疲れて帰ってきた夜のゴキブリ
副題
休息の場所に現れた、戦闘開始の合図
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『自分をおもてなししているか』
副題:未来の自分が呼吸しやすいように
この記事では、生活を整えることを「未来の自分へのおもてなし」として考えた。
掃除をする。
食器を洗う。
洗濯物を畳む。
少しだけ良い紅茶を用意する。
湯船に浸かる。
ちゃんと眠る。
それらは単なる丁寧な暮らしではなく、未来の自分が帰ってきたときに呼吸しやすいよう、先に場所を整えておく行為だった。
では逆に、そのおもてなしが失敗したとき、何が起きるのか。
疲れて帰ってきた夜。
もう何もしたくない身体で、ようやく部屋に戻る。
その瞬間、床を黒いものが走る。
ゴキブリである。
そこでは家は、自分を迎えてくれる場所ではない。
未処理の現実が、こちらを待ち伏せしている場所になる。
序章
家に帰ったはずなのに、まだ終わっていなかった
疲れて帰ってきた夜がある
仕事が終わり
電車に揺られ
ようやく部屋の扉を開ける
靴を脱ぐ
鞄を置く
服を緩める
照明をつける
そこで人はようやく思う
今日という一日は終わったのだと
外で張っていた神経を下ろし
人に向けていた顔をほどき
もう何者でもなくなっていい場所へ戻ってきたのだと
家とは本来
戦闘を終えた人間が帰る場所である
そこでは勝たなくていい
説明しなくていい
気を張らなくていい
誰かの視線に合わせて自分を整えなくていい
ただ息をする
ただ座る
ただ眠る
それだけが許される場所である
だが
その安全なはずの場所に
黒いものが動く
ゴキブリである
その瞬間
家は家ではなくなる
休息の場所は
一瞬で戦場へ変わる
第1章
怖いのは虫ではなく、安全圏の破綻である
ゴキブリが怖い
そう言ってしまえば話は簡単である
だが本当に怖いのは
あの黒い虫そのものだけなのだろうか
外で見るゴキブリと
家の中で見るゴキブリは
同じ生き物でありながら
まったく意味が違う
道端で見たなら
嫌ではある
しかしそれは世界の一部である
植え込み
ゴミ置き場
排水溝
夜の湿った道路
そこにゴキブリがいることは
不快ではあっても
世界の秩序を壊すほどではない
だが家の中では違う
ここは靴を脱ぐ場所だった
ここは眠る場所だった
ここは外敵から身を引きはがし
一時的に無防備になっていい場所だった
その場所に
別の生命のルールが入り込んでいる
このとき恐怖は
虫への嫌悪を超える
自分の領域だと思っていた場所が
完全には自分の領域ではなかった
その事実が
黒い一点となって床を走る
第2章
一匹は一匹ではない
家の中でゴキブリを見つけたとき
人は一匹のゴキブリだけを見ているのではない
その背後に
見えていない無数を見ている
どこから入ったのか
他にもいるのではないか
台所は大丈夫なのか
排水口か
窓か
段ボールか
隙間か
卵はないのか
夜中にまた出てくるのではないか
寝ている間に顔の近くを通るのではないか
ここで恐怖は増殖する
見えているものは一匹である
しかし
その一匹が
見えていない家全体を疑わせる
恐怖とは
完全な未知から生まれるのではない
むしろ一部が確定したときに生まれる
黒い虫がいた
これは確定している
しかし
どこから来たのかはわからない
何匹いるのかもわからない
この部屋がどこまで侵食されているのかもわからない
確定している小さな事実が
未確定の領域に影を落とす
その影が
恐怖になる
第3章
見つけてしまった以上、もう休めない
ゴキブリの厄介さは
見たあとに何もしないで済まないところにある
幽霊なら
見間違いだったと言い聞かせることもできる
気配なら
疲れているだけだと処理できる
物音なら
風のせいにできる
だがゴキブリは違う
そこにいる
そして動く
見た以上
対応しなければならない
殺虫剤を探す
ティッシュを用意する
逃げ道を塞ぐ
視線を固定する
家具の隙間に入らないよう祈る
動き出す瞬間に備える
もし見失えば
今度は部屋全体が敵になる
さっきまで休むための空間だったものが
探索すべき空間になる
布団の下
冷蔵庫の裏
棚の隙間
洗濯機の下
カーテンの影
すべてが可能性を持ってしまう
疲れて帰ってきた人間にとって
これはあまりにも残酷である
もう今日を終えたかったのに
まだ終わらせてもらえない
家に帰ったはずなのに
家の中でまた戦闘が始まる
第4章
生活のホラーとは何か
ホラーには
非現実のホラーがある
幽霊
怪異
呪い
見知らぬ誰か
説明のつかない出来事
しかし
生活のホラーは少し違う
それは
あまりにも現実的であるがゆえに怖い
壊れたカーテン
散らかった部屋
水回りの汚れ
溜まった洗濯物
期限の切れた書類
そして
疲れて帰ってきた夜のゴキブリ
これらは人を殺しに来るわけではない
ただ
対応を要求してくる
放置されたものが
お前はこれを見るのか
これを片付けるのか
これを処理するのか
と迫ってくる
ここに生活のホラーがある
怪異よりも地味で
呪いよりも具体的で
逃げ道が少ない
見てしまった以上
もう見なかったことにはできない
だから怖い
第5章
家とは、完全な安全地帯ではない
人は家を安全な場所だと思いたい
実際
家は外より安全である
雨を避けられる
眠ることができる
荷物を置ける
自分の匂いを持てる
他人の視線から離れられる
だが
家は完全な安全地帯ではない
家もまた
管理しなければ崩れる
掃除しなければ汚れる
換気しなければ空気が濁る
食べ物を放置すれば虫が来る
隙間があれば何かが入る
水があれば湿気が生まれる
人間が住むということは
世界から完全に切り離されることではない
むしろ
世界との境界を日々調整することなのだ
家とは
外部を完全に遮断する箱ではない
外部と内部のせめぎ合いを
なんとか人間が暮らせる程度に保つ装置である
ゴキブリは
その境界の破れを知らせてくる
だから嫌なのだ
単なる虫ではない
家の結界が完全ではなかったことを知らせる
黒い通知なのだ
第6章
恐怖とは、戦闘を予感させる未確定性である
恐怖とは何か
それは
わからないものへの反応だと言われることがある
たしかにそうだ
しかし
ただわからないだけでは
まだ恐怖にはならない
恐怖が立ち上がるには
少しだけわかっている必要がある
ゴキブリがいた
これはわかっている
だが
どこから来たのかはわからない
他にもいるのかはわからない
このあとどう動くのかはわからない
見失ったらどうなるのかもわからない
つまり恐怖とは
確定した一点から
未確定の領域が一気に広がる感覚である
そして
その未確定性が
こちらに対応を要求してくるとき
恐怖はさらに濃くなる
ただ怖いだけではない
逃げるか
倒すか
探すか
片付けるか
眠るのを諦めるか
行動しなければならない
疲れて帰ってきた夜のゴキブリが恐ろしいのは
休息したい身体に
戦闘の選択を突きつけてくるからである
終章
休息は、守らなければ失われる
疲れて帰ってきた夜
人はただ休みたい
何かを成し遂げたいわけではない
強くありたいわけでもない
考えたいわけでもない
ただ
今日という一日から降りたいだけである
だが
その場所にゴキブリが現れる
その瞬間
休息は自然に与えられるものではなく
守らなければならないものだったと知らされる
家はただそこにあるだけでは
安全圏にならない
掃除し
片付け
塞ぎ
捨て
整え
境界を保つことで
ようやく休息の場所になる
だから
疲れて帰ってきた夜のゴキブリは
単なる虫ではない
それは
休息の場所に現れた
戦闘開始の合図である
そして同時に
生活とは
休むための場所さえ
ときどき戦って守らなければならないという
静かな現実の知らせでもある
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疲れて帰ってきた夜のゴキブリは、生活のホラーである。
休息の場所に帰ってきたはずなのに、そこには休息ではなく、対応しなければならない現実が待っている。
だが、本当に深い地獄は、その次にあるのかもしれない。
ゴキブリが出たなら、まだ戦える。
殺虫剤を探し、逃げ道を塞ぎ、視線を固定し、どうにか目の前の現実を処理しようとすることができる。
けれど人間には、その戦闘にすら立ち上がれない夜がある。
片付けなければならないと分かっている。
洗わなければならないと分かっている。
捨てなければならないと分かっている。
炊かなければならなかった米も、畳まれなかった洗濯物も、シンクに残された食器も、こちらを責めているように見える。
しかし、自分もまた、救済を待っている。
生活空間とは、自分を迎える場所であると同時に、自分が救えなかったものたちが沈黙して待っている場所でもある。
もし「自分をおもてなししているか」が、未来の自分を迎えるための文章だったとしたら。
そして「疲れて帰ってきた夜のゴキブリ」が、迎えられるはずだった自分が戦場に戻される文章だったとしたら。
そのさらに奥には、戦場に立つ力さえ残っていない人間の姿がある。
整えたいのに整えられない。
救いたいのに救えない。
進みたいのに、そこに立ち尽くすことしかできない。
それでも、まだ終わってはいない。
荒れた部屋の中で、沈黙する炊飯器の前で、赦されないまま赦すように祈っている。
その姿を、私は以前、こう書いた。
『文学作品「これが人間だ」』
『散らかった部屋は過去の未完了の残骸である』
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