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硝子の靴異譚05|我が国の得しもの

その日、王国の空はこれ以上ないほどに澄み渡り、国内は大いに湧いておった。今日は、国家の祝祭である。

余も、久しく覚えなかった心の高揚に浮き足だっておる、もともと浮いておるがな。
さて、メタ語りの時間である。この日ばかりは、老妻めも目こぼししてくれるであろう。巷間にては、余を些かも信頼できない語り手など申しておるそうじゃな。だが笑止。余ほど中立で誠実な語り手などいようものか。

と、先ほどから周りが俄に騒がしい。余と同じような年格好のイケオジが大勢たむろしておる。見れば、先々代王に、先々々代王、先々々々代王、先々々々々……まで、みなおわす。

「息子よ、久しぶりであるな。今日こそは余が語るぞ。よいな」
「孫よ、久しいな。今日こそは余が語るぞ。よいな」
「曾孫よ、久方ぶりであるな。今日こそは……」
「そちは新入りか?余こそは……」
「……」

(中略)

どうやら余の一族には、子孫を俯瞰できる特殊能力が備わっているらしい。そして、死してなお多声のメタ語りを、些かは好んでおるらしい。

わたくしはその頃、拝謁の間に至る廊下の片隅で、頭を垂れながら王女様の到着をお待ち申しておりました。ぺた、ぺた、ぺた、と、あの特徴的で軽い足音が、こちらに近づいて参ります。

「宰相くん、その節は世話になりましたな。息災か」

やがて到着された王女様の声は、あの日と同じように凜とした張りがあり、さらに王家の自負と若々しさに満ちておりました。しかし、その声を耳朶に認めた刹那、わたくしの胸の奥で、あの日の魂の座屈の痛みがかすかに軋みました。

「畏まらなくてもよい。そなたとは『さやけき魂の交歓』までした仲ではないか」

わたくしの魂は悲鳴を上げました。もちろん、望外の歓喜の雄叫びです。

──さやけき魂の交歓。その特異な引用は、あの三曲目の二番、しかもCメロの引きにございます。わたくしは思わず顔を上げ、王女様のお顔をまじまじと見つめてしまいました。王家に仕える身としては許されぬ無礼。けれど王女様は、王家の威厳を湛えながらも、わたくしの心をそっと包み込むように、やわらかく微笑んでおられました。

「これからも、片腕として、そなたの『水晶の如き魂』を貸してくれぬか。そして共に語ろうぞ」

そして黒猫がそっと尻尾を揺らすような所作で、わたくしに一礼なさいました。その一言が、わたくしのひび割れた魂を優しい液体で満たし、静かに縫合していきました。

「はっ。身命を賭してお仕え申しあげます」

そう絞り出した途端、わたくしはふいに力を失い、その場に崩れ落ちておりました。

その宰相くんの崩落を、宮中の若き女性がしなやかな両腕で支えた。
ミ・キノと申したか。有能なる王付主席薬師にして、その類い希な観察の才ゆえ、若くして王宮記録院の総監職までも兼ねておる。
そのしなやかで、くるくるとよく動くオブシディアンの視線は、まるで黒猫のようで──おい、この宮廷は猫めいた者だらけではないか。もはや、神の性癖の歪みと申すべきか。

「……宰相くん殿」

幼馴染みの低く、澄んだ声。黒曜石のような瞳が、わたくしの沈黙の温度を測るように覗き込んでいました。ミ・キノ総監──黒猫のような観察者。その漆黒の眼差しに触れた瞬間、わたくしは悟りました。ああ、この方は、わたくしの魂の奥底を凝視しています。それは、羞恥の極致であり、また両手でやわらかく包まれるような、安らぎでありました。

天井の高い荘厳な王宮には、国民が溢れていた。今日の主役の若きふたりが、特別に望んだことである。慶事特有の静かなざわめき。晴れ晴れしい表情。それが、昂揚となって石造りの天井に吸い込まれていく。

扉が重々しい音を立てて開く。

ひっ。──その瞬間、居合わせた群衆は、一斉に息を呑んだ。静寂。

ミナヴェリア・マリノール王女は、碧玉をあしらったティアラと純白のドレスに身を包み、玉座の間へとしずしずと進み出た。長いドレスの裾は、光を跳ね返して「美しい波」の如くたおやかに揺れておる。その揺らぎは、まるで碧き海原に漂う美しき白波の記憶のようであった。玉座の間には、白き大理石の床に、針一本落ちるも聞こえようという張りに満ちていた。

──だからこそ響く。変わらず、ぺた、ぺた、ぺた、と安定の足音。その足元には、定めしスリッパが装着されているのであろう。こんな日ぐらい、ガラスの靴でもよいと思うが……もう細かなことは云うまい。それがこの娘の歩調なのである。余はツッコミ疲れであるぞ。

彼女の向かう先には、紅玉をあしらった王冠と赤い正装を纏った我が国の第一王子、ケイザリオン・ダイアンサス王子が凜々しく立っておる。

場が鎮まった頃合いを見計らい、当代宰相が、ひときわ重々しい声で告げる。その声は、千年の宰相家が王国の礎を支えてきた重みを、そのまま響かせるようなものであった。

「我がダイアンサス王国の第一王子、ケイザリオン・ダイアンサス王子は、このたび、隣国マリノール王国第一王女、ミナヴェリア・マリノール王女との婚約を整えられたので、ここに公表する。この婚約は、両国の幾久しい友好と、ますますの発展を約束するものである」

王宮を埋め尽くした国民は、揃って祝いの言葉を口にし、石造りの堅牢な建物をびりびりと震わせた。まずは、声にならない咆哮。それが、やがて「おめでとうございます」という一点に集中する。本日は、我が王国に新たな歴史が刻まれる一日である。

場の末席に控えた宰相くんは、さめざめと涙を流していた。そこに去来するのは、王子様の苦悩を支えた日々か、王女様との魂の交歓か。あるいは、すべて同じ方を向いて結実したという事実か。

つっかけをこよなく愛するこの娘が、やがて王妃となる国ならば──国家の舵取りはむしろ安泰に違いない。いや、たぶん目が離せなくなるほど心配でもあるがな。余の心労は未だ尽きぬ。
そのためには、宰相一族にも、これからますます働いてもらわねばならぬ。

両名は、瀟洒なエンゲージリングを高々と掲げ、王宮記録院の写真撮影に朗らかに応えておる。要するに、金屏風前の記者会見など思い浮かべてもらえればよい。いや、インスタ映えかよ。

ミ・キノ王宮記録院総監が、軽いコーツィの後、国民を代表して、その低く、よく通る声でふたりに尋ねる。

「ミナヴェリア王女、よろしければおふたりの馴れ初めをお聞かせ願えますか?」

王女様は、横のケイザリオン王子をちらりと見やると、はにかみながら口火を切った。うむ、このような折にまこと遺憾であるが、いやな予感がする。否、もはやいやな予感しかしない。姫よ、姫よ姫よ姫よ、為らぬ。それだけは、断じて為らぬ。
(だが、止めても無駄じゃ……わかっておるとも)

「それは、……つっかけがきっかけでしたわ」
(やはり言ったわ)

にっこり。姫は、天性の笑みで、ほんとうに嬉しそうに微笑んだ。ケイザリオン王子は、初恋が露呈した若者のように、それでも王族の誇りをもって頷いた。そこには、かつて人一倍に奥手であった青年の姿は、もはやなかったが、その頬には、深夜のファミレスの湿度がほんのり差していた。

どうしようもなく野暮な語呂合わせである。そして、それがあまりに王女様らしいから困る。つっかけがきっかけ──王宮を埋め尽くした国民の間に、ふっと静寂が落ちた。そして、次の刹那、石造りの広間が、春の日差しのように温かな空気に包まれた。どこからともなく、誰からともなく、笑みが漏れ、大きな波のうねりとなって広がっていく。そのざわめきは、やがて感嘆に変わり、感嘆は大きな拍手となって大広間を振るわせた。

国民は悟った。この娘こそ、王子様の頬に湿度を灯し、宰相家を巻き込み、そして、余の心労を増やす張本人。この娘こそ、我が国を包む潮目であると。だが、それゆえにこそ──若き主君の幾久しい幸せを、心から言祝いだのである。

次期王妃となることが整った我が義孫娘には、どうやら魅了の特殊能力があるらしいな。慣習に囚われぬ自由な発想、世の心を一瞬にして掴み、決して放さぬ胆力。どのような場にあっても揺るがぬ生活力。そして、即座に場に溶ける天賦の才。

何でもありのこの世界だが、魔法などと云う曖昧で、便利で、質量がなく、温度が感じられない「魔法」は存在しない。舞踏会は合コン会場、詠唱するは呪文ではなく推し歌、移動はパスモ、硝子のマジックアイテムはつっかけである。
ゆえに、姫のそれは魔法の類いではなく、触れる者すべてを発火させる触媒そのものだった。

ああ、これこそ皆が「わけへだてなく笑い合う」光景である。

ああ、これこそが我が国の得難き至宝である。

そして、我が孫よ、まことによい伴侶を得たな。余も、もう思い残すことはない。
美とは、張りと緩みのあわいに宿るものよ。余はそれを、若きあやつの横顔から教わった。
誰ぞ、疾く『英雄の生涯』を掛けぬか。終曲からでよい。

──余は、満ち足りた気持ちで静かに妻の手を取った。温かい日差しが余を包m──。

「もうずいぶん前に逝っているでしょうに、あなた」

隣の老妻がすかさず刺してきた。いやここ、全読者が泣く面であるぞ。自重せい。

そして、ミ・キノよ──そなたの慧眼は、まこと見事であった。
もはや、未来を映す黒曜石よ。この刹那に、その漆黒で、我が国の未来の襞までも読み取っておったのであろう。馴れ初めを問うたのも、よもや偶然ではあるまい。ゆえに、あの野暮の極致すら、民の心を束ねるチャームとなり得た。あの問いがなければ、この場はただの儀式で終わっておったであろう。恐ろしき娘よ。

のんびり湯治でもせむと思っておったが……どうやら、まだ先のことになりそうだな、ばあさんよ。

「──あなた」

概ねは、名実ともに揃った名調子であったのに、先代王妃が最後に割り込んできた。何だい、ばあさん。これ以上は蛇足というものだぞ。

「宰相くんと総監ちゃんの王宮浪漫を予見しておかなくちゃ」

おいおい、それはトップシークレットだと云うに。なぜそのような国家機密を、こんな公衆の面前でさらりと口にするのだ。いや、わかっておる。わかっておるのだが──。

隣国家系の王妃あってこそ、わが王家の血統はより栄えるのである。
そして、宰相家と薬師家あってこその、我が王国である。

我が妻よ、そなたの勘は昔から外れたためしがない。
まこと、死してなお余の引退は遠のくばかりである。……いや、結局残るのか、余。

ならば、このうえは今宵、お風呂浪漫でも買って帰るとしよう。

おしまい。

(第一部完)

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