届いていた|第2部 もしもボックス
Chapter 06 - もしもボックス: これで最後の旅
徳島自動車道の継ぎ目を踏むタイヤの音が、一定のリズムで車内に響く。カーステレオからは何も流さず、ただロードノイズだけを聞いていた。上板サービスエリアの看板が見え、ウィンカーを出した。カチ、カチという機械的な音が耳に残る。
途中にあるこのサービスエリアで降りて夕食をとることにした。以前妻と2人で高知への旅行に向かう途中、同じようにここで降りた記憶がある。夕食に徳島ラーメンを2つとチャーハンを1つ頼んで、チャーハンは2人で分けて食べた気がする。
周りを見渡すと、平日のためか人はまれで空席が目立つ。カウンターの近くのテーブルにかつての自分たちのようにこれから旅行に向かうのか楽しげに話す男女の2人組がいるぐらいだった。
「あのアニメ映画、またリバイバルで上映してるみたいよ。タイムリープものの。『トキカケ』。何度見ても、戻れるのにどうにもならないとこが刺さるんだよね」
ラーメンをすすっていると男性が話すのが聞こえた。笑い混じりに語尾がわずかにかすれる、その声の響きが妙に耳に残った。ふと視線を向けると、男性は話しながら無意識に右手の親指の腹で、テーブルの縁を小さく叩いていた。見覚えのある癖だと思ったが、誰のそれと重なるのかはうまく思い出せなかった。
ブンキは交錯していた。
戻れたとしても、やり直せないことがある。そんな気がした。
夕食を食べ終わる頃には、あたりはもうすっかり暗くなっていた。妻が亡くなってから時々二人で訪れた旅先へなぞるように向かうことがあるが、やはり今回も気持ちが晴れることはなく、いつまでもこんなことばかりしていてはいけないと感じる。これで最後にしよう、そう自分に言い聞かせていつものルートインへと向かうことにした。
ホテルの駐車場に車を止め、エンジンを切ると、急に静寂が押し寄せてきた。
Chapter 07 - もしもボックス: 乗らんと、間に合わん
施設内は、微かな消毒液と古くなったお茶の匂いが混じり合っている。午後4時。廊下を走るワゴンのキャスター音が、高い天井に反響していた。
連休が終わり、長距離運転の疲労感を体に残しながらも再び日常が始まった。僕が働く特養には在宅ではなく施設での生活を選択することになったさまざまな背景を持つ人たちが入所している。そのうちの多くの人たちが認知症を患っている。
70代になり特養の現場で介護職として働き続けることに肉体的な限界を感じながらも、特に認知症状の強いAさんのような利用者と関わることに楽しさややりがいも感じている。
ある日の夕方、エレベーターの前で車椅子に座り動かないAさんがいた。声をかけると「早く行かないと」と困った表情を浮かべている。最近エレベーターの前に齧り付いたように動かないことが多いと申し送りが続いているため、とりあえず現在の排泄状況を確認してみることにした。
車椅子のハンドルの冷たさが、ホリュウされていた朝の記憶にヒキダシをかけた。
* * *
冬の朝へ、キリカエが起きていた。
元々朝が苦手な僕は、出勤の身支度を着々と進める父を横目に、今日も会社を休みたい気持ちでダラダラ過ごしていた。
「今からワシ出るから、一緒に乗っていけるぞ。母さんが車出してくれるから」
父が一向に出勤準備を進める気配のない自分の息子に苛立ちながらもなんとかしたい思いから声をかけてくる。それでも準備が進まない息子に「早よせんか!」と一喝し、ようやく僕はスイッチが入り慌てて準備を進め、父と母の乗る車に飛び乗った。
駅に着くと出勤ラッシュに巻き込まれ、改札付近は混雑していた。
「今なら30分の電車に乗れるから、それなら間に合う」
隣を早足で歩きながら腕時計を確認した父が言ったが、どう見ても目の前の人混みでは改札は通れず、電車にも間に合いそうにない。
「いいよ、別に遅刻しても。次の電車に乗っていけばいいから」
出勤意欲のない僕はボソボソと返したが、父には聞こえなかったかもしれない。
隣で急ぐ気配を感じない息子を横目に、父はグイグイと人混みを掻き分け、改札前に辿り着くや「ホラ、はよいけ!」と仁王立ちして確保した改札の通り道を指し僕に叫んだ。
周囲の刺すような目線を感じながら僕は改札を駆け抜けた。
* * *
エレベーターのドアが「ピン」と乾いた音を立てて開く。鏡のように磨かれた扉の向こう側を、Aさんはじっと見つめていた。
エレベーターのドアが開いたが、間違って乗り込んでしまわないように見守っていなければならない。「次の電車が来る前にトイレに行っておきましょう」と声をかけると、Aさんは名残惜しそうにエレベーターを見つめながら、「乗らんと、間に合わん」と小さく呟いている。
車椅子のハンドルを握る。その冷たい感触が、たった今よみがえった記憶の続きをまだ指先に残していた。なぜこの人の言葉が、こうも身に覚えがあるのだろう。廊下の奥まで、その問いを引きずりながら車椅子を押した。
Chapter 08 - もしもボックス: 一度も言えなかった理由
加湿器がコトコトと音を立て、窓ガラスに結露がこびりついている。Aさんの眉間の皺は、眠っている間も消えることはなかった。
昨夜間からAさんは高熱を出し、今日は一日ベッドで過ごしている。Aさんの部屋にオムツをかえにきたが、解熱剤があまり効いていないのか、眉間に皺を寄せたまま眠っている。加湿器の単調な音を聞いているうちに、胸の奥に沈んでいた別の息苦しさが、不意に形を持って浮かび上がった。
* * *
「せっかくと思ったけど、どうにも合わんかったみたいで、スンマヘンな」
父が口を開いた。向かいで会長が厳しい表情で父を見つめている。
「何がしたいんか分からん、と下のもんは言っとるみたいやけど。特にウチの営業はキツいと聞いとるからやめるもんも多いけど、どいつも辞めた後はみんな泥水でいい話聞かんけどなあ」
会長は表情を緩めず父に話しかける。
「なんか自分でやってみたいことがあるみたいで」
父は続ける。その後父と会長は以前からそうしていたように、取引先の話など仕事の話を始めた。
「まだまだこれからやから、なんでも自分でやりたいことやってみんかい」
帰りの車の中で、父がハンドルを握りながら僕に声をかけてくれた。その時の表情を見ることはできなかった。
父と会長は仕事で知り合い、定期的にやり取りして関係を大事にし続けてきていた。
「ワシの知り合いの会社で、こんな会社がある」
新社会人になりそびれることを恐れ、苦し紛れに新卒で就職した会社をたった3ヶ月で辞め、以降鬱屈と自室に引きこもって過ごしていた我が子に救いの手を差し伸べたつもりだった。
しかし僕は1年も経たないうちに出勤するのがしんどくなり、会社を休みがちになっていたのだった。なんとか結論を出さないといけないと焦り出した答えが、「やりたいことがあるから辞める」というものだった。
父も会長もそんな薄っぺらい言い訳は見透かしていたに違いないが、もう勝手にしろと匙を投げつつ角が立たないように大きく構えてくれていた。
* * *
Aさんの寝息にヒューヒューという喘鳴が混じっていることに気づく。その音が、どこか自分の胸の奥の息苦しさと響き合った。
わずかなカサネが起きていた。
なぜ介護の仕事を選んだのか、うまく言葉にできたことは一度もなかった。
言語化されないまま、ズレは静かに積み上がっていた。
僕はAさんの掛物を整え、まだ胸の奥に残るざらつきをやり過ごすように、無機質な部屋の照明を1つ落とした。
Chapter 09 - もしもボックス: 黒い財布
3月の風は冷たく、施設の玄関を出るたびに身がすくむ。Aさんが亡くなった後の部屋は、主を失って急に広く、寒々しく感じられた。
Aさんは一旦解熱したものの、その後血中酸素濃度が上がらず呼吸が不安定になっていたことから急遽受診し、その後入院することになった。誤嚥性肺炎と持病の心不全が悪化し肺に水が溜まり片方の肺がほとんど機能していなかったとのことだった。しばらくして退院したが、入院前の状態には戻ることはなく、施設では看取り対応が開始されることになった。
退院後のある日、Aさんの居室を覗くと、天井に向けて「父さん、どこにいるんや」と繰り返し呟いているのが聞こえた。返答を待つような間を置いて、また同じ言葉を繰り返していた。
3月に入ったが依然朝と夜の気温は0度に近い日が続いていたある日のことだった。出勤した際にAさんの状態が低下し、1日持たないかもしれないと周囲の職員から聞いた。静養室で休んでいるAさんの様子を覗くと、胸を大きく動かし、苦しそうに呼吸している様子が目に入った。Aさんの目は閉じているが、一筋涙が流れたような跡が残っていた。
乾いた涙の跡が、ヒキダシをかけた。
* * *
父の記憶へ、キリカエが起きていた。
父が70代の頃、母を亡くした。周りには母を「家内」と呼んでいたように、仕事一筋で家のことは全て母に任せっきりだった父はみるみる衰え、自分の母親がそうであったように80代になってアルツハイマー型の認知症を発症した。その後、訪問介護を利用して在宅での生活を継続していたが、まもなく急変して他界した。
訪問介護の職員が家を訪ねた際に応答がなく、庭から居間を覗いたところ絨毯の上に倒れていたため通報してくれたが既に息を引き取っていたそうだ。そばにはスマホが落ちており、画面には私の連絡先が表示されていたようだと、後になって聞いた。私は父の最後に立ち会うことができなかった。
通夜が終わり、帰路に着こうとした時にふと歩道の奥にある公衆電話のボックスが目に入った。歩きながら、横目に通り過ぎようとしたが、手はボックスの扉を開け、受話器を掴んでいた。
「父さん、あの時はごめん。ありがとう」
嗚咽を漏らしながら、言葉にならない言葉でそう呟きながら泣き崩れた。もしも、もしも父さんに声を届けることができるなら……当然父は出なかったが、僕の言葉が受話器に吸い込まれていくような、そんな気がした。
* * *
他の職員が話していた通り、Aさんはその日のうちに亡くなった。
Aさんの部屋の整理をしていたところ、入所時に持ってきていたという黒い財布が目に入った。ふと手に取って中を開いてみると、カードを収納するポケットに記名がある。だが下の名前はAさんとは違っており、既に亡くなっているAさんの父親のものだとわかった。父親の形見として持ち続けていたのだろうか。さらに、カードポケットの裏に古びた紙が折りたたんで挟み込まれていることに気づいた。開いてみると、シミだらけの紙の中央に「何かあったら連絡して」の文字、その下にAさんの名前と電話番号が記されていた。
Aさんはよく電話の話をしていた。本人はとてもスマホを使える状態ではなかったが、部屋の棚の上には充電器に繋がれたスマホがずっと置かれていた。
荷物の確認の流れで電源ボタンに触れると画面が表示され、ロック画面も設定されていなかった。年配の方向けにカスタマイズされた画面の中央に、電話帳、留守番電話といった文字が大きく並んでいる。驚きながら画面を閉じようとしたその時、指先が触れたのか、音声が流れ始めた。「録音された留守番電話が1件、あります」
慌てて画面を確認しようとした時、こもって聞き取りづらいが、年配の男性の声が聞こえた。
その瞬間、映像が浮かんだ。夜の歩道。公衆電話ボックスの扉を引く手。受話器の冷たさ。嗚咽を漏らしながら、届かないとわかっていた言葉を絞り出した、あの夜の自分の姿が、まるで外から見るように浮かんでは消えた。
かつての自分の行動が完全に重なった。そして、この財布も、このスマホも、この録音も、僕は知っていた。全く同じものを持っているはずだった。
カサネは、そこで止まった。
どこにしまっているのか記憶を手繰り寄せようとしているうちに、次第に何を思い出そうとしているのかわからなくなってきて、手元のスマホの電源を切り他の荷物と一緒に袋にまとめてしまった。
記憶の輪郭に、ズレが生じていた。
その日の仕事終わりに、僕は父の入院する病院へと足早に向かっていた。
Chapter 10 - もしもボックス: 今度こそ
病院の廊下は、施設よりもさらに白く、無機質だった。微かに漂うアルコールの匂い。今ここで引き返せば、もう二度と間に合わないと体が知っていた。相部屋を仕切るカーテンを、静かに引いた。
息を切らしてたどり着いた病院の、相部屋の病室の一角にカーテンで仕切られた部屋で父は眠っていた。今年で100歳になる父は、しかし数日前から状態が悪化しいよいよ最期の時を迎えようとしていた。
Aさんの財布の中の紙に、父への言葉を書いた誰かがいた。この人には、父が生きているうちに届けることが、できなかった。
父の額に手を置き、喉の奥で長くつかえていたあの言葉を、今度は途中で飲み込まずに口にした。
眠っている父の脈拍がわずかに早くなったように感じた。今さら何を言っている、と遅すぎる息子の行動に怒りを感じたのかもしれないが、ひたすら我が子の進む道を切り開き、時に身を挺して守り息子が自力で歩くことを見守ろうとした父なら、「分かってる」と返してくれたのかもしれない。
静寂の中でトトノエは行われた。
父の乾いた額に触れた指先から、微かな体温が伝わってくる。モニターの電子音だけが、静かに夜を刻んでいた。返事はない。
それでも、胸の奥に長く沈んでいた言葉の重みだけは、わずかに軽くなった気がした。どこかへ、届いたのかもしれない。
カサネは、静かになった。
