感情と理性の完全分離は可能か
はじめに
多くの人は感情と理性が混ざり合っている。
それは普通のことだと思う。
そのなかでも感情と理性の使い分けが上手い人はいる。
そういった人は成熟していると見做される傾向があるように思える。
ならば、いっそのこと
感情と理性の完全分離は可能なのか
という問いがこの記事の本題である。
もちろん不可能とは言わないが、
それは代償として人間性を手放すということになるのではないか。
正しい判断は、必ずしも人を救わない。
頭ではわかっている。
理屈も通っている。
制度的にも、役割的にも、間違っていない。
それでも感情は、別の答えを出し続ける。
これは、そのときに残る「残滓」の話だ。
もちろん、故意ではないしても相手の心に傷をつけてしまったら謝罪をするだろう。
合理性を優先するために言葉の限りを尽くして説明もするだろう。
それで相手からの許しを得られたとしても相手の感情に寄り添えているとは限らない。
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正しいのに、割り切れない
構造的に整理すると、こうなる。
合理的に正しい判断が、
感情的に正しいとは限らない。
それでも選ぶという覚悟が、そこにある。
頭では理解できる。
だが感情は追いつかない。
後悔
罪悪感
夢に出てくる顔
ふとした瞬間の、説明できない引っかかり。
判断には、二つの層がある。
二つの判断
一つは、外側の判断
社会、法、制度、構造に基づくもの。
もう一つは、内側の判断
感情、記憶、生に根ざしたものだ。
外側の判断は「一回で終わる」
結論が出た瞬間に、役割としては完了する。
内側の判断は「時間を引きずる」
終わったはずの選択が、何年も、何十年も、内部で反復される。
制度的には正しい。
役割としても正しい。
それでも、心のどこかに引っかかりが残る。
合理性は、感情を守らない
合理性は万能ではない。
合理性は、感情を保護しない。
ときに合理性は、刃にも盾にもなって、人を傷つける。
以前に書いた「正義中毒」の話にもつながるが、
正しさは人を救うための道具であると同時に、
人を切り捨てる装置にもなりうる。
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では、なぜ
「正しい判断をした人間」が、苦しみ続けるのか。
正しかったはずの人たち
たとえば、国のために戦争で活躍した人が、
帰還後にPTSDを抱えるような話を聞く
あるいは、
死刑執行のボタンが三つに分けられ、
誰が直接手を下したのかわからないように設計され、
特別手当や早退が用意されている、あの制度の話
どれも、制度としては合理的だ。
個人の負担を分散し、責任を構造に回収する。
それでも、人は壊れる。
残るものとは何か
ここで語りたいのは、次の三つだ。
合理性が、なぜ感情を救わないのか。
後悔は、誤りの証拠ではないということ。
そして、覚悟とは「納得」ではなく「持続」であるという話
正しい判断をしたからといって、
心が正解を出してくれるわけではない。
それでも、その判断と一緒に生きると決めること。
その時間を引き受け続けること。
私はそれを、覚悟と呼んでいる。
覚悟とは、納得ではない。
耐え続けることでもない。
選んだ判断とともに、生を持続させることだ。
これは何の話か
これは、
逃げた人の言い訳でもない。
英雄の独白でもない。
生き延びたあと、
人がどう生きるのかという記録の話だ。
感情が残ることは、
判断が誤っていた証拠ではない。
それは、
人間であったという痕跡だ。
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日本は死刑制度のある国だが、別の言い方をしてしまえば、国家による殺人でもある。
その死刑制度を容認し続けている政治家や、その政治家を選出した国民全てに少しずつ罪があるのではないか。
戦争も同様のことが言えるだろう。
もちろんそれは近代的な国家の場合の話で
君主制や、事実上の独裁国家の話ではないとだけ書かせてもらおう。
それでも、意思表明をおろそかにする人間が増えていけば国民総コックリさんのような主体性の喪失した国家が誕生する日も、ありえないことではないのだと思える。
日本も若干だが、そんな気配はあると考えている。
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