正しいルールが現場を壊すとき
副題
善意で作られた規則が なぜ人を追い詰めるのか
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はじめに
会社には多くのルールがある。
通路は走らない。
交差点では指差呼称をする。
休憩時間は休憩所に戻る。
休憩時間は電気を消す。
休憩時間は乗り物から降りる。
休憩時間は仕事をしない。
来るべきタイミングが来るまでは待機する。
仕事を煽らない。
一つひとつを見れば、どれも間違っていない。
安全のために必要なのだろう。
省エネのためにも必要なのだろう。
事故防止のためにも必要なのだろう。
秩序を守るためにも必要なのだろう。
法律を守るためにも必要なのだろう。
だが、現場に立ってみると、別の問題が見えてくることがある。
それぞれは正しい。
けれど、全部を同時に守ろうとすると、物理的に破綻する。
たとえば休憩時間が10分しかないのに、休憩所まで片道6分かかる。
電気を消すのに寄り道して2分かかる。
乗り物から降りて、移動して、戻ってくるだけで、もう休憩時間を超えてしまう。
作業者は休んでいない。
それなのに休憩時間は消費される。
しかもそのたびに作業は遅れる。
ここで起きているのは、現場の怠慢ではない。
ルール無視でもない。
もっと根本的なことだ。
正しいルール同士が、現場の中で衝突しているのである。
こうした衝突は、休憩だけでなく、安全、品質、納期、労務の交差点でも起きる。
一つひとつは正しい
この種の問題は見えにくい。
なぜなら、どのルールも単体では反論しにくいからだ。
通路を走らないのは安全のために当然である。
指差呼称も事故防止に有効だろう。
休憩所に戻るのも、休憩と作業の切り分けとしては理解できる。
電気を消すのも、無駄を減らすという意味では正しい。
休憩時間に仕事をしてはならないのも、労働者を守るためだろう。
待機するのも、先走りや混乱を防ぐためには必要かもしれない。
ここには悪意がない。
むしろ善意がある。
危険を減らしたい。
無駄をなくしたい。
秩序を守りたい。
その思いから作られたものだろう。
だからこそ厄介なのだ。
間違ったルールなら疑いやすい。
だが、正しいルールは疑いにくい。
そのため、現場で何かがおかしくなっていても、作業者側の工夫不足のように見えやすい。
本当は違う。
問題は個々のルールの正しさではない。
それらが同時に要求されたときに、両立できるよう設計されているかどうかである。
善が未調停のまま流れ込む
会社の中では、いろいろな部署がそれぞれの正義を持っている。
安全を守りたい部署がある。
品質を守りたい部署がある。
省エネを進めたい部署がある。
労務管理を整えたい部署がある。
生産性を上げたい部署がある。
それぞれの立場から見れば、どれも必要だ。
どれか一つだけを否定することは難しい。
だが問題は、その正義同士がどこでぶつかるのかを、最後まで引き受ける人がいないことにある。
安全担当は安全だけを見る。
品質担当は品質だけを見る。
労務担当は休憩取得だけを見る。
省エネ担当は消灯だけを見る。
生産管理は遅れだけを見る。
すると現場では、すべてが同時に降ってくる。
安全も守れ。
休憩も守れ。
省エネも守れ。
遅れも出すな。
先走るな。
止まるな。
このとき会社は、理念を運用しているのではない。
矛盾の尻ぬぐいを末端に押しつけているだけである。
つまり現場は、仕事をしているだけではない。
未調停の正義同士を、自分の身体と気遣いで吸収しているのである。
正しさは、全体で見なければ暴力になる
ここで大事なのは、部分最適と全体最適は違うということだ。
安全だけを見れば正しい。
省エネだけを見れば正しい。
休憩規律だけを見れば正しい。
生産管理だけを見れば正しい。
しかし、部分ごとの正しさをそのまま積み上げても、全体が正しくなるとは限らない。
むしろ逆に、全体が壊れることがある。
十分休憩のはずなのに、実際には休めない。
休憩のたびに遅れが積み上がる。
遅れを取り戻すために焦りが生まれる。
焦りが生まれれば、安全の質も下がる。
その結果、最初に守ろうとしていた理念そのものまで傷ついていく。
ここにあるのは、単なる非効率ではない。
設計思想の欠落である。
会社はしばしば、ルールを増やすことで誠実さを示そうとする。
だが本当に必要なのは、ルールの数ではない。
ルール同士の交差点をどう処理するかという設計である。
言い換えるなら、会社に必要なのは規則そのものよりも、規則間の優先順位である。
現場が悪いのではなく、先に体系が破綻している
こういう状況になると、現場ではいくつかのことが起きる。
どれかを黙って破る。
形式だけ守る。
休憩を削る。
早歩きや先回りで帳尻を合わせる。
優秀な人が見えない努力で埋める。
すると管理側は、一応回っているように見える。
事故もまだ起きていない。
作業も表面上は止まっていない。
だから問題がないように見えてしまう。
だが本当は違う。
回っているのではない。
まだ潰れていないだけである。
現場が矛盾吸収材になっているだけである。
たとえば、休憩時間をそのまま休息に使えないと分かっていても、何も言わずに自分の休憩を削って帳尻を合わせる人がいる。
休めていないのに、表面上は遅れを出さない。
そのため管理側には、問題が存在しないように見えてしまう。
しかも、こうした状況が続くと、ルールそのものへの信頼が失われていく。
すると現場では、表向きにはルールを守っている形だけが残りやすい。
指差呼称は声だけになり、確認は記録だけになり、休憩は取得したことになっていても実際には休めていない。
ルールが守られているのではなく、守られているように見える形式だけが残る。
人は守れないものを何度も命じられると、やがてルールを理念としてではなく、現実を知らない上の言葉として受け取るようになる。
そうなると、危険なのは遅れだけではない。
会社全体の規範感覚が傷んでいく。
守るべきものまで、まとめて軽く見られるようになる。
これは単なる運用不全ではない。組織の規範感覚そのものが摩耗していく。
問題はルールの不足ではない
会社が何か問題を起こしたとき、反応として出やすいのはルール追加である。
事故が起きた。
不具合が起きた。
遅れが起きた。
ならば規則を増やそう。
確認を増やそう。
手順を増やそう。
報告を増やそう。
もちろん、それで必要なこともある。
だが、それだけで済ませると、問題は別の形で深くなる。
なぜなら、現場を壊す原因は、ルールが少なすぎることではなく、ルール同士の交通整理がないことかもしれないからだ。
つまり、求められているのは追加ではない。
調停である。
どれが最優先なのか。
どこで例外を認めるのか。
移動時間まで含めて休憩を設計しているのか。
物理的に実行可能なのか。
現場の一日を通して矛盾なく回るのか。
ここまで考えられて初めて、ルールは理念になる。
そこまで行かなければ、ルールはただの指示の束に留まる。
この問題の核心は、それぞれのルールを考えた人が別であることにある
だから、一つひとつには筋が通っていても、全体としては通らなくなる。
この種の破綻は、分業化された組織で繰り返し起きる。
誰かは安全をよくしたい。
誰かは電力消費を減らしたい。
誰かは休憩を厳密に管理したい。
誰かは作業を煽る文化を抑えたい。
その意図自体は悪くない。
だが、それぞれが自分の持ち場だけで正しさを完成させてしまうと、最後に現場で矛盾が爆発する。
つまり、部分ごとの善意が、全体では暴力になるのである。
ここで必要なのは、誰かを悪者にすることではない。
安全担当が悪いわけでもない。
労務担当が悪いわけでもない。
省エネ担当が悪いわけでもない。
問題は、全体を見て、衝突を引き受ける視点が欠けていることだ。
会社に必要なのは、正しい人を増やすことだけではない。
正しさ同士の交差点を設計できる人である。
しかも厄介なのは、優秀な人ほどこうした矛盾を黙って吸収してしまうことである。
先回りし、早歩きし、自分の休憩を削り、言わなくても回してしまう。
その結果、組織は設計の欠陥ではなく、個人の頑張りによって成り立っている状態を正常だと誤認する。
理念とは、単体の美しさではなく、衝突時の知性である
ここまで来ると、理念という言葉の意味も少し変わって見えてくる。
理念とは、立派な言葉を掲げることではない。
単体で正しいルールを並べることでもない。
本当に問われるのは、善と善がぶつかったときに、どう判断するかである。
安全と休憩がぶつかったとき。
省エネと作業成立性がぶつかったとき。
規律と人間の身体がぶつかったとき。
その交差点で、何を優先し、何を例外とし、何を設計し直すのか。
そこに、その会社の知性が出る。
その会社の人格が出る。
その会社の哲学が出る。
理念がある会社は多い。
だが、理念同士の衝突を調停できる会社は少ない。
そして本当に強い会社とは、ルールを増やせる会社ではなく、ルール同士を整序できる会社なのだと思う。
おわりに
現場を苦しめるのは、必ずしも悪意ではない。
むしろ善意のほうが、人を深く追い詰めることがある。
安全のため。
秩序のため。
省エネのため。
休憩のため。
効率のため。
そのすべてが正しい言葉であるほど、現場は反論しにくい。
だが、全部正しいのに全部守れないなら、先に疑うべきは現場ではない。
ルール体系のほうである。
正しさの不足が問題なのではない。
正しさ同士の交通整理不足が問題なのだ。
会社に本当に必要なのは、ルールを作ることだけではない。
ルールが交差したときに、人を潰さずに回る形へ組み替えることである。
その仕事がなければ、どれほど立派な理念も、最後には作業者の身体にしわ寄せされる。
そしてその時、壊れているのは現場ではない。
会社の思想そのものなのだ。
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