「甲子園廃止論」についてどう考えているか
毎年、夏が近づくとSNSやメディアで賑やかになる議論があります。「高校野球(甲子園)の廃止論」や「異常な暑さの中での開催に対する批判」です。
酷暑の中での危険性、ベンチに入れない大半の選手たちの機会不平等、過度な頭髪や道具の規制……。指摘されている問題点について、私自身も「その通りだな」と同意する部分は多々あります。
しかし、だからといって私は「甲子園を廃止すべきだ!」「今すぐ構造を変えろ!」と声を大にして叫ぶつもりはありません。
理由は極めてシンプルです。巨大で歴史のある仕組みは、外からどれだけ叫んでも「簡単には変わらない」と分かっているからです。
変わらないものに対して怒り、議論にエネルギーを消費するのは、精神衛生上あまりにも勿体ないと感じてしまうのです。
「存続か、廃止か」という不毛な二元論
世の中の議論は、往々にして「今のまま続けるか」「完全にやめるか」という二元論に陥りがちです。
ですが、そもそも高校野球側だって手をこまねいているわけではありません。近年の白スパイクの解禁や、イニング間のクーリングタイムの導入など、彼らなりに時代に合わせて少しずつ変化しようという意思は見られます。
歴史と巨大な利害関係を抱えた組織が、一朝一夕で激変できないのは構造上仕方のないことです。
だからこそ必要なのは、「既存の甲子園を叩き潰すこと」ではなく、「甲子園以外の選択肢」を世の中に創ることではないでしょうか。
私たちが創りたい「もう一つのハコ」の姿
もし、従来の高校野球とは別に、以下のような選択肢(環境)が地域に存在していたらどうでしょうか。
真夏の危険な時期は、無理をせずしっかりとブレイク(休暇)を取る
特定の「聖地(球場)」にこだわらず、アクセスや設備に優れた場所で行う
道具の厳しいルールを緩め、ウェアやギアのおしゃれや個性を楽しめる
一発勝負のトーナメントではなく、リーグ戦・階層制で誰もが打席に立てる
「勝利と伝統のために全てを捧げる甲子園」というハコがあってもいい。
同時に、「安全と多様な楽しみ方、プレイ機会を担保する新しいハコ」があってもいい。
高校生たちが、自分の価値観に合わせてどちらのハコも自由に選べる状態をつくること。それこそが、今求められているスポーツ環境のあり方だと考えています。
廃止論の正しさは「未来の選択」が証明する
もし、そうした「別の選択肢」が地域に用意されたとして。
結果的に、高校生たちが誰も従来の甲子園を目指さなくなり、新しいハコばかりを選ぶようになったとしたら——その時初めて、「あぁ、かつての廃止論や批判は正しかったのだな」と証明される。ただそれだけの話です。
逆に、どれだけ選択肢が増えても甲子園を目指す球児が絶えないのであれば、それもまた一つの答え(価値)です。
議論で相手を論破してシステムを壊す必要はありません。
言っても変わらない現状に腹を立てる時間があるなら、時間をかけてでも「理想の選択肢」を自分たちの手で創り、実行に移していく。
批判者ではなく、新しい環境を静かに創り出す「プレイヤー」でありたいと、この季節になると思います。
