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いざ🏔️快晴の竹田城 前編

幼い頃に訪れてはいるものの、
それ以来は行ってなかった竹田城へ、
お城巡りを始めて5年目にして行ってきました。

さて、帰省していましたので、
父と電車で行ってきました。

竹田城は、
晩秋の早朝などに訪れると雲海の中にこのような天空の山城↓が浮かぶ様が観れて、(日本のマチュピチュ)と称され、有名になったお城です。

料金所に貼ってあったポスター。これで有名になったそうです☺️

とはいえ初夏のこの日は滞在中、一つも雲がかかることがないような快晴でした💦

🏯竹田城の歴史 カンタンに。
竹田城は播但道を見下ろし、山陰道も押さえ、
生野銀山も管理下に収める要所にありました。
城は虎が伏せているいるように見えることから、虎臥城とも呼ばれるそうです。

こんな風に伏しているのかな。

↓は城趾から見下ろした城下ですが、ゆるく蛇行してる円山川に囲まれ防御されている感じがします。川は外堀代わりですね。

円山川より、城山寄りに城下町が広がり、屋敷跡は南東山麓にありました。
城下町の寺町通の水路は江戸時代に整備されたもの。

1431年〜山名宗全により築城
重臣太田垣氏が7代城主を務めます。
播磨の守護赤松氏との抗争を繰り返す山名氏にとっては境目にある攻守の要でした。

初代城主太田垣光景公の供養塔がある常光寺

戦国時代〜
織田軍の播但攻略のターゲットとなり、羽柴秀長により落城。秀長も城代に。
桑山氏を経て、赤松広秀が城主になり、今見る総石垣の城となります。

九代城主桑山氏縁者の墓所がある勝鬘寺
最後の城主赤松広秀公の供養塔がある法樹寺

竹田城主となった広秀は、年貢の軽減や養蚕業の振興など善政を敷いたとされます。
また文化人でもあったそうです。
関ヶ原合戦に際しては西軍に属し、のちに東軍に与して鳥取城攻めに加わり城下を焼いてしまったとされます。
その責めを受け切腹となり、竹田城も廃城。
使われた時期は150年程でしょうか。

🏯🏯🏯
さて竹田駅に降り立った私たち。
駅裏登山道から料金所まで登ります。

登山口。二人共鬼のように健脚。
すぐ登っちゃう。
赤松広秀屋敷跡。

途中赤松広秀屋敷跡があります。
マップには40分、急な登山道とありますが、整備された良い道です。スニーカーでも問題ないです。

駅でもらったマップです。

ちなみに、山城の郷交流館という山上にある施設まではクルマで上がることができ、そこにクルマを停めれば、ほとんど平行移動で城趾に行けます。
また竹田駅から天空バスというのが運行していて、それで交流館まで行くこともできます。
整備保全されているので、見学ルートは決まっていて、それ以外は立ち入り禁止となっています。

情報館でいただいた縄張り図。
まず大手口からはいります。

料金所を過ぎて登ると、すぐに大手口になります。
⚫︎大手口
大手口を監視する見附櫓の石垣のウェルカムを受けます。高石垣で威圧的でもありますよ。

下から見上げた見附櫓台石垣
横から見てもカッコいい。

大手口は表玄関に相応しい堂々した構えになっていて、見附櫓と桝形で厳重に守られています。

大手口。広く立派だ。
けどしっかり桝形。

防御力遺構を見ながらも、全体像が気になり、チラチラ見渡してしまう。

本丸や南二の丸方面。
累々と石垣が連なります。
北千畳。見上げるのは三の丸の石垣。
北千畳から北を見下ろす。
水田が煌めきます。

まだ序の口なのに感動の嵐が押し寄せます。

中編へと続きます。