届いていた|第4部 届いていた
Chapter 17 - 届いていた: ゼロ日目
シフトレバーから手を離した。
揺れは、すぐに消えた。
何だったのか、わからなかった。
窓の外では、セミの声が続いている。
ふと、ずいぶん前に考えていたことを思い出した。
感情というものは、どこかに記録されるのではないかと、そんな突拍子もないことを考えていた時期があった。強い想いや、決断の瞬間——それが消えずに積み重なって、見えないところで何かに作用し続けているとしたら。
そして、この世を去った人の想いも、同じように残るとしたら。
他愛のない夢想だった。根拠も何もない。
そんなことを考えていたのはいつの頃だったか。
シフトレバーに手をかけ直し、ギアをドライブに入れた。
車がゆっくりと動き出す。
セミの声が遠くなった。
Chapter 18 - 届いていた: もしもの答え
昼休みに、ビルの屋上から見える景色を眺めていた。
空は夏の海のような青さが広がり、雲は時折波立つ白波のように少ししかなかった。
強烈な日差しとうだるような暑さの中、遠くに見える山から蝉の鳴き声が響いてくる。
午後から予定している外まわりのイメージトレーニングを頭の中で反復した後は、夏の暑さと蝉の声に身を委ねていた。
もしも——
ふいに、この言葉が浮かんだ。
子供の頃、ドラえもんの道具に「もしもボックス」というものがあった。「もしもこんなことがあったら、どんな世界になるか」を体験するための道具だった。
自分も長い間、似たようなことを考えてきた気がする。
もしも、大切な人がいなくなったら。
もしも、あの言葉が届いていたら。
もしも、あの時別の道を選んでいたら。
答えは出ない。それでも、もしも、と繰り返してきた。
「もしも」の答えを出せたことは、一度もなかった。
ポケットに入れたスマホの通知が鳴った。
カレンダーに登録していた予定が出発時刻が迫っていることを知らせていた。
Chapter 19 - 届いていた: 帰る場所
午後の外まわりの後一旦帰社し、溜まっていた伝票の処理と今回の営業内容の取りまとめ、事務方への伝票の依頼など一通りのルーティンをこなした。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
エレベーターでビルの1階まで降り、自動ドアをくぐると、夏の夜の空気が身を包んだ。
昼間の蝉の鳴き声はすっかり落ち着いていた。
駅の方へ歩き出した。
駅につき、改札を通り抜けたあとホームへ向かいながら、ふと、「どこでもドア」という道具もあった、と思いだした。行きたい場所を思い浮かべてドアを開けると、そこにつながる。
自分が本当に行きたかった場所はどこだったか、と考えたことがある。
遠い、あの夏の日へ。
あの人がいる、あの場所へ。
まだ、何も起きていない、あの時へ。
どこへでも行けるとしても、自分はどこを選ぶだろう。
電車を降り、再び改札を抜けると、通りに沿って寿司屋の暖簾や提灯が並んだいつもの景色が目に映った。
気づいたら、歩みが速くなっていた。
家の方へ向かっていた。
Chapter 20 - 届いていた: 届いていた
しっけた枕の気持ち悪さで目が開いた。
寝る間際にタイマーをセットしたエアコンは切れていた。
喉が渇いていることに気づき、冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注いだ。
ふと外の空気を吸いたくなり、ベランダにつながる窓を開けた。
片手にコップを持ったまま、窓のヘリに腰をかけた。
昼間の暑さはすでになく、風はなかったが夏の夜の空気が心地よく感じた。
耳を澄ますと、微かに虫の音が聞こえる。
遠くから、1匹の蝉の鳴き声が聞こえてきた。昼間鳴きたりなかったのか、時間を飛び越えてきたのか。
夜、寝静まった住宅街に、その蝉の声は届いていた。
届いていた——
なぜか、大丈夫だと思った。
コップの中のお茶を飲み干し、窓を閉めた後、布団に戻った。
目を閉じると、すぐに眠れた。
Chapter 21 - 届いていた: ただいま
夕方、台所に立っていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
聞き慣れた声がした。
ふり向くと、ゆり子が視線を僕の方へ移しながら優しく微笑んだ。
