IKKOやマツコ・デラックスみたいな人が、会議の空気を救う
会議が重くなる理由は、資料でも上司でもない。
けれども、会議の空気が、急に重くなる瞬間がある。
誰かが間違ったことを言ったわけでもないのに。
むしろ、正論ばかりが並んでいる。
資料も整っているし、議論も筋は通っている。
それなのに、議論が進まなくなり、
沈滞ムードになってしまう。
あのどうしようもない空気を、
どうにかできる人が確かにいる。
テレビを見ていて、そのことを思い出した。
IKKOやマツコ・デラックスが画面に映ると、
それまで張りつめていた空気が、
ふっと緩む瞬間がある。
場が和むというか、
半面ピリッとするというか、
正解を提示するわけでもない。
ただ、「このままでいいんだよね。」みたいな、
場に明らかな変化が生まれる。
テレビは、そういう人を
はっきりと必要としている。
考えてみれば、テレビという場所は、
とても空気に弱い。
不特定多数が見ていて、
沈黙や緊張がそのまま伝わる。
間が死ねば、番組も死ぬ。
だからこそテレビは、空気を一瞬で読み取り、
場を壊さずに変えられる人を手放さない。
テレビでは、
そんな「オネエ系」タレントが
ポジティブに受け入れられる一方、
学校の教室のような閉じた空間では、
同じような力が、
まったく違う意味を持つことがある。
メンバーは固定され、逃げ場は少ない。
オネエ系にかかわらず、異質な空気を放つことが、
クラスの中では浮いてしまい、
その多くがネガティブにとられがちな気がする。
「変わっている」ことが
ただのパーソナリティであるにもかかわらず、
空気が読めない人という
レッテルが貼られることに
結びついていないだろうか。
空気は、感情より先に伝染する。
誰かが笑われる。
誰かが黙る。
誰かが場から引いていく。
その積み重ねが、
「教室やクラスの中では違ってはいけない」という空気をつくる。
いじめは、特別な悪意から
始まるものもあるだろうが、
このような空気の連鎖から
生まれるものもあるはずだ。
多数派になびく同調圧力には、
ある種の安心感が伴う。
自分は、あの人と違って
変なヤツというレッテルを張られていない。
みんなの仲間だ、ということが、
拙い連帯感を生んでしまう。
ただ、最近になって、
少しずつ空気は変わってきたように感じる。
学校に行きたくなければ、
無理に行かなくていい。
不登校は、失敗ではない。
一人ひとりが違う。
「みんな違って、みんないい」。
それは正論というより、
これまで見過ごされてきた感覚を、
ようやく言葉にし始めた結果なのだと思う。
そして、LGBTQ+という言葉も、
誰かを分けるためのものではなく、
これまで黙っていた存在に、
ようやく光が当たっただけなのだと思う。
テレビが必要としてきた力と、
社会の中で排除されてきた力が、
実は同じものだったとしたら。
そのことを、
もう少しだけ、
考えてみてもいい気がしている。
あなたがこれまでに出会った
「場の空気を変えた人」は、
どんな人だっただろう。
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