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オムツで終わらなかった女

人生オムツに始まり オムツに終わる

綾小路きみまろ


私は祖母が大好きだった。

祖母の娘である母はひとりっ子。そして、第一子である私は、祖母にとって初孫だった。

老人ホームで介護の仕事をしていた事もあった祖母は「自分でトイレに行けなくなったら、ポックリ逝きたい」と、3つ歳下の妹のには間に合わないだろうという理由から「せめて初孫(私)の結婚式には出たい」が口癖だった。

*

祖父と祖母はお見合い結婚だった。
女学校を出てバリバリ働いていた祖母は、結婚願望がなかった。当然2人が出会ったお見合いにも嫌々行き、相手から断ってもらえるようにお見合いの席でグラスに注がれた瓶ビールをひたすらイッキ飲みした。

建築の仕事をしていた祖父は〚これだけ飲めたら、この女性は接待の場にも同席できる!〛と、祖母の事を気に入った。

当時の事を振り返り祖母は、「あの時はしくじった」とよく語っていた。

人生最大のしくじりを犯し、祖父との結婚が決まってしまった祖母。ここから彼女の人生は大きく狂った。祖父はとんでもない人だったのだ。

毎日家に帰ってこないのは当たり前。幼い母を連れて自分の愛人が経営するスナックに行き、母だけをタクシーに乗せて帰宅させる。たまに夜中に酔っぱらって帰ってきたかと思えば、その日に会った他人を連れて来て突然家に泊まらせる。

祖母は仕事と育児をしながら、毎晩帰ってくるのかも分からぬ祖父を化粧をしたまま、夜遅くまで待ち続けた。

−−− 声をかけても反応がない −−−
−−− 天井を見上げたままボゥ〜っとする −−−


祖母は娘である母が心配になるほど、明らかに様子がおかしく追いつめられていた。

「離婚していいよ」
中学生になった一人娘に言われ、祖母はハッとした。“このままではいけない” と、離婚を決意した。

今から50年ほど前の話だ。
シングルマザーではなく “ひとり親” と呼ばれ、子供に何かあればそれが原因だと言われる時代。

「〇〇(母の名前)さんは1人でいる時は大人しそうな雰囲気ですが、何か学校で問題があると必ずメンバーの中に居ます」

当時の担任から祖母に電話がかかってくる。母はどこでも楽しむ人だが、学生時代は少々楽しみ過ぎていたようだった。続けて担任はこう言う。

「やっぱり、、、ねぇ?ひとり親だと色々行き届かないからですかねぇ。」

それを聞いて祖母はブチ切れた。

「問題を起こした子供達は全員ひとり親なんですか?違うでしょう?娘がご迷惑かけた事は謝りますし、家で私が叱ります。ですが、先生のひとり親だから問題児だという発言については、今すぐ謝って頂けます?!」

祖母はものすごく気が強かった。

モンスターペアレントなどと言う言葉もなく、教師は“絶対的な存在”だった当時。まさかひとり親の母親が教師に歯向かってくるとは、その時の担任は夢にも思わなかったのだろう。強烈な祖母の圧に負け、担任だった女性教師は電話の向こうで泣き出したそうだ。

私の父は転勤族だったため、幼稚園〜中学校まで全国を転々としていた。その間、祖母に会えるのは夏休みと冬休みの年2回。子供の頃の私は、その年2回をいつも楽しみにしていた。学校が長期休みに入ると、母と妹と3人で飛行機に乗って、祖母のいる田舎へと向かう。

寝る時は私だけ祖母の部屋に行き、2人でベッドに入り祖母の昔話を沢山聞いた。その中でもこの “担任に電話越しにブチ切れた話” と、“赤いコートを着て夜道を歩いていたら後ろから若い女性と勘違いされて若者にナンパされるも、顔を見て逃げられた話” が大好きで、私は何度もおかわりをした。祖母も孫にウケる事に味を占めたのだろう。おかわりする度にエピソードが徐々に盛られていったが、面白かったので私と祖母の間では何の問題もなかった。

*

父の転勤で私達が全国を転々としていた頃、祖母はひとりで体に異変を感じていた。体調は明らかにおかしいのに、病院に行っても問題はないと言われる。

なぜ?なぜ??なぜ???

原因が分からぬまま時間だけが過ぎていったある日、祖母の体調不良の原因が判明した。

祖母は “膠原病” だった。

膠原病(こうげんびょう)
全身の複数の臓器に炎症が起こり、臓器の機能障害をもたらす一連の疾患群の総称。
多くの場合に自己免疫疾患としての機序が関与していると考えられており、完全な病態の解明は、未だ成されていない。

Wikipediaより一部抜粋


当時まだ小学生だった私は、祖母が “治す方法が見つかっていない病気” になった事にショックを受けた。

一方で、ずっと原因不明の体調不良に悩まされていた祖母は、“自分が病気だと分かったこと” に安堵していた。

膠原病は様々な病気があり、症状も人それぞれだ。しかし、“日光(紫外線)に当たらない” 方がいいというのは、どの患者にも共通している。それを承知の上で、祖母はガンガンに日光を浴びた。家庭菜園が趣味で、旅行に行く事も難しくなっていた祖母にとって、自宅の庭は全てだった。担当医からも止めるように言われていたが、母もそれをガン無視して、祖母の日光浴を黙認した。

*

私の高校受験を見越した中学2年生のタイミングで、転勤族である父には単身赴任をしてもらって、母と私と妹は祖母の家で女4人で暮らす事になった。

あんなに大好きだった祖母との同居は、ずっと別々に暮らしていた事もあり生活リズムも合わず、上手くいかなかった。

実の親子である祖母と母でさえ、ひとつしかない台所、浴槽、トイレの生活に、互いにフラストレーションを抱えていた。

平屋の一軒家である古い家にプライバシーはなかった。子供部屋は妹と同室。高校受験を控えていた私と、姉と遊びたくてちょっかいをかけてくる小学生だった妹とは、毎日バチバチに喧嘩していた。

祖母は声が高くよく通るため、リビングでテレビを観ながら大笑いする声が廊下に響き渡り、子供部屋で勉強している私の耳まで届いた。

身体の臓器や組織に炎症を起こす膠原病であった祖母は、逆流性食道炎になっていた。夜中に何度もトイレに駆け込み、「うぅぅ~」「ひぃぃ〜」と言いながらバタバタと引き戸をガラガラ開け、バタンッと閉める音が家中に響く。 

最初こそ心配していたが、次第に私はそれを五月蝿いと思うようになっていった。

私が高校1年になった頃、単身赴任していた父とまた一緒に暮らせる事になった。さすがに5人暮らしは厳しいだろうということで、祖母の家の隣の土地に、私達の家を建てる事になった。

〚これでおばあちゃんのこと嫌いにならないで済む〛

祖母との同居が解消されて、私はホッとした。

一緒に暮らさなくなって、私はまた再び祖母と話す時間が増えた。

大学受験で滑り止めに滑り倒して本命のみ受かった日、初めて彼氏が出来た日、希望していた会社から内定がもらえた日、嬉しい事があった時は、まず最初に隣に住む祖母に報告しに行った。

*

「ちょっと行ってくる」
ある日、いつも通り祖母は、まるで旅行にでも行くかのように常備している入院カバンを持って病院へと向かった。いつからか、祖母にとって通院と入院は当たり前で、日常になっていた。免許を取ってから時間が合う日は、私がたまに病院までの送迎をしていた。退院が決まって、また祖母を車で迎えに行けると思っていた。

入院して何日か経った日の夜、私が仕事を終えて家に帰宅すると、父だけがおり、母の姿はなかった。病院から連絡があり祖母の容体が思わしくないとの事で、母は病院で付き添っていた。母と連絡を取り、次の日私も仕事帰りに病院に寄る約束をして、その日はそのまま寝た。

翌朝、私は母からの電話で起きる。

「おばあちゃん、ちょっと危ないかも...今から病院来れない?」
私の頭の中では、いつも通り入院カバンを持ってまた帰ってくる祖母の姿しか思い浮かばなかった。更に私はギリギリまで寝ていたので、何も朝の用意ができていない。

「会社遅刻しちゃうから帰りに寄るね」
今もしタイムマシーンがあったら、アラームをいつもより早くセットさせて、あの時の自分を叩き起こしてやりたい。

まだ社会人1年目、新入社員時代の冬の始業中の時間だった。同じ部の先輩が慌てて私の所へやってくる。

「いま電話があって、おばあさんが危篤だって」

、、、キトク?一瞬言葉の意味が分からなくなった。
心臓がバクバクして、全身がサァーーっとなり “血の気が引く” とはこの事かと思った。

会社を早退して、慌てて病院へと向かうと、ベッドの上で管を通され、ぐったりして苦しそうにしている祖母がいた。

「おばあちゃん!ごめん、朝行けばよかった」

意識はあって、声は届いているようだが、もう話せる状況ではなかった。

*

「(延命)どうしますか?」
医師は母に尋ねた。その瞬間、ずっと苦しそうにしていた祖母は、最後の力を振り絞って両手で大きく天井に向かって✘(バツマーク)を作った。

“延命は絶対にしない” という祖母の強い意志だ。

「何もしないで下さい」

母は目に涙を溜めながら言った。それを聞いた祖母は安心して✘を下げた。

*

祖母の葬儀は地元の葬儀場で、こぢんまりと行なわれた。友人や元職場の同僚達に混じって、参列者の中には、祖母がお付き合いしていた彼氏もいたようだった。私と妹は祖母の彼氏の存在すら知らなかったので驚いた。母は何度か会ったことがあるようで、連絡していたらしい。

「おばあちゃんも女してたんだね」
あんなに沢山色んな話をしていたのに、孫に女の部分を見せるのは恥ずかしかったのだろうか。祖母は彼氏の存在を、ずっと私と妹には隠していた。しかし、孫達は祖母が恋愛していた事に興奮し、めちゃくちゃ嬉しくなっていた。

当時まだ東京の大学に通っていた妹もしばらく帰省する事になり、その日は葬儀場に家族全員で祖母のロウソクを見守りながら泊まった。

翌日、親戚一同で火葬場へと行った。火葬には1時間程かかるとの事だった。思っていたよりも人は簡単に焼けないらしい。その間私達は軽食を取りながら、あーだ、こーだと、祖母の話をした。
火葬後に遺骨を拾う “骨上げ” の時間になった。しかし、治療を繰り返していた祖母の骨は、箸で持ち上げようとすると、ボロボロ崩れて粉のように散っていった。唯一残りやすい骨と言われている喉仏だけがつまむ事ができた。

母はボロボロの骨を見て泣いたが、私はそれは “祖母の頑張った証” だと勝手に受け取り、少し誇らしくなっていた。


“オムツで終わらなかった女” の人生が終わった。




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