小説&ピアノ「四季」③ Autumn
リセは私の右肩に、ある日唐突に現れた。
ふわふわで柔らかくて、賢くておもしろい、わたしのリセ。
小学二年生の、夏休み明けの最初の登校日。
わたしはたくさんの荷物を持って、学校への道を歩いていた。
宿題を詰め込んだランドセル、自由工作でつくった段ボールのお城、うわばき、水筒。
背中も腕も肩も首も荷物に覆われて、息苦しかった。
まとわりつく暑さと重さが、胸の中の重苦しさをさらに大きくした。
一歩ずつが苦しく、わたしの足は道の途中でついに止まってしまった。もう一歩も前に進める気がしなかった。
なすすべもなく、わたしは照りつける太陽を見上げる。
右肩から「暑いねえ」と声がしたのは、そのときだった。
驚いて顔を向けると、ふわふわとしたかたまりが右肩の上にあった。白と薄茶の混ざった柔らかな毛が、頬をくすぐる。
その小さな動物は太陽を見上げ、「うわ、眩しっ!そんで、暑っ!」と声を上げ、「もぉー、なんでこんなに暑いのに、夏休み終わりにしちゃうかなぁ」とぶつぶつ言った。
それはまさにそのときわたしが思っていたことだったので、わたしは思わず笑ってしまう。
そのとたん、胸にのしかかっていた重さがふっと消えた。
「ね、キョーカもそう思うよね?」
その動物はわたしのほうをちらりと見てそう言った。まるで今までずっとそこにいたかのような自然さで。
* * *
その動物は、リセと名乗った。
猫とリスの中間のような大きさと姿で、くるくるとよく動く黒い目はつやつやとしてとても可愛かった。
「長谷部杏花」というわたしの名前をリセは当たり前のように知っていて、いつも「キョーカ」とカタカナの発音でわたしを呼んだ。
初めてリセがわたしの前に現れたあの日。
リセの言葉に笑い、胸の重さが嘘みたいに楽になったあと、リセはわたしを見つめて「大丈夫だよ、一緒にいこう」と言った。まるで肩を抱くみたいに、わたしの左肩にしっぽをふさりと回しながら。
リセにそうして肩を抱いてもらうだけで自分の足に力が戻ってくるのが、不思議だった。
「もう歩けない」とあれほど思っていたのに、気がつくとわたしは校門の前に辿り着いていた。
校門では挨拶当番の子どもたちと先生たちが、「おはようございまーす!」と大きな声で挨拶をしていた。その声に、わたしの体はびくりと反応してしまう。
体も声もひときわ大きな先生(体育の先生だ)が「おはよう!」とわたしのほうを振り向いたとたん、リセはふっと消えた。
* * *
その次にリセが現れたのがいつだったのか、はっきり覚えていない。
でもリセはしばらくのあいだ、わたしがひとりきりでいるときにだけ現れた。
学校の登下校の時間、ひとりきりのお風呂場、ママとパパにおやすみなさいをしたあとのベッドの中。
こちらをじっと見ながら優雅にしっぽを揺らしていることもあれば、わたしなどいないかのように向こうを向いて毛繕いをしていることもあった。
リセとわたしは、たくさん遊んだ。わたしたちのお気に入りの遊びはかくれんぼで、リセはいつもすごく上手に隠れた。
リセは大声で笑ったり泣いたりすることはなかったけれど、嬉しい時にはしっぽと鼻が膨らんでひげがぴくぴくしたし、怒っている時には耳が真横に倒れて体全体がぴりぴりと膨らんだ。
* * *
「キョーカの好きなものは、なに?」と、リセはよく訊いた。
「好きなことは自分を強くするからね。自分が何を好きなのかを知っておくのは、とっても大切だよ」と言って。
お絵かき。
かくれんぼ。
雨をみること。
問われるたびに、わたしは答えた。
歌うこと。
眠ること。
一人でいること。
歳を重ねるにつれ、わたしの答えは少しずつ変わってゆく。
笑われないこと。
誰にも見られないこと。
小6の秋、いつもの問いにわたしがそんなふうに答えると、リセの顔が曇った。
「キョーカ、それは好きなことじゃないね。それはさ、嫌なことを避けるためのものだもん」と、リセは言った。
どう違うの?
わたしが訊くと、「ぜんぜん違うよ」とリセは言った。ふさふさとしたしっぽを小さく揺らしながら。
「笑われたくないのはどうして?誰にも見られたくないのは、どうして?」リセはわたしに訊く。
「だって、笑われると嫌な気持ちになるから。それに、誰かに見られると、笑われるんじゃないかと怖いから」
わたしが言うと、
「ほら。キョーカは今、嫌いなことについて話してる。ぼくが聞きたいのは、好きなことについて、だよ」とリセは言った。
わたしは混乱し、少し腹を立てる。
「どういうこと?どう違うの?リセの言ってること、ぜんぜんわかんない」
「キョーカは、笑われたくないと思うんだよね?」
わたしの腹立ちなどまるで気にかけず、ふさり、と優雅にしっぽを一振りしてからリセは続ける。
「それは、誰かに馬鹿にされると嫌な気持ちになるからだよね。つまりキョーカは、大切に扱われたいと願っているんだ。キョーカは、『人から大切に扱われること』が好きなんだ。
それにキョーカは、誰にも見られたくないとも思うんだよね?それは、見られればまた笑われるんじゃないかと不安になるからだ。つまりキョーカは、『不安になること』が嫌いで、『安心を感じること』が好きなんだ。
だから、好きなことはなに?ってぼくに訊かれたら、『笑われないこと』じゃなくて『大切にされたい』って言わなくちゃ。『誰にも見られないこと』じゃなくて『安心を感じること』って言わなくちゃ」
リセは、賢そうな黒い目でじっとわたしを見つめながら、そう言った。
わたしは、リセの言ったことについて考えてみる。
「それって、そんなに違うことなの?」
「ぜんぜん違う。ぜんぜん、違うよ」
リセは、言葉がわたしの頭に沁みこむのを待つみたいに、一言一言、ゆっくりと言う。
わたしは考え込んでしまう。リセの言っていることを理解したいけれど、やっぱりよくわからなかったから。
「ね、ちょっとさ、『安心していたい』って言いながら、安心しているときの気持ちを感じてみて」と、リセは明るい調子で言う。
「言うっていっても、別に声に出さなくてもいいんだ。心の中で言えばいいからさ。大切なのは、その気持ちを感じてみることだから」
「なにそれ」
わたしが言うとリセは、「いいから、やってみて」と、思いがけず真剣な目をして言った。
わたしは、やってみることにした。
なんの意味があるのかはよくわからなかったけれど、リセをがっかりさせたくなかったから。
目を閉じて、深呼吸をひとつする。
それから、「安心していたい」と呟いてみる。リセにちゃんと聞こえるように。
「安心しているときのことを、なにかひとつ、思いだしてみて」と、隣でリセがそっとささやく。
わたしはリセに言われた通り、安心しているときのことを思いだそうとしてみる。
すぐに思い浮かんだのは、お布団のなかでリセの寝息を聞いているときのこと。
リセの柔らかくてあたたかいおなかが上下して、ぷすー、ぷすー、という小さい寝息が聞こえるその時間が、わたしは大好きだった。
その時間を思い出した瞬間、ふわっと肩と背中の力が抜け、頬が緩んだ。
「上手、上手」
リセの声がして、わたしは目を開ける。
「いま、どんな気分?」とリセが訊く。
「…ほっとして、いい気持ち。おなかが、ほわーっと柔らかくなった」
わたしが答えると リセは嬉しそうに言う。
「ほら、それが好きなものの力だよ。それが、キョーカを守って強くしてくれるものなんだ。『笑われないことが好き』って言ったときとは、体の感覚がぜんぜん違うでしょ」
わたしはびっくりする。
ほんとだ、ぜんぜん違う。
「笑われたくない」と思うときには体がぎゅっと縮こまる感じがしたのに、「安心していたい」と思うときには体が緩んだ。
にこにこしながら、リセは続ける。
「キョーカは、不安でいることが嫌いで、安心していることが好きなんだよね。それはすごく当然で、素敵なことだ。
それでね、ここがみんな間違えちゃうところなんだけど、『不安でいたくない』というのと『安心していたい』というのは、似ているように見えて実はぜんぜん違うことなんだ。コインの裏表みたいにね。
そしてその違いはね、キョーカの体がちゃんと知ってるんだよ。
なにか嫌いなことを見つけたら、その裏側には必ず、好きなものがあるんだ。
だから、嫌なことに出会ったときは、その裏側にある『好きなもの』を探してごらん。それを見つける癖をつけるんだ。そしてそれを見つけたら、その好きなものの感じを味わってみるんだ、今やったみたいに。
それが上手にできるようになればね、キョーカ、きみはどんなときでも気持ちよくいられる。周りで何が起ころうと、すぐにいい気分に戻れるようになる。
それってつまり、『最強』ってことだと思わない?」
リセの言葉が染み込むにつれ、わたしはすっかり感心してしまう。
ほんとうにその通りだ、と思う。
「すごい、すごいよリセ。リセってなんて賢いの!」
「あたりまえじゃん、なにさ、今ごろ気づいたの?」
平然とした顔で言うリセの、鼻としっぽがみるみる膨らんでいくのを見て、わたしはつい笑ってしまう。だってそれは、嬉しい時のリセの癖だったから。
「キョーカを守って強くしてくれるのは嫌いなものじゃなく、好きなものなんだよ。だからさっきやったことを、たくさん練習するといいよ。練習すればするほど、上手くなるからさ」
リセがそう言うので、わたしは俄然練習したくなる。
だってわたしは、最強になりたいから。
「練習すればキョーカはきっと、それがもっともっと上手になる。反射的にできるようになる。そうしたら、うんと強くなれるよ」
リセの言葉にわたしはすっかり嬉しくなって、「ピアノみたいに?」と訊いてみる。ピアノは、練習すればするだけちゃんと上手になることを、わたしは知っていたから。
「うん、ピアノみたいに。毎日少しずつ練習すれば、少しずつ、でも絶対に上手くなる。ぼくが約束するよ」
と、リセは請け合ってくれた。
* * *
わたしはそれが、少しずつ上手くなった。
それをするのが一番難しい場所は教室だったけれど、でも、それが一番必要な場所もまた、教室だった。
嫌いなものにたくさん出会う教室は、その反対側にある「好きなもの」をたくさん見つけて、自分をうんと強くする必要のある場所だった。
心の中は自由だ。
誰かがわたしを笑うとき、わたしは心の中で、「わたしを笑わない人」のことをいくらでも自由に思い浮かべることができた。
ママ、パパ、リセ。
それから、ナオちゃん(わたしを一度も笑わなかったクラスメイト)、礼(勉強も運動もできて、やっぱりわたしを笑わない稀有なクラスメイト)、音楽の加藤先生(放課後に音楽室のピアノを弾くことを、こっそり許してくれた)。
教室で、誰かがわたしを見てくすくすと笑うとき、リセはわたしの右肩にふわりと現れて「ほら、練習するチャンスだよ」とささやく。
「馬鹿にされて嫌だなと思ったときは、その裏側にある『大切にされたい』を見つけてみて」
わたしは目を閉じて深呼吸をし、「大切にされるのが好き」と心の中で言ってみる。
それから、「大切にされた」と感じた時のことを、思いだす。
浮かんできたのは、ママがわたしのことをぎゅうっと抱きしめてくれたときのこと。
そうだ、あのときはパパもやってきて、「こんなところに宝物がふたつもある」と言いながらママごとわたしを抱きしめたんだった。
パパがあんまりぎゅうぎゅう抱きしめるので、わたしとママは声を上げて笑ってしまった。
思い出すとみぞおちのあたりがじんわりあたたかくくすぐったくなって、鼻の奥がつんとした。
リセの言うとおり、好きなものはわたしをちゃんと強くした。
教室で、わたしは一人で立っていられた。
* * *
わたしは、本を読むことも好きだった。
本の中にはひとつひとつ別の世界が広がっていて、いつでも好きなときにわたしはそこに行くことができた。
いろんな人のいろんな物語を知ることはわくわくしたし、自分が人と違っていてもいいんだと知ることは、とても安らかなことだった。
リセが、わたしの想像の中にしかいない「イマジナリーフレンド」という存在なのだということは、小学校の図書室で知った。
イマジナリーフレンドは、わたしが成長するにつれていつかふといなくなってしまうかもしれないのだということも。
* * *
大好きな本がある。
小学校5年生の時に、叔母さんがくれた本だ。
叔母さんはママの妹で、だんなさんも子どももいない。
いつも紺やグレーの柔らかなワンピースを着ていて、そばに行くと、いつも同じいい香りがした。
わたしがそう言うと、叔母さんはポーチから小さなロールオンボトルを出して、「ハーブの香りなの」と言ってわたしの手首の内側にそっとつけてくれた。草原にいるような甘い香りのするそれは落ち着くのに広やかな気持ちになって、わたしは手首をそっと鼻に近づけては、何度も何度もその香りを嗅いだ。
『星の降る街』というタイトルのその本は、叔母さんからのクリスマスプレゼントだった。新品ではなく古い本で、雨ふりの部屋の中みたいな匂いがした。
「私も叔父からもらったのよ、子どもの頃に」と叔母さんは言った。
「大好きで、何度も何度も読んだ本。私の宝物。でももう物語はすっかり丸ごと私の中にあるから、杏花にあげる。もらってくれたら嬉しいわ」と。
寒い国のお話だった。寒い国の、静かなお話。
リセと一緒に、何度も読んだ。
少し持ち重りのするその本を、わたしはよく持ち歩いた。ランドセルやリュックや、ピアノのレッスンバッグに入れて。
持って行った先(教室や、ピアノのレッスンを待つお部屋)で開くこともあれば開かないこともあったけれど、大切なのは「すぐそばにその本がある」ということだった。いつでも手の届く場所に、あの雪国とそこに住む人々がいるということ。
その本に触れると、わたしはいつでも安らかな気持ちになることができた。
叔母さんの宝物は、わたしのお守りになった。
* * *
わたしはきっと、人一倍臆病な子どもだったのだろう。
子どもの頃は自分のことをそんなふうに思ったことはなかったけれど(自分は人一倍勇敢な子どもなのだと思っていた。こんなに騒がしい世界に今日も足を踏みだすわたしはなんて勇敢なんだろう、と。)、「大人」と呼ばれる年齢になったいまは、そう感じる。
わたしは臆病な子どもで、外に踏みだすためにたくさんのお守りを必要としたのだ。
ママやパパの笑い声、叔母さんがくれた本、それからリセ。
リセは、いまはもういない。
ふわふわで柔らかくて、賢くておもしろい、わたしのリセ。
でも、リセがくれたたくさんのものはわたしの中に残っている。
不安な夜に笑わせてくれた、声の響き。
震えてしまう朝に背中をそっと支えてくれた、柔らかなしっぽの感触。
好きなものを大切にする、そのやり方。
叔母さんのくれた本を持ち歩くことも、ほとんどなくなった。
本棚に収まったそれはでも、今でも部屋の中でわたしを見守っている。
その本の前を通るとき、ふと、リセがこちらを見ているような気がすることがある。
そんなときはいつも、「大きくなったねキョーカ」と、嬉しそうなリセの声が聞こえたような気がするのだ。
ピアノ曲「Autumn - 私の人生 - 」
前話「Summer」 / 全話一覧 / 次話「Winter」
この作品は、連作短編小説「四季」の物語のひとつです。
全話は、こちらをどうぞ▽
【小説担当:さち】
お読みいただきありがとうございました。
本を読むことと、ものを書くことが好きです。
ここnoteでは、小説やエッセイのほか、読んだ本の感想などを書いています。
たくさんの優れた物語に、生きることを助けてもらってきました。
文章や音楽にはそういう力が備わっていると信じています。
そういうものを、みなさんと一緒に共有できますように。
【ピアノ担当:Jaga(じゃが)】
お聴きくださりありがとうございました。
幼少期から習ったクラッシックピアノをベースに曲作りをしています。いくつかピアノコンクールで賞をいただいたりしながら、5年ほどギター片手にストリートミュージシャンをしていたこともあります。絵を描くことも好きです。音楽と絵と文章との間を自由に飛び回りながら、みなさんとやさしい世界を作っていきたいなと思ってます。
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