次剥(つぎはぎ) 第1部:第一話〜第十話
あらすじ
目が覚めると、名前も居場所も、四十年分の記憶がまるごと消えていた。残っていたのは「誰かを置き去りにしてきた」という抜けない違和感だけ。
古びた一軒の飲み屋に通い詰めた先で出会ったのは――自分と瓜二つの顔をした男。カウンターの木目に刻まれた「次はオレ」という謎の文字と、誰かの粘りつく視線。
二十年前の夜に葬ったはずの罪、姿を消した「誰か」、そして家族という名の器に静かに混じる「憎悪」―忘れた男と、覚えている男。様々な思惑が、封を切られた記憶の底で絡み合い、次々と剥がれていく。
この憎しみは誰のもので、誰に向かうのか。読み終えたとき、あなたはもう「次」の意味を、元には戻せない。
【本作は全4部構成です。第1部:第一話〜第十話】
次剥 第一話 誰か
大通りを通過するガロガロというトラックの振動が部屋の薄い壁をカタカタと揺らした。突然強い不安と共にハッと目を覚ますと、いつも数秒、自分がどこにいるのかわからない感覚に陥る。
天井の木目を見上げてそれから、ああ。東小金井の部屋にいるんだった、と思い直す。というよりも「記憶を貼り直す」のほうがしっくりくる。自分の名前も、年も、この部屋も、この五年間毎朝そうやって、剝がれかけた札を貼り直すようにしている。いつものように確かめ終えると、ようやく重い体を起こし布団から這い出た。
枕元に使い古した革の財布が半開きで転がっていた。半分飛び出ていた運転免許証を、一日に何度も眺める癖がついている。角がすり切れて白く反ってきた。
私は蒼一という名前、だ。住所は数年前に越してきたこの部屋に更新した。今年が二〇一九年ということは誕生日をなぞれば四十五歳ということになる。写真の男はたしかに鏡で見る私だ。だが曖昧でこれまでの記憶は私の中に、ほぼない。
五年前、私は病院で目を覚ましたのだという。気がついたときにはそれまでの自分をまるごと失くしていた。朧げに照らす蛍光灯の青白い光と、消毒の匂い、困惑した表情を浮かべながらも淡々と治療をしてくれる医者。付き添いは誰もいなかった。診断書に書かれたさまざまな記述。医師は私に丁寧にそして、気の毒そうに説明してくれた。だがそのどれもが曖昧で、霧の中で立ちすくむ感覚と先が見えない短い廊下の途中で時折激しくなる動悸のほうが、よほど私に残酷な現実を知らせてくれたのだ。
小腹を満たそうと台所に立てば、考えなくても先に手が動く。包丁の握り方も火加減も体が覚えているようだ。自分の手が知らない仕事をするのを、はじめは他人事のように眺めていた。この手は四十五年分何かをやってきた手だ。知っていることと覚えていることは別なのだと、私は思った。
私は文字を読み、箸を使えれば、自分の血液型も誕生日も知っている。一通りの生活はどうやらそつなくこなせるようだ。けれどそれは、他人の名簿をそらんじているのと何も変わらない。いつも突き当たる白い壁が、その向こうにあるはずの四十五年ぶんの記憶を遮り冷たく佇んでいる。
ただひとつだけ、どの診断書や看護師たちが残したメモにも書いていないことがある。
私は「誰か」を置き去りにしてきてしまった。
確証はない。それなのにみぞおちのあたりにその感覚だけが古釘のように刺さって抜けない。深い夜にときどき誰かを振り切ってしまった後悔の残り香で息が詰まる。
誰を、何処になのかは定かではない。焦燥感だけが、体のいちばん底にじっとへばりついているのだ。
ひどい不安は「よくないことが起きる。もしかしたら、もう起きているのかもしれない。」と告げていた。今日も私は何処へともなく薄い扉を開けた。
木造アパートの部屋を出ると、日の当たらない外廊下の手すりが氷のように冷たかった。十二月の黄昏時はもう陽が傾いていて、自転車置き場の屋根のところどころまだ霜が白く残っている。
住宅街の細い路地を抜けて駅へ向かうあいだ、はぁと白い息を吐くと私はうまく動かない右足を引きずるように高架下の改札を抜けた。冷えたホームではそう多くない人数が同じように電車を待っていた。
少しずつ、本当に少しずつ、この五年間近隣を歩き回ることで記憶を増やしていった。数日前に彷徨った武蔵境でも、その一週間前ほどに立ち寄った国分寺でも特に何も得るものはなかった。記憶が朧げな今の状態で外を出歩くのは思った以上にストレスがかかる。またいつ急に記憶を失ってしまうかもしれない。という焦りがあるからだ。にもかかわらず、その何かの手がかりを求めて動き回らざるを得なかった。細い糸が、靄の奥から引かれてはいた。革財布の中の小銭を数え、私はその糸をたぐるように今日は三鷹の駅で降りることにした。
ホームで電車を待つあいだ、隣に並んだ三十手前の会社員が、コートの襟に顎を埋めながらしきりに貧乏ゆすりをしているのが気になった。その男がさっきから三度ほど、改札のほうを振り返ったのを見逃さなかった。この時間スーツ姿でまだ行き先に向かって焦っているということは、彼はおそらく帰社する予定なのだろう。しかし誰かと一緒なのだが、そのもう一人がなかなか来ないのだろう。あの苛立ち方からすると部下か同僚か。おそらく年の離れていない同僚だろう。部下に対して露骨に苛立ちを見せるようなタイプの人間ではなさそうだ。だとしたらその相手を一人置き去りにはしないからだ。先に改札の中へ行っているということは、焦りもあるが相手に対して信頼もある。そんなに遠慮のない関係性だーー。
程なくして「悪い悪い!」と年や背格好の似たスーツ姿の男が小走りに近寄ってきて会社員の男はブツクサと文句を言っているのが聞こえてきた。ふふふ。やはりだ。
読むつもりもないのに、私の目は勝手にそういうものを拾ってしまう。人の名前も顔も覚えられないくせに、人の挙動からどんな心理状態なのかを無意識でも探ってしまう。
吐く息がゆっくりほどけて、私は知らず知らず右の太ももをさすっていた。びゅうと風が吹くと一層古傷が凍る。程なくして来た電車は三鷹方面行きだ。まだ空いている車内の窓際の手すりにしがみつくように収まると、車窓を暮れていく住宅街の灯りがタタンタタンと流れていった。
三鷹駅前はもう年末の色が一層濃くなり、クリスマスに向けて華やかに飾り付けられた商業施設が眩かった。横目でちらりと覗き見るだけでそそくさと通り抜けた。
冬は日が落ちるのが早い。商店街のアーケードにも、ほわりと灯りがともりはじめていた。総菜屋の前では揚げ物の匂いとどこかの家の夕飯の湯気が、冷えた路地に流れている。シャッターを半分下ろした店。子どもを自転車の前に乗せて急ぐ母親。すれ違う人みんなが何処かへ帰る顔をしていた。帰る場所のある人々の、あの少し急いだ歩き姿を私は遠い昔に過ぎ去った薄い膜の向こう側のように感じていた。
歩いては立ち止まり、周りを見渡してはまた歩き出す。行く宛も探している何かの綻びも、商店街のどこにもなかった。
日がすっかり落ちて、足の付け根がいよいよ重くなったころ、帰ろうかと踵を返した私はふと何気なく路地をひとつ奥へ折れてみた。
奥には小さな飲み屋の灯りがあった。
小ぶりな赤提灯がひとつ。建てつけの悪そうな引き戸の磨りガラス越しに、ぼうっと暖かい色が滲んでいた。最近できた店らしい。まだ初々しさの残る看板と艶やかな提灯が物語っていた。その灯りに誘われるように足が勝手に止まった。
「暖を取ろうか」との身体の声に素直に従うことにした。この路地の奥まり方も軒の低さも妙に懐かしさを感じた。私は引き寄せられるままに、その引き戸に手をかけた。
「いらっしゃい」おそるおそる開けると、煮物の湯気と、煙草のヤニの染みた暖かい空気がワッといっぺんに頬を撫で、カウンターの中のマスターはこちらに微笑みかけていた。
通された奥のカウンターへ腰掛けて店の中を見渡す。すでに幾名かの常連らしき人々がマスターを囲んで談笑しており、こちらに気づくと軽く会釈をしてくれた。離れのテーブル席も程よく埋まっており、この辺りの住人たちに愛されている店だということがすぐにわかった。
店構えも品書きも心をくすぐる何かがあった。独特で年季の入った一枚板のカウンターの曲がり方、低く仄暗い天井、奥の席の暗がりの溜まり方も体に馴染む居心地の良さを感じる店だ。古さと新しさが同居する珍しい空間だった。
ハイボールを一杯とちょっとしたつまみを頼んだ。最初の一杯を喉に流し込むとひとときの緊張と疲労がやんわりと解れだし「これでいい」と体のどこかが頷いた。暖かい夜に包まれていく私は少しずつ心の妙な焦りから解放される喜びに身を委ねた。またもや誰にも何にも出会えなかった一日が次第に終わりを迎える。記憶がなくなるまで立て続けに飲み干していった。
次剥 第二話 同じカウンター
その晩から、私は週に三日ほど体調の良い日を見計らって必ずあの店に通うようになった。
東小金井の部屋から、ひと駅、ふた駅。用などあるはずもないのに日が傾くころに自然と足が三鷹へ向く。気がつけばいちばん奥のカウンターが私の特等席のようになっていた。
この五年間、過去の自分に辿り着く手がかりは何ひとつ掴めなかった。医者はよく「無理に過去を思い出そうとせず、今のことだけを考えれば良い」とアドバイスをくれたものだ。このカウンターでいつものハイボールを飲んでいるだけで、探しているものに出会わなくてもいいか。と半ば諦めにも似た現実を受け入れることもできた。
というよりもだ、手の込んだお通しやジャガイモを粗く潰したポテトサラダをつまみに常連たちの会話に耳をそばだてるのが本当に心地よかった。
冬の路地は、独り身に染みる底冷えが続いた。通い慣れてきたガタつく引き戸を開けると、入れ替わりに店の熱気が顔にかかる。常連たちのコートが入口の壁にいくつも掛けられて、今日来ている人々を視認せずとも把握できるほどになった。何名かは寡黙に杯を傾けるだけの私のことすらも親切に包み込んでくれた。とても、とても暖かかった。体温をまとった羅紗の匂いと、燗の匂いの混じった空気が、いつのまにか私を形作る一部になっていった。
「蒼一さん。今日も来てくれたのかい。調子はどうだ。あんたが顔を見せにきてくれるのが楽しみになってるよ」とお決まりのハイボールを出しながらマスターはそう微笑んでくれた。カナディアンクラブの甘い香りがほのかに抜ける。私のお気に入りだ。
名乗ったのは初めて来た晩だ。五年前の記憶がないことも、誰かを探していることも、訊かれるがままに話した。隠すことでもなかった。マスターは「そうですか」とだけ言って、それ以上は何も訊かない。この街のこういう店の人間は、客のリズムに水を刺すような真似をしない。私はその程よい距離感が楽だった。
常連たちのほうが、私をよく見ていてくれたようだ。値踏みでも敵意でもない。もっと特異な目つきだった。知っている顔が知らない場所に座っている―そう言いたげな。ときどき私の顔をまじまじと見ては、隣の男と何か囁き合う。私に気を配ったまま野暮にならない範囲で。一度だけ、酔客のうちの一人が漏らすのを聞いた。
「蒼一さんあなたは…本当は源二っていう名前なんじゃないか?いや、余計なお世話だったかな。すまない」
源二。
その名前だけが色を持って、私の中に滲んだ。顔も声も浮かばない。それなのにその二文字は、棘のようにどこか引っかかった。「いえ。蒼一と言います。免許証にもそう書いてありました。」ニヘラと口角だけの愛想笑いでいなしたものの、私は自分が誰を探しているのかも知らないくせにその「源二」という名前を頼りに、酔いの底で手放さぬように強く握りしめていた。
その晩、入口近くの席で酔った客がふらりと椅子からよろけた。私は考えるより先に立ちあがりその背に手を添えゆっくりと水を一杯飲ませてやった。体が勝手に動く。こぼれた小鉢を台拭きで拭き終えるとマスターが、おやありがとう、という顔をした。記憶を手放してしまった身体だが、誰かの世話を焼くことは自然とできていた。たぶん昔の私はそういう男だったのだろう。そんな無意識の所作のひとつひとつを発見するたびに私はつぶさに拾い集めていた。
そのくせ、自分のことを訊かれると黙った。「蒼一さんは何している人なの。家族は?」水を向けられるたびに、血の気がすっと引く。人のことはいくらでも読めるのに、自分の話になると急に喉が重くなる。感情を読まれたくない、と体のどこかが身構える。何を恐れているのかわからないまま。
程なくして私はこの店で毎晩のように突っ伏すまで飲むようになった。飲んでいる間はみぞおちとこめかみの痛みが少しだけ鈍り、誰かを置き去りにしてきた感覚から、ひと晩だけ逃げられる。同じカウンターの同じ席へ通い続けることが当たり前の日常となるまで、半月もかからなかった。
次剥 第三話 再会
私はいつものようにカウンターに突っ伏していた。二十二時を過ぎ、垂れ流されているテレビがニュース番組の始まりを知らせた。
頬を冷たいカウンターにつけて、半分うつらうつらとしていた。何十年も酔客を受け止めてきたであろう年季の入った古いカウンターは、店の雰囲気からすると少し浮いているようにも見えた。居抜き物件か何かなんだろう。天板についた傷を指でなぞり、その歴史の深さをたどっていた。私にもあったはずのそれはぽっかり抜け落ちていて、そのせいか木に刻まれたあれこれを追わずにはいられなかった。
「次。」ふと傷をなぞった先に固いもので削られた文字とも読める掘り跡を見つけた。
「次はオレ」
誰かがいたずら書きをしたんだろう。遠い世界との境界線が曖昧になりさらに遠退いていく感覚。ピキリと走るこめかみの痛みと右足の痺れをなぞることだけが今の私には連続性を持たせてくれている。
「次はオレ」か。
私にも次はあるのだろうか。過去からの連続がないことが無性に心細くなるのだ。
ガラリと戸が開き冷たい風が床を這って、足首に触れた。ざわめいていた常連たちがふと静まるのがわかった。店の空気がわずかに張り詰めた。
「おう…源二」と、誰かが呟いた。
私の喉奥に爪を立てて引っかかっていた名前だ。私は頭を持ち上げ、ゆっくりとピントが合っていくその先に一人の男の姿を捉えた。
髪も髭もぼうぼうに伸びた、痩せた男だった。驚くことにその顔は免許証に映っている私と瓜二つだったのだ。頬がこけ、首が細く背を丸めたその姿は、足元も覚束ないがただ酔っているのとは違った。何かに内側から少しずつ喰われている。そういう痩せ方だった。私によく似た顔には、目尻に笑い皺が深く刻まれていた。今は立っているのもやっとの様子でも、かつてはよく笑う男だったのだろう。と私は読んだ。
彼は伏し目がちの濁った視線で店の中をのろのろと見回したのち―奥の私を捉えた。
目が、合った。
その瞬間、男の目の中で何かが起きた。持っていたコンビニ袋をボサリと落とした。濁っていた瞳に火が灯ったようだった。それはほんの一瞬の出来事で、私をなぞり確かめて―そしてガッと見開かれた目は再び伏せられた。信じられないものを見た顔だった。
安堵でも喜びでもない、もっと深いところで何かを噛み締めるようなそして、軋むような顔だった。会いたかった、とも、会いたくなかった、とも読めた。
―この男はおそらく。私を知っている。
そう読み取った瞬間、こめかみにツンとした痛みが再び走った。常連たちが私と源二を互いに見比べているのが伝わった。好奇の目だ。私にはこの男の記憶がないが、ついに何かの引っ掛かりに辿り着いた感覚だけがあった。この店に居着くことを選んだ私の勘はあたったのだ。
マスターが何気なく私を紹介した。「源二さん久しぶりだな、こちらは最近よくきてくれる蒼一さんだよ。なんか、なんかこんなこと言うのは変かもしれないが、あんたたち顔がそっくりだね」
男の視線が再びこちらを捉え、口元が私の名を呼ぼうとして震えた。乾いた唇がゆっくりと開いて―けれど声にはならなかった。喉の奥で言葉がつかえたまま何度も口の形だけが動いていたが、そのたびに何も出てこない。まるで、その名を口にすることを誰かに止められているように。
「源二…さんというのか」
堪えきれず私のほうから零れていた。さっき常連が呼んだ名前を、確かめるように。
男は答えなかった。答えられなかった。ただ、その目だけが少し潤み―そうだ、と言っていた。声よりも、名前よりも、はっきりと。それから、その目に、見ているこちらが苦しくなるほど色が差した。すまない、とでも言うような。あるいは、許してくれ、とでも。
その瞬間。ズキ、とまた脳の芯を指でぐっと押し潰されるような痛みが走った。
そして、同時に重なってあの感覚が来た。
見られている。
客たちの好奇の目とは違う、もっと私のいちばん奥底から、誰かが舐めるようにこちらを覗いている。粘ついた視線。面白そうに私と戸口の男を見比べて―まるで、私たちが近づきすぎないように、間に割って入って見張っているかのように。
私は急にバッと浮いてきた手汗を隠すようにグラスを握りしめた。源二と呼ばれた男は片手で頭を押さえてよろめいたまま「また来るよ」と会釈だけ残して再び引き戸の外へ消えた。
常連たちはそれ以上詮索することもなく、わけのわからないという顔を浮かべたまま再び各々の時間へと戻っていった。マスターだけが私と引き戸を交互に見つめていた。
次剥 第四話 よく似た二つの顔
その夜から、ほどなくして私は少しずつ源二と席を共にすることが増えていった。
源二は初め、私に会いたくなさそうだったが定期的に店に訪れるようだった。「こないだ蒼一さんがきてないときに源二が店にきてね。何も飲まずに帰っていったよ」マスターはそう私に告げ、いつものポテトサラダを出してくれた。
源二は決まった時間に現れるようだった。店に来ては引き戸近くのカウンターで軽く二、三杯飲み、他の客とそつなく愛想良く対話するが、私とは心を閉ざしているように目を逸らしたままだ。飲み終えると足早に店を出ていった。まるで私の生存確認をしにきているかのようだった。
私もどう接していいか分からず、でも何かのきっかけを掴む機会が欲しくていつものカウンター奥で一人居座った。いつのまにか源二に会うことを楽しみにしている自分がいた。
私は気づかないようにしていたが、彼は私と鉢合わせるときはじっとこちらに視線を送っていた。何か言いたげに乾いた唇がすこしだけ動くこともあった。そして私が顔を上げると、彼は慌てて目を伏せ、逃げるように酒を呷る。あと一言というところまで来て、そのたびに何かが彼を引き戻していた。全てを言えない理由が彼の中にあるのだろうと私はそれを受け入れ多くを聞かなかった。その全てが源二の中で毎晩ぶつかり合っているのが手に取るように読めたからだ。
一度だけ、源二がこちらに笑いかけたことがあった。誰かのくだらない軽口につられて、口の端がふっと持ち上がった。反射のような笑いだった。きっと昔は、こうやって誰彼かまわず笑っていたのだろう。そう思った次の瞬間、その笑みは力をなくして落ちた。笑い終える前に、抱えている何か大きなもののせいで笑い方そのものを忘れてしまったかのように。
正月を跨ぎ、二〇二〇年の始まりを街中が祝福しだした頃には徐々に源二は私にも話しかけるようになった。というより、嫌でも私たちはしばらくの間常連たちの話題の中心になっていたからだ。「あんたたち双子かなんかかい?」「それにしても瓜二つだよ」「源二の方がちょっと二枚目か?いや失礼」好奇の目にさらされたが別段不快だとも思わなかった。本当に久しぶりに人の輪に入っている感覚だ。そんないじりも微笑ましく思えた。
源二という名前の男は澄んだ魂の色をしていた。歳は私より五つほど下だ。色々と聞きたいことがあったはずだが、お互いに言葉が紡げないままにいつしか横並びに座るようになり、私がぽつりぽつりと口にした言葉を源二は丁寧に掬ってくれていた。
五年以上前の記憶がないこと。
今は東小金井に一人で住んでいること。
誰かに会いたいと思っているが、それが誰なのか思い出せないこと。
源二は深く追及もせず、私の心に寄り添いグラスを傾けるばかり。そして源二は、自分の話を一切しようとしなかった。
「源二、君は私の過去に何があったのかを知っているんだね?」勇気を出して問うたその核心にも彼は箸袋をくしゃくしゃに丸めながら言葉を濁した。「本当に記憶を無くしてしまったんだな。それでよかったんだよ。もう思い出さなくていい。すべて忘れよう。」
この話題になると源二は一切の目の光が消える。これが彼を深く追求できずにいた理由だ。しかしそれ以外は徐々に源二の緊張が解けていくのがこちらにも伝わり、それがとても嬉しかった。いつしか源二や常連客たちに会うのが楽しいと感じ、この店に毎日のように来たいと思えるようになってきた。
この男の前にいるとき、私はひとつ、自分の奇妙な癖に気づいた。源二の前でだけ、挙動から心理状態を読まなくても私自身の心が落ち着いているのだ。他の誰と話していても、私は勝手に相手を読み、先回りして気を遣い隙のないように身構えてしまう。ピリッとした軽い緊張感の中に常にいた。けれども源二の前ではそれがふっと緩む。この男には裏も底も何もない。読むべきものがそこにない。記憶のない私にとってこの五年でただ一人、肩の力を抜いて隣に座れる相手が、よりによって私を知るきっかけを持つであろうこの男だった。
彼が何を抱えているのか、私にはわからない。
私が何を失くしたのか、私自身わからないのと同じように。
何年も灰色だった景色に少しずつ色が足されていった。よく似た顔をした二人が同じカウンターに並ぶ頃には冬がずいぶんと深くなっていた。私たちは会う度に、お互い突っ伏すまで酒を飲んだ。
次剥 第五話 運動会
源二と会うようになってから、私の眠りにも変化が現れるようになった。それまでの私の夢は、ほとんど何も映らず輪郭のない場所を誰かを探して歩くことだった。掴めないまま目が覚める。その繰り返しだった。
けれど最近では夢の端に、ひとつ、またひとつと色が咲く、誰かの後ろ姿と陽の匂い。突風にはしゃぐ笑い声。掌に残る安酒のべたつき。出来事の形にはならない薄いグラデーションだけが、私の知らない記憶となって次から次へと漏れ出てくる。
白い線が引いてある地面に、一列に並ぶ子供達。砂埃の匂い。たくさんの人のざわめき。よく晴れた空に舞う赤とんぼ。運動会だ、と夢の中の私は思った。
小さな背中が走っていた。白い線の上を転びそうなおぼつかない足取りで懸命に。それを目で追っている男の姿。声の限りにその背中を応援し両手を振り上げて、まるで自分が走っているみたいに前のめりになって。その男が誰なのか私にはわからなかった。私のような気もしたし、まるで知らない誰かのような気もした。ただ、その男の胸にあった多幸感だけが溢れるほど大きく私の胸に流れ込んできた。
こんな感情も記憶も私には見覚えがない。私の人生にこんなまぶしいものがかつてあったのだろうか。記憶のない私はいつも自分のことをそう値踏みしていた。夢の全部が溶けたあと目を覚ますと、幸せな気持ちで胸の真ん中が温かかった。その余熱だけが起きてからもしばらくまだ胸に残り、私はそれを逃さないように両手で押さえこんだが、行き場をなくしたこの温もりは、ほどなくして胸の中でゆっくりと冷めていった。
次剥 第六話 明け方の部屋
もうひとつ、繰り返し見る夢があった。それは匂いから始まる。咽せ返るような暑さが体に張り付く明け方の、湿って饐えた路地裏の匂い。安宿のような知らない部屋。窓の外がうっすらと明るくなる夏の明け方。私と世界の輪郭は溶けて混じり合っている。
部屋に三人いた。私と、もう一人と、派手な男。その派手な男を、夢の中の私は視界が歪みうまくとらえることができない。どんな顔か黒い靄がかかり思い出せないが、特徴的なキラキラと首のあたりで光るネックレスと上機嫌な大きな声。酒瓶が何本も転がったベッド。はじめは私も楽しかったはずだ。スピーカーから流れる強烈なビート。誰かと肩を組んで踊り狂い弾け飛ぶ。生ぬるい風。それがどこかのタイミングで裏返った。途端にぬめりと弾く割れた鏡の光。それからベッドにボダダダダっと液体が溢れる音と真っ黒なシミが黒く溝に沿って広がっていく。私の手が濡れている気がする。けれど、震える手を見ようとするとそこには何もない。
いつもそこで浅い呼吸のまま飛び起きると、決まって心臓が信じられないほど脈打っていた。鼓動に合わせてまるで今しがた抉られたばかりのように太ももにもうずきが走る。そんな目覚めの時は布団の中でうずくまり全てが治るのをしばらく待たなければならなかった。本当に質の悪い夢だった。
次剥 第七話 顔の崩れた犬
生活感などまるでないこの部屋に住み出してもうすぐ三回目の更新を迎える。最低限の布団と炊事道具。それだけで事足りていた。ふとトイレットペーパーがきれていることを思い出し、ついでに簡単な食事でもとろうと部屋を出てドラッグストアへ行く道すがら、私は一匹の野良犬を見た。
痩せた、薄汚れた犬だった。私が近づいても逃げる気力もない、とでも言いたげだった。その犬の顔の半分が崩れていた。車にでも轢かれたのだろうか。後ろ足を一本、引きずっていた。私と同じだ。
その犬は塞がっていないほうの濁った目で私を見上げた。何かを咎めるような、あるいは覚えているぞ、とでも言うような。みぞおちの底からいい知れない感情がせり上がる。動悸が早まり首元に汗が噴き出てきた。奇妙な罪悪感のようだった。今日初めて見た犬だが何か過去に取り返しのつかないことを私はしでかしたような、妙な感触が皮膚の内側をぞわりと這った。
目を伏せ足早にその場を離れ家路に急いだ。振り返ると犬はまだこちらを見ていた。追ってはこなかった。私の引きずる右足と、犬の引きずる後ろ足が、しばらく夜明けの路地に響いていた。
次剥 第八話 源二という男
源二のことを私は少しずつ知っていった。もっとも、源二自身が自分の話したことはほとんどない。常連たちが酔いの合間にぽつぽつ零すのを私が拾い集めただけだ。
源二はこの近辺で独り暮らしをしているようだった。遥か昔に所帯を持っていたが、とうに別れたという。いまはその日その日の下請けの仕事を拾って食いつないでいるらしい。決まった勤め先も、決まった住処の話も聞いたことがない。あの透けたような存在感の正体はそれか。すこし共感できる部分では、ある。
そして、あの奇妙なほどの痩せ方だった。食うに困っている者のそれではない。得体の知れない何かに内側から削ぎ落とされている、という削られ方だ。隣に座っていると、この男は生きているのに、もう半分こちら側にいない感覚を纏っていた。
源二は過去を一切語らない。誰かが昔の話を振っても、薄く笑ってはぐらかす。その笑いが私は苦手だった。口は笑っているのに目がどこか透けている。底知れぬ深淵で硬いものをじっと噛み殺しているような澄んだ真っ黒な目だった。「もういいでしょ。忘れましたよ」それが彼の口癖だった。
頑なに許さない目がふっと和らぐのは、私の前にいるときだけだった気がする。そして私の前にいるときだけ、源二は過去を言いかけては幾度も口を噤んだ。
もうひとつ気づいたことがある。源二は右腕を不自然にかばっているのだ。どれだけ酔っても、右の袖だけは決してまくらずいつも体の側に折りたたむような癖がある。一度、酔った拍子にその右腕がカウンターの縁に触れたとき、源二は刺されたかのように身を引いた。痛むのか、と訊いても何でもないと首を振って笑い、また右腕を体の内側にしまい込んだ。その袖下に何があるのか彼に聞き出すことは、私にはできなかった。
次剥 第九話 独り身
ある晩、遅めに店につき三杯目のハイボールを飲み干したあたりだろうか。マスターと二人で世間話に花を咲かせていた隣客がふとこちらに首を傾けて私に訊いた。悪気のない世間話の一片だった。「蒼一さんは家で誰か待ってる人いるの」少し考えて「独身ですよ、私は」と笑って答えおかわりを注文した。
自分でも驚くほどするりと出てきた。常連は「そうか。それはいいな」とだけ言って酒に戻った。大きく話を広げて欲しくない。という私の感情が漏れてしまい丁寧に受け止めてくれた感じだ。その問いは私の中にほんの半秒、奇妙な感触として残った。
独身ですよ、私は。
その答えは、確かに私の口から出たものだ。それを何度も反芻した。確かに私には妻も子供もいた記憶の片鱗すらない。それなのに、どこかそれに確信が持てないような、よそよそしさがあった。誰か別の人間が、私の口を借りてすらすら答えていったような。そして、その答えの裏側に、薄く影のようなものもまとわりついていた。
その影の正体が何なのか。見ようとすればするほどみぞおちのあたりが痛み、私は蓋をするように、グラスを呷った。私は独身だ。記憶のない私のことなど待っている人がいるはずはない。
そう言い聞かせるほど、胸の奥の、あの夢で掴みかけた誰のものとも知れない温かさが、再び遠ざかっていった。
次剥 第十話 磁場
カウンターの奥で誰かがおどけたような声を上げ、マスターがそれに応えるように小さなツッコミを入れる。グラスが鳴りいつもの笑い声が店内に響く。厨房からは揚げ物の音と油の匂いが漂い隣のテーブルで女性が携帯の光を顔に浴びている。男が低い声で何かを言う声、引き戸が開くたびに夜の湿気が一息で入ってきて、また一つの物語が産声を上げる。
源二と私のあいだには、奇妙な引力が確かにあった。
源二の隣に私がいるとき、何も映らなかった私の空洞に、さああと色が差した。運動会。明け方の部屋。崩れた顔の犬。夢に現れた景色や、やけに記憶に残る残像が、一人でいるときには出てこないのにもかかわらず「源二が隣にいる」だけで、濁り混じった複雑な感情の上澄みを掬っては頭の奥でふわりと浮かび上がってくる。源二は、私の中の何かを呼び起こすスイッチのようだった。
それは、源二の側も同じらしかった。
テレビから野球の実況が流れはじめ、いつもの老人が「あーまた打たれたよ」と短く唸ってタバコをふかす。マスターが氷を崩すカランと涼しい音がなりすぐに消えた。私たちは、誰に言われたわけでもないのに、夜ごと少しずつ近くに座るようになっていた。肩が触れるほどの近さで、二人とも同じカウンターに突っ伏すのに時間はかからなかった。背後では誰かが帰り支度をしている。椅子が引かれ、上着を手にとる気配がして、引き戸が開き、外の音が一瞬だけ混じり込んで、マスターの「ありがとうね、また」というひとことで静寂が生まれて消える。そのたびに一枚一枚と剥ぎ取られた店の中の音が遠のき、私たちの周囲だけがゆっくりと別の膜に包まれていくようだった。雑踏の気配は消え、二人分の呼吸音だけが残されていくような。鏡を覗き込むみたいに私が源二を見ているのか、源二が私を見ているのか酔いの底ではもう、溶けまじりよくわからなくなっていった。
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