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「市場は神のごとく正しい」と「顧客は欲しいものを知らない」――矛盾点シリーズ・第7回

前回は「強みと弱み」を並べた。今回は、お客さんと市場をどこまで信じるか、という矛盾に進みたい。

市場の声に、従うべきか。それとも、超えていくべきか。

これは、商品開発でも、経営判断でも、いつも頭を悩ませる。そして経営の名著は、ここでも正反対を向いている。

■ テーゼ:世間は、神のごとく正しい

松下幸之助さんの言葉は、深く、そして厳しい。世間は神のごとく正しい、と。

自分の商品が売れないのを、世間が分かってくれないせいにするな。市場が下した評価には、必ず理由がある。だから、まず受け入れよ。お客さんの反応を、謙虚に、素直に受けとめよ。市場は、自分よりずっと賢い。

これがテーゼだ。私もコンサルティングの現場で、これを痛感してきた。「うちの良さが分からない客が悪い」と言い続ける会社は、たいてい、そのまま市場から退場していく。売れないのには、必ず理由がある。それを世間のせいにした瞬間、学びは止まる。市場を神と思って頭を垂れる――この素直さは、経営者の根っこにいる。

■ アンチテーゼ:顧客は、欲しいものを知らない

ところが、『両利きの経営』が描く探索の世界は、逆のことを突きつける。

顧客は、自分が本当に欲しいものを、まだ知らない。だから、市場調査をいくら丁寧にやっても、未来の答えは出てこない。コダックは、顧客の声に忠実すぎたがゆえに、デジタルカメラの波に乗り遅れた。お客さんは「もっと良いフィルムが欲しい」とは言っても、「フィルムのいらない世界が欲しい」とは言わないのだ。

これがアンチテーゼだ。これも、イノベーションの現実を鋭く突いている。

面白いのは、この「顧客は答えを知らない」という感覚を、誰より顧客を見ろと説いた柳井正さんもまた、はっきり持っていることだ。『経営者になるためのノート』には、お客様は答えのすべてを教えてはくれない、という趣旨が書かれている。だからこそ、お客様の声をそのまま鵜呑みにするのではなく、声の奥にある本当の欲求を読み取り、まだ世にない答えを自分たちでつくれ、と。

つまり「顧客に集中せよ」と「顧客は答えを知らない」は、別々の論者が言い争っているだけでなく、一人の経営者の中に同居している。この矛盾は、外側の対立というより、内側の緊張なのだ。

私は、お客さんの要望を律儀に聞きすぎて、既存商品の改良ばかりに終始し、大きな変化の波を見逃した会社を見てきた。目の前の声に応え続けることが、かえって未来への跳躍を奪ってしまう。市場に従順すぎることが、命取りになることもある。

■ 矛盾の正体:「いつの市場」を見ているか

では、松下さんと両利きは、どちらが正しいのか。今回も、勝敗はつけない。並べて、ほどく。

ほどくと、二人は「違う時間軸の市場」を見ていることに気づく。

松下さんの「市場は正しい」は、長い目で見たときの、世間全体の評価だ。本当に良いものは、いずれ世間が正しく評価する。歴史が、最後にちゃんと判定を下す。これは、長期の話である。

両利きの「顧客は知らない」は、いま、この瞬間の、顕在化したニーズだ。お客さんが今日言葉にできる要望は、現在の延長線上にしかない。まだ存在しない未来の価値を、今日のアンケートで聞き出すことはできない。これは、短期の話である。

つまり、片方は「長期の世間の審判」を信じよと言い、もう片方は「短期の顕在ニーズ」を超えよと言っている。同じ「市場」でも、見ている時間が違うのだ。だから、逆に聞こえる。

■ 止揚:短期の声を超え、長期の審判を信じる

並べ替えると、こうなる。

短期では、顕在ニーズを超える。今日の顧客が口にする要望だけを追いかけない。「フィルムを良くしてほしい」の奥にある「きれいな思い出を残したい」という本当の願いまで降りていって、まだ誰も言葉にしていない価値を形にしにいく。ここは両利きの言うとおりだ。

そのうえで、長期では、世間の審判を信じる。未来に賭けた商品が、独りよがりでないかどうか。最後にそれを判定するのは、やはり世間だ。出してみて、市場が評価しなければ、そこには理由がある。それを素直に受けとめて、また直す。ここは松下さんの言うとおりだ。

矛盾しているように見えて、二つはきれいに噛み合う。短期の声には、いったん逆らう。けれど、長期の審判には、どこまでも謙虚に従う。顕在ニーズを超える勇気と、世間の評価に頭を垂れる素直さは、同じ経営者の中に両立する。

柳井さんが、まさにその生きた例だ。誰より顧客を見ろと言いながら、顧客の言いなりにはなるなと言う。一見すると矛盾だが、こう読み替えると筋が通る――顧客を見るのは、声に従うためではなく、声の奥にある本当の欲求を掘り当てるため。そして、掘り当てて差し出した答えが正しかったかどうかは、最後に市場が判定する。「顧客を深く見る」と「顧客の言いなりにならない」は、一本の線でつながっていたのだ。

ここで、連載の入口で書いたことを思い出す。AIは、既存のデータ――つまり、今日までの顕在ニーズ――を読み解くのは得意だ。けれど、まだ誰も言葉にしていない未来の願いを、自分から発見することはない。種を見つけるのは、いつも人の側だった。短期の声の奥にある、まだ形のない願いを掘り当てる。それは、これからも人に残る仕事だと思う。

■ あなたは、どちらの市場の声を聞いているか

最後に、問いを置きたい。

いま、あなたが「お客さんの声」として聞いているもの――それは、今日の顕在ニーズだろうか。それとも、長期の世間の審判だろうか。

この二つを混同すると、危うい。短期の声を「市場の最終判定」だと思い込めば、未来への跳躍をためらってしまう。逆に、長期の審判を「今日の声」だと侮れば、独りよがりな商品を世に問うて、市場の声を聞かなくなる。

短期の声は、超えるために聞く。長期の審判は、従うために聞く。同じ「聞く」でも、意味がまるで違う。

次回は、第八の矛盾――「余裕(ダム)を蓄えよ」と「ムダを徹底的に削れ」を並べてみたい。

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