責める「なぜ」と、育てる「なぜ」 ── 同じ問いの、向ける先を変えただけ
この記事について
対象読者
フィードバックで、つい「なぜできなかったの?」と聞きたくなる方
うまくいかなかったほうから、先に原因を探したくなる方
同じことを聞いているのに、相手の反応が変わる瞬間に興味がある方
要点
「なぜできなかったの?」ではなく、「なぜうまくいったの?」と、できている側に問いを向ける。同じ「なぜ」でも、向ける先を変えるだけで、相手が考えられる状態を保ったまま、本人も気づいていなかった進め方を引き出せます。
以前、若手の育成について、進め方の答えはひとつではない、という話を書きました。「自分の地図は自分で歩く」という記事です。今回は、その続きにあたります。
フィードバックの場面では、何を言うか、いつも少し迷います。
うまくいかなかったことを伝えるときは、特に気を使います。相手の手が止まらないように、できるだけ淡々と伝えて、次にどうするかは本人に考えてもらう。そういうことを気をつけてきたつもりです。
でもあるとき、いつもと逆のことをしてみました。
あるメンバーが、あるタスクではつまずいていて、別のよく似たタスクのほうは、つまずかずに進められていました。
いつもなら、つまずいているほうに目を向けて、どうすれば良くなるかを一緒に考えます。でもそのときは、できているほうに目を向けて、その進め方について、淡々と聞いてみました。
「このタスクのとき、なぜうまくいったんだろう?」
返ってきた反応が、思っていたのと違いました。
普段より、言葉数が増えました。自分がどう進めたかを、一つずつ説明してくれる。「なぜできなかったの?」と問われたときに出がちな、あの身構えた感じがありませんでした。
同じように事実を尋ねているだけなのに、向ける先が違うと、ここまで手応えが変わるのか。そんな引っかかりが、しばらく残りました。
つまずいた側ではなく、うまくいった側に
仕事の場面でも、うまくいかなかったことに対しては、つい「なぜできなかったの?」と問いたくなります。
ただ、この聞き方は、原因を探しているつもりでも、責任を問う響きになりやすいものです。聞かれた側は守りに入りやすく、出てくるのは言い訳か沈黙になりがちです。
こんなことがありました。
あるメンバーが、ある調べ物はすんなり進められるのに、別の似たような調べ物になると、なぜかつまずいてしまう。私から見ると、必要なことはそれほど変わらないように見えました。
こういうとき、最初に口から出かかるのは「なぜ、こっちはうまくいかなかったの?」です。でもこれは、つまずいた側に矛先を向けています。
そこで、向きを変えてみます。
「こっちは、なんでうまくいったんだろう?」
つまずいた側ではなく、うまくいっている側に「なぜ」を向ける。
同じ「なぜ」でも、向ける先が逆になっただけです。でも、この一手で、相手の反応も、そのあとに手に入るものも、ずいぶん変わってきます。
責められると、考える力のほうが先に鈍る
向ける先を変えるだけで、なぜ反応がここまで変わるのか。気の持ちようの話に思えますが、もう少し仕組みの話として捉えられそうなのです。
フィードバックから感情を抜いたほうがいい、という話を前に書きました。責められたと感じると、危険を察知する部分が反応して、学習や判断を担う前頭前野の働きが一時的に鈍る。だから感情は乗せないほうがいい、という脳の話でした。
ただ、感情を抜くだけでは足りないようです。フラットに聞いても、まだ向きの問題が残ります。
「なぜできなかったの?」は、どれだけ淡々と聞いても、本人には責められたと受け取られやすい。一緒に改善を考えたいだけなのに、相手の脳は身構える側に傾きます。
良くするために一番使ってほしいはずの部分が、責められたと感じた瞬間に鈍ってしまう。
皮肉な話です。
同じようにフラットでも、「なぜ、うまくいったの?」は、責めとして受け取られません。身構える必要がないので、考える部分が落ちないまま、自分のやったことを振り返れます。
温度を変えたわけでも、褒めて気分を良くしてもらうわけでもありません。ただ、考える力を止める引き金を、引かないというだけです。それでも、これが向ける先を変えることの、はっきりした効き目のひとつです。
できている側があるなら、能力の問題ではない
安全なだけなら、ただの優しい問いです。でも、この問いは、つまずきを尋ねるより実りが大きい。理由は、目の前にうまくいった例があること、それ自体にあります。
片方ではちゃんとできている。それは、その人に能力がないわけではない、という何よりの証拠です。だとすれば、つまずきの原因は能力ではなく、やり方の違いに絞り込めます。
言い換えると、見ている枠が少し違うだけなのです。うまくいった側では、必要な前提を押さえ、必要な事実を集め、調べる順番もそれなりに整っている。つまずいた側では、そのどれかが抜けている。
ただ、本人はたいてい、それに気づいていません。うまくいったときの自分の段取りを、わざわざ分解して見たことがないからです。
そこで、「うまくいった方は、どうやって進めたの?」と促します。
すると、本人の口から、自分でも意識していなかった段取りが出てきます。「まずこれを前提に置いて、この順番で当たっていった」というように。普段は言葉にならない部分が、振り返りのなかで輪郭を持ちはじめます。
失敗をいくら掘っても出てこなかった手順が、成功を聞くと言葉になって出てくる。
あとは、見えてきた手順と、つまずいているほうを見比べます。何が足りなかったかがはっきりし、つまずいた側への「どうすれば?」が、そこではじめて地に足のついた問いになります。
しかも、本人が自分で見つけた手順です。こちらが「こうしなさい」と渡すより、ずっと自分のものになります。
ひとつ気をつけているのは、「なんでうまくいったの?」の答えが「慣れてるから」「なんとなく」で止まってしまうときです。ときには、もっともらしいけれど、後から作った説明が返ってくることもあります。
どちらも、そこで終えると何も取り出せません。「そのとき、具体的にどう動いたの?」と、もう一段だけ踏み込むと、ようやく本当の手順が見えてきます。
そしてもうひとつ、前提があります。これは、すでに何かできていることがある相手に効く問いだ、ということです。
本当にゼロからの新人で、こちらも過去の実績を知らない段階では、指させる成功がまだありません。そこではまず、基本の型を教えるところから始まります。

厳しく問うても、回っている組織はある
ここまで読んで、それは甘い、と感じる人もいると思います。「なぜできなかった?」とまっすぐ問うても、ちゃんと回っている。そういう現場も、確かにあります。
ただ、そういう現場はたいてい、その問いの負担を吸収する仕組みが、組織の側にできています。責めない前提が共有されたルールや、率直に言い合える関係です。それがあると、同じ問いでも脅威として受け取られにくくなり、負担を組織が先に肩代わりしている状態になります。
あるいは、回っているように見えて、実はそうでもない、という場合です。叱責のあとは学びが残りにくく、問題も早めには上がってこなくなる。その代償は、目の前の数字に出てこないだけです。
結局、脳にかかる負担そのものは消えません。違うのは、それをどう扱うかだけです。仕組みで吸収するか、気づかずに払い続けるか、それとも問いの向きで避けるか。
向きを変えるのは、基準を下げることではありません。ギャップは、これまで通り未来志向で扱います。脅威を減らすことと、甘くすることは、別のことです。
これは、反省をやめる話でもありません。むしろ、できたことも振り返る。良い振り返りは、もともとそういうものだと思います。
同じことが、AIでも起きました
これは、人に限った話ではないようです。AIに仕事を任せているときにも、同じことが起きました。
私はふだん、AIへの指示書を少しずつ手直ししながら使っています。前に、うまくいかなかったときに振り返らせて改善していく話を書きました。
その逆もできます。うまくいっているほうを振り返らせるのです。
少し前に、2つの企画を並行して進めていました。片方は、現状と目指す姿の整理がすんなり進んだ。もう片方は、少し迷走していました。
そこでAIに、「こっちはうまく進んでいる。迷走しているほうとの違いは何だろう?」と聞いてみました。
返ってきたのは、進め方そのものに違いがある、という分析でした。それを踏まえてからは、迷走していたほうも落ち着いて進むようになりました。
うまくいった側のなかに、もう片方へ持っていける進め方が入っていた。若手に「どうやったの?」と聞くのと、構図はそっくりです。
人とAIを同列に置きたいわけではありません。重なるのは、問いをどこに向けるか、という一点だけです。
自分の地図は、自分で描く
振り返ると、私がやめたのは「なぜ?」と問うことではありませんでした。やめたのは、それをうまくいかなかった側に向けることだけです。
向ける先を、うまくいっている側に変える。たったそれだけで、同じ問いが、責める言葉から、一緒に手順を見つける言葉に変わります。
この問い方の根っこにあるのは、できていることがあるのだから能力はある、という前提です。
「なぜできなかったの?」という問いは、ともすれば、その人がこれまで積み上げてきた土台ごと、否定しかねません。
「なぜ、うまくいったの?」は逆です。その土台があることをまず認めたうえで、そこからもう一歩だけ、上へ引き上げようとする問いなのだと思います。

つまずいた一点だけで、能力が足りないと決めてしまわない。これは、相手を信じるということでもあります。
この問い方が、いちばん必要なのは、経験の浅い人かもしれません。場数を踏んだ人なら、たとえ「なぜできなかったの?」と聞かれても、叱責とは受け取らず、自分のなかの成功とのギャップを測って、自然と「どうすれば」に変えていけます。ここまで書いてきたことを、頭のなかで一人でやっているわけです。
若手のうちは、それがまだ難しい。本人の経験不足で片づけるのは簡単ですが、育てる側の仕事は、その足りない分を外から支えることだと思います。「うまくいった方は、どうやったの?」と一緒に振り返るのは、本人がいずれ一人でやれることを、先に隣でやってみせることなのかもしれません。
最後に、冒頭で触れた「自分の地図は自分で歩く」に戻ります。
「うまくいった方は、どうやったの?」と聞くのは、相手が自分で歩いた道を、本人の言葉で地図に描いてもらうことに近いはずです。描けた地図は、次にどこかでまた使えます。
先回りして、こちらの地図を渡すこともできます。でも、自分で描いた地図のほうが、たぶんずっと遠くまで連れて行ってくれます。
