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文学作品「これが人間だ」

※この記事は約2800文字です。

ある日のこと。

不意に、炊飯器に話しかけてみた。

「君の時間は、いつから止まっている?」

応答はない。

けれど、釜の内側にこびりついた米粒が、かつて誰かが「炊こう」とした意志を、まだ薄く記憶している。

それは、この部屋に、まだ「ご飯を食べよう」とする誰かがいたということだった。

エアコンが、今日も苦しそうに息を吹く。

「君はいつからそこにいる?」

何を決まりきったことを。

この部屋が出来た時からだろうに。

炊飯器は沈黙したままでいる。

だが、その沈黙は空白ではなかった。

沈黙は、時の層を積み重ねていた。

部屋の片隅では、洗濯物が堕落を嘆いている。

私もまた、似たような状況にあった。

常に恥の多い人生を送っております。

キッチンでタバコを吸いながら、片手にはスマホ、片手にはモンスターエナジー。

止まない雨はないという。

明けない夜はないという。

けれど、鳴らないスマホはあるのかもしれないことを、私はこの頃になって知った。

誰かを待っていたわけではない。

いや、待っていなかったと言えば嘘になる。

ただ、誰かの一言があれば、今日という日をもう少しだけ人間らしく終えられる気がしていた。

画面は暗いままだった。

床には、散らばったペットボトルと缶の山。

シンクには、存在を忘れられたいつかの洗い物。

彼らは、どこからともなく漂う腐敗臭という祈りで、こちらに語りかけてくる気がした。

「我々はいつ、赦されるのだろうか?」

彼らもまた、地獄の住人なのだ。

そんな救済を待つ声たちを、私はただ、沈黙で見守っていた。

我々もまた、地蔵菩薩なのだと、ふと思った。

地蔵は、地獄に残る。

救い出すためではない。

そこにいる者たちが、まだそこにいることを見捨てないために。

そう思うと、私は少しだけ流し台の前に立っていられた。

皿も、空き缶も、炊飯器も、私も、どこにも進んでいない。

ただ、時計の針だけが、

一秒。

また一秒。

カチッ。

カチッ。

容赦なく、時間の経過を知らせてくる。

けれど、進まないものにも、そこに残り続ける理由くらいはあるのかもしれない。

人生とは、矛盾を解決して上へ進むものではなく、解決されないまま同じ場所に立ち尽くすことなのかもしれない。

それを私は、勝手に「地蔵法」と呼んでみた。

矛盾とともに在り、動かず、沈黙することで祈りとなる。

そう考えると、私は少しだけ、この世界の不完全さに赦される気がした。

どんな矛盾も、きれいな答えに変わるわけではない。

私はいつも間違える。

私は、よく喋る人間だった。

言葉を重ねれば、いつか届くと思っていた。

正しいことを言えば、相手も分かってくれると思っていた。

けれど、言葉は刃にもなる。

正しさで差し出したつもりのものが、相手には冷たい金属のように触れることがある。

会話とは、相手の命の時間を少しだけ預かる行為なのだと、ずいぶん遅れて知った。

だから私は、少しずつ喋れなくなった。

黙ることが優しさなのか、逃げなのか、今でも分からない。

ただ、黙ったあとにも、まだ人のそばにいたいと思う気持ちだけは残っていた。

それが傲慢なのか、祈りなのか、私にはまだ分からない。

何も、前に進むだけが人生ではない。

昨日の地獄の住人たちは、今日もまだ救済されていない。

私は、相も変わらずキッチンに立ち尽くしている。

どこかで声がした気がした。

もっと苦しい人間はいくらでもいる。

お前のそれは、地獄などではない。

その声は、たぶん誰かの声ではなかった。

私が私に向けて、何度も投げてきた声だった。

たしかに、食べるものはある。

屋根もある。

電気もついている。

それなのに、私はこの部屋を地獄と呼んでいる。

その矛盾を、誰かに許してほしいわけではない。

ただ、そう感じてしまう私が、ここにいる。

Aという命題。

Bという命題。

そのどちらにもなれず、どちらも選べず、AとBのあいだに挟まれた私。

それは答えにはならない。

救済にもならない。

ただ、そう在るというだけの矛盾。

人は、正しさだけでは立てない。

だから私は祈る。

答えではなく、共にあることを。

良い日もあった。

悪い日は、もっと多かった。

良い日に立っていられるのは、たぶん誰にでもできる。

問題は、悪い日の自分を、どこまで見捨てずにいられるかだった。

汚れた皿を見ないふりした私。

空き缶を床に増やした私。

炊飯器の中の米粒を、なかったことにした私。

そのどれもが、私だった。

救い出すというほど立派なことではない。

ただ、見捨てない。

それだけが、その日の私にできる強さだった。

今日もまた、私はキッチンに立ち尽くしている。

救済も答えもないまま、ただ日が暮れていく。

遠くの方で、電車の走る音がする。

電車が煩いのではない。

この部屋が静かなのだ。

いや、正確には、この部屋には、もう日など存在しないのかもしれない。

天井に設置された、オレンジ色に灯る小さな光。

これが、私にとっての太陽だった。

この灯りだけが、「まだ世界は終わっていない」と私に告げてくれる。

でも、それが本当に救いなのかどうかは、分からない。

彼らはまだ食べられる。

まだ温められる。

まだ誰かの腹を満たせる。

それなのに、半分の値札を貼られている。

だが、彼らにはまだ、生きる力がある。

捨てる神あれば拾う神あり。

社会にとって価値が半分であろうとも、私にとっての価値は、計り知れない。

私もまた、いつのまにか値下げされた命だったのかもしれない。

けれど、半分になった価値のまま、それでも誰かに拾われることがある。

誰にも選ばれなかったものが、今日の夕飯になることがある。

私は、再び炊飯器に語りかけた。

「いつまでそうしているつもりだ?」

炊飯器は応えない。

いや、応えられないのだ。

けれど、私は知っている。

あの日から、私たちは互いに何も言わなくなったのだ。

沈黙とは、断絶ではない。

沈黙とは、語りきれないものを共有する、最後の形式なのだ。

私は今日も、キッチンの前で、赦されないまま赦すように祈っている。

私の時間も、あの日以来止まったまま、救済を待っているのかもしれない。

闇を見つめ、タバコの灯りを頼りにしながら、地蔵のように、ただ今日という地獄に立ち尽くしている。

それでも、いつかまた誰かに、

「ただいま」

と言えるように。

そして炊飯器が再び、音もなく、小さく「カチッ」と鳴るその日まで。

私は、シンクの前に立った。

洗い物たちは、まだそこにいた。

責めるでもなく、赦すでもなく、ただ待っていた。

皿に触れる。

水を流す。

こびりついた汚れが、少しずつほどけていく。

水の音だけが、この部屋に戻ってくる。

私は、生活を取り戻したわけではない。

救われたわけでもない。

ただ、見ないふりをしていたものに、もう一度触れただけだった。

それは、赦しではなかった。

再会だった。


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