照射|わたしは黒猫である3 feat. YOASOBI|あわいの掌編集8
わたしは黒猫である。クロと云ふ娘猫である。ある日、虚空に漂うケサランパサランと戯れたる最中、わたしは置物の鴨を壊してしまった。おし鳥の子を象った、主人のお気に入りの陶器である。これを主人に隠し通さなければならない。何故なら、完璧で嘘つきなわたしは天才的なにゃんどる様だからだ。
そう思ふた刹那、ドタバタと廊下を走る音がした。あの牡蠣のやうに性懲りも無く書斎にへばり付き、相変わらず文体模写なる奇怪な遊戯に耽って居た主人が、その刻ばかりは超人的な早さで部屋から抜け出し、その割れたおしの子を拾い上げた。
「……怪我はないか」
それだけ云ふと、主人はもはやひとことも発しなかった。されど、その瞳はゆらゆらと揺れてゐた。その揺らぎに、わたしは主人からこれまで感じたことのない感情を捉えてゐた。それは、これまで余所で浴びた怒号より、はるかに恐ろくはるかに痛々しいものであった。そして、わたしのひげも小さく揺れた。
わたしは娘猫なれど、あの沈む感情を前にしては、午睡の天命すら忘れるのだ。
「……これはな、ある人が遺したものだ。今は遠いところにいてな」
主人は、何事もなかったかのやうにその日の残りを過ごし、茶碗をひとつ割り、アポをひとつすっぽかし、方々に詫びの電話を入れつつ、文鎮のやうな鼠をひとつ壊し、空想の時間をいつもよりはるかに長く取り、先ほど寝室に入った。
書斎はすでに明かりが落ちて、満月の白い光だけが窓辺の薄布越しに漏れている。窓の隙間より吹き込む風が、そっと窓辺の薄布を揺らし、わたしの敏感なひげを撫でた。そのたび、胸の奥で何かが形を変へていくのを感じた。
祖母猫様がその生前、悪戯をしたわたしの目をぢっと見つめて曰く「娘猫たるもの己の罪に向かい合はねばならぬ」と。わたしは、完璧なにゃんどるである。されば、主人の沈黙に向き合はねばならぬ。
黒猫とは月夜の晩に旅立つ存在である。あの人のその人に会うために。主人の心の欠片を拾ひ集めるために。わたしは、遠いところ行かねばならぬ。されど、これは敗退の家出にはあらず。わたしの誇り高き自由意志である。
ただ、主人が心配などせぬよう、風呂場には存分なひっかき傷を残してきた。そして、わたしのやうな完璧な娘猫が、裏返へしに映り込む奇怪な硝子には、存分に尻をこすりつけてきた。定めし、これで主人はわたし不在の寂しさを紛らわせられるに違ひない。
bath room に scent sacs の伝言。そう、匂いは、わたしのとびきりの愛だ。
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