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交際とは何か

副題
曖昧な親密さに名前を与え、自覚と不可逆性を生む関係の哲学

はじめに


人は、誰かと親しくなると、やがてこう問い始める。

私たちは、どういう関係なのか。

この問いは、一見すると愛の確認に見える。

好きなのか。
本気なのか。
大切に思っているのか。
これからも一緒にいるつもりなのか。

けれど、もう少し深く見ると、この問いは愛そのものよりも、関係の位置を確認する問いである。

私は、あなたの中でどこに置かれているのか。

友人なのか。
恋人なのか。
遊びなのか。
本命なのか。
都合のいい相手なのか。
ただの寂しさの避難所なのか。
それとも、名前をつけるにはまだ早い曖昧な親密さなのか。

人は、親密さそのものよりも、その親密さの意味がわからないことに不安になる。

だから交際という概念がある。

交際とは、愛を発生させる魔法ではない。
交際したから突然、相手を大切にできるようになるわけでもない。
交際したから誠実になるわけでもない。
交際したから信頼が生まれるわけでもない。

それでも人は、交際という宣言を欲しがる。

なぜなら、交際とは愛の保証ではなく、曖昧な親密さに輪郭を与えるための形式だからである。

交際で可能になることは、交際していなくても可能である


まず、かなり冷静に考えてみたい。

交際によって、何が可能になるのだろうか。

会うこと。
連絡を取ること。
食事をすること。
手をつなぐこと。
抱きしめること。
身体の関係を持つこと。
相手を大切にすること。
相手に誠実でいること。
不安にさせないように配慮すること。
関係を雑に扱わないこと。

これらは、交際していなくても可能である。

交際していないから会えないわけではない。
交際していないから連絡できないわけでもない。
交際していないから優しくできないわけでもない。
交際していないから誠実になれないわけでもない。

誠実な人は、交際していなくても誠実である。
不誠実な人は、交際していても不誠実である。

ここに、交際という言葉の不思議さがある。

交際は、人間の人格を変えない。
交際は、人間の欲望を清潔にしない。
交際は、裏切らない人間を作るわけではない。
交際は、相手を大切にする能力を与えるものでもない。

では、交際とは何を変えるのか。

それは、行為そのものではない。

行為の意味を変えるのである。


交際とは、行為の解釈を固定する装置である


同じ食事でも、友人との食事と恋人との食事では意味が違う。

同じ連絡でも、友人からの連絡と恋人からの連絡では重さが違う。

同じ沈黙でも、友人なら「忙しいのだろう」で済むことが、恋人なら「冷めたのかもしれない」になる。

同じ優しさでも、友人としての優しさなのか、恋愛感情を含んだ優しさなのかで、受け取られ方は変わる。

つまり、交際とは行為を増やすものではない。

交際とは、行為の読み方を変えるものである。

交際していない二人が頻繁に会う。
毎日連絡を取る。
深い話をする。
互いの生活を気にかける。
身体的にも近い。
他の人とは違う特別な扱いをしている。

この時点で、実質的には交際に近いことはすでに起きている。

けれど、宣言がないと人は問う。

これは何なのか。

私は踏み込んでいいのか。
嫉妬していいのか。
不安を伝えていいのか。
相手に説明を求めていいのか。
他の異性との距離に傷ついていいのか。
この親密さは本物なのか。
それとも、ただ都合よく使われているだけなのか。

行為はある。
しかし意味が確定しない。

この状態に、人は耐えにくい。

だから交際という名前が必要になる。

交際とは、親密さそのものではない。
親密さの解釈権を安定させるための名前である。


交際とは、親密さの排他範囲を決める口約束である


交際の核心は、愛そのものではない。

交際の核心は、排他性である。

「あなたを大切にする」だけなら、交際していなくてもできる。
「あなたに誠実でいる」だけでも、交際していなくてもできる。
「あなたを気にかける」だけなら、友人関係でも十分にあり得る。

しかし、交際になると、そこに一つの条件が加わる。

他の人とは、同じ種類の親密さを持たないでほしい。

ここに交際の特殊性がある。

交際とは、相手そのものを所有することではない。

人間は物ではない。
人間の心も、時間も、未来も、完全には所有できない。
誰かと付き合ったからといって、その人の人生全体が自分のものになるわけではない。

けれど交際は、所有に似た形を取る。

恋愛的関心。
性的親密さ。
優先順位。
連絡の頻度。
他者との距離。
将来への期待。
不安を説明してもらう権利。

こうしたものに、ある程度の専属性を求める。

その意味で、交際とは所有ではないと言いながら、所有に似た安心を求める関係形式である。

かなり冷たく言えば、交際とは所有契約宣言に近い。

ただし、それは法的な所有契約ではない。
相手の人格を所有する契約でもない。

それは、親密さの一部に排他性を設定する口約束である。

つまり交際とは、自由な個人同士が、互いの一部を専属扱いすることに同意する、脆い約束なのだ。


口約束でも、宣言がないと不安になる


ここで重要なのは、交際が所詮は口約束に過ぎないという点である。

付き合おうと言っても、裏切る人は裏切る。
好きだと言っても、冷める時は冷める。
大切にすると言っても、未来の心までは拘束できない。
他の人とは何もないと言っても、嘘をつく人は嘘をつく。

人は本当は、それを知っている。

交際宣言が絶対ではないことを知っている。
口約束が未来を保証しないことも知っている。
関係名が人格の誠実さを証明しないことも知っている。

それでも人は宣言を欲しがる。

なぜなら、宣言がないと不安だからである。

自分はどの立場なのか。
不安を口にしていいのか。
嫉妬していいのか。
相手に確認していいのか。
距離の近い異性について説明を求めていいのか。
傷ついたとき、傷ついたと言っていいのか。
その関係を裏切りと呼んでいいのか。

交際宣言とは、相手を縛るための言葉である以前に、自分の不安に発言権を与える言葉である。

「付き合っているのだから、不安だと言っていい」

「付き合っているのだから、確認していい」

「付き合っているのだから、他者との距離に傷ついていい」

「付き合っているのだから、裏切りという言葉を使っていい」

この資格が欲しいのである。

だから交際とは、愛の証明ではなく、不安の置き場所でもある。

人は完全に信じているから交際するのではない。
信じきれない部分があるから、交際という名前を必要とする。

信頼が完全なら、名前はいらないのかもしれない。

けれど人間は、そこまで強くない。

だから人は言う。

付き合おう、と。


告白とは、愛の発生ではなく曖昧さの終了宣言である


日本では、告白という文化がかなり強い。

「好きです。付き合ってください」

この言葉は、単なる愛の表明ではない。

むしろそれは、曖昧な親密さを終わらせる宣言に近い。

私の好意を、ただの雰囲気にしないでほしい。
この関係を、偶然の親密さとして流さないでほしい。
私たちの距離に、名前をつけてほしい。
この親密さを、関係として固定してほしい。

告白とは、そういう申し出である。

もちろん、告白がなければ恋愛が存在しないわけではない。

関係は、言葉より先に深まることがある。
名前がなくても、すでに特別な関係になっていることはある。
付き合っていないのに、恋人以上に深く結びついていることもある。

しかし、名前がない関係は不安定である。

どこから踏み込んでいいのか。
どこから傷ついていいのか。
どこから責任を問えるのか。
どこから裏切りになるのか。

その線が見えない。

だから告白は、愛の始まりというより、関係の境界線を引く儀式である。

「好きです。付き合ってください」

この言葉の本質は、

この曖昧な親密さを、関係名として固定しませんか。

ということなのだと思う。

交際は、所有を否定しながら所有に似た安心を求める

ここに、交際の矛盾がある。

人は、相手を所有してはいけない。

相手には相手の人生がある。
相手には相手の自由がある。
相手には相手の人間関係がある。
相手には相手の時間がある。

交際したからといって、そのすべてを奪っていいわけではない。

けれど同時に、交際は所有に似た安心を求める。

他の人と同じ距離でいてほしくない。
他の人に同じ種類の親密さを向けてほしくない。
自分が特別であると確認したい。
優先順位の中で、自分がどこにいるのかを知りたい。

これは所有ではないと言いながら、かなり所有に近い。

だから交際は危うい。

交際は、信頼の形にもなる。
けれど、独占の免許にもなる。

「付き合っているのだから、大切にしよう」

にもなるし、

「付き合っているのだから、私の要求を聞け」

にもなる。

「付き合っているのだから、不安にさせないようにしよう」

にもなるし、

「付き合っているのだから、自由を制限して当然だ」

にもなる。

つまり交際とは、愛の確認にもなるが、支配の入口にもなる。

交際という言葉そのものが悪いのではない。

問題は、排他性が権利意識に変わる瞬間である。

私は選ばれた。
だから私は特別である。
だから私は優先されるべきである。
だから私は要求できる。
だからあなたは従うべきである。

ここまで進むと、交際はもはや信頼ではなく、所有の言い換えになる。

だから交際には、境界線が必要である。

交際とは、相手を所有することではない。
けれど、親密さの一部に排他性を求めることである。

この違いを見失うと、恋愛は簡単に支配へ変わる。


交際とは、裏切りの線を仮決めすることである


交際にはもう一つの機能がある。

それは、どこからが裏切りなのかを決めることである。

誰かと食事に行くことは裏切りなのか。
異性と二人で会うことは裏切りなのか。
毎日連絡を取ることは裏切りなのか。
過去の恋人と会うことは裏切りなのか。
身体の関係がなければ裏切りではないのか。
心が動いた時点で裏切りなのか。

この線は、人によって違う。

だから本当は、交際とは契約に近いにもかかわらず、契約内容がほとんど共有されていない。

ここに揉め事の原因がある。

片方は、

付き合っているのだから、当然そこまで含まれる。

と思っている。

もう片方は、

付き合っているからといって、そこまで縛られる筋合いはない。

と思っている。

同じ「交際」という言葉を使っていても、その中身が違う。

だから交際とは、契約の顔をしているのに、契約書が存在しない関係である。

それでも人は交際する。

なぜなら、何も決めないよりは、何かを決めたことにした方が安心できるからである。

交際とは、完全な契約ではない。
けれど、完全な曖昧さでもない。

曖昧さを残したまま、ひとまず境界線を引くこと。

それが交際なのだと思う。


交際とは、愛ではなく不安の形式である


ここまで考えると、交際とは何かが見えてくる。

交際とは、愛そのものではない。
信頼そのものでもない。
誠実さそのものでもない。
人格の保証でもない。
未来の保証でもない。

交際とは、不確かな親密さに名前を与えることである。

交際とは、親密さの排他範囲を決める口約束である。

交際とは、自分の不安に発言権を与える関係名である。

交際とは、どこからが裏切りなのかを仮決めする儀式である。

そして交際とは、相手を所有してはいけないと知りながら、所有に似た安心を求めてしまう人間の矛盾である。

だから交際は、かなり脆い。

しかし、その脆さこそが人間的でもある。

人は、相手の心を完全には読めない。
未来の感情を拘束できない。
愛が続く保証もない。
誠実さが守られる保証もない。
関係名があっても、裏切られるときは裏切られる。

それでも、何の名前もない親密さには耐えられない。

だから人は、口約束でもいいから宣言を欲しがる。

たとえそれが脆くても。
たとえそれが不完全でも。
たとえそれが所有に似た危うさを含んでいても。

人は、曖昧なままでは不安になる。

だから、交際という概念がある。


交際とは、自覚と不可逆性の発生でもある


ここまで、交際をかなり冷たく見てきた。

交際とは、愛そのものではない。
信頼そのものでもない。
誠実さそのものでもない。
未来の保証でもない。

交際とは、曖昧な親密さに名前を与えること。
排他性を仮置きすること。
不安の置き場所を作ること。
どこからが裏切りなのかを仮決めすること。

そう考えると、交際はどこか弱さの形式に見える。

人間が曖昧さに耐えられないから、名前を欲しがる。
不安だから、宣言を欲しがる。
信じきれないから、口約束を欲しがる。

たしかに、それは交際の一面である。

けれど、それだけではない。

なぜなら、人は名前を与えられることで、初めて自分の感情に気づくことがあるからだ。

何となく気になる。
何となく会いたい。
何となく連絡を待ってしまう。
何となく他の人といると気になる。
何となく、その人だけを特別に扱っている。

そういう曖昧な感情は、名前がないうちはまだ逃げ道がある。

ただの友達。
たまたま気が合うだけ。
寂しかっただけ。
流れでそうなっただけ。
深い意味はない。
まだ本気ではない。

そう言うことができる。

しかし、交際という名前を置いた瞬間、その曖昧さは後戻りできなくなる。

「付き合う」という言葉は、関係に輪郭を与えるだけではない。

自分の感情にも輪郭を与えてしまう。

私はこの人を特別に見ている。
私はこの人との関係を、他の関係とは違うものとして扱う。
私はこの人に対して、責任を持つ側に立った。
私はこの親密さを、偶然や雰囲気のままにはしないと決めた。

そう自覚させる。

つまり交際とは、相手に対する宣言であると同時に、自分自身への宣言でもある。

相手に向かって「あなたを特別に扱う」と言うことで、
自分自身にも「私はこの人を特別に扱う人間になった」と知らされる。

ここに不可逆性が生まれる。

交際する前の二人には、まだ曖昧さがある。

近いけれど、まだ名前はない。
特別だけれど、まだ逃げられる。
親密だけれど、まだ責任を引き受けていない。
好きかもしれないけれど、まだ言葉にしていない。

しかし一度、交際という名前を置いてしまうと、もう完全には戻れない。

別れたとしても、ただの他人には戻れない。
友達に戻ったとしても、最初から友達だった頃とは違う。
何もなかったことにはできない。
一度、関係に名前を与えたという事実が残る。

それは、関係の歴史になる。

だから交際とは、単なる口約束ではある。
けれど、ただの口約束ではない。

法的には弱い。
制度としては脆い。
未来を保証する力もない。

それでも、その宣言によって、二人の関係は一度変質する。

名前のなかった親密さが、名前のある関係になる。
逃げ道のあった感情が、自覚された感情になる。
曖昧だった距離が、関係の歴史になる。

交際とは、不安を処理するための形式である。

しかし同時に、
自分が何を望み、誰を特別に扱い、どの関係に責任を持とうとしているのかを自覚する契機でもある。

そしてその自覚は、不可逆である。

人は、知らなかった頃には戻れない。
言わなかった頃には戻れない。
名前をつける前の曖昧さには戻れない。

だから交際とは、ただの所有契約宣言ではない。

それは、人間が自分の感情を引き受けるための、危うくも重要な境界線なのだ。


終章

交際とは、愛を可能にする制度ではない。


愛することは、交際していなくてもできる。
大切にすることも、交際していなくてもできる。
誠実でいることも、交際していなくてもできる。
相手を傷つけないように配慮することも、交際していなくてもできる。

では、なぜ交際が必要なのか。

それは、人間が曖昧な親密さに耐えられないからである。

交際とは、すでに可能な親密さに、名前を与えること。
排他性を与えること。
説明責任を与えること。
不安の置き場所を与えること。
裏切りの線を仮決めすること。

その意味で、交際は脆い。

口約束に過ぎない。
未来を保証しない。
人格を保証しない。
誠実さを保証しない。
愛の持続も保証しない。

けれど、それでも交際という宣言には意味がある。

なぜなら、名前を与えられた関係は、もう名前のなかった頃には戻れないからだ。

交際とは、所有に似た安心を求める宣言である前に、自分の感情を引き受けるための宣言でもある。

私は、この人を特別に扱う。
私は、この親密さを偶然のままにはしない。
私は、この関係に名前を与える。
私は、この関係の中で生じる不安や責任から、完全には逃げない。

そう言うことでもある。

だから交際とは、不安管理の形式である。

しかし、それだけではない。

交際とは、自覚の発生である。

自分が誰を特別に見ているのかを、自分に知らせる契機である。

そして交際とは、不可逆性の発生でもある。

一度名前を与えた関係は、何もなかった関係には戻れない。

別れたとしても、交際する前の二人には戻れない。

友達に戻ったとしても、最初から友達だった頃とは違う。

言葉は、関係を変えてしまう。

付き合おう。

その言葉は、未来を保証しない。
けれど、その瞬間に二人の関係を変質させる。

曖昧だった親密さが、名前を持つ。
逃げ道のあった感情が、自覚される。
輪郭のなかった不安が、発言権を持つ。
そして二人のあいだに、ひとつの歴史が生まれる。

交際とは、愛の完成ではない。

交際とは、不完全な人間が、不完全なまま親密さに輪郭を与え、自分の感情を引き受け、もう戻れない関係の歴史を始めるための、脆い口約束である。


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