平等と距離――織姫と彦星の社会構造
副題
同じになることではなく、異なるまま橋をかけるために
はじめに
最近、ふと気になった。
平等とは、本当に「同じになること」なのだろうか。
もちろん、平等が悪いわけではない。
法の前で平等であること。
不当な差別を受けないこと。
性別や出自によって、あらかじめ可能性を閉ざされないこと。
これらは、人が共に生きるために欠かせない。
けれど、すべての違いを消し、すべてを同じ条件へ揃えることが、本当に人間関係の豊かさにつながるのだろうか。
性差に由来する身体的な違いも、個人ごとの能力や性格の違いも、置かれてきた環境の違いも、すべて無視することが平等なのだろうか。
男尊女卑や亭主関白を肯定したいわけではない。
過去の不平等な制度へ戻ろうという話でもない。
もっと静かな次元の話だ。
私たちはいつの間にか、
「平等であること」と
「同じであること」を、
混同しているのではないか。
1.平等の裏にある違和感
「平等」という言葉には、安心感がある。
誰かだけが不当に扱われない。
誰かだけが排除されない。
誰もが同じ人間として尊重される。
それは正しい。
けれど、その平等が、違いそのものを語れなくする方向へ進んだとき、そこには別の息苦しさが生まれる。
違いについて語れば、差別だと思われる。
性差について触れれば、役割の固定化だと疑われる。
相手への配慮さえ、場合によっては特別扱いだと見なされる。
その結果、私たちは違いを尊重するのではなく、違いが存在しないかのように振る舞い始める。
しかし、違いを見ないことと、違いによって人を差別しないことは同じではない。
人は、それぞれ異なる場所に立っている。
身体も違う。
経験も違う。
得意なことも違う。
負いやすい負担も違う。
求めている距離も違う。
平等とは、全員を同じ場所へ立たせることではない。
異なる場所に立つ者同士が、どちらかを低い場所へ押し込めることなく、向き合える状態を作ることなのだと思う。
2.差別ではなく、区別するということ
私は、必要なのは差別ではなく区別なのだと考えている。
差別とは、違いを理由に、人の価値や権利に上下をつけることである。
一方、区別とは、違いが存在することを認識し、それに応じた関わり方を考えることである。
男女の身体には、平均的な傾向として違いがある。
妊娠や出産のように、明確に非対称な負担も存在する。
筋力や疾病リスク、社会的に受けやすい圧力にも、一定の差が現れることがある。
しかし、その差は、すべての男性や女性を一つの型へ押し込める根拠にはならない。
男性だからこうあるべきだ。
女性だからこう生きるべきだ。
そう決めつけることは、差異の尊重ではなく、差異を利用した拘束である。
性差があるという事実と、性別によって役割を固定することは別の問題だ。
法的・社会的な権利は平等であるべきだ。
機会は、性別によって閉ざされるべきではない。
同時に、身体的条件や個々の事情が異なるなら、必要な配慮まで同一である必要はない。
同じものを与えることが平等とは限らない。
異なる条件に応じて、必要なものを調整することもまた、公平の一部である。
ここで重要なのは、差異そのものを埋めることではない。
埋めるべきなのは、差異によって生まれた断絶である。
差を消すのではなく、そのあいだに橋をかける。
互いを同じ形へ削るのではなく、異なる形のまま接続できる方法を探す。
平等とは、誰かが得をしたから不公平だと足を引っ張り合うことではない。
誰かの生きやすさが、別の誰かの生きにくさを必ず意味するわけでもない。
互いの違いを利用し合うのではなく、互いの違いを補いながら、共に高まっていくための構造であるはずだ。
3.平等が距離を生むという矛盾
それでも最近、社会が平等になるほど、人と人の距離は遠くなっているように感じることがある。
とりわけ男女の関係では、相手へ踏み込むこと自体が難しくなった。
「これはセクハラになるだろうか」
「ジェンダー的に問題があるだろうか」
「立場を利用したと思われないだろうか」
「相手は本当に嫌がっていないだろうか」
こうした警戒は、不要なものではない。
かつて見過ごされてきた暴力や強制を防ぐために必要な感覚でもある。
しかし、警戒が強くなりすぎれば、人は相手を傷つけないために、最初から誰にも近づかないことを選ぶ。
正しさが、関係を守るためのものではなく、関係を始めないための防壁になる。
その結果、誰もが自由であるはずなのに、その自由を使って他者へ近づく方法が分からなくなる。
誰にも支配されない。
誰にも役割を強制されない。
けれど同時に、誰からも必要とされず、誰にも踏み込まれない。
自由と孤独が、同じ場所に立ち現れる。
ただし、正確に言えば、平等そのものが人を遠ざけたわけではない。
かつて人と人を接触させていた古い構造が解体されたあと、それに代わる新しい接続方法が、まだ十分に作られていないのだ。
4.距離は、安心にも罰にもなる
ここでいうコンプライアンスとは、狭い意味での法令遵守だけではない。
ハラスメント防止や組織のリスク管理、問題を避けるために個人が内面化した自主規制までを含んでいる。
社会が人と人とのあいだに置く距離には、二つの顔がある。
一つは、安心としての距離である。
立場の強い者が、弱い者へ一方的に踏み込まない。
断ったことで、不利益を受けない。
望まない好意や接触を、仕方のないものとして受け入れなくてよい。
コンプライアンスが作る境界は、これまで個人の我慢に委ねられてきた問題を、社会の責任として引き受けるためにある。
その意味で、距離は人を守る。
誰かに近づかれたくない人にとって、社会が保障する距離は、自由であり、安心である。
しかし、同じ距離が、すべての人に同じ意味を持つわけではない。
誰にも踏み込まれないことは、誰からも関心を向けられないことにもなりうる。
誰にも好意を押しつけられないことは、誰も好意を示さなくなることにもつながる。
社会が安全のために設けた距離が、互いに近づきたい者同士にまで一律に適用されたとき、保護は隔離へ変わる。
多くの人にとっては安心であっても、一部の人にとっては罰になる。
ここで問題なのは、コンプライアンスが間違っているということではない。
社会制度は、目の前にいる二人が、互いに何を望んでいるのかまでは知ることができない。
だから社会は、個別の関係ではなく、起こりうる危険を基準に距離を設定する。
制度は、誰かが傷つく可能性を減らすために、あらかじめ広めの間隔を取る。
それは合理的である。
しかし、その合理性は、当事者にとっての幸福と常に一致するわけではない。
社会にとっては安全でも、個人にとっては孤独であることがある。
社会にとっては保護でも、当事者にとっては、身に覚えのない罰になることがある。
距離そのものが、安心なのでも、罰なのでもない。
誰がその距離を望んでいるのか。
誰がその距離を決めたのか。
当事者が、自らの意思で縮めたり広げたりできるのか。
それによって、距離の意味は反転する。
コンプライアンスとは、本来、誰も近づけなくするための壁ではない。
近づく行為が、支配や強制へ変わらないようにするための境界であるはずだ。
社会が保障すべきなのは、永遠に離れていなければならないという距離ではない。
近づかれたくない者が拒否できること。
拒まれた者が、それ以上踏み込まないこと。
そして、互いに望んでいる場合には、自分たちで距離を調整できることである。
安心のために距離は必要である。
しかし、距離を縮める可能性まで失われたとき、その安心は罰へと変わり始める。
5.失われた接触構造
かつての社会には、人と人を半ば強制的に接触させる構造があった。
地域共同体。
親族関係。
職場。
近所付き合い。
見合い。
性別によって割り振られた役割。
それらの中には、明らかに理不尽なものも多かった。
本人の意思を無視した結婚もあった。
家族や地域から逃げられない圧力もあった。
女性や若者が従属させられる構造もあった。
だから、それらをそのまま肯定することはできない。
しかし、そうした制度には、人と人を出会わせ、関係を始めさせる機能も含まれていた。
不平等な制度が、接触の通路まで兼ねていたのである。
私たちは、不平等な部分を解体した。
それ自体は必要だった。
ところが、その制度が担っていた接続機能まで同時に失われた。
足りなくなったのは、不平等ではない。
不平等な制度に代わって、人を結び直す橋である。
現代では、出会いそのものがアプリやサービスによって制度化されつつある。
それによって結婚した夫婦もいるし、これまで出会えなかった者同士が出会えるようになったという利点もある。
しかし、出会いが明示的な目的を持つ場所へ集約されるほど、日常の中の偶然の接触は減っていく。
誰かを好きになる前に、条件を選ぶ。
話してみる前に、プロフィールを読む。
関係が始まる前から、互いが評価の対象になる。
偶然に出会い、少しずつ相手を知り、いつの間にか関係が変化していたという過程が、最初から選択と審査の構造へ置き換えられる。
すべてが整い、配慮され、効率化された結果、偶然さえも制度の中で管理される。
人は自由になった。
しかし、自由な者同士が、どう出会い、どう近づき、どう関係を始めるのかについては、まだ十分な作法を持っていない。
6.人はいるのに、出会えない
街を歩けば、人には出会う。
買い物をすれば、会話も生まれる。
電車に乗れば、何百人もの人と同じ空間を共有する。
けれど、そのほとんどの人とは、人生で深く関わることはない。
それは多くの場合、救いでもある。
人は、出会うすべての他者と関係を結びたいわけではない。
知らない者同士が、互いに干渉せずにすれ違えることも、都市の自由の一部である。
しかし、問題は、互いに多少の興味を持った場合でも、同じことが起きる可能性があることだ。
相手が話しかけてほしいのか分からない。
自分が近づいてよいのか分からない。
互いに関心があっても、それを示す信号が存在しない。
街には人がいる。
だが、誰が関係を求めているのかは見えない。
現代の出会いのサービスは、それまで目に見えなかった「他者と関わりたい」という需要を可視化したものなのかもしれない。
同時にそれは、日常空間の中では、接続意思がほとんど見えなくなったことの裏返しでもある。
私たちに足りないのは、人の数ではない。
互いに近づいてよいことを示す信号であり、関係を始めるための通路である。
つまり、人ではなく橋が足りない。
7.適切な距離は、事前にはわからない
人と人との距離は、関係が始まる前に測り終えられるものではない。
ここには、さらに難しい問題がある。
ある人との距離が安心になるのか、それとも罰になるのかは、関係が始まる前には完全には分からない。
話しかけられたくない人もいる。
一方で、話しかけられることを待っている人もいる。
最初は警戒していても、少し話すことで安心する人もいる。
反対に、最初は好意的に見えても、関係を続けるうちに負担を感じる人もいる。
人間関係の適切な距離は、相手の属性や立場だけから機械的に決められるものではない。
同じ言葉でも、誰が、どのような状況で、どのような関係の相手に言うかによって意味が変わる。
同じ接近でも、歓迎されることもあれば、侵入になることもある。
その違いを知るためには、少し関係してみる必要がある。
話しかける。
反応を見る。
一歩近づく。
相手が戸惑えば、少し退く。
相手も近づいてくるなら、もう少し言葉を交わす。
関係は、このような小さな往復の中で作られる。
最初から正しい距離が決まっていて、その位置へ立てば関係が成立するわけではない。
関係しながら、互いに距離を測る。
距離を測りながら、関係そのものが形を持ち始める。
だから、ここには矛盾がある。
適切な距離を知るためには、少し関係しなければならない。
しかし、失敗を完全に避けようとして接触そのものを禁止すれば、その人との適切な距離を知る機会も失われる。
安心か罰かを判定するために必要な接触が、安心を守るという理由で、あらかじめ封じられてしまうのである。
もちろん、これは拒否の意思が明らかな相手に、試しに近づいてよいという話ではない。
一度拒まれた後も接近を続けることと、相手の意思を確かめるために、負担の少ない形で最初の一歩を差し出すことは違う。
区別すべきなのは、接近と侵害である。
近づくこと自体が侵害なのではない。
相手の反応を無視し、退くべきときに退かないことが侵害になる。
社会が禁じるべきなのは、関係を始めようとすることではなく、相手の意思を無視して関係を強制することだろう。
人間関係には、事前に完全な安全を保証できない部分が残る。
少しの誤解も、少しの気まずさも、少しの拒絶も起こりうる。
それでも人は、その不確実さの中でしか、相手が自分にとって何者になるのかを知ることができない。
人間関係とは、関係する前に結果が分かるものではない。
関係することによって、初めて意味が生まれるものなのである。
8.失敗を奪われた世代
人と人との適切な距離は、本来、社会から完成品として与えられるものではない。
それは、個人が関係の中で学んでいくものだった。
少し近づきすぎる。
相手の反応が曇る。
そこで一歩退く。
言い方を間違える。
相手を不快にさせたことに気づく。
謝り、言葉を変え、もう一度関係を作り直す。
人は、そのような小さな失敗と修正を重ねながら、他者との距離を身体で覚えてきた。
距離感とは、規則を暗記することではない。
相手ごとに異なる反応を受け取り、自分の行動を調整する能力である。
どこまで近づいてよいのか。
どこで退くべきなのか。
拒絶されたとき、相手を責めずに引き下がれるか。
自分が間違えたとき、言い訳せずに謝れるか。
関係が少し壊れたとき、すぐに切り捨てず、修復することができるか。
そうした能力は、説明を聞くだけでは身につかない。
実際の関係の中で、間違え、反応を受け取り、修正することによって学ばれる。
ところが、社会があらかじめ安全な距離を決め、その距離を越えること自体を危険視するようになると、人は失敗を避けることはできても、失敗から学ぶことができなくなる。
誤解されるかもしれないから、何も言わない。
嫌がられるかもしれないから、近づかない。
拒絶されるかもしれないから、好意を示さない。
問題になる可能性があるなら、最初から関係を始めない。
そうして、人間関係における試行錯誤の機会が失われていく。
社会は、大きな傷を生む失敗を減らそうとした。
それは必要なことである。
誰かの身体や尊厳を傷つけることを、経験や学習という言葉で正当化することはできない。
他者は、誰かが人間関係を学ぶためだけの教材ではない。
しかし同時に、すべての気まずさや誤解や拒絶まで排除すれば、人は関係を調整する方法を学べなくなる。
必要なのは、失敗を全面的に肯定することでも、全面的に禁止することでもない。
取り返しのつかない侵害と、修正可能な失敗を区別することだ。
断られても接近し続けることは、失敗ではなく侵害に近づく。
一度言葉を誤り、相手の反応に気づいて謝ることは、修正可能な失敗である。
立場を利用して断れない状況を作ることは、試行錯誤ではない。
対等な立場で、相手が拒否できる余地を残して声をかけることは、関係の始まりになりうる。
この区別が曖昧なまま、すべての接触を危険として扱えば、出来上がるのは、コンプライアンスをよく知る世代であっても、人間関係の構築方法を十分に学んだ世代とは限らない。
規則には従える。
けれど、規則に書かれていない場面で、どう振る舞えばよいのか分からない。
相手の反応をどう読めばよいのか分からない。
拒絶をどう受け止めればよいのか分からない。
謝罪や修復の仕方も分からない。
その結果、人との距離を極端に遠く保つか、逆に一気に詰めすぎるかという二択になりやすい。
少し近づき、反応を見て調整するという中間の技術を学ぶ機会が乏しいからである。
これは、若い世代の人間性が劣っているという話ではない。
学習環境が変わったという話である。
かつての地域、学校、職場、親族関係には、逃げにくさと窮屈さがあった。
そこには明確な弊害があった。
しかし同時に、関係をすぐに切らず、ずれを調整しながら共存する訓練の場でもあった。
現代では、嫌な関係から離れやすくなった。
それは前進である。
だが、離れる自由が増えた一方で、壊れかけた関係を修復する技術は、自然には身につきにくくなった。
コンプライアンスが教えられるのは、越えてはならない最低限の境界までである。
その境界の手前で、どのように声をかけるのか。
相手の反応を、どのように受け取るのか。
どこまで近づき、どこで退くのか。
一度ずれた距離を、どのように戻すのか。
そこまでは、制度だけでは教えられない。
社会が、安全の名のもとに人間関係の距離を細かく先回りして決めるほど、個人は安全な場所に置かれるかもしれない。
しかし同時に、自ら距離を測る能力を育てる機会も失う。
守られたまま、関係を作れない。
傷つけない代わりに、近づき方も分からない。
そうした世代が出来上がる可能性はある。
人に必要なのは、自由に誰かを傷つける権利ではない。
小さく間違え、反応を受け取り、退き、謝り、やり直すことのできる余地である。
私たちが失いつつあるのは、人と関わる機会だけではない。
人との関わり方を、失敗の中から学ぶ機会なのかもしれない。
9.平等とは、距離を設計することである
ここで、法や制度における平等と人間関係における対等性を区別して考えたい。
法的な平等は、誰も不当に支配されないための最低線を定める。
しかし、人間関係における平等は、その最低線を共有するだけでは完成しない。
異なる者同士が、互いの意思を確かめながら、自分たちの距離を調整できる必要がある。
だから私は、関係における平等とは、距離の設計なのだと思う。
近づきすぎれば、相手の領域を侵す。
遠ざかりすぎれば、関係そのものが成立しない。
相手を尊重するとは、ただ放置することではない。
相手の意思を無視して踏み込むことでもない。
近づいてよいかを確かめながら、一歩を差し出すこと。
拒まれたときには退くこと。
受け入れられたときには、相手にも渡れるような橋を残すこと。
関係とは、最初から安全に完成しているものではない。
互いの距離を測り、少しずつ調整しながら作られていく。
その橋が壊れるかもしれないから、人は言葉を選ぶ。
相手が落ちるかもしれないから、手を伸ばす。
自分だけが渡ろうとせず、相手の足場も確認する。
そこに倫理が生まれる。
そこに思いやりが生まれる。
そして、ときに愛が生まれる。
もし、すべての差が消え、すべての距離がなくなり、相手の立場を考える必要さえなくなったとしたら、それは本当に理想的な世界なのだろうか。
距離がまったくなければ、相手という存在もまた消えてしまう。
相手とは、自分とは異なる場所にいるからこそ、相手なのである。
10.織姫と彦星に与えられた距離
織姫と彦星は、社会から距離を与えられた二人である。
よく知られる物語では、二人は互いに夢中になるあまり、織物や牛飼いの仕事をしなくなった。
そのため天帝は、二人を天の川の両岸へ引き離し、会うことを制限した。
ここで二人に与えられた距離は、単なる自然現象ではない。
社会秩序を回復するために、第三者から命じられた距離である。
天帝の側から見れば、その判断には理由がある。
二人をそのままにしておけば、果たされるべき仕事が果たされない。
二人の関係が、共同体全体の秩序に影響を及ぼしている。
だから、一定の距離を置かせる。
社会の立場から見れば、それは秩序と安心のための措置である。
しかし、織姫と彦星にとっては罰である。
同じ距離が、社会にとっては安心であり、当事者にとっては苦痛になる。
この構造は、現代のコンプライアンスにも似ている。
社会は、誰かが傷つくことを防ぐために、人と人とのあいだへ距離を置く。
その距離によって守られる人は多い。
だが、互いに近づきたい者同士にとって、その距離は、望まない隔離になることもある。
さらに、織姫と彦星をめぐる伝承には、距離が伝達の途中で過剰化したとする異説がある。
中国に伝わる一つの異説では、天帝は、牽牛と織女を完全に引き離そうとしたのではなかった。
本来は、「七日に一度会うことを許す」と命じたという。
ところが、その命令を伝える烏鵲が、「七月七日に一度」と誤って伝えてしまった。
そのため、二人は七日ごとではなく、一年に一度、七月七日にしか会えなくなった。
ここでは、社会が意図した距離と、当事者に実際に与えられた距離が食い違っている。
本来は、日常生活や役割を保ちながら、二人の関係も続けられる程度の距離だった。
しかし、伝達の誤りによって、調整は長い隔離へと変わった。
さらに、日本の御伽草子『天稚彦草子』にも、これとは別系統の聞き違いの物語がある。
そこでは、人間の娘と天稚彦が夫婦となる。
天稚彦の父鬼は、人間である娘にいくつもの試練を与える。
娘がそれらを乗り越えると、父鬼は二人の関係を認め、「月に一度だけ一緒に暮らしてよい」と告げる。
しかし娘は、それを「年に一度」と聞き違えてしまう。
父鬼が瓜を投げつけると、それが天の川となり、二人を隔てた。
こうして二人は、年に一度、七月七日の夜だけ会うことになったという。
これは、仕事を怠った織姫と彦星が天帝によって引き離されるという、よく知られた物語とは異なる系統の伝承である。
中国の異説では、
七日に一度が、七月七日に一度へ変わる。
日本の『天稚彦草子』では、
月に一度が、年に一度へ変わる。
二つの物語は同じではない。
しかし、どちらにも共通している構造がある。
社会や第三者が意図した距離と、当事者に実際に与えられる距離は、必ずしも一致しない。
関係を完全に断つつもりはなかった。
一定の条件のもとで、関係を続ける余地は残されていた。
ところが、言葉が伝達される途中で意味が変わり、調整として与えられた距離が、隔離として経験される距離へと拡大した。
ここには、制度が伝達され、解釈され、運用される過程で、当初の目的以上に厳しくなっていく構造がある。
誰かが明確な悪意を持って、二人を引き離したとは限らない。
それでも、伝達の誤りや規則の形式化によって、当事者には過剰な距離が与えられる。
安心のために設定された間隔が、運用の途中で罰へと変わるのである。
本来の目的は、関係を完全に禁止することではなかった。
しかし、規則が伝達される過程で、目的よりも形式が優先される。
人を守るための境界が、人を近づけないための壁へ変わる。
侵害を防ぐための規則が、接触そのものを避ける規則へ変わる。
現代のコンプライアンスにも、同じことが起こりうる。
本来は、
相手の意思を無視して踏み込んではならない。
立場を利用して関係を強制してはならない。
拒否されたなら、それ以上近づいてはならない。
という境界だったはずのものが、運用や保身の中で、
誰にも近づかない方がよい。
好意を示さない方が安全だ。
私的な関係を持たない方がよい。
という絶対的な距離へ変化していく。
社会にとっては、その方が管理しやすい。
問題が起きる可能性も下がる。
しかし、関係が始まる可能性も同時に下がる。
織姫と彦星を隔てているのは、天の川だけではない。
社会が決めた距離であり、その距離を過剰にした伝達と運用の構造である。
しかも、その距離が本当に二人にとって適切だったかどうかは、二人の外側にいる者には完全には分からない。
社会は、関係の危険性を予測することはできる。
しかし、その関係が当事者にとって安心になるのか、罰になるのかまでは決められない。
それは、二人が少し関係し、互いの反応を確かめ、自分たちで距離を調整する中でしか分からないからである。
織姫と彦星の物語は、距離があるから愛が尊くなるというだけの話ではない。
社会は、個人と個人のあいだへ、どこまで距離を置いてよいのか。
社会が与えた距離が、当事者にとって罰になったとき、誰がそれを修正するのか。
そして、制度の中で過剰化した距離を、本人たちは自ら縮めることができるのか。
その問いを含んだ物語として読むことができる。
距離は、人を守る。
しかし、距離を決める権利まで奪えば、人を孤立させる。
必要なのは、天の川を消すことではない。
互いが望んだときに渡ることのできる橋と、望まないときには渡らずにいられる自由なのである。
おわりに
異なるまま、共に在るということ
私たちは、いつの間にか「平等=正義」と考えるようになった。
その方向自体は間違っていない。
けれど、平等を「全員が同じになること」と捉えた瞬間、平等は人間の差異を削り始める。
本当の平等とは、異なるものが異なるまま共に在ることである。
多様性を認めるとは、違いを並べて眺めることではない。
違いがある者同士が、互いを支配せず、排除せず、それでも関係を作ろうとすることである。
同じになることは、場合によっては簡単だ。
一つの基準を決め、そこへ全員を合わせればよい。
けれど、異なるまま共に生きることは難しい。
相手の違いを理解しなければならない。
自分の常識が通じないことを受け入れなければならない。
近づく勇気と、退く節度の両方が必要になる。
しかも、その人との適切な距離は、関係の外側からあらかじめ知ることはできない。
少し近づき、反応を受け取り、間違えたなら退き、謝り、もう一度距離を測り直す。
異なるまま共に在るとは、完成された正解の位置に立つことではない。互いの距離を、関係の中で学び続けることでもある。
平等を目指す社会の中で、本当に問われるのは、違いを消せるかどうかではない。
違いを抱えたまま、どう橋をかけるかである。
だから私は、平等を、平らな世界として夢見るよりも、異なる場所にいる者同士が行き来できる世界として考えたい。
誰も低い場所へ押し込められない。
誰も高い場所から支配しない。
そして、誰も孤立した岸へ置き去りにされない。
完全に同じではない。
完全に一つでもない。
それでも、互いに渡り合うことができる。
平等とは、そのような関係の形なのだと思う。
最終命題
平等とは、全員を同じにすることでも、全員に同じ距離を与えることでもない。
距離は、人を守る安心にも、人を孤立させる罰にもなる。
しかも、その人との適切な距離は、関係の外側から完全に決めることはできない。
少し近づき、相手の反応を受け取り、拒まれたなら退き、間違えたなら修正する。
異なる者同士が、互いを支配せず、傷つける可能性を抑えながら、それでも関係することを諦めず、自分たちの距離を学び続ける。
平等とは、そのために断絶の上へ橋をかけ続ける、距離の倫理である。
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