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次剥(つぎはぎ)― 第4部・最終章(第三十一話〜第四十三話)

※第1部から読むことをおすすめします
第1部(第一話〜第十話)はこちら


次剥 第三十一話 介抱

 三鷹の街角、源二が香澄を呼び出したあのBARの近くにあるカフェで、私は緊張からか永遠に感じる時間の中にいた。カップの中で冷めきったコーヒーを見つめながら、指先が痺れるほどの逼迫に耐えていた。もし源二が失敗したら。もし香澄が、私の想像を絶する怪物だったとしたら。
その時、沈黙を切り裂くように端末が震えた。
「…ごめん蒼一。香澄にやられた。今、そっちへ向かっている」
源二の声は酷く掠れ、しかし驚くほど震えていた。その静けさが、かえって事態の絶望的な深刻さを物語っていた。私は言葉を失ったまま、慌ただしく立ち上がり、千円札を置いて足早に店を飛び出した。
通りでは、冷たい霧雨はより濃くなっておりシトシトと雨が混じり始めていた。人通りの少ない交差点に立ち、私は入り口を塞ぐようにして源二を探した。数分後、街灯の光に浮かび上がったのは、右腕を抱え込み、血の色と雨の冷たさをその身に纏ってこちらへ駆けてくる源二の姿だった。
「源二!」
駆け寄る私は肩を貸そうとしたが、大丈夫だといい源二は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で笑った。我々はそこから程近い、源二が住むあの古いアパートへともつれ込むようにして逃げ込んだ。扉の鍵を閉め、源二の血と雨でベタついたワイシャツを脱がす。二人のゼエゼエという荒い呼吸がシンとした室内に響いた。湿った空気が漂う中で、呼吸が浅く喉の奥がヒュッヒュッと鳴りやまない源二。幸いなことに腕の傷自体は深くはなかった。おそらく皮膚の浅い部分だけが切れたのだろう。線のように裂かれた皮膚下の静脈と毛細血管から丸い血の玉がじわりと浮き出ては濡れたワイシャツに溶けて滲んできた。懺悔が混じり合った涙の温度に、胸の奥が焼き切れるような痛みを覚えた。
 私はありったけのタオルで傷口を縛り、持てる限りの知識をもって止血を試みた。妻を救えなかったその手で、今度こそはと祈るように。二十センチにも渡る創傷を覆い隠すように私は白いタオルを巻き直した。
この男まで失えば、私は本当に独りになってしまう。
部屋の外では雨足が強くなり香澄という名の底なしの闇を静かに呑み込もうと息を潜めていた。
 二時間ほど経った頃だろうか。沸かしたヤカンの蒸気で室内がほんのり熱を帯びたころ、ほどなくして源二は布団の上で呼吸も落ち着いてきた。どうやら寝てしまったようだ。源二が咄嗟に腕に巻いたジャケットは、べっとりとした血が固まり、どす黒く変色していた。病院へ行くことをひどく嫌がったのは、源二が保険証も免許証も、とにかく身元を証明できるものを何も持っていなかったためだろう。私は焦るばかりで、何もしてやれない無力な自分に、もうどうしようもなく打ちひしがれた。
 本当に、すまないことをしてしまった。
 後悔と共に滲み出た汗は一向に止まらず、ボタボタと畳に沈み込んでいく。ベッタリと皮膚を撫でるワイシャツの不快さが、そのまま焦燥と懺悔のごとく纏わりついて、枕元に座ったまま、私は源二の横で立ちあがれずにいた。
 行かなければ。真咲のところへ。
 頭ではわかっていたのに、体の芯は源二のそばからぴくりとも動けなかった。あのぬるい視線が、再び胸の奥底の暗闇から「逃げていい」と、相変わらず囁いていた。
「蒼一」
 源二がうっすらと口を開いた。目を瞑ったまま、こちらへ頭を傾けた。掠れたけれどどこか据わった声だった。
「行かなきゃ」私は見透かされたことに怯え、顔を上げた。
 源二は左手で傷を庇うようにゆっくりと半身を起こし、私を見ていた。土気色の顔で、それでも、目だけがまっすぐだった。
「本当にすまなかった。俺はもう大丈夫だ。もういい。早く真咲くんを見つけるんだ。いまなら香澄の後を追える。」
 源二はその強い言葉で、私の胸を、どん、と突き放した。
「あの女は異常だ。蒼一ごめんな。少し心のどこかで話せばわかる、とタカを括ってた。舐めてたのかもしれない。本当にごめん、蒼一。これでやっとわかったよ。奴は本物だ。…やられたのが蒼一じゃなくて、俺で、俺で本当に良かった。あやうく蒼一まで失うところだった。…これ以上、誰も犠牲者を、増やすな」
 源二は再びゆっくり体を横に戻し、深い息を吐いた。痛み止めがまだ効いていないのかもしれない。香澄がどこへ逃げたのか、私たちにはわかっていた。あの女の行く先など、ひとつしかない。志津から最後に取り上げ、手元に残しているもの。真咲だ。彼女を追えば真咲のところに辿り着く。

立ち上がった私はノブを回した。が、手を止め、ゆっくりと、ノブから手を離した。

「源二。ありがとう。今日はここにいるよ。お前のほうが、心配だ」
 行かなければと、頭の芯が叫んでいる。それでも布団の上で浅い息を繰り返すこの男を、ひとり置いて出ていくことがどうしてもできなかった。 たった一晩。たった一晩真咲の元へ辿り着くのが遅れるだけのことだ。私はそう自分に言い聞かせた。―今思えば、その一晩が、すべてだったのに。
「そうか。」そう言うと源二は再び気絶するように布団に倒れ込んだ。源二の寝息を確かめてから、私はゆっくりと立ち上がった。
 源二に気を取られ気づかなかったが、私も同じくあまりにも乱れ切った格好だった。肌寒い季節なのに汗だくで、一度身を整えたかった。源二が私のフリをするために用意して渡してあった新品の服が何着か、部屋の隅に綺麗に畳まれていた。
 私はシャワーを借りて着替え、近くのドラッグストアへ向かった。源二の食事と、痛み止めや、応急処置の消毒液を買い足したかった。
 降り続いた雨は、夜更けになっても小降りのまま止まなかった。小雨の中、小走りにドラッグストアへ向かう間、私は気が気じゃなかった。この付近に、香澄がいる。私だと思い込んだ源二を躊躇なく切りつけ、ついに本性を表した、あの女が。鈍く光る夜の雲に香澄の怨念を感じ、私は襟をたてて、身を隠すように急いだ。正直なところ今の香澄に正面切って対峙できる余裕はなかった。
 部屋へ戻り、買ってきたものを枕元に並べ、二の腕の傷を改めて手当てをした。それから、源二のそばに座って、ただ、その呼吸を見ていた。生きていることを何度も確認してしまった。―そうしているうちに、いつのまにか、私もまどろんでいたらしい。

 鳥の囀りで、はっと目が覚めた。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからず、あわてて飛び起きた。源二―。

 よかった。緊張が緩んだ。
 源二は穏やかな顔で寝息を立てていた。窓の外は、もうすっかり夜が明けて雨も上がっていた。

 源二を起こさないよう、静かに部屋を出た私は改めて、真咲のすぐそばまで来ていることを確信した。本当に急がなければ。いつ真咲が香澄の毒牙にかけられるかもわからない。まずは源二が回復するのを待って、手がかりを洗い出したい。着替えたばかりの新品の服が、いつの間にかじっとりと再び嫌な汗を吸っていた。私は逃げるように言い訳を胸の中で繰り返し、一度、自分の家に帰ることにした。

次剥 第三十二話 妄想にされる真実

 自宅に戻り、鍵を差し込んだタイミングで、突然電話が鳴った。知らない番号だ。嫌な予感がした。
「お電話差し上げております。三鷹警察署の山吹と申します。失礼ですが、蒼一さんのお電話で、お間違いないでしょうか。―実は、ある件で、あなたのお話をうかがいたいことがありまして。お時間のあるときに、一度、署までお越しいただけませんか」

 緊張感のある声だった。
 心臓がドンドンと脈打つのがわかった。手の震えは一向に止まらない。私は一呼吸おき、努めて冷静な声を出すことに徹した。
「か、かしこまりました。いまから、お伺いいたします」
 乾き切った喉に張り付く苦い緊張が、全身へ走り抜けた。ぐるぐると回る頭の中で、得体の知れない感情が錯綜し、血の気が引いていくのを感じた。

 生活安全課に通され、案内された部屋へ入ると同時に「すみません。突然、お呼びいたしまして」と、背の高い六十近い男性は、口元を緩めてそう言った。私は逮捕されるのか。理由は?いやせっかくの機会だ。ここで真咲のことを相談できるまで、こっちのペースに持ち込むんだ。

 私の緊張を察したように「はは。ただの事情聴取です。」と乾いた笑みを浮かべ、山吹と名乗る男は私に椅子に座ることを促した。聴取は、あっけなく終わった。
 
 今から思えば、あの慎重な香澄が感情に任せて悪手を打ったのだ。「ある女性から、蒼一さん、あなた宛に被害届が出ておりましてね。昨夜、あなたに屋上から突き落とされそうになって、ナイフで切りつけられた、と」
 山吹は、バツが悪そうな顔で続けた。「ところで蒼一さん、昨晩は、どちらにいらっしゃいましたか」
 屋上にいたのは、私ではない。源二だ。斬りつけたのは香澄のほうで、斬られたのは源二の腕だ。けれど、その一言を私は言えなかった。言えば、私が源二に罪をかぶせて、人を殺しに行かせたことを認めることになる。
 だから私はほとんどしゃべらなかった。知らない。心当たりがない。その夜私は近くのカフェにいたことだけを、淡々と低い声で繰り返した。間も無くカフェに連絡が取れたそうで私のアリバイが証明された。
 そして、私が黙っていても、香澄の偽装されたストーリーは勝手に自壊していったようだ。
 そもそも私の身体には争ったような形跡も傷あとひとつすらなかった。ナイフで人を斬ったのならば多少の返り血を浴びる。揉み合えばこちらにも傷がつく。何もなかった。更には「切り付けられた」と証言した香澄自身にも傷はなかった。源二が香澄に奪われたナイフはおそらく香澄が持ち去って、どこかへ捨てたのだろう。
 それに、あの夜は雨だった。源二と香澄が屋上にいたころから、かすかに降りはじめて、深夜から朝にかけて本降りになった。源二が街にこぼした血も、屋上に落ちたはずの痕も、ひと晩の雨がきれいに洗い流していた。
 刑事たちの目は私を容疑者ではない。と断定していた。妄想の揉め事に巻き込まれた何と言うか気の毒な者を見る目に変わった。妻を亡くしたばかりの男。その妻の義妹。―彼らはおそらく、こう読んだのだ。姉を亡くした悲しみで心を病んだ女が、たった一人の身内である義兄にすがって、こじれて、ありもしない被害妄想を現実と誤認し、ヒステリックに訴えている。よくある話だ、とでもいうように。民事不介入です。と横で聞いていた新人警官は呟いた。
 私は知っていた。香澄が被害者などではないことを。あの女が姉を毒でゆっくり殺したことを。いま、その同じ手で、真咲にも手を出そうとしているかもしれないことを。けれど、それを逆に警察へ伝えるには証拠が何もなかった。それこそ私のほうが精神病を疑われかねない。志津は事故死としてすでに火葬されている。証拠は灰になった。むしろ、それを口にした瞬間、妄想者だと見られるのは私のほうになる。―刑事の顔がどう変わるか、私にはわかっていた。

 私は午前のうちに解放された。帰り際、廊下の長椅子に香澄が座っているのが見えた。ハンカチを目に当てて、肩を落としていた。職員が気遣わせるようにその背に手を添えていた。私が目を合わせぬようにそっと通りかかると、香澄はゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた、憐れな被害者の顔だった。
 ハンカチの奥の目が私を捉えたその瞬間。濡れた目の奥に、涙とは別のものがちらりと光った。それはほんの半秒で、また憐れな膜の下に沈んだ。職員には見えなかっただろう。私にだけ見えた。―勝った、とでもいうような。けれど、香澄の勝ちはそこまでだった。
 被害届は宙に浮き、立件されないと伝えられた瞬間―いや、むしろ香澄のほうが心を病んだ者として扱われ、保護されるのが自分の方だと察した瞬間、あの女のなかで、何かが音もなく外れた。私が建物を出ようとしたとき、背後の廊下で、人の声とは思えない金切り声が上がった。さっきまで憐れに肩を落としていた女が、別人のように暴れていた。職員が数人がかりで取り押さえようとしていた。慎重に、計画通りに進めてきたものが根こそぎ崩れた女の、底のない悍ましい声だった。
 私は振り返らなかった。香澄はそのまま精神科へ運ばれていった。病んだ哀れな女として。―誰も裁かなかった。誰も、あの女を止めなかった。
 署を出るころにはもう昼に近かった。

次剥 第三十三話 灯台下暗し

 香澄が運ばれていったことで、皮肉にもひとつの道がひらけた。あの女がいなくなった今、ひとり残された真咲を保護しなければならない。私は署に引き返し、生活安全課の山吹に再び頭を下げた。あの女のところに、私の実の子がいる。母を亡くしたばかりの、十一歳の子です。母親代わりだった叔母が運ばれてしまった以上、いまあの子はひとりで軟禁されているはずだ。どうか息子の居場所を教えてほしい。
 今度は嘘も隠し事もなかった。私はただ、血のつながった父親として息子の居場所を求めた。初めからそうすればよかったのだ。
 山吹は、しばらくうーんと渋ったあとで、住所を書いた紙をそっと寄越し「一人付き添わせましょう」と言ってくれた。その住所を見て、私は呆然と立ち尽くした。
 あの建物だった。志津が落ちた香澄のマンション。先日、もぬけの殻だと思って引き返した、あの場所。香澄は引き払ったように見せかけて、同じ建物の別の部屋へ移っていただけだった。私が訪ねた元の部屋の、ほんの二つ下の階。―真咲はずっとそこにいたのだ。

 私が志津の滑落した階段の下に立ち尽くして、見上げもせずに引き返したあの日。真咲は私の頭上で、助けにも来ずに引き返していく父親をじっと見ていたのだ。いちばん近くまで来ていて、私はいちばん遠くを探していた。手を伸ばせば届く距離にあの子を置いたまま、私は存在しない学校を、見知らぬ街を、何日も歩き回っていた。
 私は香澄の部屋へ向かった。新人警官が同行してくれたおかげで大家さんにも話が通じ、すぐに部屋まで案内してもらえた。一分でも早く真咲の無事を確認したかった。
 カチリと扉が開いた。薄暗い、空気のよどんだ部屋だった。カーテンが締め切られて、昼なのに夜のようだった。饐えたような薬のような匂いがした。その奥の、布団の上。

 真咲がいた。

 一年近く会わないあいだに、少し背が伸びていた。それなのに、その体には生気がなかった。骨に皮を貼りつけたような細さで、目の下には、十一の子のものとは思えない、どす黒いクマが落ちていた。瞼が重たげに半分落ちて、焦点が合っていなかった。
 その顔を、私は知っていた。志津が最後に見せた顔だ。
「……真咲」
 私が一歩近づくと、その濁った目が、ゆっくりと私を捉えた。
 ほっとした顔はしなかった。助けに来てくれたのを喜ぶ顔でもなかった。その代わりに―衰弱しきった体のどこから振り絞ったのか、あの子は牙を剥いた。「帰れ」
 掠れた、しかし、はっきりとした声だった。
「帰れ...! あんたなんか、来るな…! お父さんなんて…お母さんを、殺したくせに…!」

 その言葉は、香澄が植えつけたものだった。何度も、何度も、あの女がこの薄暗い部屋で、弱った子の耳に注ぎ込んだものだった。けれど、それだけではない、とも思った。全部を一度に奪われた子が、その崩れた世界に、かろうじて筋を通すための―誰か一人を憎むことで、ばらばらにならずに済むための、必死の叫びでもあった。憎しみは、悲しみより握っていられる。あの子は私を憎むことで自分を保っていた。

 私は何も言い返せなかった。
 その通りだったから。私は香澄を見抜けなかった。志津を守れなかった。そして、あの子を置いて逃げてしまった。あの子の憎しみは、植えつけられたものであると同時に、半分は、私が蒔いた種だった。
 あまりの変わりように、あまりの拒絶に、私は圧倒されて、その場で動けなくなってしまった。いますぐ抱き上げて、ここから連れ出すべきだとわかっていた。にもかかわらず、あの子の「帰れ」が、私の足を縫いつけた。―こちらを見る警官も首を横に振り、もうこれ以上は辞めておきなさい、と言う顔をした。一度出直そう。今日は、これ以上この子を怯えさせてはいけない。居場所がわかっただけでも大きな収穫だ。態勢を整えて、もう一度。私は半分逃げるようにその部屋を後にした。
 今思えば、それもまた間違いだった。私はまた、一歩を踏み出し間違えたのだ。

次剥 第三十四話 眠っている、とは

 その足で、私は源二のところへ戻った。
 夕方には、源二は少し持ち直していた。布団に半身を起こして、私の差し入れた粥をゆっくりと啜っていた。私はその隣に座って、昼間に起こったことを話した。真咲を見つけたこと。あの建物の二つ下にいたこと。「帰れ」と牙を剥いたこと。香澄は警察署で暴れ、精神病院へ検査入院になったこと。
 源二は右腕をさすりながら、黙って聞いていた。それから、思い出したようにぽつりと言った。
「ああそうだ。あの夜、真咲のことも訊いたよ。」
 私は源二を見た。
「今は眠ってる、って。香澄はそう言ってた」
 
私の中の、何かが止まった。
 眠っている。その言葉が奇妙に引っかかった。子どもが寝ている。それのどこが。―けれど、引っかかりは、みぞおちのほうへゆっくりと降りていった。降りていって、そこで、何かに触れた。
 志津の最期の顔に。原因のわからぬまま、日に日に痩せて朦朧として、眠るように力を失っていった、あの顔に。

そして、ついさっき見た、真咲のあの隈の落ちた顔に。
「……眠っている、とは」
 私の口から声が漏れた。自分の声ではないみたいだった。源二が不思議そうに私を見た。
「寝てるって。それが、どうかしたか」
「源二、真咲はもう十一歳だ。あの女は昨日、あの子が眠っていると言い切ったんだな」
「ああ」
「まだ十九時やそこらのあの時間に」喉がからからに乾いていくのがわかった。
「小学生の子が、ひとりで眠っていると。…どうして、あの女に言い切れる」
 源二はきょとんとした。わからない、という顔だった。子を持ったことのない男には、その一言がただの報告にしか聞こえない。普通の親ならもう寝ている頃かな、とか、まだ起きてるかも、とか、そういう曖昧なことしか言えない。それなのに香澄は言い切った。眠っている、と。現在のこととして、はっきりと。
 言い切れる理由は、ひとつしかない。

 ―眠らせてきたからだ。

 いつ、どれだけ投与すれば、いつ効きはじめ、いつ意識が落ちるか。それを知っているからだ。志津のときと同じ手で。
あの女はいま、真咲を少しずつ眠りのほうへ沈めている。昼に見たあの目の下のクマ。
あの焦点の合わない目。あれはただの虚弱ではなかった。コントロールするために何かを盛られていたのだ。

 その理解が、私の体を、内側からすうっと冷やしていった。
「源二」
私は立ち上がった。今度は、足が竦まなかった。
「すぐ、行かないと。真咲はもう薬で眠らされてる。いますぐ吐かせないと―志津のときと同じだ」
 源二も腕を押さえながら、それでも、目だけがまっすぐだった。「行こう」と、源二は壁を伝って立ち上がった。

次剥 第三十五話 再訪

 太陽が落ちた仄暗い道を、私たちは急いだ。
 源二は腕の傷をかばって、足元も覚束なかった。それでも私のために立ちあがりついてきてくれた。
 忌々しい策略にまんまとはまり、見落としてしまった二つ下の階の、あの部屋の鍵は開いていた。「真咲!」
 真咲は布団の上でぐったりと横たわっていた。昼間に見たときよりももっとずっと深く沈んでいた。呼びかけても、肩を揺すっても、薄目を開けるだけですぐにまた瞼が落ちた。枕元に空の薬の包みがいくつも散らばっていた。香澄が運ばれる前に、飲むよう言いつけていったのだろう。あの子は言いつけを守ったのだ。あの女の言うことを守ってしまう子にされていたから。

「真咲。真咲。聞こえるか。吐くんだ。口に、指を入れて――」
 私は必死だった。源二と二人がかりで、真咲を抱え起こし、背中をさすり水を飲ませ、吐かせた。冷たい手を握って何度も、何度も。やがて苦しそうに、胃のものを吐いた。少しだけ、目の焦点が戻った気がした。
 私は震える手で、救急車を呼んだ。住所を告げる声が、自分でも驚くほどしっかりしていた。来てくれる。もう少しだ。もう少しで、この子は助かる。―そう思った瞬間、この一年間私を縛りつけていた何かが、ようやく緩んだ。間に合う。今度こそ間に合う。
 救急車が来るまでのあいだ、この部屋で待たせるのは危ない気がした。私はぐったりした真咲を背負って、源二に支えられながら、外づけの鉄階段を、一段ずつ降りはじめた。
 背中の上で、あの子の呼吸がかすかに、けれど確かに続いていた。その背中の重みと、首筋に当たる小さな息が、真咲が生まれたばかりの頃を回想させた。守れる。今度こそこの手で。階段の下にもうすぐ灯りが見える。サイレンの音が、遠くから近づいてくる。
 もう少しだ、と、私は思った。
 もう少しだった。

次剥 第三十六話 階段

 階段のちょうど真ん中あたりまで降りたとき上のほうで、鉄の軋む音がした。私は振り返った。

香澄が立っていた。

 精神科へ運ばれたはずの女が、いつのまにか私たちのすぐ上の踊り場に立っていた。どうやって抜け出してきたのかわからない。病院の薄い寝間着のまま、髪を振り乱して。逆光で、その表情は黒く塗りつぶされていた。あの薄暗い部屋の中にいたのだ。からっぽの目だけが、暗がりの中でぬらりと光っていた。
「真咲は、渡さない」
 香澄の声に、私の背中で何かがびくりと動いた。

 薬を吐いて、わずかに意識を取り戻していた真咲がその声に、はっと身を起こした。そして―私の背から、渾身の力で、私を突き飛ばした。
「離して…! 離してよ…!」
 弱った体の、どこにそんな力が残っていたのか。私はたたらを踏んで階段の手すりにしがみついた。真咲が私の腕の中からずり落ちた。
「真咲―!」
「来ないで...! あんたなんか…父さんなんか…!」
 あの子は私を見ていなかった。
「真咲。おいで」 香澄が踊り場から、そっと手を差し伸べた。猫なで声だった。世界でいちばん優しい声のふりをした、残酷な声だった。
 そして、真咲は―ふらふらと、その手のほうへ、一段昇りだした。
 助けに来た父を突き飛ばして。自分を壊した女のほうへ。私はその一歩を止められなかった。あの子は洗脳されて従ったのではなかった。全部を失って、最後にひとつだけ残った縋り先へ、溺れる子が藁を掴むみたいに手を伸ばしただけだった。
 香澄は毒の源であると同時に、あの子に残された最後の温度になってしまっていた。その倒錯が、いちばん哀しかった。
 香澄のからっぽの目に、色がついた。差し出した手の先で、何かがぎらりと光った。
 いつのまに握っていたのか。あの女は差し伸べた手とは反対の手に、源二の折りたたみナイフを握っていた。ただただ、拒まれた女の底のない激昂が、その腕を振り上げていた。
「真咲――!」
 私は階段を駆け上がった。あいだに割って入った真咲を抱きとめ、その小さな体ごと、香澄に組みついた。揉み合った。狭い踊り場で、錆びた手すりに背中を打ちつけながら。ガダリと階段を踏み外してはバランスが取れず必死に体勢を整える。私は香澄の手にあるナイフを手すりの外へ―階段の下へ、振り落とそうとした。生まれて初めて、人に対して全力で殺意を持った。この女さえいなくなれば。この子を守れる。金属の擦れ合う鈍い音。香澄は執念で踏みとどまり、手すりにしがみつき、爪を立て、落ちまいとぐっと体を引き戻した。そして、その手のナイフを、振り上げた。
 私はとっさに、真咲を庇おうとした。
 あの子に覆い被さろうと、その小さな体に伸ばしかけた手が、宙で凍った。

 ―その、刹那だった。
 胸のいちばん底のほうからあれが来た。今度は違った。それは私の中から這い出てきた。「お前、また殺そうとしているな」かつて源二を金縛りにしたあの男の嗤い声が、今度は俺の脳髄の底で、全く同じ温度で響きわたった。その一瞬の隙に―。めちゃくちゃに振られた香澄のナイフが、私の腕の中で身をよじった真咲の首のあたりをスパンと裂き抜けた。
 狙ったのではなかった。乱闘の中のただの一閃だった。けれど確実にあの子の細い首を横に走った。
 真咲の首から吹き出た温かいものが私の顔に、ばしゃりと勢いよく飛んだ。
 崩れていく真咲を私は受け止めた。まだ細い、軽い体だった。ああ!真咲。それでも私はその上に覆い被さった。自分の体で、覆って、包んで、丸まった。小さな体を、不格好に、ただ上から抱え込んだ。
 真咲をかばって無防備になった右の太ももの裏に、上から深く、源二の折りたたみナイフが渾身の力で突き刺さった。熱かった。痛みより先に鉄が骨まで届いて、ぐりっと抜けた。香澄の二撃目だった。
 気絶しそうな痛みの中で、それでも私は真咲を手離さなかった。離せば、この子がまたどこかへ行ってしまう気がした。もう二度と抱けない気がした。真咲を抱えたまま踊り場に丸まっていた。
 源二は階下で立ち尽くしていた。その場から一歩も動けずに。震えてただ見ていた。助けに行こうにも、その体はあの夜の屋上で凍りついたまま動かなかった。源二もまた、間に合わない側の人間だった。
 薄れゆく意識の中、サイレンが近づいてきた。駆け上がってきた何人かが、暴れる香澄を取り押さえる気配がした。けれど、もう何も何も考えられない。
 私は真咲の髪に顔を埋めて、その匂いを覚えようとしていた。
 運動会の朝の匂いがした。私が周りも引くほど夢中で、その名前を叫んだ、あの秋の光。転びそうな足取りで、白い線の上を走っていった、小さな背中。傷ついたカートを小さな腕に抱いて、かわいそうだねえ、と笑っていた日の匂い。父さん、と、当たり前に呼んでくれた、あの声。―全部、全部、いま、この腕の中で冷えていく。
 真咲の口が、動いた。 ぱく、ぱく、と。何かを言おうとしていた。乾いた唇が、声にならないまま、ゆっくりと開いて、閉じた。

 私は聞き取ることができなかった。

 許してくれたのか、詰ったのか。ありがとうだったのか、最後まで私を恨んでいたのか。それとも―最期の最期に、ほんの少しだけ、植えつけられたものの膜が破れて、父さん、と呼ぼうとしてくれたのか。乾ききった喉からは、もう音は出なかった。

涙も、出ていなかった。泣く力さえ、あの子には残されていなかった。踊り場を照らす青白い蛍光灯が、点いて、消えて、点いて、消えた。
その明滅の中で、私の中の「誰か」が、満足げにこちらを舐めるように見ているのを私は確かに感じた。逃げていい、と、あの夜、囁いたあの声だ。今度は、じっとこちらを見つめているのを感じながら私は次第に意識が遠のいていった。

 それが私の覚えている、最後だった。

 次に病院で目を覚ましたとき、私は自分が誰なのか、もうわからなくなってしまっていた。

次剥 第三十七話 二人の消滅

 ガンガンと二人のもつれあう音が響く階段の下で、俺は全く身動きもできずにいた。蒼一が真咲くんに覆い被さって動かなくなったとき。香澄が誰かに取り押さえられ、遠くでサイレンが鳴りはじめたとき。俺は少し離れた物陰から出ることすらできずに立ちすくんでしまった。俺が昨日香澄にとどめをさせなかったから。あのとき一歩も覚悟が出せなかったから。あのときもっと俺がうまく動けていたら。

 もう誰も、俺を見なかった。

 駆けつけた救急車は、病気の子どもの搬送と聞いていたはずだ。しかしそこにはナイフを持って暴れ回る女と血まみれの親子。現場は騒然となり香澄の奇声で通報されたのだろう、何台かのパトカーもすぐに到着した。蒼一の悲痛の叫びが街にこだました。
 
蒼一の叫び声は、俺の心の最後の一本を完全にへし折った。もう、絶望は限界をとうに越え、その場を離れることしかできなかった。

 そっと振り返ると救急車の真っ赤な光の中で担架に乗せられていく蒼一が見えた。血だらけの動かない、あいつの体が。―間に合わなかった。俺は蒼一を立たせた。立たせて送り出した。なのに間に合わなかった。真咲くんも蒼一も最悪の結末を迎えてしまった。俺が立たせなければよかったのか。何が正しかったのか、もう、考えても考えても何もわからなかった。

 それから、しばらくして風の噂で蒼一が生きていることを知った。息子さんの方は駄目だったようだ。と近所の噂好きが垂れ流していた。

 蒼一は助かったのだ。あの傷で。けれどどうやら記憶をなくしてしまい、自分が誰なのかわからなくなってしまったのだ。何があったのかも、どんな悲劇が彼を襲ったのかもすっかり忘れてしまったのだと。
 俺はその話を聞いて、どう思えばいいのかわからなかった。あいつの心は丸ごと自分を壊すことを選んだ。志津さんのことも、真咲くんのことも、香澄のことも。あの階段のことも。

 ひどい話だ、と思ったと同時に、これでよかった、とも思ってしまった。その自分がおそろしかった。
 一度だけ、蒼一のいる病院へこっそりと見舞いに行った。遠くから廊下を歩くあいつを見た。痩せて、ぼんやりしてはいたが目は生きていた。看護師に手を引かれて、ゆっくりリハビリを繰り返していた。俺がそっと近づくとこちらに気づいた蒼一は軽く会釈をしてくれた。

何もなかった。

 あの目に、俺は映っていなかった。十五年前、俺を地獄から引きずり出してくれた男の目に、今の俺はただの知らない風景として映っていた。一瞬こちらを見て、それから、またリハビリを再開した。
 口を開きかけた。俺だ。源二だ。覚えてないのか。―そう言いかけて、止めた。それを伝えてどうなる。あいつが全てを思い出してしまったら。志津さんを。真咲くんを。そして誠司のことまでも。香澄にされた残酷な仕打ちを。
 忘れていられるなら、忘れていたほうがいい。あいつにとって、忘れることだけが、たったひとつの救いなのだ。だったら、俺がそれを壊すわけにはいかない。俺が最後にあいつにしてやれることは、もう、それしかなかった。

黙っていなくなること。あの時と同じように。
あいつの空白を守ること。

 俺は口を閉じ何も言わずに背を向けた。
 蒼一が全部置いていったものを俺がひとりで抱えることになった。志津さんがどう殺されたか。真咲くんがどういう最後を遂げたのか。カートという子犬が何をされたのか。香澄がどういう女か。あの夜、屋上で俺の手を止めた、あの舐めるような視線の正体が俺と蒼一の中にどのようにして宿ることになったのか。―全部知っているのは俺だけになってしまった。

 蒼一は、背負うものの全てを失い軽くなって、また零からまっさらな世界へ歩いていった。俺は全てを背負うことで、逃げ出した罪深い感情と共にその場に残ることを決めた。十五年前と運命が逆になった。あいつが俺を引き上げてくれた。今度は、俺があいつを引き上げるはずだった。なのに、引き上げられたのは忘却のほうで、引き上げ損ねた俺はひとり、約束を果たせなかった十字架を背負った。

 それからの俺は、少しずつ何も喉を通らなくなった。眠れなくなった。眠ろうとすると、あの、舐めるような視線が瞼の裏でこちらを見た。お前のせいだ、と。お前が、刺せなかったから。お前が怯えて、手を止めたから。―そうやって、俺の中の何かが、毎晩、俺を内側から舐めた。

 誰にも言えなかった。言える相手もいなかった。蒼一は忘れている。ほかには、誰もいない。俺は覚えていることをひとりで抱えたまま、ただすり減っていった。
 それでも、いつか、と。

 いつか、あいつに会えたら。会って―
何をするつもりだったのかは、自分でもわからない。昔みたいに。肩を組んで、安酒を飲めたら。それだけを、たぶん俺は待っていた。
 忘れた男と、覚えている男。
 瓜二つだと周りから囃し立てられ調子に乗っていた俺は、蒼一と再び別の道を歩み出した。

次剥 第三十八話 奔流

 源二の腕の傷が呼び覚ましてくれた記憶は断片的に、しかし確実に地の底から湧き上がって一人の男の人生を組み上げていった。
 翌日も私はあの店のいちばん奥のカウンターにいた。源二の腕の傷痕はまるで扉のように開き、記憶の堰は切れていて、あとはただ流れ込んでくる全てを受け止めるしかなかった。先代のマスターに話を聞いてから怒涛のように湧き出した過去の記憶。もう一度、最後にもう一度だけ源二に会わなければならない。と確信した。

 志津の衰えていく顔も、香澄の満たされた目も、「お父さんのせい」と放った真咲の声も、置き去りにしたあの小さな背中も、階段の青白い蛍光灯も、覆い被さった我が子の香りも。噴き出る鮮血の温もりも、私の手を内側から掴んで止めたあの舐めるような視線も―私がこの五年、忘れることでようやく生きてきたその全部が、今ようやく私の中で最後のピースをはめるだけとなった。

 長い回想の底から浮かび上がってきたとき、私は自分が歩んできた全ての軌跡をなぞり、年季の入ったカウンターをさすりながら、ただただ止まらない涙に身を委ねていた。嗚咽が自然と込み上げ、ぽたりぽたりとカウンターに私の二十年が垂れた。
 我が人生ながら、記憶があることがどれほど辛いことか。忘れているあいだは、自分が誰を失ったのかも、自分の手がなぜ止まったのかも知らずにいられた。忘却こそが私へのたったひとつの慈悲だったのに、その慈悲がいま全て剥がれ落ちていた。ずっと追いかけていた「誰か」とは私自身のことだった。

 いつのまにか隣に座っていた源二は、私の涙が全て出し切れるのを待つようにその様子をじっと見守ってくれていた。源二の顔を見た瞬間、それまで留めていた全ての感情が堰を切ったように溢れ出し、まるで子供のようにわんわんと憚りもせず泣き喚いた。

マスターと常連客は、気を利かせてくれたのだろう。私たち二人をそっと見ぬふりをしてくれていた。一頻り泣き腫らした私に、そっとマスターはおしぼりを出してくれた。目元を拭くと、優しく見つめる源二と目があった。その全てを悟った目を見て私は息を呑んだ。源二もまた、私が口を開く前に、私が何を取り戻したのかを感じ取っていた。長いあいだ私の前ではいつもおどおどと二十年逸らし続けてきた瞳が、はじめて正面から私を捉えていた。

「全部…思い出したのか」

 源二がそうゆっくりと、言った。掠れて低い、けれどはっきりとした声だった。もうずっとずっと何年も前から、私と再び出会ったときのために用意していた言葉だったのだろう。
 私は答える必要もなかった。静かな二人だけの空間の中でまとわりつくようにかかっていた全ての霧が晴れた私を見て、源二はようやく肩の荷が降りた。とでもいうように目を伏せて微笑んだ。
 ふっと力が抜けた源二は、マスターと常連客たちに「迷惑をかけてすまなかった」と謝罪をいれ、マスターに二杯分のハイボールを頼んだ。安堵のようにも絶望のようにも見えたが、たぶんその両方だったのだろう。源二は私に思い出させまいとして口をつぐんできたのだ。その空白こそが私へのたったひとつの慈悲だと知っていたからだ。それがいま、唐突に終わった。

 二人でグラスを重ね、杯を交わした。改めて見る源二の顔はひどかった。頬はこけ、肌の下に骨が浮いている。私が忘れて楽になっていたこの五年、この男はそれよりももっと長い間、一日も忘れられずにいくつもの夜を一人で抱え続けてきたのだ。香澄に裂かれた腕の傷も、誠司の遺したものも、私が真咲を抱いて崩れたあの階段も、全部覚えたまま。

 源二は見るからにもう限界だった。今生きているのが不思議なくらい、体の内側から何かに喰い尽くされていた。たぶんそれは、私が二十年前にこの男のために殺した、あの男の憎しみから始まった物語だった。源二はそれをずっと、私の代わりに自分の中に押し留めて飼っていたのだ。

次剥 第三十九話 殺し合う二人

 記憶を全て取り戻したその日から、私の中で二人の男が殺し合いはじめた。ひとりは私だ。源二をただ楽にしてやりたいと思っている私。もうひとりはあの舐めるような視線の男で、私の中に二十年間棲みつきじっとこちらを伺い続けていた目の男。殺せ、お前は殺すのが得意だろう、三人もすでに殺しているじゃないか、と。その声と私の声が頭の奥でもつれ合い、ぶつかり合いながら溶け、最早どちらが私なのかわからなくなった。

 私は翌夜、いつものカウンターに初めて自ら源二を呼び出した。
 私たちは並んで、二十年前のようにハイボールを並んで飲んだ。マスターや常連客は昨日の私の失態と、記憶を全て取り戻した報告を肴に、再び賑わい始めた。「詳しくはわからないが蒼一さん。付き物が落ちたようにあなたの顔は見えるよ」マスターはそう言って、いつものポテトサラダを出してくれた。「これは僕からの奢りだ」パチリとウインクをしたマスターの言葉に甘えた。源二と何を話したかはもう覚えていない。二人で肩を叩き合い、私の真面目な性格を茶化した源二はケラケラと笑った。お互い耐えきれない業を背負いボロボロにはなったが、源二はもう私から目を逸らすことがなくなった。私も源二の全てを受け止める覚悟ができた。もう過去を問いただす夜ではない。私たちはただ、出会った頃のように肩を組んで、当時と全く同じ席で、今夜は何も言わずに飲んだ。まるで二十年前のあの楽しかった夜が再び戻ってきたようだった。

次剥 第四十話 屋上

 程よく飲んだあと、私は源二にこう告げた。「次へいこうか」源二はピタリと止まり、全てを察したようにこちらを向いて笑いかけた。
店を出てタクシーに乗った私たちは、志津と真咲が亡くなったマンションの前で降りたった。誰かが供えてくれた白い花が、夜の街にぽわりと浮かび上がっていてとても美しく思えた。
外付けの階段を昇り屋上へと出ると夜風が冷たく、眼下に街の灯りが滲んでいた。

 源二はなんの躊躇いもなかった。私が何をしようとしているのか、わかっていたのだと思う。
 源二はただただ私を見つめていた。真っ暗な屋上ではお互いの顔もよく見えなかったが、あれは微笑んでいたのかもしれない。最後の名残みたいに。やっと終われる、とでも言うように。

 私は源二を楽にしたかった。私の奥底には悪夢のような二つの目はもうとっくになくなっていた。もうこれ以上、あの夜を抱えたまま生きていなくていい。源二の悪夢は私が終わらせる。源二が生きられなかったその先を、源二は私の中で生きていけばいい。
 そう思った。それが慈悲だと、愛だと思った。

 屋上で私は源二を抱きしめた。痩せた軽い体で、あの夜に真咲を抱いたときと同じくらいその身体は軽かった。源二の細い背中が私の腕の中で一度だけ小さく震え、それから力が抜けていった。私の見開かれた二つの目はじっとりと闇夜に輝いていた。

 私の手が何をしたのかは、ここでは伝えられない。伝えない。

 ただ、ただ、温かかった。
 源二の体から私の手のひらにこぼれてくるものが、肩を組んで笑ったあの夜のあの体温、私の隣だけが息のつける場所だった男の温もり。
 その温もりが私の手から腕を伝い、肩を伝って胸の中へ、長い間源二が自分の中に飼い続けてきた、あの黒い舐めるような視線の主が、源二の体が冷えていくのと入れ替わりに、私の中へまっすぐ浸食してきた。
 真咲の、カートの、そして香澄や誠司。さらには源二の憎しみ。志津やその両親の断末魔もが私を内側から満たした。

 私は自分のポケットから免許証の入った古い革財布を取り出し、私が以前買い与えた源二のジャケットにしまった。屋上に源二の抜け殻を残したまま真っ暗な外づけの階段を降りた。一段ずつ、ゆっくりと。あの日、志津が香澄に突き飛ばされた階段を。真咲が息絶えた階段を。
今度はこんなにもゆっくりと降りていった。

 いつか誰かがここで抜け殻を見つけるだろう。しかしそのとき探されるのは源二ではない。誰も私を知らないし、私が誰なのかは私自身がいちばん知らなくなっていた。

 踊り場の灯りがあの時と同じように点いて、消えて、点いて、消えた。その明滅の中で、私の中の私が満足げにこちらを舐めるように見ているのを、私はもう感じなかった。何も感じなかったのだ。

次剥 第四十一話 形見

 蘇った五年前の記憶を頼りに源二の住処へ行った。冷たくなった源二のポケットの中に鍵はあった。古い木造のアパートの階段を昇った先のいちばん奥で、錆びた鉄の扉を開けると、カビと煙草と饐えた布団の匂いがいっぺんに流れ出してきた。

 狭い部屋だった。
 流しに洗っていない湯呑みがひとつ伏せてあって、畳には薄い布団が敷きっぱなし。部屋の隅にはいくつかの空き缶と空き瓶が転がっているきり、ほかには物らしい物が何もなかった。
源二がこの部屋で、今までどんなふうに息をしてきたのか、その生活と呼ぶにはあまりに薄い痕跡を、私は立ったまま長いこと見ていた。

 膝から力が抜けて、私はその薄い布団の上に崩れるように座り込んで泣いた。声を上げて泣いた。源二が死んでからではなく、源二が今まで私の代わりに背負って生きていたことをいま初めて全て受け止めていたからだった。

 ひとしきり泣いて顔を上げたとき、古い鏡台が目に入った。
 女物の小さな鏡台だった。別れた妻の忘れ形見かなにかであろう。曇った鏡に泣き腫らした顔が映っていたが、それが私の顔なのか源二の顔なのか、その曇りの中ではもうわからなかった。
 鏡台の上に細長い紙箱がひとつ転がっていた。
 古く色褪せはいるが菓子箱だろうか。まるで捨てようとして捨てられず、そこに置いたきりになったような、うっすらと埃をかぶったその中途半端な置かれ方が私の目を引いた。
 手に取るとずっしりと重みを感じた。蓋を開けると、中に二つのものが入っていた。
 色の薄いサングラスと、ごつい金のネックレス。心当たりはなかった。源二の趣味とも思えない派手なものなのに、なぜか見覚えがある気がして、どこで見たのだろうと思い出そうとするが思い出せない。
 ピキリとこめかみの奥が激しく疼いた。惹きつけられるかのように無意識に手が伸びてサングラスをつまみ上げていた。薄い琥珀色のレンズと、擦れた金具。金色に鈍く光る留め具のところに髪の毛が一本だけ絡んでいた。
 源二の形見。あの男が大事にしまっていたものなら私が譲り受けよう、これからは私が源二として生きていくのだ。
 源二の大事にしていたものは私が引き継ぐ。それ以外にこの部屋には源二の生きてきた証を示すものはなかった。私はその二つを箱から出してポケットにしまった。

次剥 第四十二話 流れ込むもの

 私は源二として生きはじめた。
 源二の部屋に住み、源二の名で、すり減った源二の生活を、私のすり減った体でなぞった。そうすれば源二は私の中で生きていけると信じていた。しかし源二として生きようとするほど、私の中に流れ込んでくるものがあった。
 はじめは源二の生きてきた四十年の澱だと思った。あの男がひとりで抱えてきた夜々の重さだと。けれど流れ込んでくるのはそれだけではなかった。源二の中に棲んでいた、あの舐めるような視線の主の憎しみも、私自身が失った志津や真咲の冷えていく温度も、あの家で私を呑み込もうとした女の悍ましい所有の気配までも、みんないっしょくたになって私のいちばん深いところへ流れ込んできて、誰のものとも見分けがつかなくなった。
 一人の人間が抱えるにはあまりに多すぎる喪失と、様々に混ざり合った誠司の、香澄の、そして源二と私の憎しみが、胸の奥底で渦を巻きはじめだした。
 私はもうとっくに自分が誰なのかわからなくなっていた。蒼一なのか源二なのか、それとももっと別の何かなのか。溶けていく輪郭の中で、流れ込んできたものが私を内側からゆっくりと別のものに作り変えていった。ただその重力に耐えきれずに崩れていった。

次剥 第四十三話 次に行こうよ

 源二の自堕落な生活を踏襲し私は髭を剃らなくなった。次の朝も、その次も。髪も同じく伸びるに委ねた。
 ある日源二の部屋から譲り受けたサングラスをかけてみた。手が勝手にそうしただけで特段大きな意味はない。薄いレンズ越しの世界が少し琥珀色に沈んで優しかったので、私はそれを外さなくなった。鏡の前で伸びてきた髪を後ろへ撫でつけ、ネックレスを首から下げた。
源二の曇った鏡台の前には私ではない別の男が座っていた。髭を生やし薄いサングラスをかけ、薄くなった髪を後ろへ撫でつけ、首に金を下げた男が。
 知らない男だった。
 一瞬だけ背筋が冷えた感覚は波が引くようにすぐ溶けて消えて、私はもうそれが誰なのか思い出せなかったし、思い出す必要も感じなかった。鏡の中の男は穏やかにこちらを見ていて、ニヤリと笑みを浮かべた。

 私は立ち上がった。

 もうここには用がなかった。外へ出て無性に誰かに会いたくなった。夜の街はネオンが滲み薄いサングラスの奥から行き交う人々を眺めながら歩いた。誰でもよかった。若くて寄る辺がなく、こちらを必要としてくれそうな誰か。そういう人間は夜の街の吹き溜まる場所にはいくらでもいた。
 路地の隅で膝を抱えて座り込んでいる若い男が、ひとり目に止まった。疲れた顔で、行く先のなさそうな目で、地面を見ていた。
 私はその前にしゃがんで、できるだけ優しく笑いかけた。気前がよく機嫌のいい、人懐っこい笑顔で。怖がらせないように、安心させるように。
「僕とさあ、一緒に次に行こう」
 男が顔を上げた。私は手を差し出した。
 いい部屋を見つけたんだよ。そう言おうとして、なぜ私はこんなことを言っているのだろう、なぜこの言葉を知っているのだろうと、ふと思った。けれどそれもすぐに忘れた。
 差し出した私の手を、その若い男は躊躇いがちに、けれどすがるように握った。
 二〇二〇年、三月。

―― 了 ――
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