短編小説『愛として在る』
選ばなかったことが
最大の誠実さになることもある
これは「愛が、形を持たずに残ったふたり」の物語
***
その日
空はやけに白く風はまだ冷たかった
駅前の三叉路にある
古びた時計の横に並ぶ小さな書店で
彼女と偶然手が触れた
同じ文庫を手に取っていた
「あっ、すみません」
彼女が笑った
柔らかな声だった
「いえ、こちらこそ」
俺も笑った
それが、すべての始まりだった
***
彼女とは何度か会った
たまたま同じ時間に書店で
次は喫茶店で
話は自然と弾んだ
本の話、音楽の話、旅の話——そして人生の話へと
ある日
俺は言った
言わずにはいられなかった
「今まで言ってなかったけれど、実は俺は結婚してるんだ、でも今は……離れて暮らしている」
彼女は黙っていた
少しだけ目を伏せ
そしてコーヒーに口をつけた
「そうなんですね」
それだけだった
非難もなく同情もなく
彼女の沈黙は答えよりもずっと深く俺を打った
ただ受け取るという姿勢だけがあった
その夜
俺は一人で歩いた
胸の奥で何か柔らかいものが
沈黙の中で軋んでいた
***
会うたびに
彼女の笑顔に救われていた
冗談に笑い
沈黙に付き合い
時に本気で叱られた
ただ、気がついたらそこにあった何か
***
ある夜の帰り道だった
ふたりの歩幅がそろっていたその沈黙の中で
俺は言った
「……手、繋いでもいい?」
彼女は立ち止まった
少しの間、何も言わなかった
その沈黙が
拒絶とも、承諾ともつかない時間をつくった
でも
やがて、ゆっくりと
彼女は手を差し出した
言葉よりも
その仕草の方が
ずっと静かで
ずっと深かった
触れた掌は
あたたかかった
でもそれは境界だった
越えなかった
越えたくなかった
欲望ではなく
この関係に
嘘を混ぜたくなかった
彼女の人生に
俺の抱えたままの影を
落としたくなかった
彼女の若さは
これから花開く季節を待っている
俺が、そこに根を張ることはできない
そう確かに思った
それが正解かは今もわからない
***
ある日、言った。
「君を待たせたくない」
「もし俺を選ぶなら君の時間が止まってしまう」
「だから、別の道を歩こう」
そう言いながら、自分の喉の奥が
何かに詰まる感覚を抱えていた
彼女はしばらく黙っていた
「……わかった」
たったそれだけだった
でも、その一言にはすべてが込められていた
別れたのではない
繋がらなかったわけでもない
ただ
「自由にした」だけだった
***
愛には段階があると思う
孤独から始まり
与えようとし
手放すことを知り
やがて「ただ在る」ようになる
彼女がどこで誰と生きていようとも
心から幸せでいてほしいと願えるなら
それはきっと愛だ
何かをしなくても
持たなくても
名乗らなくても
その想いが、そのまま
愛であるなら
もうそれだけで十分なんだと思う
***
あれから何度目かの季節が来る
彼女が微笑んだあの日の空を
俺は今も忘れていない
忘れられないんじゃない
忘れる必要がないんだ
それが多分
「愛として在る」ということなのだ
それでも
誰かを想って生きる限り
きっと、愛はどこかで続いている
関連作品
男の語り
彼女の語り
哲学的断章
『名を持たぬ愛のために』
愛は始まりではなく、気づきの中に芽吹く
無であった場所に、形なき温度を残す
だが、欲が触れたとき
そのかたちは、愛から名を奪われる
世界はすべて真実でありながら
我々は知覚の狭間に現実を置き換える
その現実は、常にバイアスでねじれている
だから私は言う
——条件付きの愛はいらない
もし
私が何かをしたから
あなたが私を愛すると言うのなら
それは
私を愛しているのではなく
私の行為を評価しているにすぎない
だから私は言う
その愛は
必要ない
歪みを拒み、それでも残るもの
それが、愛として在るということ
これは、愛の名を与えなかった者たちへの言葉である
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