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次剥(つぎはぎ)― 第3部(第二十一話〜第三十話)

※第1部から読むことをおすすめします
第1部(第一話〜第十話)はこちら

第2部(第十一話〜第二十話)はこちら


次剥 第二十一話 幸福だった家

 その年の暮れに、三鷹で借りたアパートをすぐに引き払い、少ない荷物と残った記憶のすべてをゴミ袋に詰め込んで転職先を探した。幸いにも小さな制作会社がすぐに見つかった。たまたま前任が抜けた穴を探していたらしい。思いの外、転職はスムーズにいった。
 東小金井に新しく借りた小さなアパートからも新しい会社は近く、人間関係も良好で転職後すぐに馴染めたことにホッとした。
 今まで培ってきた経験も、徹夜で押し付けられてきた資料作りもすべてが歓迎され、水を得た魚のように仕事に没頭できた。本当にありがたかった。あの忌々しい代理店の重苦しい空気、源二と過ごした時間、それらすべてを意識の淵から引き剥がすように業績を伸ばすという現実の積み重ねで強引に塗りつぶしていった。「仕事ができる男」の仮面は、かつての私よりもずっと硬質でよく馴染んだ。酒もタバコもピタリとやめた。

 その職場で志津と出会ったのは、私がまだその仮面を必死に被っていた時期だった。彼女はよく笑う、芯の強い女性だった。私の少し気の弱いところも、人の顔色を読んでしまう臆病なところも、志津はただ笑って丸ごと受け止めてくれた。「あなたは優しすぎるのよ」と彼女はよく言った。咎めるのではなく、私という人間を慈しむように。志津が私を「まともで頼りになる男」として見てくれるからこそ、私はようやく自分を許せる気がした。
 志津と結婚したのは、それからすぐのことだった。二十七歳になる年のことだ。身重になった志津と小さな式を挙げただけだった。志津側の身内はほとんどいなかった。両親を立て続けに病気で亡くし、血のつながりといえば二つ下の妹がひとりいるきりだったからだ。その子は香澄、といった。
 香澄は一見地味で物静かな佇まいの中に、人を魅了する不思議な調和があった。式のあいだじゅう、姉の背後に控え気配を消すようにして献身的に動く彼女の仕草。聞いた話によると植物の研究をする大学を出てからは、近所で一人暮らしをしてガーデニングや観葉植物、庭いじりが好きで花屋でバイトをしながら気ままに暮らしているらしい。ご両親が残してくれた三鷹の都市開発エリアに最近建ったマンションに一人で住んでいると言う。
 ときおりベランダで育てた白い花を花瓶に刺し私たちの家へ手土産で持ってきてくれた。私はその様子に、どこか自分の子供時代と重なるような切実な共鳴を覚えた。
 私は昔から、他人の感情の機微を拾い上げる癖があるが、それは処世術というよりも、ある種の護身術のようなものだった。だからこそ、人の「本音」と「体裁」の境目には敏感なつもりだったし、その境界線を見極める目には絶対の自信を持っていた。
 いま思えば、それが私の致命的な読み違いだった。あれはそのように用意されたものをただ読み取らされた感情だったのか、自分の経験がこれほどまでに脆くたやすく欺かれたという事実に、背筋が凍るような戦慄を覚える。

次剥 第二十二話 カート

 結婚と妊娠の祝いにと、香澄は生まれたばかりの白い子犬を何処からか連れてきてくれた。カートと名付けられた子犬は、まだ初々しさの残る我が家に言葉にはできない柔らかな季節を運んできた。
 志津は家事の合間、頻繁に膝の上で丸くなるカートに話しかけていた。その時の志津の横顔は、まるで聖母のように穏やかで私までがその幸福の輪のなかにすくい上げられているような気がした。
「見て、蒼一。今日はお腹を出して寝てるのよ」と、志津が指先でカートの柔らかい毛を梳かす。その指の動きを目で追うだけで、一日の仕事の疲れが溶けていくのがわかった。私にもカートは格別な愛着を見せてくれた。
 仕事から帰宅し玄関を開けると、カートは耳をピンと立てて小さな足で駆け寄ってくる。私の足元にまとわりつき、小ぶりな尻尾を千切れんばかりに振って出迎える。その無垢な熱に触れるたび、職場で削り取られた精神が少しずつ確実に修復されていくのを感じていた。週末には志津と二人でベランダに出て、香澄の影響で始めたガーデニングを眺めながらカートの毛をブラッシングするのが楽しみになった。私たちは「家族の枠組み」が完成していく手応えを噛み締めていたのだ。

 そんなある日の午後、事件は唐突に舞い降りた。その日は空が異様に高く、抜けるような青空が広がっていた。私は仕事で不在、家には志津と、妊婦の様子を見守りに来てくれた香澄の二人。

 ほんの些細な日常の隙間だった。志津がキッチンで茶を淹れ、香澄がリビングで白い花を飾り付けているときだったという。

 突如として、階下の路地から響いた「キャンッ」という鋭い悲鳴。それは、これまでの平和な日常を真っ二つに引き裂く予兆のような音だった。志津がティーカップを取り落とし、砕け散る音と同時に駆け出したとき、ベランダへの扉は無防備に開かれていたという。駆けつけた香澄は青ざめた表情をしていた。

落下事故。

鳥か何かを追いかけたのだろうか。ベランダの柵の隙間から高層階下へ放り出されてしまったカートは、アスファルトの上で無様に折れ曲がっていた。身体の小さなカートは柵の隙間をすり抜けてしまったのだ。誰もいないベランダではカーテンが風に煽られ、まるで踊るように激しく打ち震えていた。

 病院からの帰路、志津はカートを胸元に抱きしめ、一度も泣かなかった。診断は絶望的だった。頭蓋骨の陥没と、後ろ足の複雑骨折。獣医が「安楽死も視野に」と告げたとき、志津の横に立っていた香澄が志津よりも早く「いえ、必ず助けてください」と食い下がってくれたという。その声の響きは、志津の決意を縛り付けるような、奇妙に重たい強さを持っていた。

 その日から、私たちの日常は一変した。

 二人は文字通りカートに張り付いた。頭蓋骨損傷による脳への圧迫を和らげるため、志津は数時間おきに鎮痛剤を投与し、カートが意識を失うたびに、その小さな身体を優しくさすった。まるで、折れた骨を自らの手で治癒するかのように。
 自分も悪阻で苦しいはずなのに、志津は夜通し続く看護を続けた。その甲斐あってカートは一命を取り留めた。しかし、頭蓋骨は歪んだまま癒着し、右目は常にうつろな光を宿したままどこか遠くを彷徨っている。足は複雑骨折の影響で関節が奇妙な角度で固まり、床を歩くたびにカッ、カッ、と乾いた骨の音を立てて引きずった。神経が損なわれたのか、ときおり何もない虚空を眺め、そのまま糸が切れたようにその場にへたり込む。
 それでも志津は、そのいびつな姿を「生きていてくれたことの証」と呼び、今までとなんら変わらぬ愛情を注ぎ続けた。彼女の懸命な献身を眺めながら、私はなぜか、背筋を這い上がるような薄ら寒さを覚えていた。救ったのは慈悲なのか、それとも、この壊れた姿を永遠に見せつけ続けるための執着なのか。カートは確かに生き延びた。けれどその瞳の奥には、落下した瞬間に何かが砕け、二度と戻らない闇が入り込んでいた。私たちはそれを「奇跡」と呼び、家族として受け入れることで、静かにその不気味な違和感に蓋をしていった。
 
 程なくしてその命は私たちのもとへやってきた。予定日を少し過ぎての誕生だった。四千グラムを超える、ずっしりと重い男の子。私たちは初めての子に「真咲(まさき)」と名付けた。抱き上げた腕のなかに宿ったのは、この世の何よりも温かく力強い「生」そのものだった。
産声が響いた瞬間、私は自分の胸の奥で、カートのあの事故から凍りついていた何かが音を立ててゆっくり解けてゆくのを感じた。ありがとう、ありがとう―。
 志津の疲弊しきった顔を覗き込み、私は心の中で、そして声に出して幾度も祈るように繰り返した。障害を抱えるカートの姿に慣れ始めた日常に、これほどまでに無垢で、力に満ちた生命が舞い降りるだなんて。
 病室には遠方から私の両親も駆けつけてくれたおかげでいつも優しい祝福に溢れていた。初孫を抱き、皺の寄った手でその柔らかな頬に触れる父と母の顔を見て、私はこみ上げる感情を抑えられなかった。私の血を分けたこの小さな存在に、尊厳という言葉以上の光を感じていた。彼はただ、そこにいるだけで世界を浄化する力を放っていた。

 自宅に戻ってからの日々は、まさに夢のようだった。夜泣きに追われ、寝不足でふらつく体さえも愛おしい。小さな掌を握ると指先から伝わってくる脈動が、私の心臓とシンクロしてリズムを刻む。これまで仕事の業績や、社会的な仮面の保持に注いできたすべてのエネルギーが、この小さな息子の成長という唯一の目的へと収束していくようだった。

 志津と私は、この子の誕生によってようやく本当の「家族」になれた気がした。いつもと変わらずリビングの床ではいびつな足をひきずりながらカートが音を立てて歩き回り、その傍らで真咲がすやすやと眠っている。取り留めた命と、新しい命。忘却の過去と、希望に満ちた未来。そのコントラストさえもが、この家の慈しみ深い愛の象徴に見えていた。

 この子のためなら何でもしようと思った。
 この尊い生命を、何があっても守り抜く。そのとき私の抱いた決意は、親というより太く根深い本能に根ざしたものだと自分自身を信じ込ませていた。

 真咲は物心ついたときには、もう足を引きずるカートしか知らなかったからか、ただ当たり前の家族として誰よりもカートのそばにいた。傷ついたカートを小さな腕で抱いて、かわいいねえ、と笑っていた。まるで兄弟のようにいちばん深く愛する子だった。

次剥 第二十三話 運動会

 真咲が六つの頃、小学校で初めての秋運動会があった。私は朝からどうかしていた。みっともないからやめて、と妻に何度も肘で小突かれるくらい、声を張り上げていた。小さな体が白い線の上を、転びそうな足取りで走っていく。その背中に向かって、周りの親たちがぎょっとして振り返るほどの大声で、私は名前を叫んでいた。
 頑張れ。頑張れ。負けるな。―もう声が嗄れていた。
 なぜあんなに夢中になったのか、いまでもうまく説明ができない。ただ、あの白い線の上を走る小さな背中を、私は世界中のどんなものよりも尊く感じた。あの子がゴールの線を越えた瞬間、私は自分のことのように両手を突き上げた。胸の中が、身の置きどころのないくらい温かかった。

 ―私はみんなを幸せにしてあげられる男でいたかった。

 志津を。真咲を。この小さな家族を、私のこの手で守って、笑わせていられる男で。そういう男に自分はなれたのだと、あの秋のまぶしい光の中で、私は信じていた。

次剥 第二十四話 読めない女

 志津の体調が優れず、心なしか痩せはじめたのはいつからだったろう。
真咲が小学三年生に上がった頃から志津の身体は何かが音もなく剥がれ落ちていくようだった。気がつけば食卓で箸が止まり呼吸を整え直す回数が増えている。あれほど健やかだった寝息は途切れがちになり、夜更けに何度も、虚ろな目を見開いては寝返りを打つ。鏡に映る横顔は日ごとに悪い意味で透明度を増し、青白い輪郭へと溶けかかっているようだ。真咲も母を心配しずっとついて回っていた。

 立ちくらみを訴えて柱に縋る志津の背中は、かつて私を受け止めてくれた強さを失い、風に吹かれればそのまま消えてしまいそうなほどに頼りない。

 病院へ連れて行っても、診断はいつも同じだ。「異常なし」気のせいだ、疲れが溜まっているだけだ―。そんな無機質な言葉を突きつけられるたび、志津の体温は、まるでどこか遠い場所へ向かって逃げ出していくように下がっていく。私はただ、隣で呼吸を繰り返す彼女を、砂を掬い上げるような思いで見守るしかない。日に日に薄くなり、この世界の輪郭からこぼれ落ちていく。
 香澄が頻繁にうちへ訪ねるようになってくれたのは正直ありがたかった。私は仕事で家を空けることも多くなってきたし、多少手がかからなくなったとはいえ真咲のことや軽い介護が必要なカートのこともあった。
 「姉が心配でいてもたってもいられない」と彼女は言い、食事を作り、掃除をし、弱った志津の背中を献身的に支えてくれた。いつものように白い小さな花をよく持ってきてはキッチンテーブルに彩りを添えてくれた。お姉ちゃん無理しないで。私がぜんぶやるから。その姿に私はいつも頭が下がる思いだった。

 思い返せば、真咲がまだ言葉を覚えたてで、家の中を這い回っていた頃のことだ。カートがいつものように床を乾いた音を立てて引きずりながら移動していた。不意に、真咲がカートの尾を踏んでしまった。キャンと鋭い悲鳴を上げ、その弾みで真咲が後ろへ倒れ込み、角で頭を打って泣き出した。慌てた志津が「真咲!」と駆け寄り、抱き上げようとする。その横で香澄が動いた。彼女は志津より早く真咲の傍らに膝をつき、まるで精密機械のように手際よく、真咲の頭の打ち所を検分した。その一連の動作のあまりの冷静さに私は言葉を失った。
 普通なら、姉が取り乱していれば妹も動揺する。あるいは、泣き叫ぶ子供を見て一瞬でも顔をしかめるのが人間だ。しかし香澄の表情には、一滴の情動も混じっていなかった。彼女の目は、ただ真咲の「怪我の程度」という情報を収集するカメラのように淡々と対象を捉えていた。
「大丈夫、たんこぶで済むわ」
 彼女はそう言って、志津の腕から真咲をひょいと受け取った。志津が安堵して涙を拭っているあいだも、香澄は真咲を抱きながら、まるで興味のない対象を抱えるかのようにただ一点を見つめていた。その瞳には、甥への慈しみも、姉への共感も、欠片ほども宿っていない。
 しかし突如、スイッチが入ったように目の色が変わり「お姉ちゃん大丈夫よ。真咲も怖かったねえ」と、とってつけたようなあまりにも白々しい所作が差し込まれた。

 そこにいたのは、愛し合う家族の一員ではなく、この家庭という舞台で完璧な妹を演じきろうとする「観測者」と、何処かで剥ぎ取ってきた皮をかぶった「愛慕」だった。
 私はその光景を背後から見ていて、違和感を感じたのを鮮明に覚えている。志津が香澄をどれほど頼りにしているかを知っているからこそ、それを否定しようと必死だった。あれはただの冷静さだ、優秀な妹なのだ、と。今にして思えば、あれは彼女の人間性が露呈した、ほんの短い「綻び」だった。
 彼女の瞳の奥から、温度を感じとることができない。姉を慈しむその表情の裏側に、何らかの意志や情動の形を探しても、そこにはただ、吸い込まれそうなほどの「空白」が広がっているだけだった。空っぽなのだ。読むべき「個」が存在しないかのような、冷たい空白。私は彼女の心理だけがいつの間にかさっぱり読めなくなっていた。

 私はその空白を、一種の「善意」と書き換えた。姉を想う妹の心という、世間一般の論理をあてはめて自分を納得させたのだ。己の直感を欺き、最優先で覗き込むべきその深淵を、私は「家族」という柔らかな毛布で覆い隠した。見落としたのではない。見ないようにしていたのだ。自分を欺き、志津を欺き、無防備な真咲をその空白の隣に置いた。あの冷たい空白が、やがて我が家の食卓を、そして私たちが築いた幸福を少しずつ噛み砕いていくことになるとも知らずに。

次剥 第二十五話 階段

 唐突にその朝が来た。約十二年間の結婚生活が一瞬にして瓦解し始める悪夢のような一年間の始まり。記憶から抹消していたいくつかの喪失。

 その日も時折魘される、自分に追いかけられる夢を見て飛び起きた。
 志津はめずらしくしっかりとした足取りで起きてきた。真咲の手を引いていた。今日、香澄のところにこの子を預けてくるわ、と私を安心させるような笑顔で志津は言った。あの子、最近ずっと手伝いに来てくれてるでしょう。たまにはこっちから顔を出さないと。それに…しばらく真咲を見ててもらおうと思って。私、こんな調子だから。真咲ももうすぐ高学年のお兄さんだし、一人でも留守番できるから。

 私は止めなかった。

 胸騒ぎはまだみぞおちに沈んでいた。けれど私は、それをただの悪い夢の名残だと思っていた。妹のところへ子を預けに行く。ただそれだけのことだ。
 大きなプロジェクトの進行を任されていた私は、朝食もそこそこに、早朝ミーティングへと足早に出かけた。
 真咲を連れて出かけた志津と最後に別れたのは玄関先だった。その痩せた背中が我が子の手を引いて、ゆっくりと遠ざかっていくのがスローモーションのように目に焼きついた。―私はいつもそうだ。誰かの背中ばかりを見ている。そして、いつも間に合わない。

 ひとしきり長時間の会議が終わり、プレッシャーからも解放され一息ついた昼過ぎごろ。唐突に携帯電話がけたたましく鳴った。

病院からだった。

 香澄の住むマンションの外づけの鉄階段。志津はその踊り場から下まで落ちたのだという。真咲を香澄に渡したあとだった。香澄は泣きながら言った。姉さん、急にふらついて…私、手を伸ばしたんだけど、間に合わなくて…。

 間に合わなくて。

 その言葉は長い結婚生活のおかげでようやく解けかけてきた私の一番柔らかいところへ深く突き刺さった。

志津の最期は、驚くほどあっけなかった。

 あんなに必死に、大切に守ろうとした温かな光が、まるで最初から存在しなかったかのように、ただふっと掻き消えた。

 病室の窓から差し込む午後の陽光が、彼女の顔を白く染め上げる。懸命に生にしがみついていた指先は、もう届かないところへ行ってしまった。

 死とは、こんなにもあっけなく静かに移行するものだったのか。

 立ち昇る紫色の煙を掌で掴もうと足掻くように、私は震える指で空気をかき回した。何一つ、掴めなかった。ただ、彼女の肌から急速に熱が逃げ出し、冷え切った静寂が部屋を支配しただけだった。

 香澄は医師から志津の死を告げられた瞬間も涙一つ流さず、姉の乱れた髪をただ静かに整えるだけだった。まるで仕事の一環のように、あるいは、壊れた人形を箱に収めるかのように淡々と。

 何に、どこにこの悲しみをぶつければ良いのかもわからずただただ、私は呆然と立ち尽くしていた。ただ灰になってしまった幸福の煙を追いかけて、何もない空間を掴み続けるしかなかった。

次剥 第二十六話 提案

 葬儀はシナリオをなぞるように、慌ただしく、そして不気味なほど淡々と進んだ。喪主であるはずの私はあまりにも頼りなく、香澄が実質的な采配を振るってくれていた。ご両親の葬式の時も泣き崩れる志津の代わりにそうしてくれたらしい。
 弔問客への対応から火葬の手配、親族の接待に至るまで、彼女は完璧にこなしてくれた。
その所作の一つひとつに迷いはなく、あまりの手際の良さに、親族たちは「蒼一さんを支える、本当に姉想いの妹だ」と香澄の背中を讃えた。私はその光景を鈍い水底から見上げているような眩暈の中で眺めていた。

 志津が居なくなった家は、がらんとした巨大な空洞になってしまった。

 葬儀を終え、ようやく真咲と二人きりになった家で、私は玄関先に立ち尽くしていた。かつて志津とカートと真咲が迎えてくれた、あの穏やかな熱気がそこにはない。時計の秒針の音が、心臓の鼓動よりも大きく、規則正しく部屋を切り刻んでいく。窓から入る風がいつも飾ってあった白い花の芳香をはき出し、代わりに埃っぽい沈黙を運び込む。
 まるで志津の存在していた痕跡を、この家そのものが一つずつ消しゴムで消し去っていくような「無」だった。

 夜になると、その静けさが皮膚を突き刺した。
 キッチンに立てば、彼女が使いかけで置いたままの調味料が異物のようにそこにあり、寝室へ行けば、彼女の匂いが染み付いていたはずの枕が、ただの布の塊に戻っている。彼女が座っていたソファ、彼女が愛読していた本。だが、何に触れても彼女の温もりはどこにもなく、指先から冷えが這い上がってくる。

 この静けさに、少しずつ私は削り取られていった。
 魂の一部が、毎日少しずつ、どこかへすり抜けていくような感覚。志津が死んだのではない。彼女を失ったという事実が、私の生活の端々を、紙やすりのようにじりじりと削り続けたのだ。

 そんな私を、香澄は時折廊下の闇の中からじっと見守っていた。彼女は何も言わない。ただ、家主のいなくなった部屋に当然のように佇み、静かに呼吸を馴染ませていた。その冷たい眼差しを感じるたび、私は志津の死が、誰かの手によって完遂された「完成された不在」であるような言いようのない悪寒に震えた。私は削られ空洞になっていく。そしてその隣で、あの「空白」が、さらに大きく口を開けて私を飲み込もうとしていた。

 程なく毎日のように香澄が我が家に訪れるようになった。

 表向きは葬式の片づけを手伝いにかけつけたようだった。けれど、いつのまにか夜もそのまま泊まっていくようになり、自分の家に帰らなくなっていた。しばらくここで三人で暮らしましょう。お義兄さん一人では、真咲を育てるのも大変でしょうから。―そう言って香澄は、当たり前のようにこの家に居座った。

 私は止められなかった。止める力がなかった。判断する頭も、断る気力も、あのころの私にはひとかけらも残っていなかった。私はただ流されていた。香澄と真咲とカートの三人で、志津のいない家で暮らしはじめた。

 志津を失った穴は、自分が思っている以上にずっとずっと深かった。日が経つほどに、喪失の穴は塞がるどころか、底が際限なく抜けていった。目が覚めるたびに、隣の空白に手が触れ、志津がいない事実にその都度深く傷ついていく。私は生きているという感覚そのものから、ゆっくりと遠ざかろうとさえ思ってしまっていた。このまま静かに消えてしまうことができたら。そんな無責任な逃避の欲望が、夜の帳とともに忍び込む。

 隣で真咲も懸命にもがいていたようだ。葬儀の日、真咲は喉が張り裂けるほど泣き喚いていた。あんなに小さな身体で、世界の終わりを全身で受け止めていたはずだ。しかし、子供は恐ろしいほどに順応性が高いのだろうか。あるいは、悲しみをやり過ごす術を本能的に知っているのか。
 真咲は次第に日常のリズムを取り戻していった。食卓で自分の分のパンを齧り、おもちゃを広げ、カートを甲斐甲斐しく世話し、微かに笑うことさえあった。
 その光景が、私にはたまらなく残酷に映った。なぜ、あの子は平気でいられるのか。母親が死んだというのに、どうして明日を笑えるのか。自分の中にある、泥のように重く決して癒えない悲しみと比較して、私は無意識のうちに真咲を疎ましく感じ始めていた。

「お父さん。」

 真咲が小さな手で私の服の裾を引くたび、私はその声の響きから逃げ出したくなった。そこには、越えられない薄い幕のような距離感があった。この子が私を見上げる瞳の中に、かつての志津の面影を見つけてしまうのが怖いのか、それとも、真咲が私を必要としているという事実が、壊れた私には重すぎるのか。
 私は、真咲のまっすぐな視線からいつも目をそらすようになっていた。
 壊れたものを壊れたまま愛せる強さを、真咲は生まれながらに持っていたのかもしれない。けれど、私はそんなに強くなかった。自分自身の悲しみに溺れ、父親としての責務を放棄し、最も抱きしめるべき息子の存在にさえ、背を向け続けていた。
 家の中には、二つの異なる時間だけが流れていた。ひとつは前に進もうとする真咲の命、そしてもうひとつは、過去の死を噛み締めて止まったままの、私の時間だ。

 違和感を覚えたのは、四十九日を終えたあたりからだった。
 香澄の完璧な仮面が少しずつ綻び出してきたのだ。今までどおり献身的なのは変わらない。よく動き、よく気がつく。けれど、その底に、ときどきぞっとするような悍ましいものが、ちらちらと覗くようになった。志津を悼む顔をしているのにその目の奥がなぜか満たされている。姉を失ったはずの女の目に、ときどき奇妙なつやのようなものが差し込むのだ。

 呼び方も変わった。
 以前は香澄は私のことを「お義兄さん」と呼んでいた。それが四十九日を過ぎたあたりからふいに「蒼一」に変わった。たったそれだけのことだ。けれど、その「蒼一」には、姉の夫を気遣う響きがなかった。もっと、なんというか―品定めをするような、自分のものに呼びかけるような、湿った響きがあった。呼ばれるたびに、背筋に、つめたいものが走った。私はなんとなく、香澄と二人になる時間を避けるようになった。

 そして、真咲も同様だった。
 
 あの子は香澄といる時間が長くなったせいか、彼女の言うことをなんでも聞くようになっていた。母を亡くしたばかりの子が叔母に懐く。それだけならわかる。けれど、真咲の従い方は、どこか違った。香澄が何か言うと、真咲は自分の考えを挟む前に、すっと香澄の顔色を窺う。叱られた犬のように。あるいは、糸で吊られたように。―操られている。そう感じざるを得ない気配があった。

 その悍ましさは、どこかで覚えがあった。その符合の意味を、当時の私はそれ以上辿れなかったが、同じような闇が香澄の中に、人ではない異形の塊が座っている、ということだけが肌でわかった。

 ある日のことだった。
 私がぼんやりと真咲を見ていると、あの子がふいにこちらを向いた。そして、香澄から聞かされていたであろう言葉をそのまま口にするみたいに、言った。
 
―お母さんが死んだのは、お父さんのせいだよ。

 その一言に、私はギョッとした。どこか自責の念があったことを見抜かれた気がしたのだ。私の中の何かが、パキリと折れてしまった。
 反論も訂正もできなかった。ある意味、本当だったから。私は日々志津が薄くなっていくのをすぐそばで見ていながら、実際に何もできなかった。―けれど、それを、いちばん幼い、いちばん守るべき息子の言葉で放たれた矢を、受け止めきることが私はできなかった。その場に立っていられなくなり、逃げた。

 逃げるように、私はその部屋を飛び出した。行く先も決めずただ、あの家からあの目から、あの言葉から、遠くへ。情けない話だ。四十の男が、十かそこらの子の一言に耐えきれず、家を捨てて逃げた。

次剥 第二十七話 ほっとした

 一週間ほど、私は当てもなく彷徨った。
 会社の近くの安宿を転々として、ただ頭を冷やそうとした。冷やして帰って、真咲に謝ろう。香澄のこともどうにかしよう。

―そう思えるくらいに落ち着きを取り戻した頃、私は家に帰った。

が、家はまさに空白になってしまっていた。

 誰の痕跡もなかったのだ。元々多くはない私の荷物も最小限にまとめられ玄関の脇に詰められていた。
 香澄も、真咲やカートもいなかった。志津の、簡易仏壇や真咲のおもちゃ、学習机さえも、根こそぎ消えていた。まるで、はじめから誰も住んでいなかったみたいに。香澄が真咲を連れて、出ていったのだ。
 すぐに香澄に電話をかけようと携帯を握りしめた。が、私は力無くまたポケットに仕舞った。

 最低の話だ。一人息子の居場所がわからなくなってしまったというのに。
 香澄の悍ましさからも、真咲のあの目からも、「お父さんのせい」というあの一言からも解放されたくて、私は、肩の力がすっと抜けるのを感じていたのだ。これで、もう、あの家の重さに耐えなくていい。そう思ってしまった。ほんの数秒。けれど、確かに私はほっとしたのだ。

その数秒を、私は今もまだ許せない。

 強くて優しい、みんなを幸せにできる男。そうありたかった男が、妻を失い息子を捨て、その息子への責任が消えたことで私の中で何かが決定的に崩れる音がした。私は仕事を辞めるわけにもいかず、あの街に留まることもできず、隣町へと居を移した。カートと真咲、志津と暮らしたあの部屋の契約は解約した。真咲の産声が染み付いた壁紙も、志津が好んだ陽だまりのベランダも、すべて過去の遺物として棄て去ることにしたのだった。

それから、一年が経とうとしていた。

 あの悍ましい記憶に蓋をし、ただ無機質に明日をやり過ごすだけの生活を送っていたある夜、今まで避けてきた番号が液晶に浮かび上がった。

携帯の向こうには香澄がいた。わずかに湿った吐息と、アルコールの混じった甘い声。
「お久しぶりね、蒼一。元気にしてた?」
その声は、かつての控えめな妹のものではなかった。棘を含み、濡れたような妖艶さを纏い、全方位を値踏みするようなマウントの気配を漂わせている。私はこの一年間で完全に自信を喪失していた。あの電話越しに放たれる圧力に、背筋を凍らせながら、震える声で真咲のことを問うしかなかった。
「…真咲は、どうしている。元気にしてるのか」
香澄はクスクスと笑った。その笑い声には、私の不安を弄ぶような悪意が透けていた。
「ああ、真咲なら元気よ。問題ないわ。…あなたのこと、とっても心配してたわよ」
―嘘だ。
直感が警鐘を鳴らす。

 かつて志津の死の直後に私が感じた、あの底冷えするような違和感。香澄の言葉には、対象に対する愛情も、敬意も、ただの一滴も含まれていない。そこにあるのは、支配の確認と、獲物に対する冷ややかな嘲笑だけだ。

「…なにか…気づいたのかしら? ようやく、私のことが見え始めてきたみたいね」
ふふ。と笑い香澄は続けた。
「なぜあのとき逃げたの。姉さんがいなくなれば、あなたは当然、私のものになるはずだったのに。あなたが弱って、壊れて、私を頼るのをずっと待っていたのよ。なのに、どうして必死で私を追いかけてこないの?」
 背筋が凍りついた。彼女は私を追い詰め、破壊し、そして最後に自分の手元へ回収するシナリオを描いていたのだ。
「私と真咲の居場所の痕跡なら、あの部屋にたくさん残してあったわよ。あなたがもっと必死になって、血眼で私たちを探してくれていれば、すぐに会えたのに。……ああ、でももういいわ。そんなに遠回りさせて、私を焦らさなくてもいい」
 
 彼女の言葉が、不可解すぎて私の心臓をえぐる。彼女が何を言っているのか全く理解できなかった。なぜ香澄は私を求めているのか?私からそのような素振りを見せた覚えは一度もないし、彼女の挙動からそんな情念を感じ取ったことは、ただの一瞬すらもなかった。
 彼女にとって、この一年は「獲物が自ら網に飛び込んでくるのを待つ期間」に過ぎなかったのだ。
「もうすぐ、すべて完了するわ。真咲を完璧に塗り替えおわったから。次はあなたの番よ。…やっと、私たちだけの家族になれるのね」

完了。

その単語が、私の思考を麻痺させた。
「…なんのことだ?」

 問いかけた私の声は、ひどくかすれていた。電話の向こうで、香澄がゆっくりと喉を鳴らした。まるで、長い時間をかけて準備してきた計画の、最後のピースをはめ込む瞬間の喜びを噛み締めているかのように。
「あなたはまだ分からなくていいわ。…ただ、楽しみにしていて。じゃあまたね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
切られる。そう直感した瞬間、私の心臓が跳ね上がった。とにかく彼女の声を繋ぎ止めなければならない。彼女の言った「完了」とは何なのか。 その一心でパニックを起こした脳裏に、突如としてあの光景が蘇った。ベランダから不自然に落下した、哀れなカートの姿。志津が壊れ、我が家が崩壊していくカウントダウンは、あの日から始まっていたのではないか―。ぞっとするような悪寒が背筋を走り、私は受話器に向かって遮るように叫んでいた。

 「カートは……カートは元気にしてるのか?」
電話の向こうで、香澄はあからさまな拍子抜けの息を吐いた。彼女の声からは、私の必死さが滑稽でならないと言わんばかりの、冷徹な響きが伝わってくる。

「ああ、あの犬なら処分したわよ」

 あまりに淡々と、天気の話でもするかのように、彼女は言った。
「あの犬、最近はずいぶん酷かったもの。後ろ足は引きずって床を汚すし、排泄も自分ではままならなくなっていたでしょう? もう十分、いい役目はしてくれたわ。両親を亡くした姉さんの寂しさを埋めて、真咲に『壊れたものを慈しむ』という歪な教訓を植え付けて。あの子の役割は、とっくに終わっていたのよ」

 電話越しに聞こえるのは、彼女がグラスを回す氷の音と、規則的なBGM。
カートは死んだ?弱々しくながらも懸命に生きていた、志津や真咲が愛して抱きしめていた命。彼女の手で、まるで賞味期限の切れた食料品のようにゴミとして捨てられたのだ。

視界がぐらりと揺れた。

 カートの後遺症は、単なる事故ではなかったのだ。彼女の支配下で、姉を殺し夫を追い出し、子を孤立させるための完璧な段取りの一つだったのだ。志津という「核」を失った家で、残された家族の絆を一つずつ、物理的に、そして精神的に切断していく。彼女にとっての献身とは、愛することではなく、解体することだったのだ。

「……お前、狂ってるのか」
私の震える声を、香澄は鼻で笑った。
「狂っている? いいえ、整理していただけよ。私が生きていくために、邪魔な執着をね。それより蒼一、真咲がなんて言ったか聞きたい? あの子、最近とってもいい目をしているのよ。完璧なお人形みたいに」
電話が切れた。
 耳元には、ツーツーと無機質な切断音が響いている。携帯を握りしめる指先が氷のように冷たくなった。

真咲。

 彼の元から逃げ出してしまった私が言えることではないのは重々わかっている。だが、あの女の掌の中に残された息子の顔が脳裏に浮かぶ。彼は今、どんな想いでいるのだろうか。私の存在をすでに「剥ぎ取るべき執着」としてカウントしているのだろうか。
 私は何も持っていない。志津も、カートも、誇りも自信も。すべてを失った今、私に残されているのは、あの女の言葉に塗りつぶされていく、息子の無垢な未来への恐怖だけだった。

 脳内で、バラバラだったピースが猛烈な勢いで噛み合っていく。義両親が老衰というにはあまりに早く痩せ細って肺炎で息を引き取った話。日々薄紙を剥ぐように消えていった、あの不可解な病状の志津。そして、ベランダの柵の隙間から唐突に消えたカート。「処分」という言葉の冷たさ。

すべてが一本の線に繋がった。

 香澄は、ただの義妹ではなかった。彼女は我が家という器に最初から入り込んでいた「腐食剤」だったのだ。姉の理解者という大義名分を盾に、志津から栄養を吸い取り、私の尊厳を切り刻み、最後の光である真咲を、自分の色に染め上げるために。

標的は、最初から真咲だ。

 志津を失い、父を失ったあの子を、誰の庇護も受けられない完全な空白の中に追い込み、自分という唯一の存在で埋め尽くすつもりだ。恐怖よりも先に、獣のような怒りが腹の底で渦巻いた。私は震える手で、もう一度あの番号を叩いた。呼び出し音が鳴る。一回、二回。心臓が早鐘を打つ。……早く出ろ。三回目で、つながった。

「……何の用かしら、蒼一。しつこいわ。さっき言い忘れたことでもある?」

電話の向こうの香澄の声は、先ほどよりもさらに低く、愉悦に満ちている。私は怒りを飲み込み、極限まで張り詰めた声で切り出した。
「お前、何をしようとしているんだ。真咲に何をした。…まさか、お前が最初から、すべてを」

「すべてって、何を?」
香澄はわざとらしく首を傾げるような、甘い吐息を漏らす。
「姉さんがいなくなったのも、両親が消えたのもただの運命よ。私がしたのはただそのあとの『片付け』だけ。……でもね、蒼一。片付けが終われば、新しい家具を置くのが普通でしょう?」

「真咲には指一本触れさせない!」

 私の絶叫に、香澄は心底可笑しそうに笑った。その笑い声は、私のすべての言葉を無力化するような冷酷さを孕んでいる。
「遅いわよ。だってもう、真咲は私の望む通りの子になったわ。…あなたには、何もできない。ただ、そこで見ていればいいのよ。姉さんの息子が、あなたの愛した姉さんの面影を纏いながら、いかに美しく『完成』していくかを」

「香澄ッ!」
「またね蒼一。もう電話はかけてこないでね。用がある時はこちらからかけるから」
 通信が切れた。私はその場に膝から崩れ落ちた。静まり返った部屋の中で、自分の荒い呼吸だけが響く。彼女は、真咲を「家具」として扱うと言った。
 私はいてもたってもおれず、上着をひっつかんで玄関へ飛び出した。あの街へ戻らなければ。真咲を取り戻す? いや、それよりももっと深い、取り返しのつかない何かが起きているという予感が、私の首筋を締め付けていた。
 母を失い、父である私が逃げ、可愛がっていた犬まで消えて、あの子の周りから愛したものがひとつずつ剥がされていった。最後に残ったのは、それを仕掛けたあの女の手だけだった。

次剥 第二十八話 憎いほど愛していた

 それから香澄は私が日々衰弱していく様子を観察するかのように二、三日おきに電話をかけてきた。未だ真咲と香澄の居場所を探し当てられない私の焦っている様子を、嘲笑いまるでかくれんぼでもしているかのように。

 電話の内容はいつも一方的だった。そのなかの一言が強烈に脳裏にこびりついた。
「私は、姉さんを、憎いほど愛していたのに」

憎いほど。

 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、私の背筋を電撃のような戦慄が駆け抜けた。それは嘆きではなかった。あれは、彼女の中に長年溜まり続けてきた、どす黒く粘りつくような情念の「開栓」だった。
 私は、香澄が志津をただ逆恨みから殺したかったのだとばかり思っていた。邪魔者として排除したかったのだと。だが、そうではなかった。彼女は、志津の存在そのものを、自分の細胞の一つひとつに溶け込ませたかったのだ。
 彼女にとっての「愛」とは、共存ではない。完全なる同化だ。
「憎いほど愛している」―その一見矛盾した形容詞こそが、彼女の狂気の正体だった。自分にはない志津の優しさ、志津の幸福、志津の醸し出す陽だまりのような温かさ。それらすべてを羨望し、渇望し、そして手に入らないと悟った瞬間に、愛しき対象を破壊することで自分の中に「保存」しようとした。
彼女は志津を殺すことで、志津になろうとしたのだ。

 志津の原因不明の衰弱。日に日に薄くなっていったあの顔。香澄の献身。背中をさすった手。階段の踊り場。間に合わなくてという涙声。そして、いまあの女が口走った「憎いほど愛していた」とのねじれた所有の言葉。志津を殺したのは香澄だと確信した。

 病気でも事故でもない。あの女がすぐそばで、献身的に看病するふりをしながら、すこしずつ姉を眠りのほうへ沈めていったのだ。カートのときと同じ顔で。事故を、病気にすり替えて。

 恐怖が引くのと入れ替わりに別のものがせり上がってきた。それはもう、自分の身を案じるあの逃げ腰の怯えではなかった。私はあの子を取り戻さなければならない。香澄から真咲を引き剥がして、こちらへ。―もう逃げていられなかった。
「……今、どこにいるんだ」
 私がそう問うたとき、電話の向こうから微かな音が混じった。カン、カン、カン。
どこか古びた、ひび割れたような踏切の警告音。そして、すぐ近くを通り過ぎる中央線の、金属を切り裂くような鋭い風切り音。
「さあね。探してみてごらんなさいよ」
―三鷹だ。線路近くの志津が亡くなったマンションの近くだ。

 太宰の川が流れ、緑が濃すぎて影が冷たく落ちる街。志津と二人で、たまに足を伸ばしたあの街の音が、香澄の声の背後で確かに鳴っていた。彼女はわざと、窓を開けてこの音を聞かせていたのだ。私がすぐに居場所を特定できるように。あるいは、これが自分の「猟場」であることを誇示するように。

次剥 第二十九話 二度目の約束

 真咲が危ない。そう気づいてから、私は毎日三鷹を駆けまわっていた。職場には無理を言って一ヶ月の休職を願い出た。職場の仲間はこの一年間、志津を荼毘に付してからの私がやつれていくのを見守ってくれていたので、すぐに許可をくれた。
 あの子がこの街のどこかにいることはわかっている。志津が生まれ育った実家がかつてあった場所も、香澄の住まいも三鷹だ。香澄の住むマンションなら知っている。志津が亡くなったあの建物だ。もとは志津たちの父親が遺した物件で、いまは香澄が管理している―そこまでは私も知っていた。まずそこへ向かった。
 だが、香澄の部屋はもぬけの殻だった。表札も、郵便受けの名前も外されていた。管理を任されている会社に問い合わせても、その部屋はもう一年ほど前に引き払われている、それ以上はお答えできない、と言われるだけだった。香澄は真咲を連れてそう離れては居ないどこかへ移った。―そう思うしかなかった。志津が落ちたその階段の下に、私はしばらく立ち尽くして、それから力なく引き返した。

 それでも、と思った。あのマンションは香澄のものだ。物件を抱えている以上、管理の兼ね合いで、そう遠くへは離れられないはずだった。きっと、この街のどこか近くにいる。そこまでは見当がついた。だが、その「近く」がどうしてもわからなかった。

 はじめに真咲が通っていた学校をあたった。せめて転校先や居住地がわかると思った。だが、応対した事務の女性は困った顔をするだけだった。転出の届けは出ている。けれど行き先までは、こちらにもわからない、と。

 近くの学校をいくつ回っても、あの子の名前はどこにもなかった。在籍の記録がない。まるで最初から、どこの学校にも通っていなかったみたいに。「私は真咲の父親だ!」と柄にもなく声を荒げたが、職員の反応は薄かった。それはそうだろう一年も放置してしまったのだ。何が父親だ。
 あの女のやり方だと今ならわかる。書類の上でもあの子をこの世から消してしまうのだろう。私はずっと、存在しない場所を探していたのだ。真咲への手がかりがブツブツと途切れてしまってわからない。私はひたすらに姉妹に縁のあるこの街を虱潰しに歩くしかなかった。児童館や本屋など、子供の行きそうなところを片っ端から訪ね回った。小さな顔を人混みの中で探して。あの子の名を喉の奥で呼びながら。

 三鷹はこの十五年間、避けてきた街だった。二十五歳の私はこの街で荒れて源二と毎晩のように飲んでいた。そしてあの夜を境に逃げるように離れた街だ。当時とはずいぶんと様変わりしたし三鷹には意図的に近づかなかったこともあり、初めて訪れたのか。というくらい土地勘がなくなっていた。この街には思い出してはいけないものが埋まっていたのに、いま私は真咲を探してその自ら封印した土地を毎日歩いている。皮肉な話だと思う余裕も、もうなかった。その日も、あてもなく聞き込みを繰り返しながら歩いていた。

 黄昏時だった。見覚えのある路地に私はふと足を踏み入れた。なぜそこに入ろうと思ったのか理由はなかった。ただ、その路地の奥の暗がりに、引かれるものがあった。
 灯りがあった。
 小さな飲み屋の灯り。―その灯りを見た瞬間、私は足を止めた。
 ここは十五年前、源二と毎晩安酒を飲んだあの店だ。蓋をしてきたものがその灯りの向こうでゆっくりと身じろぎするのがわかった。源二の顔。誠司の顔。―いま、ここで戸を引けば、それにまた触れることになるかもしれない。わかっていた。わかっていて、それでも、私の手は戸にかかっていた。真咲の痕跡を探して入った路地が、いちばん触れたくない過去へ、私を連れ戻してくれた。

 ガラリと戸を引いた。

 古い油と、こぼれた酒、煙草のヤニが壁に染みたあの懐かしい匂いが鼻腔をまっすぐに突いた。私は吸い寄せられるようにいちばん奥の、暗がりの溜まった席のほうへ歩いた。昔、源二といつも座っていた、あの席のほうへ。
 その暗がりのカウンターに突っ伏したままの男がいた。眠っているのか、潰れているのか、わからないがだらりと腕を垂らして、背中だけがかろうじて呼吸で上下していた。髪はぼうぼうに伸びて、首がぞっとするほど細かった。
 みぞおちの奥で、なにかが小さく身じろぎした。その丸めた背中の輪郭が、皮膚の下をぬるい水が一筋流れていくみたいに私の臓腑へしみこんでくる。男が呻いた。それから、重たそうに頭を持ち上げはじめた。ぼうぼうの髪が顔から落ちて、その奥から、焦点の合わない目が覗いた。

 目が合った。

 濁った目だった。酒で白く濁って、どこも見ていないような目。それがゆっくりと私を捉えた。なぞって、確かめて―そして見ひらかれていった。
「……そう、いち」
 声が漏れた。しわがれて、掠れて、ほとんど息だけの声だった。けれど、確かに私の名を呼んだ。
 その瞬間、私は息を呑んだ。
 痩せこけた頬の奥に、伸びた髭の奥に、骨の浮いた顔のいちばん深いところに―若い顔が透けて見えた。肩を組んで、なにか馬鹿なことを言い合って、げらげら笑った、あの男の顔が。

 源二だった。

 こんなに変わり果てて。一目ではわからないほど削れそれでも私の名を呼んだその声が、その目の奥の光が、昔の源二とまっすぐに繋がっていた。
「源二」私の口から、もう一度その名がこぼれた。十五年ぶりに呼ぶ名前だった。
呼んだ瞬間、甘酸っぱいような苦いような匂いが、胸の底から立ちのぼった。あの夜の匂い。私がずっと蓋をしてきた、いちばん柔らかい時間の匂いだった。

 源二の瞳からみるみる涙がぼたぼたとこぼれた。濁った目の、その濁りの上に、透明なものが次から次へと膜を張っては、ふくれて、こぼれた。彼は私を見たまま、唇が震えて、言葉にならない様子で。
 私はどうしていいかわからなかった。謝罪の言葉も、再会を喜ぶ言葉も何も出てこなかった。志津と別れ、真咲を置いてきた私にはもう、そういう温かい言葉のしまってある場所が空っぽになっていた。だから私はただ、その隣に座った。座って、源二の背中に手を置いた。手のひらには、随分と痩せ細ってしまった身体の薄い皮膚のすぐ下にある肩甲骨が刺さった。

 温かかった。

 話は、途切れ途切れではあるが、丁寧に紡がれながら続いた。源二もまた壊れていた。私とは違うかたちでも同じくらい深く。あれから築いた家族とはもう別れたという。役者の夢もとうに諦め、名前の必要な仕事はできなくなった。日雇いの仕事をたまに。あとは、ここで飲んで、潰れて、また飲む。それだけだ、と。何を忘れようとしているのか源二は言わなかった。

私も訊かなかった。
ただ、ひとつだけ。源二がふいに言った。
「蒼一あんた、そうとう顔色が悪いぞ」
 それから、源二は昔の癖みたいに口の端をふっと持ち上げた。
「……まあ、こんな面さげて俺が言うのも、なんだけどな。わはは」
 若い頃の感覚が一気に戻ってきた。けれど、その笑いは最後まで続かなかった。途中で、ふっと力が抜けた。昔は、こいつは際限なく笑う男だった。ケラケラと店じゅうを明るくするみたいに。その笑い方をいつのまにか、半分どこかへ置き忘れてしまったらしい。

 言ってしまおうか、と思った。
全部。志津のこと。香澄のこと。私がなにから逃げて、なにを置いてきたのか。喉のところまで、それがせり上がってきた。もう、私の中のグルグルと縺れた様々な感情が一人では抱えきれないほど膨れ上がっていた。
 けれど、言えなかった。言葉にした瞬間に、それを認めてしまうことになる気がしたのだ。

 全ては私があの日逃げたことに起因する問題だ。本当は自分一人で全て解決しなければならない。誰かに助けて欲しかった。でもでもだって。とまるで言い訳を繰り返す子供のように感情が錯綜していた。ただ、張り詰めたこの最後の糸を、ここで弾いてしまったら。その自分の姿を想像しただけで、足の先が冷たくなる。私の中の、私を形作る大切にしてきた、まだかろうじて立っている「何か」が崩れてしまう気がした。
 私は最後まで一人で背負わなければならないと握りしめていた。きれいなままでいたかった。

なのにだ。久しぶりに会う源二の隣で張り詰めていたいくつもの糸がプツリと切れてしまった。もうこれ以上正気を保てない私はいちばん卑怯なやり方で、それをこの男に託そうとしてしまった。

「源二。頼みがある、んだ。」
 源二が濁った目をこちらに向けた。私はその目を見ながら言った。喉がからからだった。
「探し出して消してほしい女が、いる」
 言ってから、自分の声がひどく遠くで鳴ったように聞こえた。誰か別の人間が、私の口を使ってしゃべったみたいだった。

 源二はふっと微笑み、グビリと水を飲み干した。すぐには答えなかった。私の顔を長いことなぞっていた。それから、ゆっくりと唇のはしを持ち上げた。笑った、のだと思う。「いいぜ」と、源二は言った。あっさりとなんでもないことのように。
「あんたは昔、俺の、いちばん消したかった過去を消してくれた」その言葉の意味はわからなかった。私のなかの固く蓋をした場所をこつんと叩き、こめかみにズキリと痛みが走った。源二もまた、片手で頭を押さえ顔をしかめて、低く呻いた。それ以上私はなにも言わなかった。だが確かに約束はもう一度交わされてしまった。ベクトルは違えどかつてと同じ言葉で。

次剥 第三十話 源二の夜

 俺はずっとずっと待っていた。蒼一にいつかの謝罪をしたかった。十五年ぶりに唐突に蒼一が目の前に現れたときは、今まで胸の内に溜まっていた感情がどうと溢れ出して止められなくなってしまった。
 店を出て蒼一と別れたあと、俺は帰路の中でずっと考えていた。薄明かりの街灯は頼りなく震え、湿ったアスファルトに影を長く引きずっている。
 三鷹の夜は妙に重い。井の頭から流れてくる風が肌にまとわりつく湿気とともに、古い鉄錆と腐葉土の匂いを運んでくる。小さな橋の上で、俺は一度だけ足を止めた。欄干に手をかけ暗い水面を見下ろす。流れは淀み、黒い鏡のように水面に映る俺の顔を見下ろしたとき「俺が蒼一になればいいんだ」と俺は覚悟を決めた。

 焦燥にやつれ切った蒼一の顔が脳裏に焼き付いて離れない。すべてを剥ぎ取られ、抜け殻のようになってしまっていた。蒼一には何も背負わせたくなかったのに、別の悲劇が全く違う形で蒼一の全身を蝕んでしまったんだな。少なくともきっかけのひとつは俺だ。俺が今の蒼一をとやかく詮索するのはよくないよな。
 トボトボと、古いアパートへ続く路地を歩く。路地裏の静寂は、時折通る中央線の通過音によって切り裂かれる。その硬質な轟音を聞くたび、心が鋼のように冷え固まっていくのがわかる。
 俺が望んだとおり蒼一はすっかりあの十五年前のことを忘れてはいるみたいだった。本当に良かった。俺が誠司によって受けた屈辱的な時間。今でも時折フラッシュバックしては全身が硬直してしまう。当時の俺は、誠司を殺したくて殺したくてどうしようもなくなり、もうそのことしか考えられなくなっていた。対照的だったのは蒼一と一緒にいる時間だった。まるで生き別れの兄貴のように何でも心を許すことができた。あの地獄のような時間の中で本当に救われたんだ。
 最後にもう一度だけ蒼一に会って、三鷹から去ろうと決めた日。俺はつい蒼一に、心の底にあるどす黒い感情を漏らしてしまった。「そのかわり……俺の、憎い奴を、こ……殺して、くれよ」
 今まで堪えてきた全ての感情が堰を切ったように溢れて止まらなくなってしまった。蒼一がまさか本当に実行してくれるとは思わなかった。

 思えば、あの男に出会ったときから、俺の何もかもが、狂っていった。

 俺が生まれたのは静岡の海しかない何もない港町だった。十八歳でそこを出た。役者になりたかったんだ。根拠なんて何もなかった。ただ、あの町にいたら、自分が何も持たないまま干からびて終わる気がした。だから、逃げるみたいに東京へ来た。
 小さな役者養成学校に入った俺は本当に充実していた。見るもの聞くもの全てがキラキラしていて、毎日忙しかったが本当に生きていることを実感できたんだ。夜は倉庫で荷物を運び、昼は稽古場の隅で他人の芝居を眺めていた。いつも腹が減っていたがそれでも明日があると信じて走っていられた。

 転機はあまりに安っぽく訪れた。

 芸能界に顔が利くという噂の男、誠司。オーディションに落ち続けてすっかり自信をなくし、それでも芸能界に入るためのとっかかりが欲しかった俺は、藁にもすがる思いで誠司と呼ばれる男がよく出入りしているというBARを訪ねた。入った瞬間にそれが誰を指しているのかすぐにわかった。安っぽいミラーボールのカラフルなLEDに照らされながら、カウンターの中央でやけに羽振りよく高笑いする金髪を撫でつけた男。見るからにそうであろう赤と黒のど派手な柄シャツ。俗っぽいサングラスと金色のネックレスが鈍く光り、取り巻きのような人たちにむけて威圧感を醸していた。

 俺は役者スイッチを入れた。設定はそうだな。陽気で明るいチャラ男。俺は必ずこの男に気に入られてチャンスを掴むんだ。
「うえーい」空になったグラスをもって男のところに飛び込んだ。誰だこいつ。という取り巻きの視線は全て笑顔でいなした。

「面白いやつだなお前。名前はなんていうんだ」
誠司に気に入られるのには時間がかからなかった。俺は役者なんだ。どんな人格でも憑依させられる。この手の人間が好みそうなキャラクターを下ろせば簡単な話だ。
「いい役者になれるよ。僕が君を磨いてあげようか」まさにドストライクの回答を引き出せた。

 若かった俺はあっさりと誠司に心を許してしまった。飢えていたのは金だけでなく、誰かに見出されたい承認欲求のほうだったのかもしれない。金回りの良い誠司に毎晩のように奢られ、立派な店で肩を並べるたび、俺は自分が特別になったような錯覚に陥った。だが、現実は甘くない。バイトに入れなくなったことで家賃の支払いも滞りがちになり、明日食うものにさえ困り果てていた俺は、誠司に金の無心をした。

「僕の家においでよ。面倒を見てやる」
そう言われタクシーに乗せられた。足を踏み入れた高層満床のその部屋は、冷たい空気が満ちていた。玄関の扉が閉まったその瞬間から、俺は役者ではなくなった。誠司が自分の服を脱いでベッドの端に丁寧に畳み、サングラスとネックレスもまた丁寧にバッグの中にしまった。緊張から全く動けなくなってしまった俺に誠司は「ああ、気にしないでよ。僕の癖みたいなもんだ。綺麗に整ってないと気持ちが悪くてね」
 誠司の指が、俺の服をゆっくりと剥ぎとり身体をなぞる。熱い体温がむせかえる男の匂いを放ち、じっとりと湿った肌がなめくじのように俺の体を這いずり回った。誠司の呼吸が荒くなり興奮しているのが動脈を通して伝わる。抵抗すれば、金も夢もすべて失うということだけが、逃げたい気持ちを必死にこらえていた。

 その日から俺は、その男の性処理の対象と化したのだ。

 夢のためだ。これは演出の一つだ。自分にそう言い聞かせた。けれど、心は肉体と剥離し、腐敗していくのをまざまざと感じた。夜が来るのが怖かった。誠司の酒臭い吐息、脂ぎった肌の感触、そのすべてが胃の底を逆流させる。俺は、鏡の中に映る自分の目が、日ごとに濁っていくのを見た。自分という個体が、じわじわと解体され、別の何かに作り変えられていくような恐怖。

殺さなければ俺は俺でいられない。

 逃げ出すように誠司の前から姿を隠しても、しばらくするとどういうわけか居場所が誠司に見つかってしまう。結果的には二年ほど悪夢は断片的に続いた。その欲求はある日突然、俺の中で熱い塊となって芽生えた。誠司の寝顔を見ながら、枕を押し付ければ、この地獄が終わるんじゃないか。そんな黒い考えが脳内を支配し、一日中、殺しの手順ばかりを反芻していた。

 そんな荒んだ俺にとって、唯一の救いが蒼一だった。蒼一といる時間だけは、俺は「男の玩具」ではなく、一人の人間として息をすることができた。あいつの真っ直ぐな視線に触れるたび、汚れきった俺の肌の下で、凍りついていた心臓がかすかに脈打つ。あいつの隣で笑い、他愛のない話をする時間だけが俺をこの惨めな現実から引き剥がしてくれた。

 誠司が「次に行こう」と言いだしたのは、雨の降る夜だった。

 その夜も、俺と蒼一はいつものカウンターで飲んでいた。そこへ誠司が、ぬるりと入ってきた。「なんだ源二。急に連絡が取れなくなって。こんなところにいたのか。」
 上機嫌だった。俺の隣に座り勝手にボトルを開けタクタクタクと俺と蒼一のグラスに注いだ。
 俺は、いやな予感がした。誠司が上機嫌なときは、いつも碌なことがない。いつものように注がれた酒を俺は飲まされた。断れなかった。断ったところでしつこく飲むまで強要される。
 誠司は、次から次へと、俺のグラスを満たした。蒼一のグラスにも。飲め飲め、今日は私のおごりだ、と笑いながら。

 そのときだった。蒼一がちらりとこちらを見た。何かを感じ取った目だった。俺が、この男の隣でどれだけ強張っていることに気づいたんだ。誠司がよそを向いた隙に、なみなみ注がれた俺のグラスをさっと空け、代わりにこっそりと同量の水を注いだ。
 蒼一は何も訊かなかった。俺が何をされているのか、誠司が何者なのか、多分、はっきりとはわかっていなかっただろう。それでも、俺を守ろうとしてくれているのを強く感じた。俺が潰されないようにこっそり引き受けてくれていたのだ。そのさりげなさが、俺の喉の奥を、熱くした。

 ずいぶんと世も更けて誠司も酔いが回り上機嫌になってきた頃だった。案の定、誠司がグラスを開けながら高らかに言った。
「そうだ。今日は蒼一も連れて、次に行こうよ。いい部屋を見つけたんだよ。ここから近いんだ」
 俺の背筋がツツと冷えた。最悪だ、よりにもよって蒼一と一緒のときに。
 小雨が降る中、鼻歌混じりの誠司を先頭に俺と蒼一は続いた。蒼一が俺をかばい続けてくれたおかげで、酩酊するほど酔ってはいなかった。俺の頭の芯は冷たく澄んだままだ。だからこそはっきりと思えた。誠司を殺すなら、今日ここだ。この夜だ。誰も見ていないこの雨の中で。
 殺す。今夜、俺はこの男を殺す。そう、全身に立ち昇る憎しみを殺意に変え腹をくくった。ズボンの上から、隠し持っている折りたたみナイフをさっと確認した。
 着いた先は入り組んだ道の先にある空き家だった。どこをどう曲がってたどり着いたかも覚えていない。周りの家もどうやら空き家ばかりらしい。近々全て取り壊されて大きめのマンションが何棟か建つと噂されているエリアだった。フラフラと今にも倒れそうに歩く蒼一に肩を貸しながら、誠司に言われるがままについていった先の空き家の前で竦み上がった。ここなら、確実に人目につかない。割れたガラス扉は鍵がかかっておらず、慣れた手つきでがたぴしと開け、我が家のように誠司は奥へ消えていった。家の中は、饐えた匂いが篭っていた。寝室には薄汚れたベッドがひとつ。過去に何回も使用されている様子で、付近には酒瓶が無造作に転がり、倒された鏡台は鏡が割れて破片が床に散らばったままだった。俺以外にも同じような犠牲者が、ここに連れ込まれているんだ。
 誠司は部屋の奥から用意されていたいくつかのLEDライトを灯し「さあ、おいで」と俺と蒼一を暗闇にぼんやり浮かび上がる寝室へ誘った。
 俺は、足元もおぼつかない蒼一をそっとベッドに座らせ、殺すなら今だ!と一歩前に動こうとした。だが、誠司の粘っこい視線が俺の輪郭をねっとりと這い回った。あの蛇のような目だ。こちらの芯まで見透かし、すべての戦意を削ぎ落とす、ぬめった眼光。その目に射抜かれた瞬間、全身の血液が凍りついたように動かなくなった。指一本、痙攣することさえ許されない。殺意で激しく滾っていたはずの身体が、嘘みたいにぐにゃりと萎えていく。
 誠司は、いつもと変わらない酷薄な手つきで服を脱ぎ、塵一つ落とさないよう丁寧に畳んでベッドの端に置いた。サングラスとネックレスがバッグにしまわれ、几帳面な四角形に折られた柄シャツの上に静かに重なる。その、恐ろしいほど平然とした丁寧さが、かえって底知れない狂気を孕んで見えた。そんな異常な日常の延長線上で、誠司は我慢の限界を迎えた獣のように俺をベッドへと手招きし、その冷たい腕を俺の首元に絡みつかせてきた。
―そのすぐ隣では、執拗に飲まされ続けた酒のせいで、蒼一が完全に意識を失って横たわっている。もしかしたら、この無様な醜態を見られているかもしれない。最も汚されたくない男を、こんなおぞましい空間に巻き込んでしまったという事実が、俺の尊厳を容赦なく踏みにじり、胸の奥を激しく掻きむしった。
 まずい、と思った。このままでは俺だけじゃなく蒼一までこの男の慰みものにされる。誠司が蒼一も一緒に。と誘ったのはおそらくそういう意図だろう。止めなきゃ。止めなきゃいけない。なのに、体が動かない。誠司に弄られるたびに、俺は、また、あの、空っぽの玩具に戻ってしまう。涙が止めどなく溢れたその瞬間だった。

 寝ていたはずの蒼一が、むくりと動いた。手に持っていたジャケットを片手にぐるりと巻きつけて、床に転がっていた鏡の破片を握っていた。暗闇でキラリと光るその一片を誠司の腕の隙間から捕えた瞬間。

蒼一は音もなく誠司の首にサクリとそれを突き立てた。ほんの一瞬の出来事だった。
 むううん。と声をあげ、誠司の首から信じられないほどの量の血液が飛び散った。酔って興奮したことで血の巡りが上がっていたんだろう。真っ赤な鮮血をフローリングや壁に撒き散らしながら誠司が、声にならない声をあげてベッドにどうと倒れこんだ。

 俺は我に返った。倒れ込んできた誠司を押しのけるようにして這い出て逃れ、来る途中のコンビニで買ったペットボトルの水でべっとりとついた血をぬぐい洗い、肌けた服を慌てて着直した。酩酊してぐったりした蒼一は意識がないようだった。震える手で咄嗟に転がっていた誠司のバッグだけを握りしめ、とにかく蒼一と一緒に逃げることだけを考えた。
 足元がおぼつかず、もう意識もしっかりしていない蒼一を抱えて逃げるのはとても困難だった。雨の中、一心不乱にどこをどう走ったのかわからない。頭の中で呼吸音だけが鳴り響き、何も考えられず、真っ白だった。ただ蒼一は俺との約束を守った。誠司の首から噴いた鮮血が目の裏にこびりついた。拭っても拭っても小雨が顔に当たり、視界を塞いだ。
 十分ほど彷徨った頃だろうか。息も上がりきり、これ以上もう歩けない、と蒼一をパシャリと地面に降ろして途方に暮れていたが、俺は本当にラッキーだ。そこはもう見覚えのある通りだった。以前一度だけ来たことがある蒼一のアパートの前だ。
 俺は、蒼一のボロボロになったジャケットのポケットをまさぐった。見つけたキーケースから震える手で一つずつ鍵を差し込み回して、蒼一を玄関に、そっと放り込んだ。蒼一は意識が朦朧としたままだ。さっと近くにあったタオルで濡れた頭と体を拭い取ったが、雨のおかげで顔についていた血はあらかた流れ落ちていた。シャツにはところどころ血が滲んでいたがしょうがない。
 蒼一はきっと何も覚えていない。俺が何をされかけて、蒼一が何をしたのかを。それでいい、と思った。
 もし最悪の事態になったら全部の罪は俺が被る。蒼一は何も知らない。何もしちゃいない。そういうことにすればいい。あいつは、俺を助けようと約束を守っただけだ。これ以上蒼一を巻き込むわけにはいかない。

 蒼一の家から出た俺は、本降りになった雨の中に立っていた。自分の震える手を見た。俺はナイフまで準備していたのに何もできなかった。手を下したのは蒼一だ。それ以上に俺の手のほうが汚れている気がした。俺のせいで。俺が、殺してくれと、願ってしまったから。
 …あいつは、誠司は死んだんだろうか。わからなかった。首のおそらく太い血管を切った。あれだけの血が出たんだ。でも死んだかどうかまではわからない。確かめる勇気はなかった。確かめに戻ることもできなかった。
 俺はもう蒼一とは会わない覚悟を決めた。もともとこの街を今週中には去る予定だったのだ。荷物はすでにまとめてある。引っ越してすぐに連絡を絶ってしまおう。
 もし、これからも蒼一に会ってしまったら、嫌でも忌々しい誠司を思い出してしまう。だったら蒼一にはこのまま忘れてもらったほうがいい。蒼一が俺のことをまるごと忘れてまっとうに生きてくれるなら。それが、蒼一にとっても一番いいんだ。俺はゆっくりと目を閉じて、これがたったひとつの罪滅ぼしだと悟った。

結局あれから特に何も起こらなかった。俺は逃げるように引っ越したが、特に警察が来ることもなかった。三ヶ月ほど経った頃、近所で空き家の解体時に正体不明の遺体が見つかったと言うニュースで持ちきりになった。
 元の家主との関連性を警察は疑い、身近な人間である可能性は否定できないと報道は手短に伝えた。近くに丁寧に折り畳まれた男性物の衣類があったが腐食がひどく男女の区別もつかない上に、身元を証明するようなものはなく捜索願も出されていなかったようだ。後日、鍵を壊して侵入した浮浪者の線が濃厚だろう。と、事故とも事件とも報道されぬまま次第に人の噂にも上がらなくなった。
 程なくして空き家は周辺ごと全て取り壊され、1年後には複数の居住マンションが建ち、腐乱死体の噂は誰もが記憶から消した。
 これが、俺がこの十五年間誰にも話さず、一人で背負った日の真相だ。このことは蒼一に絶対に知られてはならない。

 今日、久しぶりに会う蒼一の横顔を見つめながら俺は思う。次は俺が蒼一を守る番なんだ。

香澄。

蒼一から全てを奪った女。
奥さんとペットを殺し、真咲という最後の光を奪い去ろうとする「空白」それを塗りつぶす権利が、俺にあるのだろうか。これは贖罪ではない。この歪な悲劇から、蒼一を汚す不純物を取り除くための単純で残酷な作業だ。

 いつものアパートの入り口が見えてきた。古びた木造の扉は夜風にさらされて細かな音を立てている。私の部屋はこの奥だ。ポケットの中で、鍵の感触を確かめる。金属の重なる鈍いジャリジャリという重みが、今の俺には唯一現実的な重さとして感じられた。鍵の先に詰まっていた木の削りカスを拭い取ると、鍵穴に差し込んで扉を開けた。軋む床板がキイと誰かの悲鳴のように聞こえる。

 香澄を見つけて俺が処理しよう。それが俺の人生で初めての覚悟になった。必然のように蒼一とめぐり会い、さらには約束まで交わした。そしてこれが俺の人生最後になるであろう明確な「意志」になった。
 扉を開け、俺は暗闇の中へ足を踏み入れた。そこには、明日の自分も慈悲深い過去も存在しない。ただただ、冷徹な覚悟だけが待ち構えていた。もう逃げない。そう思った瞬間、胸の真ん中で、火がぱちんと爆ぜた。

 俺にはわかっていた。今、蒼一をあの女に会わせちゃいけない。蒼一はまっすぐな男だ。筋を通したがる。物事の裏と表を律儀に合わせようとするやつだ。真面目で、優しくて、理屈の通らないことを放っておけない。―だからこそ駄目なんだ。あの女の前ではそれが全部弱みになる。
 会ったこともない香澄のことなのに俺には手に取るようにわかった。なぜならば性質は違えど、欲望に直進するその姿勢はかつての誠司そのものだったからだ。
 香澄は相手の理屈を読む女だ。読んで、その理屈ごとからめとる。蒼一が筋を通そうともがくほど、あの女は逆手にとって、蒼一を掌の上でくるくると踊らせるだろう。蒼一という弱く脆いたった一人の人間では、あの憎しみを媒介とした執着に勝てるはずがない。蒼一は優しすぎる。優しい人間から順に、あの女に喰われていくんだ。誠司の前では身動きが取れなくなった俺がそうだったように。

だったら。

 蒼一の代わりに、俺にしかできない方法で俺がやる。

 瓜二つの顔だと言うことをこの時初めて神が与えた奇跡だと思った。
 俺が蒼一になればいい。蒼一の声、顔、身体で、あの女の理屈が掴むものがどこにもない「得体の知れない何か」として。もし返り討ちにあったとしても俺ならいい。俺にはもう踊らされて困るような人生も、飲み込まれて惜しい中身も何も残っちゃいない。空っぽの器なら、あの深淵も掴みそこねるはずだ。

 実は人づてに蒼一の噂を聞いてはいたのだ。蒼一が憔悴しきっていると。ここ半月くらい前から三鷹駅周辺を真っ青な顔をしてうろつく蒼一を何人もの常連が見かけたらしい。それを聞いてから、もしかしたらこの店に戻って来るんじゃないかと言う思いが頭をよぎった。蒼一に助けられたときの感情―あのときの、あたたかくて、申し訳なくてどうしようもなく嬉しかった感じが、長い年月の澱を巻き上げて体じゅうにまとわりついている。どうしても蒼一にもう一度だけでも会いたくて、俺はあの店で毎日閉店まで待っていたんだ。
 今度は、俺の番だ。何度も何度も覚悟を決めた。思うたびに胸の真ん中で火がパチンパチンと爆ぜ続けていた。

 翌朝俺は散髪に行き、何年ぶりかに髭を剃った。爪を整え、よれた服を捨ててまともなシャツを買った。
 蒼一は、俺が少しずつ「蒼一」になっていくのを照れくさそうな顔で見守ってくれた。「私なら、こういう服を選ぶかな。」そういって自分が着ている服と同じブランドの上下セットを四、五着買い揃えてアパートまで持ってきてくれた。
 鏡台の前に立った俺は、わははと久しぶりに声をあげてしまった。鏡の中にいるのはまさに蒼一だった。どう見ても蒼一だった。昔、店の連中が俺たちを見て揶揄ったのがいまになってよくわかる。瓜二つなんだ。髭と無精と荒んだ生活で長いこと隠れていただけで、剃って整えれば、俺はこんなにも蒼一なんだ。
 それから一週間、俺は蒼一を徹底的に体へ刻んだ。あいつがものを言うときの、わずかな間。笑うとき片方だけ口角が上がる癖。背中の少し丸い感じ。指の組み方。思い出せる限りの蒼一を、俺はひとつずつ自分の体に下ろしていった。役者を目指していた過去の自分をこんなにも頼もしいと思ったことはない。香澄の油断を誘うように。少しでも長く気を許すように。

 一週間が経つころには、俺は鏡の前で蒼一として微笑めるようになっていた。仕草も、笑い方も、佇まいも。蒼一から借りたスマホを手に取った。指がすこし震えたがそれをぐっと握り込んで、止めた。

「―もしもし。香澄。私だ」
 声まであいつに寄せた。低く、静かに。俺は香澄をあるBARに呼び出した。
「まってたわ。あなたの方から連絡してくれるなんてね。」香澄は快く俺の要望を受け入れた。

 数日後、夕方十七時に落ち合う約束を取り付けた。彼女は作戦通り油断していたんだと思う。志津さんが転落死したマンションの近くにあるビル。半地下に降りる階段、重たい扉を開けた先にそのBARはあった。プライベート空間を演出する暗い店をあえて俺は選んだ。まだ時間が早いこともあり客はまばらで、いちばん奥の暗がりの溜まった個室に、香澄はもう座ってワインを傾けていた。下調べ通り蝋燭の灯りだけで空間を演出する仄暗い密室だった。蝋燭の火が潤んだ香澄の瞳に反射しこちらを見るとカラカラッと笑った。
「あら。久しぶりじゃないの」
 猫なで声だった。そう言ってゆっくりと手招きをした。俺は小さく唾を飲み込んだ。喉がからからだった。
 ―ここからは俺は「蒼一」だ。目を深く閉じ役者スイッチを入れた。

 俺は、いや私は、向かいの席についた。マスターにハイボールを頼んだ。蒼一はこういうとき多くをしゃべらない。私もできるだけ言葉を少なくしなければならない。相槌と、短い返事だけで。化けの皮が剥がれないように。
 都合の良いことに香澄はよくしゃべる女だった。訊いてもいないのに、ひたすら自分の話をした。幼いころ、自分がいかに不幸だったか。誰にも本当に愛されてこなかったのか。両親は姉ばかりを可愛がり私には全部の愛情を注がなかった。姉は何もしなくてもまわりから愛されていて卑怯だった。自分はどんなに努力しても、振り向かれなかった。―姉さえいなければ。姉さえいなければ、私が全部、手に入れられたのに。
 その「姉」というのが蒼一の、志津さんのことだ。ハイボールの氷を転がしながらその反吐のような薄気味悪い話を延々と聞いていた。自己中心的で全てが自分のためにあると思っている人間特有のそれだったまるでかつての誠司だ。彼女の中ではもう完成が近いのだろう。完全に油断しているのがひしひしと伝わってきた。
 彼女の話を聞きながら蒼一が私に伝えていた香澄の輪郭に、少しずつ肉がついていくのを感じ益々腹の底が冷たくなっていった。この女は本気で自分を被害者だと思っている。姉を邪魔だと思い消えてくれて清々している。その口ぶりに、罪の影が一片もない。からっぽの目で潤んだふりをして、自分の不幸話だけをツラツラと滑るようになめらかに語る。
 左のポケットの中で出番を待つ折りたたみナイフの柄にそっと指をかけた。話の継ぎ目で俺はなるべく何気なく訊いた。
「……真咲は」
 香澄はふっと笑った。
「真咲なら今は眠っているわ」
 しばらくして香澄はとろりとした目で立ち上がり、少し酔ったわ。夜風に当たりたい、と言い外に出るように目配せで誘った。

絶好のチャンスが来た。

 計らずして人気のないところに連れ出せる。俺たちは店を出て、隣の雑居ビルの外づけの階段を昇って屋上へ出た。
 街は軽い霧雨を纏い、冷たい風が時折吹いていた。低い柵の向こうに夜の灯りが雨ににじんで広がっていた。雲が低く間もなく降り落ちるであろう雨を蓄えており、その暗雲がまるで香澄そのもののように感じた。
 香澄は外柵に近づいて、ぼんやりと夜景を眺めだした。
 今だ。今しかない。そう脳細胞が狂ったように叫んでいる。 俺はスラックスのポケットから、じっとりと汗ばんだ手で折りたたみナイフを取り出した。親指で刃を押し出す。びゅうと吹く風切り音にかき消されながらパチリと小さな金属音が鳴った。右手に握り変えたナイフは、ゾッとするほど冷たく、そして恐ろしく重かった。
 背後から一気に間合いを詰めて、首筋か、延髄を一突きにする。 頭の中で何百回もシミュレーションした凄惨なイメージが、いざ実行に移そうとした瞬間、音を立てて崩れていく。手が、動かない。 それどころか、ナイフを握る指先がガタガタと震え始めた。掌の嫌な汗のせいで、グリップがぬるぬると滑る。心臓が肋骨の裏を狂ったように叩き、喉の奥がカラカラに干からびて、呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しい。
―お前、本当にこいつを刺すのか? 人の肉を切り裂き、その手で命を奪う。その「本当の感触」が目前に迫るとたん、足の裏から強烈な悪寒がせり上がり、膝の力が抜けそうになった。怖い。誠司の返り血を浴びて狂いそうになったあの夜の恐怖が、フラッシュバックとなって脳髄を焼きにくる。
 俺にできるわけがない。 蒼一のために完璧な「蒼一」を作り上げ、命を捨てる覚悟でここまで標的に近づいたはずなのに。役者崩れの俺は、よりにもよってこの土壇場で、たった一人の女を仕留める「人殺しの役」すら満足に演じきれず、内側から自壊していくのだ。そのあまりの情けなさに、歯の根がガチガチと鳴った。
 途端、俺の脳は恐怖から逃れるための「醜い言い訳」を猛烈な勢いで編み出し始めた。 そうだ、何も殺す必要なんてないじゃないか。わざわざ手を汚さなくたって、背後から刃を突きつけて、脅しさえすればいい。真咲くんの居場所を吐かせて、二度と俺たちの前に現れるなと警告すれば、それで済む話だ。それが一番スマートだ。殺すのはいつでもできる―。
 覚悟が泥のように濁っていく。折りたたみナイフの刃は、香澄に至らず俺自身のビビりで完全にナマクラに鈍りきっていた。突き出すはずの右腕が行き場をなくして宙で微かに泳ぐ。
その時だった。香澄が、こちらを振り向かずにぽつりと言った。
「ねえ。…抱きしめて」
その予想外の言葉に面食らった。俺が準備していたはずの「殺意」を、一瞬にして完全に錆び付かせた。 何故、と思う前に体が動いていた。頭では「これは罠だ」と警報が鳴り響いているのに、拒絶すれば正体が露見する恐怖のほうが勝った。俺は右手のナイフを隠すように、スラックスの後ろポケットへと慌ててねじ込んだ。布地をすべる金属の感触を最後まで確かめる余裕もないまま、彼女の細い肩を抱き寄せていた。
 思考が停止し、代わりに心臓が早鐘を打つ。目の前の獲物が、ただの「女」に化ける。いや、俺自身がただの「飢えた獣」に戻ろうとしていたのか。俺の精神を食い荒らしたあの怪物が喉元までせり上がってくる。肌に触れた刹那、湧き上がるのは慈しみか、それとも殺意よりも深い暗い情念か。
 香澄が俺の腕の中で、ぴくりと身を硬くした。嫌な沈黙が流れる。小雨の中で湿っていく彼女の息が、冷たく皮膚を這った。やがて、彼女の口元が歪む気配が服越しに伝わってきた。「…ねえ。あなた、本当に蒼一?」
くす、と小さな、硬い笑い声が鼓膜を刺した。「おかしいわ。姉さん一筋で、私のことなんて泥泥した毛虫みたいに近づくことすら嫌悪していたあの男が…こんなに簡単に、私を抱きしめるはずがないもの。」
―バレた。
 電撃のような戦慄が脳髄を駆け抜けた。心臓が跳ね上がり、役者として張り合わせていたはずの「蒼一」の仮面が、内側から粉々に砕け剥がれ落ちた。 あまりの恐怖に全身の血の気が引き、筋肉が露骨にガタガタと震え出した。その強張った拍子に、後ろポケットの縁に中途半端に引っかかっていただけの折りたたみナイフが、衣服の摩擦を失ってずるりと滑り落ちた。
からん、と。 乾いた硬質な音が、雨の屋上のコンクリートに虚しく転がった。
 香澄が俺の腕の中から、するりと蛇のように抜け出した。 音のした足元へ視線を落とす。そこに転がる金属の塊が何であるか、彼女が気づくまでに一秒もかからなかった。
愛を求め「抱きしめて」と無防備に差し出した肉体に、刃が向けられていた。その意味が完全に伝わってしまった。 ゆっくりとしゃがみ自然な動きでナイフを拾い上げた香澄が立ち上がる。
その顔を上げた瞬間、俺の喉が完全に凍りついた。 さっきまで空っぽだった彼女の目に、初めて猛烈な色がついた。「私を騙し、拒絶した」その一点で、目の奥がぐにゃりと漆黒に歪んでいる。愛を刃で返された女の歪み方は、殺気というより、もっと底のない、手のつけようのないぐちゃぐちゃしたものだった。香澄は引き攣った目のまま、折りたたみナイフの刃をパチリ、と狂気的に広げた。
「これで私をどうする気だったの。私に恥をかかせるのね」
刃が迫る。ナイフをめちゃくちゃに振り回す香澄には、狙いも何もなかった。だからこそ、軌道が読めない。 俺がとっさに腕で顔をかばった瞬間―右腕に、焼けた鉄を直に押し当てられたような熱い衝撃が走った。遅れてぬるりとあたたかいものが腕を伝い肘から滴り落ちる。ワイシャツの袖が肘から手首にかけてぱっくりと裂け、赤い線から血が溢れ出した。 「熱い……ッ!」 コンクリートの床にタタタと黒い染みが跳ねる。
―まさか、蒼一に裏切られたのか?
 血の気の引いた頭の隅で、最悪の考えがちらりとよぎった。香澄は俺を「蒼一」として殺そうとしている。俺が身代わりにハメられたのか? いや。そんなはずはない。 脳裏で即座にそれを否定した瞬間、俺の中で、折れかけた何かがまっすぐに立ち上がった。蒼一は裏切らない。あいつはそういう男じゃない。昔、何の見返りもなく俺をあの地獄から引きずり出してくれた男だ。あいつが俺を嵌めるはずがない。その確信だけが抜けかけた膝にぐっと力を戻した。激痛と失血の中で、蒼一を信じることだけが、俺をこの場に立たせていた。
 俺は震える奥歯を噛み締め、改めて腹を据えた。こいつを殺さないと。今ここでこいつを殺さないと、蒼一が危ない。志津さんみたいに、また誰かがこの女にまるごと呑み込まれてしまう。あの時の俺のように。血がじわりと滲むワイシャツを左手で押さえながら、俺は香澄に向き直った。
その、瞬間だった。
胸のいちばん底のほうから―まるで、暗い沼の底からゆっくりと何かが這い出し、二つの目が再びこちらを見つめた。俺の内側から。 粘ついた、生暖かい、知っている目。固く蓋をしてきた、あの―。
「……せ、誠司」
声が漏れた。香澄の狂気の中に、かつて俺を玩具にした誠司と全く同じ「底なしの支配欲」を感じてしまったのだ。
途端に俺の足がすくんだ。動けなかった。 さっきまで殺意でいっぱいだったはずの体が、内側から誰かにぎゅっと掴まれたように強張る。手も、足も、動かない。あの男が俺の脳内で、面白そうにこちらを見ていた。 「お前に人が殺せるのか。お前ごときに」そう、耳元で笑われている気がした。
その隙だった。香澄がナイフをまた振り上げた。からっぽの目の底で、ぐちゃぐちゃした暗黒がぎらついている。
「蒼一。ちょっと順番が狂っちゃったけど。あなたはここで、先に」
叫び声に弾かれたように、俺は逃げ出した。すくんだ足を、無理やり地面から引き剥がすようにして。 外づけの階段を、転げ落ちるように夜の街へ駆け下りた。背後で、香澄がまだ何かを叫んでいたが、もう何も聞き取れなかった。
俺はただ、走った。 裂けた右腕を必死に押さえたまま、自分の不甲斐なさと、あまりに惨めな結果への歯痒さに血の涙を流しながら、蒼一の待つところへ逃げ帰るしかなかった。

第4部・最終章(第三十一話〜第四十三話)はこちら
https://note.com/godkie/n/nc56ba24e9d3f