硝子の靴異譚06|総監ちゃんの黒曜日|シロクマ文芸部《水を飲む》
水を飲む。
黒い切子硝子の300ccコップで、毎朝きっちり一杯と──約三分の一。
王都の郊外、宮廷最奥部の薬局兼記録院。中庭の木々が柔らかな陰影を落とす部屋で、ミ・キノ総監ちゃんは、今日も変わらず朝のルーチンをこなしていた。
ねえ、はじめから400ccのコップにすればいいじゃない、と何度思ったことか。きっとダメなんだろうな。なぜならそれが、総監ちゃんだから。
朝いちばんの彼女は、まだ目元の焦点が合っていなくて、跳ねた毛束が角みたいにぴょこんと立っている。
しなやかな子猫のような伸び。宮廷の誰も知らない“ただの女の子”の顔。
総監職の姿からは想像もつかないほど、ぽんこつ可愛い。
ここまではいいとして──ああ、今日も出たわ。第3大臼歯まで丸見えの大欠伸。ほんとうにやめてほしいのだけれど、これがまた可愛いから困るのよね。
でも、わたしは知っている。指先でころりと転がされた切子に差し込んだ光が、黒曜の瞳に吸い込まれていく瞬間を。その瞳が光を飲み込んで、ようやく焦点を結ぶ。
これこそ、国家の最重要機密。女子会の守秘義務案件よ。
続いて放たれる一閃の眼光で、老獪な語り手(うちの義祖父上ね)は、女の園から物語の外へと追放されたわ。ミ・キノ、恐ろしい娘。
でも、このままではお話がぜんぜん進まないじゃない。
だから、今日の語り手は、わたし。
◇
おほん。わらわの生家は、天衝く嶮峻の峰々と、万象を潤す豊穣の大河に四囲を固められし王国にて、往古より幾多の隣邦に境を接し、風土と血脈の層理を幾重にも積み重ねし由緒正しき地である。その地に育まれしわらわ、ミナヴェリア・マリノール第一王女は、こたび、当王国第一王子ケイザリオン・ダイアンサス殿下の御許へ正式に参じ、天意の下において、ダイアンサス王家の系譜に連なることと相成ったのである。
──うっわー、重っ。ほんと無理。読む気ゼロ。冒頭離脱決定ね。わたしは、つっかけがきっかけでお嫁に来たのよ。夫婦仲は極めて良好。そして、ミ・キノ、何だっけ、王付の主席薬師で、王宮なんちゃらのえらい人?……まあいいわ。ミ・キちゃんは、はじめてできた気の置けない友人。年も近いの。
彼女は王族の主席主治医でぇ、王宮の歴史を司る記録院の総監。ふだんは、わたしや旦那の健康管理から日常の些細な癖、それから──たまには旦那への愚痴まで、全部つぶさに記録して書き留めているんだけれど、たまには逆張りもいいじゃない。
だ・か・ら、今日はわたしがぁ──こっそりミ・キちゃんの日常を覗いちゃいます。
幼い頃から王族子女として堅っ苦しい教育を受けてきたわたしは、何なら今でもナナメ45°あたりに常駐する先代王妃のおばあちゃんから、はしたないってしょっちゅう窘められるんだけど──でも、素を見せない友人のプライベートを覗くのって、なんだかどきどきしない?
……うわっ、そこでおばあちゃんがサムズアップしてる。
でも、このミッションってけっこう難しいのよ。ミ・キちゃんからは、いつもわたしの歩き方はぺたぺたうるさいって怒られる。でも、わたしの機能性履き物はスリッパなんだから、仕方ないじゃない。一方の彼女は、地下足袋こそ最強、と言って決して譲らないわ。隠匿性が抜群なんだそうよ。解釈の違いね。
推しぴの断層とは、決して埋まらないが定理。
彼女の日課は、宰相府に日参して、その日の帝国史記を記録すること。それにしても、総監が自ら職務にあたるなんて、記録院のお仕事も大変ね。だってこの国の史記は、ちょっと油断すると語りが過ぎる国王家のメタ話になってしまうから、中立な記載が大変なの、と言っていたわ。ほんと、大儀であるわ。
だけど、よーく見ていると、ミ・キちゃんの黒曜の瞳がくるくる光って、宰相くんの動線だけを正確に追尾してるのよ。わたしから言わせてもらうと、単純接触を増やそうとしてる、恋する乙女にしか見えないの。しかも、その宰相くんったら、わたしの恋路には過干渉してきたくせに、自分のことになるとほんとうに鈍ちんなんだから。……この国の男たちってば、なんでこう、みんななよなよしいのよ。ねえあなた?
その宰相くんとは、あるグループの同担なんだけれど、宰相府で推し語りの最中、ミ・キちゃんの鋭い視線が刺さるのよ。炎色反応があからさまでぽんこつ可愛いのだけど、ふたりともこれでなぜ気づかないのかしら。──でも、戦友との魂の交歓ぐらいは、大目に見て欲しいものだわ。推し語りは恋愛よりも、よほど尊いものよ。
彼女の観察方法はとても独特なの。記載相手の瞳の奥底を凝視しながら、その色の揺らぎを読み取る──って言っていたっけ。自分の瞳の揺らぎは、観測できないのが欠点ね。もし被験者の胆力が小さければ、漆黒の眼差しに射竦められるだけで、震え上がってしまうほどよ。
「で、何が分かるわけ?」
初めてのパジャマパーティでそう尋ねたら、ミ・キちゃんはこう答えたわ。
「例えば、宰相くん殿の瞳の奥底は、生来、無色透明の色をしています。はじめはそこに炎を湛えておりましたが、ひととき凪いだ海の水のような碧を宿したことがありました。透明とは、色が無いのではなく、外界のいかなる色を拒まないということです。色を拒まぬ魂は、もっとも美しく、同時にもっとも危うい。ならば、そこを黒の輝きで満たしたいと思っております」と。
──ぴやっ。わたし色に染めたいって♡♡♡
もう、核心のヒアリングね。すごいぞわたし。
午後からは色々な執務が本格的になるから、宰相府と記録院は基本的に別行動。でも、最近のミ・キちゃんは、宰相府専属の記録者にでもなったのかしら。宰相くんの執務の邪魔をしないように、風景に溶け込んで、付かず離れず隠匿行動をしているわね。これぞ、黒猫性の本領発揮。その時にいちばん役に立つのが、地下足袋なのね。
記録院の職務に、宰相執務の記録があるのは分かる。でもね、ミ・キちゃん、宰相くんは現宰相の子息だけど、今はまだ無官の身。彼へのストーカー、いえ観察行為は、あなたの職務に含まれてないのよ。通り名で紛らわせても、ぜんぜん誤魔化せてないのよ。それともうひとつ、わたしは夫のある身よ。あなたよりちょっとばかり恋愛経験が豊富なの。あなたは気付いてないでしょうけど、その行動そのものが、すでに面倒くさい彼女ムーブ以外の何ものでもないのよ。
いいのよ、そんなぽんこつなあなたも、友人としては大好きよ。でも、次期王妃としては、配下の者の公私の混同にはきついお仕置きが必要ね。今度、王子様と謀って、いえ、おねだりして、宰相くんと領内視察にお出かけしてもらおうかしら。国家財政が厳しい折なので、節約してお部屋はひとつね。これは、国王陛下と宰相さん殿に根回ししちゃう。さらに今だけ特別、記録院総監の記録院士として、わたしがSS(シークレットサービス)でついていっちゃう。
それこそ究極の公私混同ではないのかって?──出たわね、おばあちゃん。いいのよ、これはわたしの特権。そして歴史的必然よ。
夕刻以降は、一日のできごとを史記に記載する時間。漆黒の闇は、ミ・キノ総監の「黒」が最も冴える時間。いつもは自動記載みたいに、すごいスピードで一次記録を記述していくだけのお役目なんだけど、このところぽーっと空想に耽る時間が多くて、夜更かしも多いわね。誤記もね、0.01パーセントだけ増えてるの。
記録院は裁量労働制だから、わたしも細かいことは言わないけれど、その耽っている顔は、ほんっとうにだらしないから、他の人には見せないでね。ほら、そのよだれを拭きなさい。同性としても、上司としても、友人としても、SSとしても、ちょーっと看過できないかなぁ。特に宰相くんが見たら、いろいろと台無しになるわよ。
黒が光を吸収して、密やかな熱を帯びている。分かりみ。わたしも推しのことを考える時、そんな感じになっちゃうから。──え、旦那?そんなの蚊帳の外に決まっているじゃない。そんな時、宰相くんとメッセージアプリでやり取りしていると、ハッキングが頻繁に発生するのはどうしてかしらね。王国の最高セキュリティを掻い潜る、さぞ手練れなハッカーが近くにいるのかもね。機密院の対策チームもたじたじ。もう面倒だから、ミ・キちゃんにも布教してしまおうかしら。
そうそう、次の女子会で、ぜーんぶ言語化してもらうから、覚悟しておいてね。観察と記録を司る記録院の長官なんだから、それぐらい朝飯前よね?体調不良で欠席?って主席薬師のくせに何を言っているの?
おしまい。
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