企業哲学は、会社の言葉ではなく、会社の組み方に現れる
副題
理念はスローガンではなく、事業構造の設計思想である
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『理念がある会社と理念が機能している会社は まったく別物である』
はじめに
以前の記事で、私はこう書いた。
理念がある会社と
理念が機能している会社は
まったく別物である
この視点は、今でも正しいと思っている。
だが、最近あらためて考えていて気づいたことがある。
企業哲学は、理念文や社是や行動指針だけに現れるのではない。
もっと手前にある。
会社が何を自前で持ち
何を外と組み
何を分け
何を共有するのか
その組み方そのものに現れる。
つまり企業哲学とは、仕事への考え方の表明であるだけではなく、事業構造の設計思想でもある。
ここを見落とすと、企業哲学を美しい文章の話としてだけ読んでしまう。
しかし本当は違う。
会社は文章より先に、構造で思想を語っている。
なぜメルセデスという名は、高級乗用車だけに閉じなかったのか
たとえば、メルセデスベンツという名前を聞くと、多くの人は高級乗用車を思い浮かべる。
ただし、メルセデスという名前の歴史をたどると、そこには乗用車だけでなく、トラックやバスといった商用車の系譜もある。
連節バスの Citaro のような車両もそうだ。
ここで面白いのは、なぜ高級車ブランドの顔を持ちながら、商用車も作るのかという問いである。
普通に考えれば、高級車だけを作ったほうがブランドはきれいに見える。
世界観も揃いやすい。
高価格帯に集中したほうが、見た目としては筋が通っているようにも見える。
それでもそうしない。
なぜか。
それは、その企業が売っているものが単なる高級感ではないからだ。
移動そのものを支える機械産業として、自分を捉えてきたからだと思う。
ここには一つの哲学がある。
欲望の乗り物だけではなく
社会を回す乗り物も作る
見栄えだけではなく
基盤も引き受ける
つまり、象徴資本だけでなく、社会インフラにも関与するという姿勢である。
企業哲学というと、多くの人は顧客第一とか品質第一のような言葉を想像する。
だが、それ以前に、その企業が自分を何屋だと思っているのかという自己定義がある。
高級ブランド屋なのか
総合輸送機械メーカーなのか
社会を支える移動産業なのか
その自己定義の違いが、事業の広がり方に出る。
トヨタはなぜ全部を単独で抱え込まないのか
一方で、日本企業を見ると別の形が見える。
トヨタは巨大企業だ。
技術も資本もある。
それでも、商用車の世界では日野やいすゞと組み、場合によっては他社と車台や基盤を共有する。
全部を自分の名前だけで抱え込む方向には必ずしも進まない。
ここにもまた哲学がある。
強さとは、全てを自前で持つことではない
どこを自前で持ち
どこを共有し
どこを任せるかを設計することである
これは、見方によっては自前主義の弱さに見えるかもしれない。
だが別の見方をすれば、全体最適のために自社の輪郭をあえて曖昧にできる強さでもある。
つまり、企業哲学は所有の哲学でもある。
何でも持つのか
必要なものだけを持つのか
持たない代わりに連携を組むのか
ブランドの純度を守るのか
産業全体の効率を優先するのか
こういう問いに対する答えが、そのまま企業構造になる。
商用車の世界では、電動化、自動運転、物流課題、環境対応が重なり、一社だけで全てを抱え込むことの限界が強まっている。
だからこそ、提携や統合は単なる妥協ではなく、産業を持続させるための構造設計でもある。
理念が機能している会社は、組み方にも一貫性がある
以前の記事で私は、理念が機能している会社は、理念に反する利益を断れる会社だと書いた。
これは今でも核心だと思う。
だが、今回そこにもう一つ付け加えたい。
理念が機能している会社は、事業の組み方にも価値基準が通っている会社である。
たとえば、品質を本気で重視する会社なら、どの工程を社内に残し、どこを外に出し、どこまで標準化し、どこから個別最適を許すかに思想が出る。
顧客との距離を大事にする会社なら、販売網やサービス網の持ち方に出る。
現場の安全や継続性を大事にする会社なら、調達や下請けへの圧力のかけ方に出る。
つまり理念は、会議室の額縁の中にあるのではない。
サプライチェーンや資本関係や共同開発や品質基準の中に沈殿している。
ここが重要だと思う。
会社の本音は、不具合対応に出る。
そして会社の本気は、組織設計に出る。
言葉では誠実と言っていても、構造が不誠実なら、そちらが本体である。
逆に、言葉が少なくても、構造のほうに一貫した基準があれば、その会社はまだ生きた哲学を持っている。
日本企業はなぜ中身を共有しやすいのか
日本企業を見ていると、ブランドが別でも中身を共有することが比較的受け入れられているように見える。
ここには歴史的な背景もあるだろう。
系列
提携
相互補完
長期取引
共同開発
こうした発想が、単体企業の純度よりも、企業群全体の安定と継続を重視してきた。
要するに、日本企業は会社を孤立した人格としてよりも、関係の束として強くしてきた側面がある。
もちろん、それがいつも美しいとは限らない。
責任の所在が曖昧になることもある。
ぬるさや依存に流れることもある。
しかし少なくとも、強さの定義が最初から少し違う。
全部自分でやることが強さではない。
必要な他者と長くつながり続けることが強さである。
この感覚は、日本の企業哲学の深いところにある気がする。
欧州企業はなぜブランドの独立性が強く見えるのか
それに対して欧州企業は、たとえ中身を共有していても、表ではブランドの独立性を強く保ちたがるように見える。
これは単なる見栄ではない。
ブランドごとの歴史
地域性
階級性
文化的な物語
そうしたものが強く宿っているからだと思う。
つまり、骨格を共有していても、人格は分けておきたいのである。
ここで見えてくるのは、日本と欧州の優劣ではなく、思想の焦点の違いだ。
日本は
関係の秩序を重く見る
欧州は
人格の差異を重く見る
だから日本では、中身の共有が比較的合理として理解されやすい。
欧州では、中身を共有しても顔は別であり続けることが重要になる。
この違いは、企業哲学が何を守ろうとしているかの違いでもある。
日本は、連携の秩序を守る。
欧州は、ブランドの物語を守る。
どちらも一種の哲学だが、守ろうとしているものが異なる。
企業哲学とは、何を譲れて何を譲れないかの設計である
ここまで考えてくると、企業哲学とはずいぶん広いものだと分かる。
顧客第一
品質第一
人を大切にする
そういう言葉ももちろん大事だ。
だが、それだけでは足りない。
企業哲学とは、その会社が何を譲れて、何を譲れないかを決める設計思想である。
自社ブランドの純度は譲れないのか
産業全体の効率のためなら共同化は譲れるのか
短期利益のために品質を揺るがせるのか
現場を守るためなら速度を落とせるのか
理念を守るために例外を断れるのか
こうした問いに対して、文章ではなく構造で答えている会社こそ、企業哲学を持っている会社だと思う。
だから私は、理念文を見る時も、そのままは信じない。
その理念が、どの会議で使われているのかを見る。
どの評価制度に落ちているのかを見る。
どんな提携の仕方をしているのかを見る。
どこを共有し、どこを死守しているのかを見る。
そこまで見て、初めてその会社の哲学が見えてくる。
企業哲学は、言葉より先に構造に宿る
以前の記事では、理念がある会社と理念が機能している会社は別だと書いた。
今ならそこに続けて、こう書ける。
企業哲学は、言葉を持っていることではない。
その言葉に沿って会社を組めているかどうかである。
品質第一と言いながら、品質が負ける構造を放置していないか。
人を大切にすると言いながら、人柱で回る設計になっていないか。
誠実と言いながら、不都合を見えにくくする情報の流れを作っていないか。
そして逆に、
共同化するなら何のために共同化するのか。
独立を守るなら何のために独立を守るのか。
ブランドを守るのか。
現場を守るのか。
社会基盤を守るのか。
利益率を守るのか。
その答えが、会社の正体になる。
企業哲学とは、言葉の所有ではない。
判断の骨組みであり、構造の癖であり、痛みを伴う時になお選び続ける線である。
だから結局、企業哲学を見るとは、会社のスローガンを読むことではない。
その会社が、どんな損を引き受けて、どんな形で自分を組み立てているかを見ることなのだと思う。
追記
理念が機能している会社は、正しいことを言える会社ではない。
正しいと思ったことに合わせて、自分の構造を変えられる会社である。
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