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理念は、自分の設計を裁けるか

副題

「本物」と「平等」という言葉が、看板になってしまうとき


はじめに


大きな言葉ほど、使うのは簡単だ。

本物。
自然。
教育。
平等。
公平。
多様性。
配慮。
正義。

どれも、それ自体は悪い言葉ではない。

むしろ、人が何かを考えるとき、必要になる言葉でもある。

けれど、大きな言葉には危うさがある。

それは、その言葉を使った瞬間に、語っている本人が正しい側に立ったように見えてしまうことだ。

「今の子は本物を知らない」

そう言えば、語り手は本物を知っている側に立つ。

「男女平等を考える」

そう言えば、主催者は平等を考えている側に立つ。

けれど、本当に問われるべきなのはそこではない。

本物とは何なのか。
平等とは何なのか。
その言葉を使っている自分自身は、その言葉に耐えられているのか。

理念とは、他者を裁くための言葉ではない。

本来は、自分の設計をも裁くための言葉である。

第1章

本物とは、昔にあったものなのか


ある教育論の中で、こんな言い方がある。

今の子どもは本物を知らない。
自然体験が圧倒的に不足している。
耳をつんざく蝉時雨を浴びたことがない。
へっこきむしに屁をかけられたことがない。
満天の星に言葉を失ったことがない。
落葉の布団で寝たことがない。

たしかに、それらは豊かな体験だと思う。

蝉時雨には、音というより圧がある。
満天の星には、人間の小ささを思い知らせる沈黙がある。
虫の匂いも、土の湿り気も、落葉の感触も、身体に残る。

そういう経験が、人間の感受性を育てることはある。

だが、ここで問題になるのは、自然体験の価値そのものではない。

問題は、それを「本物」と呼んでしまうことだ。

蝉時雨は本物なのか。
満天の星は本物なのか。
落葉の布団は本物なのか。

もちろん、本物だと言うことはできる。

けれど、それなら別の世代にとっての本物は何だったのか。

槍を持って野生動物を狩ること。
鍬を持って田んぼを一面耕すこと。
井戸水を汲むこと。
薪を割ること。
山を越えること。
家畜を世話すること。
飢えを知ること。
病人を家で看取ること。
戦争に巻き込まれること。

そのさらに前にも、また別の本物がある。

つまり、どの世代も、前の世代から見れば「本物を知らない子ども」になっている。

ここで見えてくるのは、本物とは時代の側に固定されているものではないということだ。

本物とは、本人が経験したものの中に立ち上がる。

蝉時雨が本物なのではない。
蝉時雨を浴びて、身体が圧倒された経験が本物になる。

満天の星が本物なのではない。
満天の星を見て、言葉を失った経験が本物になる。

自然が本物なのではない。
自然に触れたとき、自分の都合では処理できないものに出会った経験が本物になる。

だから、現代の子どもにも現代の本物がある。

初めてSNSで言葉が刺さった経験。
ゲームの中で誰かと協力した経験。
家庭でも学校でもない場所で救われた経験。
深夜のコンビニで孤独を知った経験。
スマホ越しにしか繋がれなかったけれど、それでも確かに支えられた経験。

大人から見れば薄いものでも、本人の身体と記憶を通過していれば、それは本人にとって本物になる。

本物とは、昔にあったものではない。

本人の世界の見え方を変えた経験のことである。


第2章

大きな言葉は、定義されないまま人を裁く


「本物を知らない」という言葉が危ういのは、語り手の経験を基準にして、他者の経験を劣ったものとして扱いやすいからだ。

これは、世代論でよく起こる。

自分たちの時代にはあった。
今の子にはない。
だから今の子は弱い。
だから今の子は薄い。
だから今の子は本物を知らない。

だが、それは本当に教育論なのか。

それとも、自分の原体験を失われた正しさとして保存したいだけなのか。

ここで「本物」という言葉は、もはや経験を説明する言葉ではなくなっている。

他者を裁く看板になっている。

大きな言葉は、定義しないまま使うと危険だ。

なぜなら、その言葉の中に、自分の懐かしさ、自分の不満、自分の優越感、自分の世代感覚が混ざるからだ。

そして混ざったものが、あたかも普遍的な真理であるかのように語られてしまう。

本物という言葉を使うなら、本物とは何かを問われなければならない。

平等という言葉を使うなら、平等とは何かを問われなければならない。

問いに耐えない言葉は、理念ではない。

看板である。

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第3章

男女平等の入り口で、男女差がつけられる


同じ構造は、男女平等の場にも現れる。

たとえば、「男女平等を考えるフォーラム」と掲げられた場で、参加費が男性4200円、女性3600円に分かれている。

一見すると、単純な矛盾に見える。

男女平等を考える場なのに、なぜ男女で料金が違うのか。

もちろん、主催者側には何らかの理屈があるのかもしれない。

女性の参加を促したい。
女性の方が平均所得が低い。
女性の社会的負担を考慮したい。
過去の不均衡を補正したい。
女性が参加しやすい場にしたい。

そういう説明は可能だ。

だが、その場合に語っているのは、厳密には「平等」ではない。

それは公平であり、補正であり、配慮であり、参加促進である。

平等とは、同じに扱うことなのか。
公平とは、違いを考慮して調整することなのか。
補正とは、過去や現在の不均衡を埋めることなのか。
優遇とは、特定の属性に有利な条件を与えることなのか。

これらは似ているが、同じではない。

にもかかわらず、これらを全部まとめて「平等」と呼んでしまうと、言葉が濁る。

そして言葉が濁ると、制度の矛盾も見えにくくなる。

本当に所得差を理由にするなら、性別ではなく所得で参加費を調整すればいい。

低所得者。
学生。
失業中。
非正規。
年金生活者。
余裕のある人。
寄付上乗せできる人。

こうした区分の方が、経済的負担への配慮としては直接的である。

それをせずに男女で分けるなら、性別を所得差の代理変数として使っていることになる。

だが代理変数を使えば、必ずズレが出る。

高所得の女性は安くなる。
低所得の男性は高くなる。
裕福な女性経営者も安くなる。
非正規の男性も高くなる。
年金生活の男性も高くなる。

つまり、本当に困っている人を見るのではなく、属性で一括処理している。

ここに開催者側の都合が混ざる。

所得で調整すると確認が面倒になる。
自己申告制にすると不公平感が出る。
証明書を求めると参加のハードルが上がる。
細かく設計すると運営コストが増える。

だから、見た目にわかりやすい「男女」で分ける。

だが、それをやった瞬間に、男女平等という看板と衝突する。


第4章

参加してほしい相手は誰なのか


さらに問題は、料金差だけではない。

男女平等の話に、男性はそれほど強い関心を持たないことが多い。

なぜなら、日本社会は差が縮まったとはいえ、依然として男性優位の構造を残しているからだ。

人は、自分が困っていない構造には鈍くなる。

不利益を受けている側は、その問題に気づきやすい。
不利益を受けていない側は、その問題に気づきにくい。

これは悪意だけの問題ではない。

構造の中で楽をしている側は、その楽さを構造として感じにくい。

空気のように享受しているものは、意識に上がりにくい。

だから、男女平等を考える場に女性が集まりやすいのは自然である。

一方で、男性はわざわざ金を払ってまで参加しようとは思いにくい。

その場が自分にとって利益になるとは限らない。
自分が責められる場に見えるかもしれない。
加害構造側として扱われるかもしれない。
何かを反省させられる場に見えるかもしれない。
発言すれば怒られそうな場に見えるかもしれない。

だとすれば、本当に参加者比率を50対50に近づけたいなら、戦略は逆になる。

女性の料金を下げるのではなく、男性の参加障壁を下げる必要がある。

男性の料金を安くする。
男性も語れる設計にする。
責任追及ではなく構造理解に向かう。
男性を敵ではなく当事者として場に入れる。
無関心な側が参加しても、ただ裁かれるだけではない空気を作る。

男女平等を実現したいなら、女性だけが熱心に語っても足りない。

男性優位の構造を変えるには、男性側の無関心をどう動かすかが重要になる。

にもかかわらず、男性料金を高くするなら、その設計は本当に男女比を近づけたいものなのか疑わしくなる。

むしろ実態としては、女性を中心に集めたい場なのかもしれない。
女性の問題意識を共有する場なのかもしれない。
男性は来てもいいが、主対象ではない場なのかもしれない。

それならそれで構わない。

ただ、その場合は「男女平等を考えるフォーラム」という看板とはズレる。

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第5章

正義には、主催者の都合が混ざる


ここで大事なのは、誰かを悪者にすることではない。

女性が主催しているから悪い。
男性が文句を言うから悪い。
女性優遇だから悪い。
男性が無関心だから悪い。

そういう話ではない。

問題は、正義を掲げた制度の中に、主催者の都合が混ざることだ。

これは男女問題に限らない。

教育でも起こる。
福祉でも起こる。
行政でも起こる。
職場でも起こる。
社会運動でも起こる。

「弱者のため」と言いながら、実は管理しやすい分類を使う。
「公平のため」と言いながら、実は説明しやすい属性で処理する。
「平等のため」と言いながら、実は自分たちの支持層を集めている。
「本物を伝える」と言いながら、実は自分の世代の原体験を保存している。

人は、自分の立場から見える不利益には敏感である。

だが、自分の立場が作る不公平には鈍くなる。

だからこそ、理念を掲げる人間ほど、自分の設計を疑わなければならない。

自分たちは誰を見ているのか。
誰を見落としているのか。
誰に届かせたいのか。
誰を遠ざけているのか。
その差は何を補正しているのか。
その配慮は本当に必要な人に届いているのか。
その言葉は、自分たちの都合を美しく言い換えていないか。

ここを問わない正義は、簡単に看板になる。

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第6章

届かせるべき相手を遠ざける運動


社会を変えようとする運動には、ひとつの矛盾がある。

それは、問題意識を持つ人ほど集まりやすく、問題意識を持っていない人ほど遠ざかるということだ。

環境問題に関心のある人が、環境問題のイベントに集まる。
教育問題に関心のある人が、教育問題の講演に集まる。
男女平等に関心のある人が、男女平等のフォーラムに集まる。

それ自体は自然である。

だが、それだけでは構造は変わらない。

本当に変えなければならないのは、関心のない人の感覚であり、まだ困っていない人の無自覚であり、優位にいる人の普通である。

つまり、社会運動にとって難しいのは、仲間を集めることではない。

届かせるべき相手を、どう場に入れるかである。

正しいことを言うだけなら、同じ問題意識を持つ人には届く。

だが、正しいことを正しいまま語るだけでは、抵抗のある人には届かない。

届かないどころか、さらに遠ざけることもある。

「あなたは加害構造側だ」
「あなたは特権に無自覚だ」
「あなたはわかっていない」
「あなたの違和感こそ問題だ」

これらは、内容として正しい場合もある。

しかし、それを入り口で突きつけられた人は、その場に留まれるだろうか。

自分を裁くための場に、人は金を払って参加しない。

だから、社会を変えたいなら、正しさだけでは足りない。

導線がいる。
翻訳がいる。
場の設計がいる。
逃げ道がいる。
話せる余白がいる。
防衛反応を起こさせない入口がいる。

ここを設計しない運動は、やがて自己確認の場になる。

自分たちは正しい。
相手はわかっていない。
だからもっと強く言わなければならない。

そうして、届かせるべき相手ほど遠ざかっていく。

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終章

理念とは、自分をも裁く言葉である


本物という言葉は、便利である。

だが、本物と言った瞬間に問われる。

それは本当に本物なのか。
それとも、自分の世代の経験を本物と呼んでいるだけなのか。

平等という言葉も、便利である。

だが、平等と言った瞬間に問われる。

それは本当に平等なのか。
公平なのか。
補正なのか。
優遇なのか。
参加促進なのか。
それとも、自分たちに都合のいい差を平等と呼んでいるだけなのか。

理念は、他者を裁くための刃ではない。

自分の手元を照らす光でもある。

その光に、自分の設計を晒せるか。

そこに、その理念の誠実さが出る。

本物を語るなら、自分の経験だけを本物にしてはならない。

平等を語るなら、自分に都合のいい不平等を見逃してはならない。

配慮を語るなら、本当に困っている人を見なければならない。

参加促進を語るなら、来てほしい相手に届く導線を設計しなければならない。

正義を語るなら、正義の中に混ざった自分の都合を疑わなければならない。

理念とは、掲げるものではない。

掲げた瞬間から、自分自身がその理念に問われ続けるものだ。

だから、最後に残る問いはひとつである。

その理念は、自分の設計を裁けるか。


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