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受動同士の恋愛

副題  
愛は現象として起こり、関係はそれを引き受けることで始まる

はじめに  
俺がいなくても生きられる人



「俺がいなくても生きられる人だけど、それでも一緒にいたいと思える。」

そういう相手がいるとして、私はふと思ってしまう。

じゃあ、それは付き合わなくてもよくないか。

普通なら、ここで話は終わる。

一緒にいたいなら付き合えばいい。

好きなら告白すればいい。

他の誰かに取られたくないなら、関係に名前を与えればいい。

恋愛とは、そういうものだと思われている。

けれど、私の中にはずっと違和感があった。

交際とは、親密さの排他範囲を決める口約束である。

もちろん、それには意味がある。

曖昧な関係に名前を与える。

不安を減らす。

どこからが裏切りなのかを仮決めする。

自分の感情を自覚し、関係に不可逆性を生む。

だから、交際を軽く見ているわけではない。

けれど、それでも私は思ってしまう。

縛ったから一緒にいる関係よりも、縛られていないのに、それでも会いに来る関係の方が美しいのではないか。

自分がいなければ生きられない相手ではなく、自分がいなくてもちゃんと生きられる相手。

けれど、それでもなお一緒にいたいと思える相手。

必要だから隣にいるのではなく、自由であるにもかかわらず隣にいる相手。

そこに、所有でも依存でもない恋愛の可能性があるように思える。

第一章  
必要とされる恋愛と、選ばれる恋愛



恋愛には、必要とされたい欲望が混じる。

自分がいないと駄目だと思いたい。

自分だけが支えられると思いたい。

自分だけが理解者でありたい。

相手の弱さの中に、自分の居場所を見つけたい。

これは悪ではない。

人は誰かに必要とされることで、自分の存在を確かめることがある。

誰かを支えることで、自分の人生に意味を感じることがある。

けれど、必要とされることと、愛されることは同じではない。

必要とされる関係では、相手の欠如が自分の居場所になる。

相手が弱っているほど、自分の価値が高まる。

相手が自立すると、自分の居場所が揺らぐ。

そこには、優しさの顔をした依存が混じることがある。

一方で、私が考えたいのは、必要性によって結ばれる恋愛ではない。

相手は、自分がいなくても生きられる。

自分も、相手がいなくても生きられる。

生活は壊れない。

人生も終わらない。

それでも、一緒にいたい。

これは、必要とされる恋愛ではなく、選ばれる恋愛である。

ただし、ここでいう選ばれるとは、勝ち取ることではない。

他の誰かに勝つことでもない。

相手の自由を奪い、自分を選ばせることでもない。

相手が完全に自由であるにもかかわらず、なおこちらへ身体が向いている。

その事実に価値を感じるということである。

私はたぶん、そういう恋愛を考えていた。

支配でもなく、依存でもなく、所有でもない。

必要性ではなく、余力によって隣にいる関係。

欠けているから結ばれるのではなく、欠けていなくても響いてしまう関係。

それが、私の言う受動同士の恋愛に近い。


第二章  
受動と能動ではなく、受動同士



恋愛はふつう、能動と受動で語られる。

好きになる。

追いかける。

告白する。

口説く。

手に入れる。

守る。

選ぶ。

これは能動の恋愛である。

一方で、好きになられる。

求められる。

選ばれる。

見つけられる。

必要とされる。

これは受動の恋愛である。

多くの恋愛は、この能動と受動の組み合わせとして語られる。

誰かが好きになり、誰かが応じる。

誰かが求め、誰かが受け入れる。

誰かが近づき、誰かが許す。

けれど、私が考えている恋愛は少し違う。

受動と能動ではない。

受動同士の恋愛である。

それは、何もしない恋愛ではない。

消極的な恋愛でもない。

相手に任せきる恋愛でもない。

受動同士とは、互いを所有しようとしないということである。

互いを変えようとしないということである。

自分の欠如を相手に背負わせないということである。

相手の人生を、自分の安心のために曲げようとしないということである。

ただ、相手の存在によって、自分の心の向きが変わってしまう。

そして自分の存在もまた、相手の心の向きを少し変えてしまう。

そこには、命令も支配もない。

けれど、変化は起きている。

押したわけではない。

引いたわけでもない。

それでも、互いの存在が、互いの内側に触れてしまう。

これが受動同士の恋愛である。

誰かを愛するというより、誰かによって愛が起こってしまう。

誰かを選ぶというより、その人の未来によって自分の未来が傾いてしまう。

その人を手に入れたいのではない。

けれど、その人がいる世界と、いない世界では、自分の世界の鳴り方が変わってしまう。

恋愛とは、そういう現象でもあるのだと思う。


第三章  
愛は行為ではなく、まず現象である



愛は、行為として語られやすい。

大切にする。

会いに行く。

連絡する。

支える。

贈る。

守る。

言葉にする。

たしかに、これらは愛の形である。

けれど、愛の発生は行為ではない。

愛は、まず起こる。

気づいたら、その人のことを考えている。

気づいたら、その人の幸せを願っている。

気づいたら、その人の未来が、自分の未来の中に入り込んでいる。

気づいたら、その人が笑っている世界の方を、よい世界だと思っている。

これは、意志の前に起こる。

選択の前に起こる。

説明の前に起こる。

だから愛は、まず現象である。

人は、愛そうと思って愛するのではない。

愛が起こったあとで、自分がその人を愛していたことに気づく。

その意味で、愛は心の中に発生する出来事である。

ネテロ会長の言葉を借りるのなら

会っていなければ愛せないとでも思ったか。

愛とは心の所作である。

この言葉は、かなり正しいと思う。

会っていなくても、相手の幸せを願うことはできる。

連絡を取っていなくても、相手を大切に思うことはできる。

関係名がなくても、相手がどこかで安心して笑っていてほしいと願うことはできる。

相手が自分の隣にいなくても、その人の存在が自分の倫理を変えてしまうことはある。

だから愛は、距離に負けない。

愛は、所有に依存しない。

愛は、関係名だけで発生するものでもない。

ただし、ここで間違えてはいけない。

愛が心の所作であることと、関係が成立していることは同じではない。

愛は一方通行でも成立する。

祈りも一方通行で成立する。

感謝も、相手に届かなくても成立する。

けれど関係は、どこかで応答を必要とする。

愛は心の所作である。

しかし関係とは、その所作が現実の中でどう扱われるかである。


第四章  
愛は起こるが、関係は引き受ける



ここが大切だと思う。

愛は起こる。

けれど、関係は引き受ける。

誰かに触発されることは、自分では完全には選べない。

なぜその人なのか。

なぜその言葉が残ったのか。

なぜその笑顔だけが忘れられないのか。

なぜその人の未来が、自分の中で特別な重さを持つのか。

それは、あとから説明することはできても、最初から意志で選べるものではない。

愛の発生は現象である。

だが、その愛をどう扱うかは倫理である。

近づくのか。

距離を置くのか。

名前を与えるのか。

沈黙の中に置くのか。

祈りとして留めるのか。

生活へ移すのか。

感謝として返すのか。

関係として引き受けるのか。

ここには選択がある。

だから、「愛は現象である」という言葉だけで、すべてを許してはいけない。

好きになってしまったのだから仕方ない。

触発されてしまったのだから仕方ない。

愛が起こったのだから仕方ない。

そうやって、自分の感情を免罪符にしてしまえば、愛は簡単に人を傷つける。

愛は起こる。

けれど、起こった愛を相手にぶつけてよいわけではない。

愛は心の所作である。

けれど、その所作を相手の生活へ持ち込むなら、責任が生まれる。

ここに、所有しない愛の難しさがある。

所有しないとは、何もしないことではない。

責任を放棄することでもない。

相手の自由を認めながら、自分の中に起こった愛を、どの距離で、どの形で、どの言葉で扱うかを考えることである。

愛は発生においては現象である。

保持においては心の所作である。

関係化においては行為である。

この三つを分けなければならない。


第五章  
支配も依存もない世界



受動同士の恋愛とは、支配も依存もない世界である。

相手を自分のものにしない。

相手を変えようとしない。

相手の自由を罰しない。

相手の不在を裏切りと決めつけない。

相手の人生を、自分の安心のために小さくしない。

それは、とても難しい。

なぜなら、人は好きになると不安になるからだ。

相手が他の誰かといると、心が揺れる。

相手が自分なしで楽しそうにしていると、自分の必要性が揺らぐ。

相手が自由であればあるほど、自分が選ばれている保証はなくなる。

だから、多くの恋愛は相手を囲いたくなる。

関係名を求める。

排他性を求める。

説明を求める。

安心のために、相手の自由を少しずつ削ろうとする。

それがすべて悪いとは言わない。

人間は神ではない。

不安のない恋愛など、ほとんど存在しない。

だから交際という形式には意味がある。

約束には意味がある。

名前には意味がある。

けれど、それでも私は思う。

縛った結果として一緒にいるよりも、自由の中でなお会いに来ることの方に、深い価値を感じる。

相手がどこで何をしていてもいい。

誰と笑っていてもいい。

自分の知らない時間を生きていてもいい。

それでも、ふとしたときにまた会いに来る。

それでも、こちらの言葉を思い出す。

それでも、互いの人生のどこかで静かに響いている。

そういう関係に、私は強く惹かれる。

これは、無関心ではない。

冷たさでもない。

むしろ、かなり強い愛である。

なぜなら、相手を所有せずに幸せを願うには、自分の不安を相手に背負わせない強さが必要だからだ。

愛とは、相手をこちらへ閉じ込める力ではない。

相手がその人自身として生きていくことを願う心の所作である。

そのうえで、もし互いにまた隣を選ぶなら、それはとても美しい。


第六章  
付き合わなくてもよいのか



では、受動同士の恋愛において、交際は不要なのか。

付き合わなくてもよいのか。

ここは慎重に考えたい。

たしかに、愛は交際しなくても成立する。

相手の幸せを願うことは、関係名がなくてもできる。

相手を大切に思うことも、交際していなくてもできる。

会わなくても愛せる。

連絡しなくても祈れる。

所有しなくても、相手の未来を願うことはできる。

しかし、愛と関係は違う。

愛は心の中で成立する。

関係は、現実の中で扱われる。

交際とは、愛を発生させるものではない。

交際したから愛が生まれるわけではない。

けれど交際は、すでに起こっている愛に名前を与え、その扱い方を二人で引き受ける形式である。

だから、交際はただの専属契約の口約束であると同時に、それだけではない。

交際とは、親密さの排他範囲を決める口約束である。

けれど同時に、自分の感情を偶然のままにしないための宣言でもある。

私はこの関係を、曖昧なまま消費しない。

私はこの親密さを、都合よく扱わない。

私はあなたとの距離に、一定の責任を持つ。

そういう宣言でもある。

だから、交際を拒むことが成熟とは限らない。

自由なまま愛せることは美しい。

けれど、関係に名前を与えないことで、責任を避けることもできてしまう。

傷つく立場に立たない。

相手に求めない代わりに、自分も引き受けない。

曖昧なまま近づいて、曖昧なまま離れる。

それを「所有しない愛」と呼んでしまえば、かなり危うい。

所有しない愛とは、責任を持たない愛ではない。

関係名を拒むことと、責任を拒むことは違う。

受動同士の恋愛が本当に成立するなら、そこには自由と同じだけの誠実さが必要になる。

縛らない。

けれど、雑にしない。

所有しない。

けれど、逃げない。

名前を急がない。

けれど、相手を不安の中に放置しない。

これができてはじめて、受動同士の恋愛は美しいものになる。


第七章  
会っていなくても愛せるが、伝えなければ届かない



会っていなければ愛せないとでも思ったか。

愛とは心の所作である。

この言葉は、愛の強さをよく表している。

だが、同時にもう一つの言葉も必要である。

伝えなければ、届かない愛もある。

心の中でどれだけ願っていても、相手にはわからない。

どれだけ幸せを祈っていても、相手の孤独を減らせないことがある。

どれだけ大切に思っていても、現実の相手に何も届いていなければ、その愛は関係にはならない。

だから、愛には距離がある。

祈りとしての愛。

感謝としての愛。

記憶としての愛。

沈黙としての愛。

関係としての愛。

生活としての愛。

どれも愛である。

けれど、それぞれの距離は違う。

祈りとして置くべき愛を、関係として押しつけてはいけない。

関係として引き受けるべき愛を、祈りのふりをして放置してもいけない。

感謝として返すべき愛を、未練として抱え続けてはいけない。

沈黙として守るべき愛を、欲望として相手の生活へ侵入させてはいけない。

愛とは心の所作である。

だからこそ、その所作をどこへ置くのかが問われる。

愛には置き場所がある。

そして、人へ向ける愛には速度がある。

相手の速度を壊さず、自分の速度も失わない。

その距離でしか、関係は育たない。

ただし、すべての愛が関係になる必要はない。

私が誰かを愛した結果、世界が今より少しだけ良くなるなら、それでよいではないのか。

そこに必ずしも名乗りは必要ない。

相手に届く愛もある。

届けないことで守られる愛もある。

ただ世界のどこかへ流れていけばよい愛もある。

ここ数ヶ月、私はときどきその境地に足を突っ込んでいる気がする。


終章  
愛は起こり、関係は始まる



「俺がいなくても生きられる人だけど、それでも一緒にいたいと思える。」

この言葉が指しているのは、必要性の恋愛ではない。

欠如を埋め合う恋愛でもない。

相手を自分の安心のために所有する恋愛でもない。

自分がいなくても、相手は生きていける。

相手がいなくても、自分は生きていける。

それでも、世界のどこかで互いの存在が響いている。

それでも、ふとしたときに会いたいと思う。

それでも、相手が笑っている世界の方をよい世界だと思う。

それが、受動同士の恋愛なのだと思う。

愛は、行為として始まるのではない。

まず、現象として起こる。

その人の存在に触発される。

心の向きが変わる。

世界の見え方が少し変わる。

未来の重心が、わずかに傾く。

けれど、愛は起こるだけでは足りない。

起こった愛をどう扱うか。

祈りとして置くのか。

感謝として返すのか。

沈黙の中で守るのか。

関係として引き受けるのか。

生活へ移すのか。

そこに人間の倫理がある。

愛の発生は現象である。

愛の保持は心の所作である。

愛の関係化は行為である。

受動同士の恋愛とは、互いに触発されながらも、相手を所有せず、その触発を丁寧に扱う関係である。

支配しない。

依存しない。

救わせない。

救おうとしない。

けれど、見捨てもしない。

ただ、互いの存在によって世界の鳴り方が変わってしまう。

そのふるえを、雑に扱わない。

愛は、相手をこちらへ連れてくる力ではない。

相手がその人自身として生きる世界を、こちらの中でも肯定してしまう力である。

それが、私にとっての受動同士の恋愛である。


最終命題

そもそも愛は、どう起こるのか。

愛は、まず現象として起こる。
そして、心の所作として保たれる。
最後に、関係として引き受けられる。

だから、愛はただの感情ではない。
ただの行為でもない。
ただの契約でもない。

愛とは、起こってしまったものを、どの距離で、どの形で、どれだけ誠実に扱うかという、人間の倫理である。


最終命題

交際とは何か

恋愛の選好とは何か

好意は消えても唯一性は消えない

愛は無償ではなく、報酬を含んでいる

待っていたのは、あの人ではなく結末だった

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