7.批評論 インタラクティブミュージックの効果が測れる、という神話
この記事は「インタラクティブミュージックについての12の神話」連載の、7つ目になります。インタラクティブミュージックを略して「IM」とすることがあります。
インタラクティブミュージックという言葉が流行りだしてから、ずっとモヤモヤしてきた表現がある。
それが、
インタラクティブミュージックを「搭載」/「採用」した
という表現。
だから何やねん
真っ先に「お前が言うな」ってツッコまれそうなので、整理する。
論理的な表現をするので読みにくかったらごめん。
「ある特定の」IM表現を実装したことで、「ある具体的な」効果があって、ゲームが良くなる。
これは本当にある。これまで何度も紹介してきた。
じゃあ何が違和感なのかというと
「任意の」IM表現を実装すると、「没入感が上がる」効果があって、ゲームが良くなる。
これは、嘘です。
だから、「IMを搭載したから云々」という言説は、ことごとく前提から無意味な文書になっている、という事を言いたい。
ただ、IMを「搭載」「採用」と言いたい人の気持ちはわかる(私の言っている事もそう聞こえる場合があると思う)。
それは結局のところ、「特定の」IM表現に対する共通言語が無いことによるだろう。例えば、チョコボに乗ったらアレンジが変わりますというのを、縦の遷移と言ってもまだ広いし、「乗り物に乗るとアレンジが変化するシステム」まで言うと正確だけど冗長だし。売り文句として伝わりやすく語感も良い単語として「IMを搭載」と呼ぶと不正確だけどわかりやすい。
また、今までそうした「技術」をまだ持っていなかった・使ったことなかったメーカーや開発者が、初めて技術的にそれに挑戦した時には、「IMという手法に挑戦した(から、今後も活用していくぞ)」というアピールとして使える。これはそのゲーム自体の魅力というより、会社や個人のパワーアップを意味した表現だろう。
「技術としてのIM」と「表現としてのIM」
IMにまつわる定義や議論が混乱してしまうのは、「汎用的な技術としてのIM」と、「個別多様な表現としてのIM」が言語的に区別されないまま、個別の話が全体の話と交わってしまう事によるものだと思っている。
技術的には、IMとは何か、という事をかなりはっきりと定義することは出来るし、それを搭載している、していない、という言い方も可能だ。
インタラクティブミュージックをやるには技術力が必要、という神話 [4/12]で解説したような機能(に準ずるもの)を使って音楽を変化させているか、という意味で「IMを搭載」と言う事はできる。それは「技術を使えるようになって、音楽表現の幅が広がったよ」というアピールとして機能する。
しかし表現としては、明確にIMかどうかの境目を定義することは難しくなるし、その技術を使っていたからどうこう、という言い方はできない。
表現として「1曲」の境目はどこかという問題
IMという技術によって可能になることの一つに「複数のシーンを1つの曲でシームレスにつなぐ」という事が挙げられるが、これ自体はIMという技術を使わなくても表現することができる。
「ダレカレ」というインタラクティブノベルでは、全編にわたって物語に沿った音楽が流れており、技術的な意味でのIMも随所に活用されている。
では、冒頭の次のシーンを見て、これを「徐々に変化する1つの曲」と捉えるべきか、あるいは、「シーンに合わせて切り替わっている3つの曲」と捉えるべきか、誰もが合意できる答えは存在するだろうか?
技術的には、(おそらく)プレイヤーの入力をきっかけとして複数のアセットをクロスフェードするだけでも実現可能に思えるので、「3つの曲」に分かれていて、それを切り替えているだけだ、と言うことも出来そうだ。
しかし体験としては、これが内部的にいくつのアセットで作られているかという事はどうでも良く、一連のシーンとして音楽的な内容が連続的に変化している。
このように、1曲というものを「技術的に見た時の境目」と、「表現として見た時の境目」は簡単に矛盾する。
結局これはIMなのか?という定議論。
↑の例のように、複数の曲を適切なフェードで繋ぎ合わせる事を「横の遷移(Horizontal Resequencing)」というIMの一つと呼ぶことも出来る。実際、1つ目の神話で紹介した「Writing Interactive Music for Video Games: A Composer's Guide」という書籍では、横の遷移の章でクロスフェードの話とか、FF13でバトル曲とフィールド曲をどう切り替えているか、という話などが出てくる。
このような観点から、何か技術的に新しい遷移方法(小節に合わせてシームレスに、とか)をしていなくとも、ゲームというインタラクティブな環境の中で音楽を切り替えることはすべからくIMなのだ、と言うこともできる。
ただし、これはまた定義の話に戻ってしまうので、詳しくはインタラクティブミュージックという言葉が定義されている、という神話 [1/12]を最後まで読んで欲しい。十全な定義を目指すならゲームの音楽はすべてIMで良いけど、そうすると特に1曲の中で複雑に変化するような演出を取り出して議論したい場合に主題がぼやけて有用ではなくなってしまう。そのため、私のnoteでは有用性を優先してより狭い範囲でIMを定義している。
インタラクティブミュージックは「良い所取り」をするための折衷案
IMを取り入れることは技術的には「進化」かもしれないが、表現としては必ずしも進化ではなく「折衷案」と言ったほうが良いと感じている。
何と何を折衷したのかというと、それは流れている曲を「切り替える」と「切り替えない」の2つだ。IMという手段を用いないのであれば、音楽演出として取りうる手段は限られている。
変えるか、変えないか。0か1か。

もちろんこれだけでも、曲自体を先ほどのダレカレみたいにアンビエント調にしたり、上手く調性やリズムを近いものにして違和感を軽減しつつ切り替える、という工夫はずっと行われてきた。
ただどうしても、「雰囲気を大きく変えたい」「音楽単体でも魅力的ににしたい」「けど切り替わりが目立ってしまう」というジレンマが生じ続けていた。そこに登場したのがIMの技術だと考えることができる。すると、折衷案として「1曲の中で遷移する」という提案ができるわけだ。

それぞれ、具体例を見ていこう。
IMでダイナミック化
ポケットモンスターシリーズではジムリーダー戦で専用のBGMが流れるのが恒例だが、これまで(といってもDSの時代)は倒すまで同じ曲が流れて、倒したらリザルト曲が流れる、というパターンが基本的であった。
それが最近では、戦闘が進むごとに音楽も展開していく演出が行われるようになっている。
2つ目の動画のコメントに「普通のゲームエンジンでは再現できないよね」とついているが、インタラクティブミュージックをやるには技術力が必要、という神話で紹介したように、今や普通のエンジン(というか、オーディオミドルウェア)を使っていると普通に出来てしまう。私もこれのために特別に何かをしたという事はない。
元々の固定的な演出に比べると、バトルの展開に応じてよりダイナミックになったと言える。それによって、プレイヤーの気持ちが高揚していくのを音楽的にも後押ししている。
同じような例は挙げ始めるときりがないが……「マリオカート8」における「ワリオスノーマウンテン」の音楽演出などもまさにそれだろうか。
このコースは3回ラップするのではなく1本の長いコースとなっており、雪山を下る景色の変化に合わせて曲がどんどん展開するようになっている。
このような演出は、もともとが1曲のまま「切り替えない」で同じ曲を流していたところを、1曲の中に段階を足してダイナミックな変化を生み出したと見ることができる。
IMでシームレス化
こちらもポケットモンスターシリーズから、ポケモンSVでは通常戦闘曲も(ほとんどのマップにおいては)フィールド曲からのアレンジの変化が使われるようになった。
従来であれば、戦闘に入ると通常戦闘曲になっていたのだが、フィールドから戦闘にシームレスに移行する演出や、それに伴うテンポ感の変化により、別曲に切り替えることによるデメリットが目立つ可能性があった。
これをアレンジの変化で演出することで、音楽もよりシームレスになった上に、野生ポケモンにぶつかるたびにフィールドBGMが途切れるわけではなく、メロディなどはそのまま繋がるため、より長く一つの楽曲を聴くことができる。
同じような例は、(こちらも挙げだすとキリがないが)ファイアーエムブレムシリーズのフィールドと戦闘曲の遷移についても言える。
シームレスな切り替えによってバトルの盛り上がりを表現しているとも言えるし、また、切り替えが1曲の中で行われるからこそ、この曲のメロディが繰り返し心に刻まれ続けるとも言える。
音楽の「キャンバスサイズ」を広げるためのIM
5つ目の神話記事にて、「時間とは、音楽にとっての「キャンバスサイズ」である」という標語を出した。
これは、CEDEC+KYUSHU 2019にて講演をした際に考えついたもの。音楽は時間芸術なので、ゲームプレイが細切れに変化することは、そのまま音楽が使えるキャンバスサイズが細切れになってしまう事を意味する。


NieR: Automataの音楽演出についてはこちら
NieR: Automata ー 音楽によって「接続される」世界|じーくどらむす
を参照いただきたい。
ということは、もともと2曲で演出していたところを1曲のアレンジ違いにまとめるという考え方をすれば、むしろ音楽はより広いキャンバスにメロディを描けるとも言えるわけだ。ポケモンやファイアーエムブレムにおいての使い方も、こうしたメリットがあったと整理することができる。
「IMの効果」は「元がどうだったか」の視点によって真逆になる
IM化というのは元の視点をどちらに置くかによって「ダイナミック化した=音楽を細かく分割した」とも言えるし「シームレス化した=音楽を大きくまとめた」とも言えてしまう。

ここでは、より積極的なインタラクティブ演出、Tetris EffectとかHi-Fi RUSHとか……そういうのは一旦、例外的なものとしている。音楽を主体としないゲームの中で、演出として音楽を使う場合の手段と考えた時の整理。
私が先の事例でシリーズ化された有名ゲームばかり出したのはそういう理由で、シリーズものであれば「前作まではどうだったか」という点である程度共通認識のあるところから比較が可能になる。
しかし、シリーズものでもなければ「IMが無かったらどうしていたか」という話は仮定の話でしかなくなる。ある場所から場所へ移動した時にアレンジが切り替わっていたとしても、もしそうでなければ、同じ曲を続けていたか?別の曲に切り替えていたか?それは答えのない問いだ。
だからこそ、タイトルにもある通り「インタラクティブミュージックの効果」という一般化しすぎた問いには答えが無い、という事になる。
問うのだとしたら、より具体的に絞ったテーマが必要だ。
例えば、ある作品について、戦闘曲とフィールド曲を切り替えた場合、アレンジ違いにしてつなげた場合、切り替えなかった場合。音楽内容が似通っているか異なっているか(音楽的なコントラストが大きいか小さいか)。
結局は、技術的にIMかどうかに関わらず、表現として音楽のコントラストが大きいか小さいかはそれとはまた別なので、「曲による」し、その是非も「ゲームによる」となってしまうだろう、というのが私の考えだ。
「IMを使うかどうか」ではなく、「どこからどこまでを1曲で繋げるか」を問うべき
ゲーム音楽のデザインについて私から言える唯一のアドバイスはこれだ。
IMを知ったことで「ウチもIMを使いますか?」という事を考えたことがあるかもしれない、しかしそれはその時点で問いが間違っている(技術的にまずやってみて「できるようになる」ことは間違ってないが、それはそんなに大した事ではない)。
そうではなく、「どこからどこまでを1曲で繋げるか」という問いを設定するべきだ。


こちらもCEDEC+KYUSHU 2019での講演より
あまりに長く同じ曲が続くのも良くないし、あまりに細かく曲が変化するのも良くない。ゲームロジック的な意味での切り替わりと、ユーザーが体験するであろうシーンの切り替わりは必ずしも一致しない。時間的にちょうどよく、かつ、ユーザー体験に寄り添った形での「一連のシーン」が1曲になることが、音楽演出的な理想と考えられる。
ゲームロジック的な意味での1シーンに音楽を1つ割り当てるだけだと時間が細切れになりすぎたり、あるいは、同じ曲が続きすぎる場合に、IMを使うことで音楽をアレンジ違いでくっつけたり、展開の変化をつけて分割したりすることで、変化が多すぎず少なすぎないレベルを狙う、という地味な調整に生きるのがIMの役割じゃないだろうか。
このようにあくまで、問題解決の手段としてのIMと捉えることが大切だ。
インタラクティブミュージックとは「仕方なく使う」もの
IMの効果を説明するにあたって、おそらく最も比喩として正しいのは「薬」だと思う。
「薬」は確かに効果がある、しかし、どの種類の薬をどんな状態の人に使うかによって効果の方向性は全然違うし、問題ない人に使えば副作用によるデメリットだけを被る。
私はゲーム音楽の状態を診断して適切な演出の処方をすることに関してある程度の専門知識を有しているが、その専門家に対して「薬にはどんな効果があるんですか?」という大雑把な質問を投げられると、「ものによります」とか、「対象によります」と応えるしかない。
病気の人に薬を処方したほうが良いのと同様、音楽演出に違和感がある状態に対してIMを使うべきだと指摘することはできる。そして、とくにそのような違和感がないゲームでIMを使おうとする事は毒にもなる。
病気になっていたら、仕方ないので薬を使う。だが、これは消極的というわけではない。多くのゲームはそのままだと音楽演出にどうしようもない問題を抱えている。切り替わりが煩わしいとか、音楽の終わらせ方がないとか、そういう具体的な問題に対して、この薬は確実に効いてくれる。
偶然の音楽演出と、必然の音楽演出
前の記事「インタラクティブミュージックは気づかれないから意味がない、という神話」で論じたように、IMは気づかれなかったとしても意味がある。
そして今回論じたように、IMの効果は視点によってダイナミック化ともシームレス化とも言えてしまう中間的なものだ。そのため、IMの利用は必ずしも価値の上昇があるわけではなく、1曲による演出時間の調整と考えるのが妥当だ。
そして最後に、もしIMによる調整を何もしなくても、とくに問題がなかった場合。そして、言ってしまうと、「何もしてないのに音楽が偶然ぴったり合っていた場合」を考えてみると、いよいよIMの効果とは何なのか?という話になってくる。
そもそもプレイヤーは「遷移したのか」「元からそういう曲なのか」を判別可能なのか?
次のプレイ動画を見て欲しい。私はこれに遭遇して思わず、「ここも音楽合わせてるの!?」と驚愕した。
これマジで奇跡だったんだけど、闘う者たちのメロディの「ターラーラー」に完璧に合わせて連携技の2,3,4撃目が入ったから、思わず「こんな細かいところ合わせたの!?」って興奮したよね(※偶然でした)
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) August 29, 2025
FINAL FANTASY VII REBIRTHの序章、マテリアキーパー戦 pic.twitter.com/jpGWMplLA5
後からわかった事として、ここは別に合わせてなかった(他の動画と比べたらすぐにわかる)。これは単なる偶然だったわけだ。
ただ、このボス戦全体を通して言えば、2回の形態変化に合わせて次々と曲が展開し、さらに最後はトドメのカットシーンとほとんどズレなく曲を終わらせて撃破後のカットシーンまで1曲のまま繋げるという離れ業をしており、ゲームの音楽演出ここに極まれりといった出来栄えだ。
FINAL FANTASY VII REBIRTH 序章 マテリアキーパー戦 撃破時に横の遷移でアウトロに繋げる pic.twitter.com/tXlRYFIXcO
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) January 14, 2025
このように、曲が終わった場合はさすがにどこかで遷移したことが明白なのだが、曲の途中に起こる遷移については、「元からそういう曲で、たまたま展開が合ったのか」それとも「ユーザー操作を待ったうえで、ちゃんとそこで遷移したのか」は、専門家を名乗る私からしても、判別がつかない。というか、音楽というものが時間芸術である以上、原理的には複数回検証して変化が認められない限りは断定は不可能、と言って良い。
ではここで究極の問いを発する。
1つ目の動画が
「本当にそこで音楽を遷移させて意図的に合わせていた場合」
と、
「たまたま音楽とプレイが合わさった偶然の場合」
で、
プレイヤーの体験はどう違うのか。
……
違うわけないんですよ。
違うのは裏側だけで、(仮定として)出力はまったく同じなのだから。
たまたまだろうが、コントロールされてようが、「アクションと音楽がぴったり合うと気持ちが良い」「シーンと音楽が合っていると心地よい」それは紛れもない事実で、普通に音楽の時間軸上でそういう事がありえる以上、偶然かIMかというのは後の検証をしてからじゃないと見分けがつかない。その見分けは、決してその「瞬間の」感情や体験には影響しえない。
上の場合だと、私は後からそれが「偶然だった」と気がつくわけだけど、それで別に、悪い気はしない(自分の判別能力がまだまだだな、とは思うけど、それは制作者的・専門家的なプライドであって)。
一方で、仮にこれがコントロールされたIMだったのであれば、「こんな所合わせてくれてたのか!」という「ありがたみ」が発生する。前記事の結論「気づいた時に「ほんとだ!」と嬉しくなる演出を目指す」で述べた状態。ただこれも制作者に少し寄った見方であって、制作の苦労を垣間見ることによる嬉しさ、といえてしまう。でもその苦労って、そんな事してなくても、「偶然」起こるかもしれない。そしてそれは見分けがつかない。
IMに共通した効果があるとしたら、それは「ありがたみ」
なので究極的にIMの効果というものは、音楽とゲームがぴったりと合うという状態を偶然ではなく「確実」にする効果と、もう一つは、「そこまで工夫をしてくれていてありがたい」という、クリエイター視点での感謝ではないだろうか。
言ってしまえば、そういう事だと思う。IMが大好きだと思ってくれるのはありがたいが、それは、オタク的な、少し突っ込んだ作品受容の仕方だと思うし、そのまま歩を進めればクリエイター的な立場にも繋がっていくと思う。蛇足にならないよう簡潔にまとめるが、
IM自体に効果があると考えたりするのは、オタク的・クリエイター的な受容の仕方である
一般的な受容の仕方であれば、IMの効果は偶然のものや通常の切り替えとさほど違いはなく、あくまで調整手段の一つでしかない
一般的な受容の仕方が大多数ではあると思うが、それが「本来の」ものであるといった権威もとくにない(と私は考えている)
オタク的に「この演出がすごい」と思われることは、十分に作品価値に寄与すると思う
ただし、好きな作品に対する「ありがたみ」は、裏を返して嫌いな作品に対する「恨み」にも変化しうる(こんな事をするくらいなら、という意見に変わる)ので、普遍的な価値ではない
このあたりの事を意識しつつ、その音楽演出の価値がどこにあるのか?を切り分けてみると良いかもしれない。
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