映像に対して好きなタイミングに好きなように楽曲を配置することが出来ます。

いつ、どのように楽曲が始まり、どのように楽曲が展開し、そして鳴り終わるのか、その結果視聴者に対してどのような印象を与えているのかを観察すると、今まで漫然とBGMを聴いていた人も多くの工夫がなされていることに気づくと思います。


木幡さんによる以下のnoteは、さらに幅広い視点から、ゲームの音楽演出に利用される技術、アイデア、キーワードが網羅され、更に参考資料までも充実しており、IMに限らないゲーム音楽演出を知るうえで非常に役に立つ記事となっている。

(記事より引用)
ゲームの音楽演出の手法は当然にゲームのためにあります。まずは「どういう演出にしたいのか」をしっかり狙えるように、いろいな演出を知ることが大切だと思います。

一方で、技術的な面が軽視されてしまうと演出として良いものにすることは難しくなってきます。筆者としては、そういった難しさを業界として乗り越え、ゲーム制作における音楽演出を切り拓いていくようなことができたらと考えています。


かのように、音楽演出に関する知見は膨大で、この時点ですでにタイトルの「インタラクティブミュージックを知ればゲーム音楽演出ができる、という神話」は打ち砕かれたといって良いだろう。

前置きが非常に長くなったが、ここからが本題として、IMに限らない「ゲームならではの音楽演出」について、私なりの視点を提示できればと思う(これも木幡さんの記事ですでに触れられている部分ではあるが)。


本題:ゲームならではの音楽演出

映画的な音楽演出を正解とすると、ゲーム音楽も「演出を実現する手段」であって、「気づかれなくても良いもの」ということになる。そう仮定することで、「IMだから良いってわけじゃない」論を構築していったわけだが、実はこれを書いてから、自分で反論が浮かんでしまった。

詳しくは、以下のスレッドでつぶやいているが、長いのでまとめると、

一度だけ体験する映像なら、音楽は手段であって気づかれなくても良い、という「非自覚的IM」の論理が成り立つ。
一方で、ゲームは何度もプレイするものだから、「こうすると音楽が遷移する」という意識が芽生えた時、「自分が音楽を変化させている」というトリガーの感覚が付与され、ゲームならではの良さになる場合がある。これを「自覚的IM」と呼ぶと、「IMだからこそ良い」論も成り立つのでは。

後から手のひらを返すようで申し訳ないが、一応、元記事には以下のように補足もしてあるのでお目溢しを頂きつつ……

ここでは、より積極的なインタラクティブ演出、Tetris EffectとかHi-Fi RUSHとか……そういうのは一旦、例外的なものとしている。音楽を主体としないゲームの中で、演出として音楽を使う場合の手段と考えた時の整理。

インタラクティブミュージックの効果が測れる、という神話 より

上記のような「音楽主体のゲーム」は言うに及ばず、あらゆるゲームにおいて、それを繰り返しプレイすることで、ある時点から「こうプレイしたら、音楽がこう反応する」というルールに(作曲者は気づかなくて良いと思っていても)プレイヤーが気づく場合がある。

こういう場合には、IMだからこそ面白い、の論理が成り立ちうるし、狭義のIMに限らず、単純な音楽再生、切り替えについても、プレイヤーが「ここではこの音楽が流れる(はずだ)」という期待が醸成されることで、それを満たしたり裏切ったりする事により、ゲームならではの音楽体験が生まれる。


ゲームならではのインタラクティブミュージック体験

スーパーマリオワールドで「ヨッシーに乗ったらBGMにパーカッションが追加される」というIM演出は、こうした事例の中では特に「最初にIMを意識したのはこのゲームかも」といった形で言及される機会が多い。

もし、このシーンが1回だけなら変化に気が付かないとしても、プレイヤーはゲームの中で繰り返しこのアクションを体験する。その過程のどこかで、プレイヤーに意識の余裕が出てきた段階で(良い意味で)音楽に意識が向けられて、「自分の行動によって音楽が変化した」事に気がつく。

このように、音楽が変化した「理由」がしっかりとプレイヤーに伝わっていれば、IMに「気づかれる」事は決して悪い事ではない(という事を、インタラクティブミュージックは気づかれないから意味がない、という神話で解説した)。

この時、プレイヤーと音楽の関係は、映像と音楽のそれとは全く異なるものに変容する。なぜなら、これに気がついたプレイヤーは、ゲームが想定する目的(マリオをゴールに向かわせる)を脇において、ヨッシーに乗ったり降りたりして自らの操作で音楽を変化させる遊びに興じることができるからだ。いわば、音楽というものが、背景音(BGM)として世界を彩るのみならず、マリオなどのキャラクターと同列に、プレイヤーが操作し支配する身体の延長上に立ち現れるのである。

最近やった「ElecHead」で、とある場所で電力を与えることで音楽のレイヤーを操れるご褒美要素に「気づいてしまった」私は、嬉しくなってそれで遊んでしまったりした。こうした音楽変化は明らかに、映像に音楽を合わせるという考えではなく、音楽が変化する事そのものが嬉しい、という(キャラクターを動かすことそのものが楽しい、ような)原初的な喜びがある。


音楽の「身体化」

このように、プレイ体験と深く結びついたゲーム音楽は、ゲーム世界やゲーム行為への意味付け(ワールド・シグナル)といった役割を超えて、自らの身体のように「なくてはならない音」になる──そうした現象を、ゲーム音楽の「身体化」と表現すると、腑に落ちるかもしれない。

このキーワードは、書籍「ゲーム音楽はどこから来たのか」の最終部において提示されていた。私はそれに刺激を受け、東京大学でゲームオーディオ研究の過去・現在・未来というシンポジウムが開催された際に、講演で以下のように引用させていただいた。

補足として、私がここで用いた「身体化」はより操作に近い部分(RezやTetris Effect等におけるクオンタイズされる音など)を対象に論じているのに対して、hallyさんが本書で導入した「身体化」はループして聴き続ける音楽に対して抱かれる愛着までを射程としており、より深い意味を持つものなので、詳しくは是非本書を手にとって読んで欲しい。

ゲーム音楽を単に映像音楽的な、演出の手段と考えてしまっては、こうしたゲームならではの音楽の面白さを見失ってしまう恐れがある。

たしかに、RPGであれSTGであれ、ゲームの「音楽を」殊更に楽しもうとする態度はクリエイターが真っ先に想定するものではなく、そうした受容の仕方は「オタク的」だ先の記事の結論にも書いた。

ただ、ゲームとは何かとプレイ時間が長い娯楽である。そうすると、自然と少なくないプレイヤーが、この音楽をずっと聴いていると飽きないどころか新しい音がどんどん見つかる、とか、この音楽はこの条件で変化するのか、といった、オタク的な楽しみ方を見つけるのも無理はない。むしろ、そうした能動的なプレイヤーの興味に受け応える深みが(音楽にも、その他の要素にも)あったからこそ、ゲームという娯楽がここまで人の心に深く残っている、とも言えるのではないか。

そうした時に、このように音楽の変化に気づかせ、意識させることの価値が見出されるのである。


ゲームならではの「音楽をトリガーする」体験

さて、こうした音楽の「身体化」や「音楽変化を自覚する体験」は、なにもインタラクティブミュージックの専売特許ではない。ただ「再生する(トリガーする)」というだけの表現でも、心に残る体験は生み出せる。

「DEATH STRANDING」のポート・ノットシティを訪れる際の音楽演出は、そこに至るまでのゲーム的な状況設定、音楽的なコントラスト、そして、ミキシングに至るまでの心遣いによって、それを実現している。5分ほどだが、時間があれば是非以下の動画を見て欲しい。

詳しい解説は、こちらも Ludo-Musica のSTAGE 02、ゲーム「ならでは」の音楽、『DEATH STRANDING』より「Asylums for the feeling feat. Leila Adu」 | Ludo-Musica Ⅲに展示してある。


あるいは、以下のnoteで解説した「ファイアーエムブレム覚醒」の「プレイヤーの感情とリンクする音楽」というのもまさに、ゲームならではの音楽をトリガーする体験といえる。

会話中はアンビエントなBGMで、最後に「ここでお前を倒す!」のセリフをOKして攻撃シーンに入る時に壮大なBGMに変化します。
この……ボタンを押した瞬間の……「いくぜえええええ」って感情の変化を見事に表現した楽曲とトリガーがたまりません。
これもまさに、「感情とリンクした音楽演出」ではないでしょうか。

いずれも、「ここぞ」という時に音楽が流れ始めるのがたまらない、心に残る瞬間である。


「プレイヤーの先を行かない」音楽演出、とは?

こうした音楽演出を的確に行うには何らかのセンスが必要となりそうだが、先日のゲームメーカーズスクランブル2025において、スクウェア・エニックスの時田貴司氏(LIVE A LIVE、FINAL FANTASY IV、クロノトリガー等)による講演「J-RPGの源流、サブカルチャーの変遷」を聴講していた際に、思わぬヒントが飛び込んできた。

氏の作品づくりにおいては、音楽を再生するポイントなどにもこだわり、「自分が主人公になって、音楽のトリガーを引いている」感覚が生まれる事も利用しているという。

講演は音楽が主題ではないのでさらっと流れた1スライドだったが、懇親会にも参加されていた時田さんを捕まえて、直接お話を聞く機会を頂けた!

その際の教えを、御本人に「記事に書いても大丈夫ですか?」と確認も取ったので、少し紹介させていただく。

映像の音楽は、(次が予測できるので)予兆がある。
でもゲームは、プレイヤーが自分でトリガーして進めるから、音楽はトリガーから少し遅れて始まることが、良い効果になったりする。自分でトリガーした感じを出すには、その手前に無音が必要。必要以上にたくさんの音楽を入れると、無音がなくなってしまう。

ゲームメーカーズスクランブル 懇親会で時田さんから聞いた話をざっくり引用
(私のメモがベースなので、時田さんの意図とズレていたら申し訳ない)

まさにこの「無音の使い方」こそが、インタラクティブどうこう言う以前に音楽演出において最大の肝なのではないかと、感じる次第である。

似たような「間」の取り方について、以下の記事でも時田氏が語っている。

例えば「お前を許さない」というセリフを実装する時、僕はよく分割するんです。「お前を……(ボタンを押す)許さない」といった感じにすると、ユーザーの体験がよりリアリティを伴うものになります。漫画で言うと、良いところでセリフが切れて、次のページで大コマがあるような、コマ割りの工夫に近い感覚かも知れません。

分かりやすいから“裏切れる”。『ライブアライブ』時田貴司氏が語る、
チームの熱量を高めるディレクション・プロデュース術|ゲームメーカーズ


さらに。

この「音楽的な変化を、少し遅らせる」という考え方をしている伝説的なクリエイターの話を、もう一つ見つけることができた。なんと、あの「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」においてサウンドディレクターを務めた、若井淑氏である。

若井氏が「ゼルダらしさ、とは?」という伝統ある核心的な質問に答える際に出したのが、「プレイヤーの先を行かない」という考え方だった。

――(笑)。では最後に、ここまで大きく変わったものを作った皆さんだからこそ、あえてお聞きします。いま感じる“『ゼルダ』らしさ”とは何でしょう?
青沼 この質問来たかー(苦笑)。
(中略)
若井
 僕の専門分野で、曲、音の話で言うと、“ユーザーの先を行かない”ですね。『ゼルダ』というのは、プレイヤーの想定していない音が鳴ると冷めることがあると思うんです。だから、できるだけそこからはみ出ない。プレイを補完するように音が存在しているというのが、これまで『ゼルダ』をやってきた中で意識していて、今回も漏れずにやってきたものですね。それが、僕の“『ゼルダ』らしさ”ですかね。

『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』祠の解法は3つ以上!?
DLC&新作も聞く、アタリマエを超えた驚異の作品作りに迫る開発者インタビュー【後編】 より

ここでは「ゼルダらしさ」と言っているが、ほとんどあらゆる「ゲーム」に求められる事と考えても良いのではないだろうか。


「無音」と「ゲームプレイからの感情」が先

こうして見ると、先程の2作品(デススト、FE覚醒)の印象に残る音楽トリガー演出はいずれも、

トリガーの直前を「無音(環境音)」あるいは、「アンダースコア」のみ

にすることで音楽的なコントラストを生み出し、

さらに、

音楽が鳴り始めるよりも前に、ゲームプレイから感情を生み出す

ことを徹底している。

すなわち、

デスストの場合は、険しい山を超えて、目的地まであとはもう山を下るだけだ、という安心感

ファイアーエムブレム覚醒の場合は、数々の戦闘を乗り越えて、あとはボスにトドメを刺すだけだ、という覚悟

こうした感情が先にあって、ボタンを押すなり前に進むなりしてそれを確定させた瞬間から、ようやく音楽を流し始めるのである。


……実は、インタラクティブミュージックを活用すれば「予兆」的な状態に音楽を準備しておくことも出来るわけだが、それが上手く流れる1シーンの場合は良くても、プレイヤーがつまづいたり、戸惑ったり、あるいは自らのペースで一呼吸置こうとした場合に、その予兆は「急かされている」とネガティブに受け止められる場合がある。

この場合だと、音楽がプレイヤーの感情よりも早く予兆的な演出をすることで、「さっさと山を超えろ」とか「さっさとトドメをさせ」というメッセージになってしまいかねない。ゼルダの音楽が「ユーザーの先を行かない」というのは、こうした予兆的なIMでユーザーを焦らせない、という意図があるのではないだろうか。

これはもしかしたら、私自身ずっと気になっていた、ゼルダが実はシリーズを通して「プリエンド」的なボス戦での音楽遷移をほとんど行っていない事を説明しているのではないか。彼らがそれを「出来ない」わけではないことは明白だが、ゼルダのボス戦は一部の例外を除いて、単純にループ→カットアウト→トドメ曲、になる。BotWのヒノックス戦もそうだし、「弱点露出時にチャンスBGMに遷移する」という超ヒロイックなインタラクティブミュージックをやっているトワイライトプリンセスのボス戦ですら、トドメはしれっとカットアウトしている。


報奨としてのゲーム音楽

このように、

・音楽が無音であったりアンダースコアのみの状態から
・ゲーム的なチャレンジを乗り越えた所でそれを表す音楽を流す

という音楽体験は、ある種の「報奨」としての意味を帯びてくる。

書籍「ゲーム音楽はどこから来たのか」においても、この考え方が(音楽の「身体化」というキーワードの直前に)登場する。

それはゲームから与えられるものであると同時に、ゲームの進行に応じて自ら掴み取ったものでもある。その意味で報酬なのだ。ミヒール・カンプはこうした報酬のあり方を「物語的報酬」と呼んでいる。もちろんプレイ中に「この音楽はご褒美だ」といちいち自覚することは通常ないだろう。プレイヤーにとってBGMが素晴らしく印象に残るものだったときにだけ、時間と労力をかけてそれを聴くに至ったという事実が、思い入れをさらに深いものにしてくれる。多くの場合、それは自覚されざる報酬なのだ。

「ゲーム音楽はどこから来たのか」より

主人公が何らかの感情の頂点に達する際に、まさにプレイヤー自身がそこまでのストレスや苦労を感じてきた主体であり、それがようやく成就するという事を自分事として感じている、という事実によって、映像作品とは一線を画するゲームならではの音楽体験が得られる。

最後に、この意味で最も激しく、最も美しい音楽演出が体験できるのが、「APE OUT」だ。

すべての敵を倒すリズムが打楽器によって音楽として昇華されるというインタラクティブミュージックが注目の一作ではあるが、個人的にはその仕掛けにはそこまで感動を覚えなかった(ドラムって結局何でもアリになってしまうので)。

しかし、この作品を「最後までやると印象が変わる」という意見を信じて幾千の苦闘を乗り越えた末に……それは「あった」。何があったかは言わないし動画も載せない。動画で見たところで絶対に同じ感情にはなりえない。「壷おじ」で知られるBennet Foddyが関わっているからなのか、とにかくひたすらに理不尽ギリギリのゲームプレイを強いられる。それをすべて暴力で破壊する。破壊を尽くした先にあるものは、それを自分の手でやった者でなければ得ることができない。言っておくが技術的にも何にも大した話ではない。ただ笑ってしまうのだ。「お前はこれがやりたかったのか」と。そして私はこのゲームのすべてを許した。


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