【安全な港の物語 第1話(前編)】晴れそうな曇り空 〜55歳・田中誠一、立ち止まる〜
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■ このシリーズについて
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ウェルビーイング・ナビゲーター G-Mate(後藤 学)が考える「ライフキャリア航海モデル」をもとにした、短編小説シリーズ「安全な港の物語」です。
登場人物は架空ですが、老若男女、多くの方が抱えるリアルな悩みをベースに描いています。
物語の登場人物は…
今のあなた自身かもしれません。
過去や未来のあなたかもしれません。
あるいは、あなたの大切な人かもしれません。
みんな、様々な天気の中で生きています。
【用語のミニ解説】
・G-Mate=「人生の相棒(Mate)」でありたいという想いを込めた相談室
・キャリア天気図=心とキャリアの状態を5つの天気で可視化するツール
・コンパス=自分の本当の価値観
・装備(リュックの中身)=今までの経験や知識、人間関係、資産など
・航海図=これからの人生計画
・安全な港=安心して立ち寄れる相談場所
▼ ライフキャリア航海モデルとキャリア天気図について知りたい方はこちら
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プロローグ
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「最近、いつも険しい顔してるよ」
妻のその一言で、田中誠一は洗面所の鏡の前に立った。
55歳の自分が、思っていたより疲れた顔をして、こちらを見返していた。
3月の朝、洗面所の窓の向こうでは、近所の家の梅が、もう満開を過ぎようとしていた。
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1. 辞令
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辞令は、2月の最終営業日だった。
「役職定年につき、4月1日付で営業部担当職への異動を命ずる」
人事部長から手渡された一枚の紙を、誠一は会議室の机の上で何度も読み返した。文章は簡潔だった。32年間、ノルマを追い続けた男への言葉としては、あまりにも短すぎた。
「規定通りの異動です。誠一さんもご存知の通り…」
人事部長は、申し訳なさそうな顔を作っていた。
誠一はそれが演技であることを知っていた。同じ顔を、自分も部下に向けて何度も作ってきたからだ。
「わかりました」
それ以外に言うべき言葉が見つからなかった。
会議室を出ると、廊下の窓から冬の終わりの淡い光が差し込んでいた。誠一は窓の外を見た。空は青いような、灰色のような、どちらとも言えない色をしていた。梢にはまだ葉がなく、枝先だけがかすかに紅く色づいている。
——晴れているのか、曇っているのか。
なぜか、そんなことを考えた。
帰りの電車に乗ったのは、いつもより早い時間だった。みなと町駅で降りると、駅前ロータリーの空気は、都心より少しだけ穏やかだった。
改札を出て商店街のほうへ歩きながら、誠一はスーツの内ポケットに手を入れた。辞令の紙が、かさりと音を立てた。
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2. 営業部のフロア
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翌週、いつも通り出社した誠一を、若手の山田が駆け寄って迎えた。
「部長、A社の見積もり、確認お願いします」
差し出された書類を、誠一は黙って受け取った。山田は26歳。3年前、新卒で配属されてきた時は、客先で頭が真っ白になって何も話せなかった青年だ。今は、自分の足で契約を取ってくる。
「ここの値引率、もう少し攻められるんじゃないか」
「あ、はい。実は同じこと考えてて」
「だったら最初からそう書け」
「すいません」
山田は笑った。誠一も、つられて少し口元が緩んだ。
「あと部長、ご相談なんですけど」
山田はそう言って、自分のデスクから一冊のノートを取り出した。営業日誌、と背表紙にマジックで書いてある。
「最近、なんか、自分のやってる営業のやり方に違和感があって。今のままでいいのかなって、たまに思うんですよ」
誠一は山田の顔を見た。3年前、契約直前で頭が真っ白になっていた青年が、いつのまにか、こんなことを考えるようになっていた。
「悪いことじゃないよ。違和感を持てるのは、ちゃんと自分で考えてる証拠だ」
「そうですかね」
「うん。ただ、答えを急がなくていい。答えは、たいてい、迷ってる間に向こうから来る」
山田は少し笑って、「考えときます」と言って自分の席に戻っていった。戻りながら、ノートを大事そうに胸に抱えていた。誠一は、その後ろ姿をしばらく見ていた。
自分のデスクの引き出しを開けた。中に、3年前の手帳があった。山田が初めて一人で契約を取ってきた日の日付に、印がつけてある。誠一はそのページをしばらく眺めた。
あの日、誠一はきっと契約を獲得した山田本人よりも、喜んでいた。自分が現役で取ってきたどの契約よりも、嬉しかった。
——なぜだろう。
理由は、その時はわからなかった。
引き出しを閉めた。
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3. 夜の食卓
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その夜、妻には何も言わなかった。
食卓に並んだ味噌汁を啜りながら、誠一は転職サイトのことを考えていた。帰りの電車の中でこっそり登録した。プロフィール欄を入力しようとして、手が止まった。
「営業部長」と書いた。
「営業部担当」に書き直した。
削除した。
——私に、何がある?
経歴は書ける。資格も書ける。でも、「あなたの強みは何ですか」という設問の前で、ペンが止まった。
ノルマを達成し続けてきた。部下を育ててきた。会議では筋の通った発言をしてきた。それは全部、「営業部長」という肩書きがあってこそ意味を持つことだったのか。
肩書きを剥がされた自分は、いったい何者なのか。
「ねえ」
妻の声で我に返った。
「また険しい顔してる。大丈夫?」
誠一は何も答えなかった。ただ、味噌汁の中で、豆腐がゆっくり沈んでいくのを見ていた。
妻はそれ以上は聞かず、テーブルの端に置いていた一冊のパンフレットを手に取って、ぱらぱらとめくり始めた。表紙には「みなと町公民館 春の講座案内」と書いてあった。パンフレットの表紙には、誰かが鉛筆で印をつけたような小さな丸が、いくつかついていた。
「最近、こういうの始めようかなって思ってるの。ほら、翔太も家を出てから、私も時間があるから」
妻の声は、独り言のように軽かった。誠一はパンフレットに目をやったが、何の講座かまでは見えなかった。
「ふうん」
それしか、言えなかった。
窓の外では、まだ冷たい3月の夜風が、ベランダの物干し竿をかすかに鳴らしていた。
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4. 駅前の小さな港
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誠一がその相談室を見つけたのは、辞令から3週間後のことだ。
インターネットで相談窓口を探していて、偶然そのサイトに行き着いた。『今後の生き方に迷う人の「キャリア・メンタル・安心安全」の相談窓口です。どんな天気の時も、過ごし方を一緒に考え、ナビゲートします』と書いてあった。
場所は、自分が毎日通っている、みなと町駅のすぐ近くだった。32年も乗り降りしてきた駅のそばに、こんな相談室ができていたなんて、誠一はまったく知らなかった。
予約のメールを送ると、翌朝には返信が来た。
「田中様、はじめまして。G-Mateの後藤と申します。ご連絡をありがとうございます。どうぞ、お時間の許す日にお立ち寄りください」
丁寧な文面だった。それが、誠一の背中をそっと押した。
3月の終わりの金曜日、いつもの帰り道。誠一はみなと町駅で電車を降り、いつもとは反対の方向へ歩いた。商店街の路地。夕暮れの光の中で、毎日通っていたはずの街が、少し違って見えた。
路地の角に、その相談室はあった。
一見、古い喫茶店のような佇まいだった。煉瓦色の壁、木の看板に「G-Mate」とだけ書かれている。よく見ると、扉の横に、控えめな真鍮(しんちゅう)の錨(いかり)のオブジェ。路地の街路樹には、白い木蓮のつぼみが膨らみ始めていた。
——錨。
なぜ、相談室に錨なのだろう。
海から離れた、ベッドタウンのこの街に、なぜ。
誠一は少しためらってから、扉を押した。
中に入ると、コーヒーの香りがした。喫茶店のようなカウンター。奥に、二人がけのテーブル。壁には、古い航海図がさりげなく飾られ、棚には小さな帆船の模型が置かれていた。窓辺には、季節の植物が並んでいる。
ここが相談室だと言われなければ、休日に気軽に立ち寄れる喫茶店だと思ったかもしれない。
「いらっしゃいませ。田中様ですね」
奥から一人の男性が出てきた。50代前半に見える、穏やかな雰囲気の人だった。清潔なシャツに、控えめなジャケット。髪はきちんと整えられているが、堅苦しさはなかった。
「後藤 学と申します。ウェルビーイング・ナビゲーターとして、誰もが自分らしい幸せを実現できるよう、伴走しています。今日はお越しいただき、ありがとうございます」
深く頭を下げる所作に、誠一は少し驚いた。
——ずいぶん丁寧な人だ。自分より、少し下くらいだろうか。
「こちらこそ、急にお邪魔して……」
「いえいえ、こうしてご縁をいただけたことが、何より嬉しいです。まずはお掛けください。コーヒー、紅茶、お茶、どれがお好きですか?」
「じゃあ、コーヒーを」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
後藤はカウンターに戻り、丁寧な手つきでコーヒーを淹れ始めた。お湯を注ぐ前に、ドリッパーをそっと温める。豆の挽き具合を見て、少しだけ目を細める。一連の所作に、急ぐ気配がない。背中を見ながら、誠一は肩の力が少し抜けるのを感じた。
——ここは、安心して立ち寄れる、安全な「港」だ。
入口の扉の横にあった錨の意味が、なんとなくわかった気がした。
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5. キャリア天気図チェックシート
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コーヒーがテーブルに置かれた。白いカップに、湯気が立ち上っている。
「お話を伺う前に、一つだけお願いしてもよろしいですか」
後藤は向かいの席に座り、柔らかな声で言った。
「これを、よろしければやってみていただきたいんです」
差し出されたのは、一枚の紙だった。
「キャリア天気図、と私は呼んでいるんですが、今のご自身の心とキャリアの状態を可視化するためのチェックシートです。直感で、当てはまる項目にチェックをつけてみてください。もちろん、答えたくない項目は飛ばしていただいて構いません」
紙には、5つの天気の欄が並んでいた。
☀️ 晴れ。☁️ 曇り。☔ 雨。🌀 嵐。⛄ 雪。
「……わかりました」
誠一はペンを取った。仕事のチェックリストなら何度も作ってきた。でも、自分の心のチェックリストは初めてだった。
「役職定年や定年退職が近づき、自分の『居場所』がなくなる不安がある」——チェック。
「今の仕事に大きな不満はないが、『このままでいいのか』と焦りを感じる」——チェック。
「会社から求められる役割と、自分が『本当にやりたいこと』の間にズレを感じる」——チェック。
曇りの欄に、チェックが3つ並んだ。
ペンが止まらなくなった。
雨の欄も読んだ。
「自分の努力や成果が、正当に評価されていないと感じる」——正直、これも当てはまる。
「疲労感が抜けず、週末は体を休める(寝る)だけで終わってしまう」——これも。
雨にも2つ入った。
嵐の欄を見て、誠一は少し安堵した。「予期せぬ異動や降格」「職場での深刻なハラスメント」——そこまでは、まだない。役職定年は、規定通りの異動だ。
雪の欄には、ペンが止まった。
「会社でも家庭でも本音を相談できる人が誰もおらず、完全に孤立していると感じる」
——これは、どうだろう。
家に帰れば妻がいる。会社には部下も同期もいる。でも、本音を話せているかと問われると、言葉に詰まった。山田にも、妻にも、辞令のことをまだ話していない。
——孤立、とまでは言えない。でも、繋がっているとも言えない。
チェックを入れるかどうか迷ったまま、ペンを置いた。
「お疲れさまでした」
後藤は静かに微笑んだ。
「いかがでしたか?」
「曇りが一番多いです。雨も少し」
「ありがとうございます。一つ、お伺いしてもよろしいですか? ご自身の実感として、今はどんな天気だと感じていらっしゃいますか? 周りから見た天気ではなく、ご自身の中で」
誠一はしばらく黙った。妻には「険しい顔」と言われたから、自分でも、嵐かもしれないと思っていた。でも——。
「……曇り、かもしれません。なんか、晴れそうな気もするんですよ。根拠はないんですけど」
口に出してから、自分でも驚いた。
会社では言えない言葉だった。部下には言えない、妻にも言えない言葉だった。「晴れそうな気がする」なんて、どこに根拠があるのか。
後藤は深く頷いた。
「その感覚、とても大切だと思います。チェックシートは、あくまで今の自分の天気を知るためのきっかけなんです。でも一番大切なのは、田中さんご自身が、ご自身の天気をどう読むか。それが本当の天気図なんですよ」
誠一は窓の外を見た。三月の空は、青いような灰色のような、どちらとも言えない色をしていた。でも、路地の木蓮のつぼみは、確かに膨らみ始めていた。
(前編・了)
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■ 田中誠一さんが使ったチェックシート
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田中誠一さんが今回使ったのは「キャリア天気図チェックシート(ミドルシニア編)」です。
あなたの今の天気は、どうでしょうか?
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■ 次回予告
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【安全な港の物語 第1話(後編)】晴れそうな曇り空 〜55歳・田中誠一、また漕ぎ出す〜
田中誠一は、後藤と一緒に「自分のコンパス」を探し始めます。
3年前、若手・山田が初めて契約を取ったあの日、誠一が誰よりも喜んでいた理由——。
肩書きを剥がされた55歳の男が、新しい航海図に何を描くのか。
後編は、5月14日(木曜日)に公開予定です。
お楽しみに。
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■ G-Mateからの一言
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田中さんのように、長年「役職」と一体化して働いてきた方ほど、その役割が変わる時に深い曇り空に迷い込みます。
でも本当に大切なのは、周りから見た天気ではなく、「自分の天気図を、自分で読む」こと。
天気に良いも悪いもありません。
田中さんは、誰よりも先に「自分は晴れそうな気がする」と感じていました。その小さな直感を信じることが、新しい航海の始まりです。
会社での役割が変わっても、あなたが長年積み上げてきた装備の価値は、目減りしません。コンパス(価値観)を再確認し、リュックの中身を点検し、小さな一歩から航海を始め直せばいいのです。
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■ 著者プロフィール
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ウェルビーイング・ナビゲーター
後藤 学(G-Mate)
茨城県日立市出身 千葉県柏市在住
損保業界30年。「キャリア・メンタル・安心安全」の三本柱で、誰もが自分らしい幸せを実現できるよう、伴走しています。
《主な保有資格》
2級キャリアコンサルティング技能士/国家資格キャリアコンサルタント/プロティアン認定ファシリテーター/メンタルヘルス・マネジメント検定II種/2級ファイナンシャル・プランニング技能士/個人情報保護士/防災士 ほか
《所属団体》
ウェルビーイング学会/プロティアン・キャリア協会/日本産業カウンセラー協会/日本ファイナンシャル・プランナーズ協会
▼ 詳しい自己紹介はこちら
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【「キャリア天気図」のご利用について】
「キャリア天気図」はG-Mateのオリジナル診断ツールです。個人的な自己分析でのご利用やSNSでのシェアは大歓迎です。一方で、他の専門家の方による有料サービス等での無断使用や、コンテンツの無断転載・改変はご遠慮ください。企業研修等でのご活用をご検討の方は、公式LINEよりお気軽にお問い合わせください。
ウェルビーイング・ナビゲーター
G-Mate 後藤 学
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