見出し画像

自分がまず自分に優しくする

前回は、フォーカシングのワークショップに参加したことと、そしてフォーカシングは心の傷を「優しく」癒す方法であることを書いた。

フォーカシングで癒される過程

フォーカシングのワークショップの続きについてかく。

ワークショップでは、コラージュをしたり、色々なことをした。
けれど、ふたりひと組でやったフォーカシングのワークが一番エキサイティングだった。

わたしは、自分の痛みが何なのか、を理解したとき、身体がふわぁーっと軽くなるのを実感した。

座って深呼吸する。
何度目かのフォーカシング練習だった。
小さな小さな自分をイメージする。
頭のてっぺんから、身体の中を歩かせていく。
そのとき、違和感を感じたのは眉間だった。

ぎゅーっと集まろうとしている眉間を誰かが引っ張られているような感じ。
凝りのような、筋肉痛のような、鈍い重いシコリ。
気になり始めたら、もうたまらなくなった。
眉毛の上も筋肉痛のような凝りを過ぎた痛みが広がり、重苦しい。
毛の一本一本に、小さな小さな小人がぶら下がり、みんながあちこちに引っ張っている。
眉間に集まろうとする力とたくさんの小人たちが引っ張ろうとする力が拮抗している。

「小人たちは、なぜ引っ張っているのですか?」

リスナーにそう問われたとき、その答えが涙と一緒に溢れてきた。

「本当はやりたくない。
でも、やらなきゃみんなに迷惑がかかる。
それに働かないと家賃が払えない。実家には絶対帰りたくない。
それに、やるって言ったことはやらないといけない。
ダメなひとだって烙印を押される。
わたしが生きている価値がなくなっちゃう。
小人は、罪悪感とか恐怖とか責任感とか。
みんながわたしを引っ張り合って、もうどこにも動けない。苦しい。」

このビジョンが見えたとき、全身から力が抜けていった。
見えた瞬間から、流れていく涙に小人は消え、眉間は軽くなっていった。

フォーカシングの「優しい」ところ

このとき、例えばこの眉間の違和感について、掘り下げない時もある。

フォーカサー(話すひと。カウンセリングでいうクライアント側)が違和感を見つけても、そこに近寄りたくない場合、その日はスルーしていい。
気になる場合は、遠くから眺めていてもいい。

違和感のイメージはあくまでもそのひとのものだ。

歩く道に石ころが落ちていたり、小さな女の子に会ったりすることもある。
血管が詰まっているみたいなリアルなイメージを持つひともいる。
不快なイメージだけではなく、いいイメージのときもある。
空から光が降り注いでいるとか、水がたっぷりと満たされた器とか。

ひとがいれば、まず観察する。
その場合、年齢や性別、どんな顔や体型をしているか。
こっちに気づいているのか、どんな表情をしているか。

フォーカサーがそのひとを「みたくない」のであれば、その気持ちにフォーカスする。
なぜみたくないのか。
怖いのか、気持ち悪いのか、いやな予感がする、誰かに似ているというときもある。

話しかけられるのであれば、話しかけてみるのもいい。
もちろん、いやなら話しかけなくていい。
フォーカサーのいやなことはやらないのがルールだ。

だから、カウンセリングのように、後味が重くならない。
「ああ、今日もちゃんと自分はできなかった」
「いやなことを思い出して、また胸のあたりがモヤモヤする」
そんな気持ちになることがない。

今の自分の限界がここまでだと知る。
そして、そんな自分を赦して受け入れる。
そこまでがフォーカシングで、そこまでセットにしないと「癒し」は進まない。
フォーカシングは、「優しさ」やひとのあるがままを受け止める在り方が技術として形にされてある。

ワークショップの終わりに、わたしは先生から「すごい感性をしてるのね」と褒められた。
そのことも、わたしの人生を変えた。
それまで、わたしは自分の感性を弱さ、甘え、逃避や子どもっぽさだと思っていたし、生きるのに邪魔だから排除したい汚点として、自分で自分をいじめていた。
けれど、褒めていただいたことで、これが「感性」という能力だと初めて知った。
天羽和子先生とおっしゃるその方はわたしの恩人だ。

続きます。


いいなと思ったら応援しよう!