AIと世界 / UNDP報告書『The Next Great Divergence』が問う、AIと国家間格差のゆくえ雑感
0 はじめに
蒸気機関、電気、そしてインターネット。これら汎用目的技術(General Purpose Technology)の登場は、人類史において計り知れない恩恵をもたらすと同時に、それを持つ者と持たざる者との間に決定的な亀裂を生じさせてきた。技術は常に中立ではなく、その導入と普及の過程には強烈な再分配の力学が働くからである。
国連開発計画(UNDP)のアジア太平洋局が2025年に発表した報告書『The Next Great Divergence: Why AI may widen inequality between countries(次の大いなる分岐:なぜAIは国家間の不平等を拡大させる可能性があるのか)』は、人工知能(AI)という新たな技術的転換点が、かつての産業革命と同様に大いなる分岐(Great Divergence)を引き起こすリスクを孕んでいることを鋭く指摘している。
今回は、同報告書の内容を紐解きながら、AIがアジア太平洋地域における人間開発、経済、そしてガバナンスにどのような配分的影響をもたらすのか、そして我々はこの技術を包摂的な発展へと導くためにどのような法的・政策的選択をすべきなのかについて検討する。特に、法学や政策立案の観点から、AIがもたらす格差という課題にいかに向き合うべきかを論じたい。
1 問題の所在 技術による収斂と分岐の歴史的教訓
歴史を振り返れば、19世紀の産業革命は、西欧諸国とそれ以外の地域との間に所得や生活水準における巨大な格差、最初の大いなる分岐をもたらした。蒸気機関や機械化によって生産性を飛躍的に向上させた国々と、そうでない国々との間には、埋めがたい断絶が生まれたのである。一方で、20世紀後半には医療技術の普及や貿易の拡大により、多くの途上国が経済成長を遂げ、国家間の格差は縮小に向かう大収斂(Great Convergence)の時代を迎えたとされる。
しかし、AIの登場はこの流れを再び逆転させる可能性がある。AIは単なる効率化のツールにとどまらず、認知タスクの自動化や新たな知の創出を可能にする技術である。その恩恵は、計算資源(コンピュート)、データ、そして高度なスキルを持つ一部の国や企業に集中しやすい性質(Winner-takes-all)を持つ。
特にアジア太平洋地域は、シンガポールや日本、韓国、中国といったAI先進国が存在する一方で、電力や基本的なインターネット接続さえ不安定な国々も混在しており、世界で最も多様性に富んだ地域である。報告書によれば、同地域内の最も豊かな国と貧しい国の所得格差は約200倍に達するという。この多様性ゆえに、同地域はAIが格差の架け橋となるか、あるいは新たな壁となるかを占う実験場となっているのである。
AIがもたらす未来は決定論的なものではない。しかし、現状のまま推移すれば、準備のできた国々(AI-ready nations)がその恩恵を独占し、そうでない国々が置き去りにされる次の大いなる分岐が現実のものとなるリスクが高い。本報告書は、この分岐を回避するための解決策を探るものである。
2 人間開発への影響 能力の拡張と排除の二面性
UNDPは「人間開発(Human Development)」を中心に据え、AIの影響を「人々(People)」「経済(Economy)」「ガバナンス(Governance)」の3つの領域で分析している。まず、人々の能力(ケイパビリティ)への影響を見ていく。
2.1 能力の拡張と「見えない」人々
AIは教育や医療へのアクセスを劇的に改善する可能性を秘めている。例えば、フィリピンやインドネシアのような島嶼部や遠隔地において、AIを活用した遠隔医療診断や、個々の生徒の進度に最適化されたAIチューターは、専門家不足を補い、人間開発の遅れを取り戻す「リープフロッグ(カエル跳び)」型の発展を促すかもしれない。ブータンにおけるAI数学教師のパイロット事例などはその好例である。
しかし、そこには「アルゴリズムによる排除(Algorithmic Exclusion)」のリスクが潜んでいる。AIの学習データにおいて、女性、農村部の住民、少数民族などが過小評価されている場合、彼らはAIによるサービスの恩恵から疎外されるだけでなく、偏った判断の対象となる恐れがある。例えば、金融包摂のためのAI与信スコアリングが、過去の差別的なデータを学習することで、特定の属性を持つ女性やマイノリティのアクセスを不当に制限する可能性である。データセットに「存在しない」ことは、デジタル社会において「権利を持たない」ことと同義になりつつある。
2.2 ヒューマン・セキュリティと環境正義
気候変動対策や災害対応においてもAIは強力なツールとなる。フィリピンにおける台風被害の予測や、フィジーでの被害評価へのAI活用は、住民の安全確保(ヒューマン・セキュリティ)に寄与している。しかし、ここで看過できないのがAI自体の環境負荷である。
AIモデルのトレーニングやデータセンターの運用は大量の電力と水を消費する。報告書は、AIによる環境負荷が、皮肉にも気候変動に対して最も脆弱な低所得国に押し付けられるリスクを指摘している。豊かな国がAIによる環境モニタリングの恩恵を享受する一方で、貧しい国がデータセンター誘致による電力不足や水資源の枯渇に直面するという「環境的不正義」が生じかねない。
3 経済へのインパクト 生産性の罠と労働市場の分断
経済的側面において、AIは「諸刃の剣」である。生産性を向上させ、新たな成長の源泉となる一方で、既存の労働市場を破壊し、格差を拡大させる可能性がある。
3.1 生産性向上の不均一性と準備不足
AIは、アジア太平洋地域のGDPを大きく押し上げる可能性を秘めている。しかし、その恩恵は均一ではない。金融やITサービスなど、AIとの親和性が高いセクターを持つ国々は早期に生産性向上を享受できる一方、農業や低スキル製造業に依存する国々は取り残されるリスクがある。
特に深刻なのは、いわゆる「中所得国の罠」を抜け出そうとしている国々への影響である。これまで、途上国は安価な労働力を武器に、繊維産業や単純な組立産業、あるいはBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)を通じて経済成長を遂げてきた。しかし、生成AIによる自動化は、こうした発展の梯子を外してしまう可能性がある。コールセンター業務や初歩的なコーディングがAIに代替されれば、途上国の若年層の雇用の受け皿が失われかねない。
3.2 労働市場の二極化とギグ・エコノミー
労働市場においては、事務職やルーチンワークを中心にAIによる代替が進む一方で、AIを活用できる高スキル労働者への需要が高まる。これにより、国内における所得格差が拡大する恐れがある。
特に注目すべきはギグ・エコノミーへの影響である。インドやインドネシアでは、オンライン・プラットフォームを通じた仕事が若年層の雇用を支えている。報告書によれば、AIツールの導入は一部の労働者の生産性を高め、グローバル市場へのアクセスを可能にする一方で、多くの労働者を「底辺への競争」に巻き込むリスクがある。翻訳やデザインなどのタスク単価がAIによって劇的に低下すれば、労働者はより長時間労働を強いられ、不安定な立場に置かれることになる。これは、労働法や社会保障制度が未整備な国々において、新たな「デジタル・プレカリアート」を生み出す懸念がある。
4 ガバナンスの変容 効率化と不透明性のジレンマ
AIは政府の機能そのものを変容させる。それは「未来適合型(Future-fit)」のガバナンスを実現する鍵となる一方で、民主主義的価値への脅威ともなり得る。
4.1 国家能力の強化と市民サービスの向上
AIは、行政サービスの効率化や、災害時の迅速な意思決定支援など、国家能力(State Capacity)を強化するポテンシャルを持つ。シンガポールの「OneService」やバンコクの「Traffy Fondue」のように、チャットボットや画像認識を活用して市民からの通報に即座に対応するシステムは、行政の応答性(Responsiveness)を高め、市民の信頼醸成に寄与する。また、デジタルツインを用いた都市計画や、多様なデータを統合した貧困対策は、より精緻で公正な政策立案を可能にするだろう。
4.2 ブラックボックス化と責任の所在
他方で、行政判断へのAI導入は、プロセスの不透明性を招く。社会保障給付の判定や、司法における再犯リスク予測などにAIが用いられる場合、その判断根拠がブラックボックス化されれば、市民は異議を申し立てる機会(Contestability)を失う。これは「適正手続(Due Process)」という法の支配の根幹に関わる問題である。
また、多くの途上国が外国製のAIモデルやクラウド基盤に依存せざるを得ない現状は、「デジタル主権」の問題を浮き彫りにする。基幹的な行政システムが外部の民間企業、それも他国の管轄下にある技術に依存することは、長期的にはガバナンスの脆弱性につながりかねない。データが国境を越えて管理される中で、自国民のプライバシーや権利をどう保護するかは、法制度上の喫緊の課題である。
5 次の大分岐を回避するための政策的解法
報告書は、AIによる格差拡大を回避し、包摂的な発展を実現するための政策として、原則、手段、そしてロードマップを提示している。
5.1 原則 人間中心と責任あるイノベーション
まず、政策の基盤として以下の3つの柱を据えるべきである。
第一に、「人々を第一に(Put people first)」、AIは単なる効率化の道具ではなく、人間の能力を拡張するために使われるべきである。「Equity by design(設計段階からの公平性)」を徹底し、影響を受ける当事者が開発プロセスに参加する仕組みが必要である。
第二に、「責任あるイノベーションの統治(Govern innovation responsibly)」、リスクベースのアプローチを採用し、高リスクな用途には厳格な透明性と説明責任を求める。特に「ヒューマン・イン・ザ・ループ(人間による関与)」の確保は不可欠である。
第三に、「未来に備えたシステムの構築(Build future-ready systems)」、特定のベンダーへのロックインを防ぐオープンなエコシステムや、環境負荷の低いグリーンAIインフラを整備する。
5.2 政策手段 ハードとソフトの両輪
特筆すべきは、報告書が「ハード」と「ソフト」の両面への投資を強調している点である。
「ハード・レバー」としては、安定した電力、安価なインターネット接続、そして計算資源(コンピュート)へのアクセスが挙げられる。これらはAIの恩恵を享受するための物理的な前提条件である。特に低所得国においては、これら「足回り」の整備なしにAI戦略を語ることはできない。
「ソフト・レバー」としては、スキル、制度、法規制が挙げられる。AIを使いこなす人材(AIリテラシー)の育成はもちろん、AIがもたらすリスクを管理するための法制度や、公正な競争を促すための競争政策が必要となる。
5.3 発展段階に応じたロードマップ
全ての国に当てはまる画一的な解はない。報告書は、各国の準備状況に応じた段階的なアプローチを提唱している。
「低キャパシティ国」では、まずは基礎的な接続性と必須サービス(保健・防災など)へのAI活用に注力し、実益を確保する。
「移行国」では、独自のデータセット構築や労働者のリスキリング、デジタルID等のインフラ整備を進め、AI産業の基盤を作る。
「高キャパシティ国」では、地域的な公共財としてのAIモデル(Model Commons)の開発や、国際的な倫理基準・相互運用性の確立を主導する。
6 法とガバナンスへの示唆 地域的視座と「法の支配」
本報告書が法学者や実務家に投げかける問いは重い。AIガバナンスの議論は欧米主導で進みがちであるが、アジア太平洋地域の多様な文脈においては、欧米型の画一的な規制モデルが必ずしも機能するとは限らない。
例えば、著作権やデータ主権の問題において、独自の文化や言語を持つ国々が、どのように自国のデータ資産を守りつつ、グローバルなAI開発の潮流に乗るかという点は、極めて法的な論点となる。報告書が提言する「地域の公共財としてのデータ・計算資源」という考え方は、一国ではGAFAMなどの巨大プラットフォーマーに対抗できない国々が、地域協力によって「デジタル自決権」を確保するための法的な枠組み作りを示唆している。
また、AIによる決定に対する法的責任の所在や、アルゴリズムの透明性を確保するための具体的な法技術(調達要件への組み込みや、アルゴリズム登録制度など)についても、各国の行政法体系に即した実装が求められる。特に、AIが社会保障や司法といったハイステークスな領域で使われる場合、誤謬に対する救済手段(Redress)の実効性をどう担保するかは、人権保護の観点から譲れない一線である。
7 むすびに
AIは、我々が選択を誤れば「次の大いなる分岐」を引き起こし、国家間の不平等を固定化させる恐れがある。しかし、適切な政策とガバナンスをもってすれば、それは開発課題を解決し、人々の能力を拡張するための強力なツールとなり得る。
重要なのは、「機械がいかに賢くなるか」ではなく、「それによって人間がいかにエンパワーされるか」である。報告書が提唱する "Leave no mind behind"(誰の知性も置き去りにしない)という理念は、AI時代の法と政策が目指すべき方向性を示していると言えるだろう。
我々は今、技術的決定論に陥るのではなく、技術を社会のウェルビーイングのためにどう方向付けるかという、主体的な選択を迫られているのである。
参考資料
United Nations Development Programme (UNDP) Regional Bureau for Asia and the Pacific『The Next Great Divergence: Why AI may widen inequality between countries』2025年。
(マガジン)「AIと法雑感」
※目次は以下を参照
note総則規約3条2項前段
3.2 クリエイターが制作したデジタルコンテンツの著作権は、クリエイターに帰属します。
