次剥(つぎはぎ)― 第2部(第十一話〜第二十話)
※第1部から読むことをおすすめします
第1部(第一話〜第十話)はこちら
次剥 第十一話 次はオレ
その晩は、源二が来なかった。夜も更け、ひとしきり賑わった店内はひとりまたひとりと帰路につき、一番奥のいつものカウンターに私は突っ伏していた。マスターも奥で煙を燻らせしばしの休憩に気を緩めていた。冷たい天板の肌触りが熱った体を冷まし朧げな意識の中で、とりとめもなく巡る思考に身を委ねていた。片隅に置かれたテレビがいつものようにハキハキとした声で世のあれこれを読み上げる。それらが店の空気に溶けて、遠く浅くなっていく。源二がいないと店の色もまた褪せる。私はぼんやりと、すぐ目の前の木目を薄めで眺めていた。
カウンターの縁のちょうど突っ伏すと頬の来るあたり。先日見つけた使い込まれて飴色になった木にある古い彫り跡。「次はオレ」今日もその続きを探したが見当たらない。次はオレが―なんだ。どうするのだ、とも知れないまま、四文字だけが取り残されていた。
奥で水道の蛇口が捻られ水音が届いた。マスターが洗い物を始めたのだろうか。ざあざあと規則的な音が続きキュッと止んだ。その静けさの中で、換気扇の唸りだけが残された。ずっとそこにあるはずなのに見失っている低く一定の機械音。私の指はその四文字の溝を、指の腹でそっとなぞりながら、これを書いたであろう酔客の思考のその先を頭の中で継ごうとしていた。
次はオレが―。
すると突然、真っ暗な底から私の知らない明るく、機嫌のいい人懐っこい声が響いた。私のものではない。その声が私の頭の中で、続きを勝手に引き取った。
―次は僕と一緒に。次に、行こうよ。
頭に響いた声にゾクっとして身体を起こした。換気扇が少し音を上げたような気がした。ゴラゴラとなるファンの音が耳の奥でずうんと反響するような気持ち悪い低音となって、頭蓋の内側に貼りついてくる。この声―どこかで聞いたことがある―。朦朧とした意識がぴたりと重なった瞬間、蓋の隙間から何かが噴き出した。明け方の、饐えた匂い。ぎらぎら光る何か。肩に食い込む誰かの手。笑っている誰かの躍動。何かが手の中からこぼれ落ちる感覚。ぬるりと濡れた両手。それらがいっぺんに胸の奥底から噴き上がってきて私は慌ててトイレに駆け込んだ―蝶番がぎいと鳴き、その音が鼓膜の奥まで刺さった。
狭い箱の中で、私は落ちた。
床に膝をつき便器の縁を両手で抱え込んでいる感触の中で、体の内側が重力を失って垂直に落ちていくのだ。暗い。暗い暗い暗い海底のその奥へ。目を開けているのか閉じているのかわからないほど暗く、落ちながら私はとてもなめらかでむしろ心地よかった。だからこそ恐ろしかった。落ちることに身を任せた瞬間に何かが終わる気がした。そういう確信だけがあった。
落ちていった暗闇の底のほうで、何かがこちらを見ていた。
二つの目だった。濡れ方が人のそれとは違い獣でも魚でもない光を溜めていた。鈍く光る視線を外さず全てを知っている、という目だった。見覚えがある気配を追いかけるたびに記憶が滑って両手から逃げた。目が、少しだけ細くなった。笑ったのかもしれない。笑いながらこちらへ向かって来るのか来ないのかわからない速度で、でも確実に近づいていた。その目は私の顔の上で何かを探していた。まるで源二が私を見るときのような目で。私の内側からぬるりと這い出して、噴き出しかけたものの上から、閉じた蓋に手をかけた。だめだ。そこは、開けるな。
そこで止まった。
溢れ出た吐瀉物の酸っぱい匂いも、鈍い光も、手の感触も、蓋の下に押し戻された。誰にも知られないように、外の世界は再び均等に音を立てていた。
吐瀉物がまとわりつく口内の不快感を滴らせながら、はぁはぁと肩で息をしていた。額に滲んだ汗が止まらない。
「次」がなぜこんなに恐ろしいのかわからないまま、私はしばらく嗚咽に身を委ねた。ただ一つだけ確信めいたことがある。あの目は確かに私の顔の上に貼り付いた、源二の面影を探していた。
次剥 第十二話 鍵のことば
いつもの同じ席に座るといつもの優しい微笑みと共にハイボールをカウンターに置きながらマスターが言った。「ポテトサラダ。今日のはいい出来だよ」
カウンターのいちばん端。壁を背にできるこの席の収まり具合は心地よい。自分でもよくわからないがそこに座ると妙に落ち着くのだ。決まった時間、決まった動作。―私はそうやって、変わらないものを自分の周りに並べておくと自分の輪郭がじわじわ滲んで消えていく恐怖から逃れることができる気がする。
私は、いつも持ち歩くようになった小さな手帳を胸ポケットから取り出した。安い小さな手帳だ。気がむくままにその日あったことを几帳面につけている。何時に起きた。どこを歩いた。何を食べた。誰とどんな話をしたのか。書いておかないと、昨日の私が今日の私に繋がらない。朝目を覚ますたびに、私は自分がどこまで来たのかを手帳で確かめる。この手帳の中でのみ私は継続することができた。
私は、ポテトサラダを箸でひと掬いし口へと運んだ。うまい。マヨネーズの酸味と、ごろりとしたじゃがいものぼんやりした甘さを黒胡椒と白胡椒が絶妙に引き締める。それを冷たいハイボールで流し込む。―この組み合わせが最高なのだ。
私は、昔からこれが好きだったのだろうか。いつから好きになったのだろう。誰かとこれを食べた記憶があるはずだ。私はこの味を望んでいるのに、この味と過ごした時間を誰とどう過ごしたのかを知らない。こういう些末な発見をしたとき私は無性にメモを残すのだ。
私という人間はおそらく筋の通らないことが嫌いなのだと思う。原因があって結果があり順序があって答えがある。そういうふうにものごとが繋がっていないと気持ちが悪いはずなのに、今はその私自身がいちばん筋が通っていない。原因の抜け落ちた結果の塊。それが私だ。几帳面に片づいた机の、真ん中の引き出しだけがこじ開けられて空っぽになっている感じだ。だから私はその答えを探したいのかもしれない。
最近では毎日のようにこの街を歩いて、夕方にはこの店の暖簾をくぐる。気づいたことを手帳につけ、すこしずつ過去の片鱗を探して書き溜めていく。自分の抜け落ちる前の記憶を。その原因を。
だが、結局二ヶ月経っても私は何ひとつ探り当てられずにいた。手帳のページは増えていくのに、その手帳が始まる前の私には一行も辿り着けない。同じ場所をぐるぐる回っているだけなのか。答えはすぐそこにある気がするのに手を伸ばすと靄の中に逃げていく。焦りだけが日ごとに濃くなる。
その晩、早い時間から来た源二はもうすでにいつもよりずっと酔っていて言葉がもつれていた。私の肩に半分もたれかかった源二はぶつぶつと何かを呟いていた。聞き取れない。私は酔いの中でただその重さを受け止めていた。相変わらず伏目がちの源二だが、その距離はずいぶん近くなったと思う。
ふいに源二の呟きがはっきりした。
「……あんたの大事な…俺が…」私の脳裏に呟くような源二の声がぐっと食い込んだ。
「次は…」
その途切れた先を伝えぬまま、再び源二は酩酊の奥に沈み顔がぐにゃりと歪んだ。
グラスのフチを指でなぞりながら
あんたの。俺が。次は。源二の口からこぼれた単語の主語と述語を繋げようと試みた。誰の何の話だ。「大事な」とは誰だ。「俺が」どうしたというのだ。ばらばらの言葉を順番に並べてみたが繋がらない。論理の取っかかりがどこにもないことがいつもより少しだけ私を苛立たせた。すぐそこに答えがあるのに。
この男はやはり私の確信につながる何かを知っているんだ。
私はハイボールを呷った。
氷がからんと鳴り頭を抱えたまま源二は、まだ何かを小さく呟いていた。私はその呂律の回らない言葉をもうこれ以上掴もうとしなかった。
ただ手帳に書きとめておかなければ明日にはこの夜も消えてしまう。怖いほど懐かしい甘酸っぱさも悲しいことに私はそれすら自分の手で記録しておかなければ繋いでおけないのだ。
次剥 第十三話 堰
源二は、そのままカウンターに突っ伏して眠ってしまった。子どものような寝顔だった。さっきまで何かをこらえていた顔が酔いの底でようやくほどけてる。私はしばらくその寝顔を見ていた。こうして眠っている彼の顔は、私のものよりずっと多くの苦難に噛み砕かれたような輪郭をしていた。源二の、いつも体の内側にしまわれていた右腕が力を失って無造作に投げ出されていた。寝にくかろうとカウンターに乗せ戻したとき、はらりとワイシャツのカフスボタンが外れ、捲れ上がった腕を見て私はギョッとした。
古い傷跡だった。肘の外側から手首のほうへ、長く引き攣れた、白くみみず腫れのように盛り上がった傷跡。一度深く裂けて、無理やり塞がったような。皮膚がその線に沿ってひきつれ、よじれていた。その瞬間みぞおちの奥がきゅっと縮み、ぞわりと粟立った。喉の奥が渇いていく。頭の裏側で何かがばらばらと脈絡もなく明滅した。こことは違う暖簾。違う看板。知らないマスターの丸い背中。演歌のポスター。煙草の煙と溶け合う焼き鳥の香ばしい匂い。ばらばらの切れ端が、いっぺんに散らばって、目の裏をバララと横切った。
震える手が、勝手に動いた。
自分の意思ではなかった。指のほうが先にその傷跡へ伸び私はその引き攣れた線をそっとなぞった。肘から手首のほうへ。よじれた皮膚の、盛り上がりとへこみ。
その傷跡の凹凸の感触を指先が伝ったその瞬間。ばらばらだった切れ端が体のどこか一点に、ぞろりと吸い寄せられた。
カウンターだ。
この、年季の入ったカウンターだ。指の腹に返ってくる少し脂じみた冷たさ。店のメニューも暖簾の色も、外につけられた看板や提灯、店内の照明も何もかも違うが、この一枚板のカウンターだけが、私の指の、そのまた奥の骨のあたりにぴたりと嵌まった。
かつてこのカウンターに私は幾度となく肘をついていたのだ。何度も。何度も。同じ場所で。
この店には、五年以上前、いや、もっと前に来たことがあるんだ!正確にはこの店ではない。この店の前の店に。私は改めて店を見渡し、既視感の原因がそれであることを認め、脂汗がぶわと額から溢れた。
私は、かつてこの場所に通っていた。
喉がひとりでにヒュウヒュウと鳴り、乾いた呼吸となってざわめき始めた。急にフラッシュバックした景色の中で、この同じカウンターの、この奥の席に誰かが突っ伏していたのだ。居心地の良さは私自身がここにずっと通っていたからだ。フラッシュバックする断片的な映像。その中に映る肩甲骨の浮き出た頼りない背中。私は何年も前にその背中に向かって何かを頼んでいた。声を絞り出していたこの男に。
源二の腕の疼きとまったく同じ熱が、私の右の腿の裏でじわりと灯った。二つの傷がまるで呼応するかのように体の内側で細い糸を引いて、繋がろうとした。糸を手繰る先に、まだ顔のないもうひとつの気配が、こめかみの裏側で、ぬるりと身じろぎした。
「源二。」
せき止めていたものが、内側の水圧に耐えきれず、ばきりと、折れた。その裂け目から生暖かいものが、私の中へ逆流してきた。
全部ではない。ほんの入り口の、ひと匙ぶんだ。
五年前。それよりももっと遥か昔、私はこの店に足繁く来ていた。まだ丸い背中のマスターがいた頃のこの店に。そして、ここで源二と毎日のように会っていた。
源二はまだ眠っていた。私は突っ伏したその背中を見た。指先にはまだあの傷のざらつきとよじれた感触が残っていた。ぬるく湿っていた。
マスター。丸い背中のあの人。いまどこにいるのだろうか。あの人なら何か知っているはずだ。今の看板に変わる前のこの店で私を迎え入れてくれていた初老のマスター。このカウンターに肘をついていた頃の私を。あの人に会わなければ。あの人に会えば、その次に繋がる。
靄の中に初めて、一本だけ湿った道が見えた気がした。
次剥 第十四話 前マスターを訪ねて
奔流に呑まれて、私はそのまま店の床に崩れ落ちたらしい。朝の光が薄く差し込み私は目を覚ました。見慣れぬ天井の模様を見つめ、昨晩の断片的な記憶が蘇る。
やってしまった!
店の中で泥のように酔い潰れた私を、マスターが介抱してくれたのだ。
慌てて身を起こすと、すぐ傍らでマスターが毛布にくるまってまだ深い眠りの中にいる。昨晩の記憶は濁った泥水のように曖昧だ。「すまないマスター。世話になった」私は声を押し殺し、隣で仮眠をとるマスターの肩を揺り起こした。
寝ぼけ眼をこするマスターは「気が付いたか。元気そうでよかったよ。昨日は珍しくひどい酔い方だったな。まあ時間が許すまでゆっくりしていきなよ」マスターはヨロヨロと厨房の方に向かっていった。
源二は昨夜のうちに、いつの間にかむくりと起きて一人で帰ったらしい。記憶が曖昧だ。しかし断片的に思い出したいくつかの記憶は鮮明に残っていた。
「マスター。実は昨日、私が過去に何度もここに通っていたことを思い出したんだ。つかぬことを聞くが…あなたは、先代のマスターのことを知っているか」
マスターは少しだけ細めた目で天を仰ぎ、淹れたてのコーヒーの湯気を眺めてから、穏やかに微笑んだ。
「知っているさ。蒼一さんの好きなポテトサラダのレシピ、あれを僕に伝授してくれたのは彼だからね」
マスターは、私にも淹れたてのコーヒーを手渡しながら湯気の先に視線をやった。
「僕は以前、駅向こうの一角で店をやっていたんだが、小さな店でね。随分と手狭になって来たんだ。」
マスターは遠い目をして続けた。
「三年前に移転先を探していた僕に、彼はこの店を継がないか?と任せてくれたんだ。長年悪くしていた腰にいよいよ無理がたたったらしい。高齢だからと店を畳むタイミングと僕の移転話が重なったんだとさ。業態もよく似ていたし、使い込まれた調理台もカウンターもせっかくだからそのまま使わせていただいたよ。」
私はマスターが自ら過去の話をしてくれるのがとても新鮮に感じた。
「あんたが好んだポテトサラダも、きっとここに居残る常連たちが食べたがるだろうから出してあげてよ。と言ってね。」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で固まっていた靄がすうっと晴れていくのを感じる。私が追い求めていた過去は、ここから消え去ったのではなく、こうして温かな味の記憶として、彼らの手によって静かに受け継がれていたものだったのだ。
断片的に思い出したものにまた確信が持てず、その記憶も意味を持たない色と血と声の塊で、気を抜くと両手からこぼれ落ちていく砂のようだった。昨日見た断片的な映像は本当にあった記憶なんだろうか、それとも壊れた頭が勝手にこしらえた夢の続きなのか、私はそれを確かめたかった。
先代のマスターの所在については、すぐに教えてくれた。腰を患い店を去った老人は、町外れの川沿いに建つ古びたアパートで静かに余生を送っているらしい。
マスターにお礼をいい、内側に仕舞われた暖簾を抜けた先の外は、もうすっかり日が昇っていた。店からそんなに離れておらず、程なくしてそれらしき古びたアパートは見つかった。
呼び鈴を鳴らすと扉の向こうから応対するしわがれた声が聞こえた。白髪と白い髭に覆われた背中の丸い小太りの老人が、怪訝そうに顔を覗かせる。だが、私の姿を認めた瞬間、老人の眼鏡の奥で何かが静かに震えた。細められていた瞳がゆっくりと解かれ、遠い記憶の扉を押し開くように、驚愕を湛えて見開かれていく。
「おおお…あんた」
老人はつっかえながら言った。
「あんた、もしかして…昔、うちに来てた…源二と一緒の……」
私が言葉に詰まると、老人は確かめるように何度も頷いた。
「歳は取ったがなあ。その顔は忘れんよ。双子みたいな二人組がいてね。あんなの一遍見たら忘れやしない。蒼一さん、だったか。あんた、蒼一さんだろ。久しぶりだなあ」
その老人は、私自身が忘れていた私を知っていた。私が、自分が誰かもわからずに足を引きずって彷徨っているあいだ、この老人は川沿いのこの部屋でずっと私を覚えていてくれた。自分の輪郭を他人の記憶の中に見つけたようで、胸の奥が妙にざわついた。
「ちと、散らかっているが、まあ、上がりなさい」老人は狭い部屋に快く私を通してくれた。
次剥 第十五話 可愛い二人
「懐かしいなあ。本当に久しぶりだね。訪ねてきてくれてありがとうな。」
老人はぬるい茶を注ぎながら言った。
「あんたと源二。若い頃によく店に来てくれてたよ。最後に見かけたのは五、六年くらい前か?もうあのときは腰が痛くてバイトの子に任せてあまり店にいなかったが、あんたら二人ともぱったり来なくなったんだよな。噂では二人とも大怪我をして入院してしまったと聞いていたが、元気そうでよかった。」
私は申し訳ない気持ちになった。そうか。私は五年前まであの店に通っていたんだ。なぜ思い出せなかったのか。
老人はぽつりぽつりと記憶をたどりながら言葉を紡いだ。
「初めて来てくれたのはもう二十年くらい前だったか。あんたら二人とも安酒ばっかり飲んでさ。二人で肩寄せ合って。源二は若くてね。人懐っこくてさ。へへ、って笑うと、こう、憎めないいい顔をするんだ。物覚えのいい子でね。忙しいときなんかはこっちのカウンターの中に入って手伝ってもらったこともあるよ。何を頼まれたかも、客の顔もすぐに覚えちまう。よく笑う、出来のいい子だった。―あんたはあんたで気のいい優しい男でね。客あしらいのこっちが楽させてもらうくらいの。―だからよく覚えてるよ。双子みたいに可愛い二人だった」
可愛い二人。その言葉が喉の奥をぐっと押した。私には断片しか残っていない夜々が、この老人の中にはまるごと残っていた。二十年前の源二はよく笑う子だった、と老人は言う。
「ただねえ…」老人の声が低くなった。
「源二のほうは見ていられないところがあってね。連れがいたんだ。派手な男でさ。源二をこう、金で飼ってるみたいな。源二は露骨に嫌そうな顔してるのに、逆らえないんだ。物みたいに扱われててね。―俺はあの男だけは好かんかったな。気持ちの悪い男だったよ。だから、まあ深くは関わらんようにしてた」
老人はゆっくりと湯呑みを両手で包んで続けた。
次剥 第十六話 派手な男
「で、そういえば、なんだけどさ」
老人はふと思い出したように言葉を継いだ。
「あの男もある時期からぱったり姿を見せなくなってね。源二もあんたも。三人ともだ、それっきりだ。―ちょうど、その頃だったかな。二十年も前のことだからはっきり覚えていないが、妙な噂を耳にしたんだ。ニュースでもひとしきり騒がれてたな。真相についてはついに聞き出せなかったんだけども」
「噂?」
「うん。この川向いの、今はもうマンションが建っているところが開発途中だった頃だ。開発前の立ち退きで空き家が残されていたんだがね、その中の一軒でひどく腐乱した遺体が見つかったとか。解体業者に発見された時には身元もわからんような惨状だったそうだ。…ニュースだったか、誰かの与太話だったか、記憶はひどく曖昧だがね。縁起の悪い話だから、当時も深くは追わなかったんだが」
老人は冷めた茶をゆっくりとすする。
「で、なんとなく思っちまったのさ。ああ、あの柄シャツの男かな、って。ちょうど源二や蒼一さんがうちの店から足が遠のいた時期と重なっていたからな。…源二が何か事件にでも巻き込まれたんじゃないかと心配したもんだよ。いや、確証はない。歳のせいで記憶もひどく心もとないからいい加減なことは言えないんだがね。」
こめかみの奥が鈍く疼く。腐敗した遺体、空き家の澱んだ空気。断片的な言葉が、私の中の隠されていた場所と共鳴しようとしていた。明け方の仄暗い部屋、手に吸い付くような鈍い光の感触。繰り返し見てきた悪夢が、黒い泥のようにぬるりとせり上がってくる。私は湯呑みを握る指に力を込めた。
「……どんな男でしたか」
声が掠れる。老人は宙の一点を眺め、目を細めた。
「派手な男だったよ。金払いだけは良くてね。当時で五十に近いくらいだろうかね。頭頂部が薄いのを、残った金髪で後ろへ強引に撫でつけていた。髭を生やして、色の薄いサングラスを店の中でも外さないような気障な奴さ。首にはごつい金のネックレスをぶら下げて、シャツも悪趣味なほど派手な柄シャツを毎日着ていてね。とにかく、嫌でも目に付く男だった。ああそうだ。右だったか左だったかとにかく、こめかみのあたりに大きな傷跡があったな。」
―髭。
―薄いサングラス。
―撫でつけた金髪。
―首元の金。
―ど派手な柄のシャツ。
─こめかみの傷跡
老人はそれを、ただの鼻持ちならない客の特徴として世間話のように並べる。けれどその言葉一つ一つが、靄の向こうでぼやけていた男の輪郭を、生々しい肉体として結んでいった。記憶の中にはない男の像が結ばれていき、私の内側で呼吸を始める。こめかみの疼きに耐えながら、私はぬるい茶を一気に流し込んで感覚を麻痺させた。
「あんたら」
帰り際、老人がぽつりと背中に声をかけた。
「三人ともが、何かを抱えていたんだろうな。いや、いい。野暮なことは聞かん。…源二も元気にしているか?。――まあ、あんたも体は大事にな」
私は深く頭を下げ部屋をあとにした。川沿いの道は夕暮れに染まり、澱んだ生臭い匂いが鼻腔を突く。男の特徴が頭の中で壊れたレコードのように反復する。髭、サングラス、撫でつけた金髪、首元の金、ど派手な柄シャツ。
川沿いの道を歩いて帰る私の中で、靄がゆっくりと晴れるのを感じた。
老人が紡いだ言葉が引き金だった。ひとつひとつの単語は二十年蓋をしてきたものの隙間にするりと入り込み、歩くほどに当時のつかみどころのない断片的な記憶が徐々に足下から煙のように立ちのぼってきた。
次剥 第十七話 約束
源二と初めて出会った一九九九年の夏は、どこか奇妙な高揚感と言いようのない倦怠感が混ざり合う社会情勢だった。
空には薄く煤けたような雲が停滞し、テレビをつければどのチャンネルも世紀末の予言で溢れかえっている。ノストラダムスの大予言。世界が滅ぶ不吉な予兆と、どこかそれを娯楽として消費する冷めた眼差し。ブラウン管の向こうからはモーニング娘の『LOVEマシーン』が平和な未来を押し付けるように執拗に流れていた。日本中が来るべき新しい千年紀への期待と不安で混沌としていた。
その喧騒から遠く離れた場所で、私は死んだような顔をしてデスクに向かっていた。就職氷河期と騒がれ出した世代だった私は大学を卒業しても未だに就職先が見つからなかった。やっとの思いで滑り込んだ広告代理店は、夢とはほど遠い場所だった。怒号と灰皿が飛び交うのは日常茶飯事で、上司の機嫌一つで明日の命運が決まる。
過剰なノルマと、理不尽なパワハラが蔓延する職場。そこで私は、個としての尊厳を少しずつ削り取られながら、ただ機械のように書類を処理していた。
窓の外に広がる街の風景は、不気味なほどに静かだった。タバコを揉み消しながら毎日鬱蒼としていた。
いっそのこと恐怖の大魔王が降ってきて全てをめちゃくちゃにしてくれないかな。街の片隅で冷めた缶コーヒーを飲むときはいつも空を見上げていた。世界が終わろうが、明日またあのオフィスで上司の罵声を浴びようが、世界は驚くほど淡々と、しかし確実に新しい世紀へと転がり続けていたのだ。
右も左もわからない入社二ヶ月の私が、会社都合で異動させられた先は三鷹にある支社だった。初めて住む街で知り合いもおらず、何もできないまま周りに流されていく自分にどうしようもなく荒んでいた。世界の何もかもが薄っぺらくて噓くさくて、自分の居場所がどこにもなかった。そういう時期に、私は憂さを晴らすようにふと会社帰りに立ち寄った店が気に入り毎晩浴びるように飲んでいた。
源二とどうやって親しくなったのかは覚えていない。気がつくと隣にいた。私と瓜二つの、五つ下の男。へへと笑うと憎めない顔。最初は自分とそっくりな顔が気味悪かったのに、いつのまにかその顔を見るとほっとするようになっていた。何度も確認したが静岡出身の彼と埼玉出身の私には血縁も何もないようだった。にもかかわらず源二の隣だけがあの頃の私のたったひとつの居場所だった。
その夜も、私たちは延々とくだらない話を寄せ合って飲んでいた。私が職場の虫の好かない上司の愚痴をこぼすと、源二がそれを聞いてケラケラと笑った。
「蒼一のそのむかつく上司ってやつ。俺が消してやろうか」ほぼ満杯だったレモンハイを一気に飲み干し、トロンとした口の端でキキキと源二は笑った。冗談よせよ。酔った勢いの軽口に私も笑い返した。
「わはは。若いって、勢いがあっていいな」
「だろ。俺に任せろよ。ナイフをぐさっとこうやってグイグイってやって―」
源二の声がそこでふつりと途切れた。
「…その代わり」
さっきまで笑っていた顔から、すうっと血色が引いていた。源二は目を伏せ、手元のグラスを両手で握りしめた。その手がわずかに震えていた。
「そのかわり……俺の、憎い奴を、こ…殺して、くれよ」
声が絞れていた。喉の奥から無理やり押し出したような声だった。
私は笑うのをやめグラスを置いた。
源二は目を伏せたまま、グラスの中の氷をじっと見ていた。その横顔から人懐っこい光は消えずっと奥に沈めてきたものが酒に溶かされて表面まで浮き上がっていた。
「源二……」
私がその肩に手を置くと、源二の肩がびくりと震えた。それからゆっくりとこちらを向いた源二の目に、水が盛り上がっていた。
源二は声も上げずにぼろぼろと泣いていた。何があったのか私は訊かなかったし、訊けなかった。憎い奴が誰なのかもその男に何をされてきたのかも、何ひとつ。私の手の下でその痩せた肩が小刻みに揺れていた。慰める言葉も励ます言葉も当時の私には持ち合わせておらず、ただ狼狽するばかりだった。お前の隣に俺がいる、それだけを手のひらで伝えた。約束しよう。源二のためならとそのとき私は理屈ではなく思ったのだと思う。氷がカランと音を立てた。
次剥 第十八話 次に行こうよ
ある夜のことだった。
私と源二がいつものカウンターで飲んでいると、男がぬるりと入ってきた。ヒゲ、色の薄いサングラス、撫でつけた金髪、首元に光る金のネックレス、赤と黒のど派手な柄シャツ。やけに金回りのよさそうな鼻につく男だったが悪い奴ではなさそうだった。ツンと嫌味な香水が店内に漂い、彼は私たちを見つけるなり上機嫌で近づいてきた。
「ん?源二じゃないか。なんだこんなところにいたのか。隣は兄貴か?よく似てるな。」
源二の顔からすっと表情が消えたのに、彼は気づきもしなかった。私の隣にどっかり座って勝手にボトルを頼み、私にも源二にもなみなみと注いだ。気前のいい機嫌のいい笑い方で、悪意などどこにもなかった。だからこそよけいに質が悪かった。彼は名前を「誠司」と名乗った。
源二がまだ学生だった頃からよく遊んでやってるんだよ。なぁ。そう言いながら源二の肩をパンパンと叩き、腕をまわす。その日以来、度々やってくるようになった誠司。私たちは彼に会うたびに潰れるほど酒をご馳走になった。
そんな夜がしばらく続いたある日。
気前よく飲んでいた誠司はふと、いいことを思いついたという顔をしながらじっと私の顔を見つめた。
「そうだ。源二。今日は蒼一も連れて、次に行こうよ」源二のグラスを持つ手が止まった。「いい部屋を、見つけたんだよ」誠司は再び私のほうを見てニヤリと笑った。「僕と一緒にさ。な。次に行こうよ」
まだ新人で薄給の私は酒をご馳走になっている手前、愛想笑いを口元に貼り付けるしかなく源二の顔色を伺った。いい部屋、次に行こう。気前のいい男が新しく見つけた店にでも連れて行ってくれるのだろう、と楽観的な誘いのようにも聞こえた。
ただ、目がまったく笑っていない源二の横顔を見て、私の中で何かがぞわりと逆立った。私の手の下で源二の震えた肩のことが頭をよぎった。
誠司は私たちのグラスにまた、なみなみと強い酒を注いだ。
「飲め飲め。今日は僕のおごりだよ」
次剥 第十九話 霧
その日の記憶は、熱を持った泥の中に曖昧に溶け沈んでいた。誠司が注ぐ酒は、喉を焼きながら内臓をも直接浸食していく劇物。胃の腑がヒリヒリと悲鳴を上げ、身体中の血管という血管をアルコールが逆流して脳髄を痺れさせる。世界の輪郭は歪み、誠司の笑みが肉塊の揺らぎに見え、源二の声は遠い水底から響く鼓動のように重く、くぐもっていた。
私の体はすでに重力の手を離れ、ただ漂うだけの無機質な質量と化していた。だが、その意識が溶け落ちる暗闇のいちばん底で、たった一つ、冷たい異物のように居座るものがあった。
源二を守らなければ。
その意志は思考ではなく、みぞおちの奥、心臓から伸びる大動脈に直接絡みついた「本能」だった。暴力か、言葉か、あるいはこの場に充満する粘りつくような悪意か。その一点だけが酔いに屈せず、源二を守る。という鋭い結晶となって疼いていた。
意識が戻ったのは翌日の昼過ぎだった。私は自分の部屋の玄関でゲロまみれでぶっ倒れていた。家に着くなりそのまま眠ってしまったようだ。頭蓋骨の内側を鉄の楔でかき回されるような激痛に、思わず呻き声を上げて体を丸める。飲み過ぎだ。昨日閉め忘れたカーテンの隙間から差し込む陽光が、破壊された脳細胞にはあまりに鋭すぎた。昨夜どこへ連れて行かれたのかも記憶はない。誠司の顔も酒の味もすべてが記憶の端から剥がれ落ちている。
焦点が合わないまま情けない自分の姿に辟易していた。ひどく汚れたシャツを脱ぎながら床に広がった吐瀉物を拭き取ろうとタオルを探していると、玄関の隅に脱ぎ捨てられたジャケットが目に止まった。昨日着ていたものだ。
絶句した。
ボロボロになった裏地に暗い赤黒色の染みがベッタリと付着している。乾いた鉄錆の匂い。鼻の奥がツンと鳴り、反射的に嘔吐し思わずジャケットでそれを受け止めた。ジャケットごと吐瀉物をゴミ袋の奥深くに押し込んだまましばらく身動きが取れずにいた。全身の動脈が逆流し、喉の奥までせり上がってくる異物感で早鐘を打っている。鏡に映る私は、吐瀉物に塗れたままその中に混じって返り血のようなものがべったりとシャツに滲んでいた。
慌ててシャツを脱ぎ捨て、台所へ行き震える手で何度も体を擦った。皮膚が赤く腫れ上がるまでまるで証拠を消すように洗い流したが、流せども流せどもどこかスンと血液の香りが残っている。記憶はどこまでも白い霧に覆われたままで何も思い出せなかった。
源二。何があったのか。
私はどうやって帰ってきたのかも覚えていない。震える指で折りたたみ携帯を開き何度も源二にかけたが、何度目かのコール音からしばらくして、携帯電話に電源が入っていないことを知らせた。電源が落ちたようだ。
陽が落ち、夜の帳が降りた頃、ようやく電話がつながった。
「……源二か!すまない源二。怪我はないか?本当にすまない昨日の記憶が何もない。でも、でも私は血まみれで。」
私の声は掠れ喉はカラカラに乾いていく。源二の返答を待つ数秒が、永遠のように長く感じられた。
「ありがとう。大丈夫だ蒼一。大丈夫。もう、俺たちは会うことをやめよう」
突然の返しに私は驚いた。携帯の向こうで源二は、妙に落ち着いた声で私を諭すように優しい口調で淡々とそう述べた。平坦でどこか遠い国から聞こえてくるようだった。「昨日のことはいいんだ。すべてよかった。全部忘れよう。全部。昨日は何もなかったんだ」
「でも、源二、私の服が……」
「何もなかった。いいね。俺たちは昨日、ただ酒を飲んでそれぞれの家に帰ったんだ」
源二の声にはまるで催眠術のような冷徹なまでの強い意志があった。それは言葉というよりも、私の脳内に直接刷り込まれる「命令」に近い。私は動悸が徐々に収まっていくのを全身で感じた。筋肉が弛緩していきどっと体の力が抜けた。「…ああ。そうだな。源二、私たちは何もなかった」
私は、自分の口から出た言葉に自分で驚いた。鏡に映る自分の顔は、ひどく青ざめていてどこか別の誰かを見ているような虚ろな目をしている。
大事故?誰が?まさか私が誰かを傷つけたのか?そんな悍ましい事実は、どこにも存在しなかった。それは私の記憶とは無縁の出来事だ。そう脳が勝手に書き換えられていく。
源二との通話を終えると、私は部屋の明かりを消した。上司に連絡し、明日有給を取ることを告げると、ねちっこいいつもの声で嫌味を言われたがもうそんなことはどうでもよかった。
闇の中で、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。バクバクと、まるで獲物を追う獣のように。二日酔いの激しい激痛と何も思い出せない恐怖が黒い霞となって体の至る所に張り付いてきた。ただ、みぞおちの奥に、誰にも触れさせてはいけない溶けない固い芯のような罪悪感だけが静かにしかし確実に、ゆっくりと深海へ沈んでいった。ただただ毛布を頭からかぶり震えた。何もなかった。そう自分に言い聞かせながら、意識を、二度と浮上しない深い泥沼へと沈めていった。
私は罪悪感とも違う焦燥のような気持ちに駆られ、源二に言われた通り、源二の連絡先を携帯電話から消した。あんなに足繁く通っていた店も、源二や誠司に一度出会ってしまったら記憶をこじ開けられてしまいそうで、避けるようになった。
わかっているのは、ただ一つ。その夜を境に、誰も消息を知らないあの派手な男の話をどこからも聞くことがなくなっただけだ。
次剥 第二十話 追われる夢
その日から私は、白い靄の向こう側に「夢だった」「忘れてしまえばいい」と都合のいい呪文を唱え、心臓の奥で微かに鳴り続けていた警報を無視し続けた。そうやって私は自分という輪郭を歪に保っていた。霧が晴れた先には、もう取り戻すことのできない剥き出しの現実が横たわっているのだろう。そんなことよりも私が本当に失ってしまって後悔しているのは、あの夜霧散してしまった源二とのかつてあった透明な関係性だ。あの夜私たちが自ら選んで霧の中に捨てたものだ。
その頃から私は、よく自分に追いかけられる夢を見るようになった。場所はどこか澱んだ水槽の中のような光も届かぬ長い回廊。肺が焼けるような思いで駆け抜けても、背後に響くのは他人の足音ではない。私の歩幅、私の重心、私の呼吸―。寸分違わぬリズムが、背後から獲物を追う獣のように同調してくる。
振り返ってはならない。喉の奥で警告が鳴るのに、首筋の筋肉が意思を裏切って引きつる。ゆっくりと、強制されるように振り返ったその先にいたのは、鏡の中に潜んでいたはずの「私」だ。
奴は、腐敗した果実のような粘りつく笑みを浮かべながら、獲物を慈しむような、あるいは死した部位を切り離そうとする外科医のような、冷徹な愉悦。伸ばされた指先が空気を裂き、私の肌に触れようとする。捕まったら、骨の髄まであいつに入れ替わってしまう。昨夜の記憶の隙間を埋めるように、私という個体が、あいつの影にズルリと飲み込まれていく。そして決まって心臓が過剰な鼓動を打ち、血が逆流するような感覚とともに目が覚める。寝汗に濡れたシーツは、まるで他人の肉体から剥ぎ取ったばかりの皮膚のように冷たく、重たい。心臓が肋骨の内側で暴れている。寝間着が汗で背中に貼りつき、喉はからからだった。暗いうちに目を覚まし、しばらく布団の上で荒い息を落ち着かせた。
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