東印度演義 第三回
先遣諸会社利を争いて共に倒れ 賢相合同の策を献ず
前回、ハウトマンの三隻が半死のていで帰り着き、儲けは薄くとも「行ける、買える、ポルトガルは止められぬ」の三つの答えを持ち帰ったこと、そして翌一五九八年、五つの船団二十二隻がわれ先にと東方へ乗り出したことを語った。堰は、切れたのである。だが切れた堰から流れ出すものは、富ばかりではない。今回は、その両方を語らねばならぬ。
まず、富のほうから語ろう。
一五九八年五月、アムステルダムの旧会社——ハウトマンを送り出したあの遠国会社の流れを汲む一党である——は、雪辱を期して八隻の大船団を仕立てた。率いるはヤコブ・ファン・ネック。副将格にヴィブラント・ファン・ワルウェイク、ヤコブ・ファン・ヘームスケルクの両名。船も積荷も前回とは桁が違ったが、何より違ったのは、重役たちが持たせた訓令の中身である。
曰く——現地の君侯には礼を尽くせ。値切りは程を知れ。贈物を惜しむな。そして何より、先の船団の非礼を、まず詫びよ。
要するに、二年半と百六十余りの命で買った教訓が、一枚の訓令に煮詰められていたのである。プランシウスの訓えは、こんどは岸壁の説教ではなく、社の掟として船倉に積み込まれた。
ついでに言えば、当のプランシウスは相変わらずであった。この牧師、旧会社の相談役でありながら、頼まれれば新しい会社の航海士にも星の測り方を教え、海図を売った。義理を欠くと詰る者には、平然とこう答えたという。「星は、特定の会社の持ち物ではない。神の御業を、わたしは誰にでも説くまでよ」——のちの世に言う自由の海の理屈を、この男は説教壇の上から、一足先に生きていたのかもしれぬ。
さて、バンテンの側にも、風向きの変わる事情があった。紅毛の四隻を追い返してからというもの、ポルトガルとの仲が年々こじれ、ついには武力沙汰の気配さえ漂い始めていたのである。百年の独占者は、新参の買い手を歓迎しかねぬ売り手を、力ずくで躾けようとした。こうなると、砲門の多い紅毛の商船は、海賊の先触れどころか、頼もしい後ろ盾に見えてくる。憎まれ者が二人いれば、昨日の無礼者も今日の客になる。港と港の仲とは、そういうものである。
一五九八年十一月、ファン・ネックの船団はバンテンの湾に入った。ファン・ネックはまず宮廷に伺候して先の船団の狼藉を丁重に詫び、王と摂政に贈物を山と捧げた。緋の羅紗、金銀の細工物、大鏡、そして酒。謁見の間で、摂政は贈物の目録を長々と眺めてから、口の端に笑みを浮かべたという。
「先に参られた同国の客人は、値切るために海を渡って来られたようであった。貴殿は、どうやら買うために来られたと見える」
「仰せの通りにございます」ファン・ネックは深々と頭を垂れた。「商人の国にも、出来の悪い商人はおりまする。先年の非礼、社に代わってお詫び申し上げる」
「よろしい」摂政は目録を巻いた。「胡椒は、倉に唸っておる。ポルトガル人が近頃、値を渋る上に、砲まで向けたがるでな。……買い手は、多いほうがよい」
かくて言い値に近い値で商いが始まり、市場は沸いた。ひと月あまりで四隻の船倉が胡椒で満ち、ファン・ネックはその四隻を率いて、さっさと帰途に就いた。商いの上手とは、買うのが上手い者ではない。切り上げ時を知る者である。
残る四隻はワルウェイクとヘームスケルクに委ねられ、さらに東へ向かった。胡椒よりなお高価な丁子と肉荳蔻の故郷、香料諸島そのものへ、である。
読者諸賢、ここで地図を思い浮かべられたい。ジャワの東、小島が数珠のように連なるその先に、アンボンの島がある。南へ下れば肉荳蔻のバンダ諸島、北へ上がれば丁子のテルナテ。ポルトガルが百年のあいだ、喉から手が出るほど惜しんで隠してきた、香料の泉そのものである。一五九九年の春、ワルウェイクはアンボンとテルナテに、ヘームスケルクはバンダに、それぞれオランダの帆を初めて現した。
テルナテは、海から立ち上がる円錐の火山がそのまま一国をなしたような島である。スルタンは丁子の独占をめぐってポルトガルと数十年を争い続けており、新参の紅毛人を、敵の敵として上座に迎えた。丁子を売ろう、砦の一つも貸そう、その代わり、あの南蛮人どもを海から追う日には力を貸せ——商いの話が、初対面から同盟の話である。香料の島の政とは、香料の木の数を数えることと同じであった。
一方のバンダは、趣を異にする。この諸島には王がない。オランカヤ——「富める者」と呼ばれる島の長老たちの寄合が、村ごと島ごとに事を決める。肉荳蔻という香料は、世界広しといえどもこの一握りの小島にしか実らぬ。長老たちは何十年ものあいだ、ポルトガル人にもジャワ人にも支那人にも同じ値で売り、誰の臣下にもならずにやってきた。ヘームスケルクの船が現れたときも、長老たちは新しい買い手として遇し、それ以上のものとしては遇さなかった。売る、買う、それだけである——この小さな島々の名を、読者諸賢はよくよく覚えておかれるがよい。
かくて丁子と肉荳蔻が、リスボンを経ず、ゴアも通らず、初めてオランダ船の船倉へ直に流れ込んだのである。幾人かの商務員が島々に残って買い付けの帳場を開いた。後の商館の、これが走りである。
一五九九年七月、ファン・ネックの四隻はアムステルダムに帰り着いた。出航から、わずか十四月余。死者は僅少、船倉は満杯である。町中の鐘という鐘が鳴らされ、重役たちは船長らの首に金の鎖を掛け、祝いの葡萄酒が桶で振る舞われた。年代記の筆者は誌している——ホラントがホラントであって以来、これほど豊かに積んだ船が帰り着いたことはない、と。勘定が締まってみれば、儲けはおよそ元手の倍。遅れて帰る僚船がそのたびに配当を積み増し、旧会社の株主は笑いが止まらなかった。
思えば、わずか二年前である。同じ桟橋に、継ぎはぎの帆の三隻が這うように帰り着き、女房たちが八十七の顔の中に亭主を探して立ち尽くしたのは。あのときの鐘は祝いと弔いを続けて鳴らしたが、こんどの鐘は祝いばかりを鳴らした。倉庫の並ぶ河岸には胡椒と丁子の香が満ち、荷揚げを眺める人垣の中では、子供らが割れた肉荳蔻の実を拾って囓り、その舌を焼く辛さに歓声を上げた。香料とは、つまるところ匂いと辛みである。だがこの日のアムステルダムでは、それは紛れもなく、富の匂いであった。
ハウトマンの航海が「行ける」ことの証明ならば、ファン・ネックの航海は「儲かる」ことの証明であった。そして儲かることの証明ほど、人を狂わせるものは、この世にない。
ところ変わって——同じ歳月の、帳簿の裏側である。
一五九五年から一六〇一年までのあいだに、オランダの諸港から東方へ発った船団は都合十五、船の数にしておよそ六十五隻を数える。アムステルダムに新旧二つ、ゼーラントのミデルブルフに幾つ、ロッテルダムにも、デルフトにも。雨後の筍とは前回に言ったが、筍は互いの根を食い合わぬだけ、まだ行儀がよろしい。
ゼーラントの新会社は、アムステルダムの鼻を明かそうと、経験ある者を破格の給金で引き抜きにかかった。白羽の矢が立ったのが、誰あろう、コルネリス・デ・ハウトマンである。査問で散々に絞られたあの男が、こんどは二隻を預かり、スマトラ島の北端アチェへ向かった。一五九九年六月のことである。
アチェは胡椒の大産地にして、ポルトガルと半世紀を戦い続けてきた気骨の強国である。老王は新参の紅毛人を、初めは鄭重に迎えた。ここでもまた、追い風は吹いていたのである。——だが、この先の筋書きは、もはや言わずとも知れよう。
ここで一度、アチェの宮廷の側から、この客人たちを眺めておきたい。老王アラウッディンの御前には、二様の声が届いていた。ひとつはポルトガルの息のかかった商人の声である。曰く、あの紅毛人どもはジャワの港で砲を放ち、マドゥラでは出迎えの貴人を撃ち殺した無法の徒にございます、と。今回ばかりは、讒言に嘘がない。もうひとつは、王の傍らに侍る一人の女人の声であった。名をマラハヤティという。夫をポルトガルとの海戦で失い、同じ境遇の寡婦たちを募って一軍を編み、みずから提督として王国の海を預かる——アチェが誇る、女の海将である。
「紅毛人が礼を知らぬ客なら、追えばよいだけのこと」と、女提督は言ったと伝えられる。「されど大王、彼らの持つ砲と、ポルトガルと敵し合うているという一事は、使いようがございましょう。客の器を、まず量られませ」
王は器を量ることにした。だが量られる側のハウトマンが、いつものハウトマンであった。商いを急かし、値を嘲り、酒の上の狼藉が重なり、あげくに王国の作法を犬の作法のように扱った。疑心が宮廷に満ち、九月一日、宴のあとの海の上で、王の兵船の群れが二隻を襲う。先頭に立ったのは、女提督マラハヤティの舟であった。乱刃のなか、ハウトマンは甲板に斃れた。手ずから討ち取ったのは女提督その人であったと、アチェの語り草は伝えている。享年、およそ三十四、五。リスボンの牢、バンテンの牢と勘定を重ねてきたこの男の山気は、三度目の勘定を、命で払ったのである。
弟のフレデリックは、生き残って捕らえられた。アチェの牢は、都合二年余に及ぶ。改宗を迫られても首を縦に振らず、そのくせ、牢の中で手を遊ばせもしなかった。昼は牢番や市場の者の話し声に耳を澄ませてマレー語の単語を紙切れに拾い、夜は獄窓の切り取る南の空に、あの星々を探した。兄は牢の匂いと縁が切れぬまま死に、弟は牢の中でさえ帳面と星を離さなかった。亡きケイセルの星表の続きは、こうして獄窓の下で綴られたのである。二年ののち釈放されたフレデリックの行李には、マレー語辞書の草稿と南天の星の勘定とが納まっていた。同じ家に生まれながら、山気は兄に、根気は弟に——天の配りようも、なかなかに味なものである。
災難は、東回りの道ばかりではない。ロッテルダムの一党は、あろうことか西回り——マゼランの海峡を越える道に社運を賭けた。五隻、乗員およそ五百。結果から言えば、この賭けはほとんど総崩れに終わった。南米の岸で飢え、海峡の冬に凍え、船団は散り散りになり、沈む船、敵に降る船が相次いだ。ただ一隻リーフデ号のみが広い太平洋を斜めに渡り切り、一六〇〇年の春、日本は豊後の浜に漂着した。百十で出た乗員のうち、おのれの足で立てる者は数えるほど。その中に、ウィリアム・アダムズなる英人の水先案内人がいた。この名は、いずれ日本の段で再び語られることになる。
また別の四隻は、オランダ船として初めて地球をひと回りして一六〇一年に帰り着いたが、四隻のうち戻ったのは一隻、持ち帰ったのは名誉ばかりで、帳簿は火の車であった。壮挙と儲けとは、必ずしも同じ船に乗らぬのである。
そして——ここが肝心なところだが——無事に東回りの道を往復した船団とて、決して安泰ではなかった。帳場の数字が、年を追うごとにおかしくなってゆくのである。
理屈は単純である。バンテンの港に紅毛の買い手が二つも三つも鉢合わせれば、胡椒の値は競りになる。売り手のジャワ人は袖の中で算盤を弾いて笑い、買い手のオランダ人は同胞の顔を睨む。かくて仕入れの値は、数年のうちに倍へ迫った。ところが帰ってみれば、アムステルダムの市場には各社の胡椒が一時に山と積まれるのだから、こんどは売値が崩れ落ちる。東で高く買い、西で安く売る——これで身代の保つ道理がない。おまけにどの社も相手を出し抜こうと船足を急がせ、風待ちを惜しみ、無理な航海がまた難破と病人を増やした。
しかもこの商い、手綱を締めようにも、手綱そのものが届かぬのである。低地の国から香料の海までは、片道六月から九月。重役の指図が現地に届く頃には、値も、敵も、季節の風も、すっかり様変わりしている。買い控えよという指図と、買い占めよという指図が、行きと帰りの船で海の上ですれ違うことさえあった。要するに、東方の商いとは、一年半前の耳と一年半先の口で行う商いなのである。指図の届かぬ海の上では、判断はすべて現地の男たちの胸三寸に委ねられる。よくもわるくも、である。
アムステルダムの取引所の柱の陰で、旧会社の老重役が新会社の若い重役を捕まえて、こう言ったと伝えられる。
「若いの、教えてくれぬか。われらはいったい、何と戦うておるのか。ポルトガルか、それともお主らか」
「商いは戦でございましょう」
「左様、戦よ。だがな、味方の背中に鉄砲を撃ちかける戦を、わしは戦とは呼ばぬ。共食いと呼ぶ」
共食いの帳簿は、噂話ではなかった。船を担保に金を借りて艤装した小さな会社が、頼みの帰り船一隻の難破で丸ごと潰れた。別の会社は、競り負けて空同然の船倉で帰り、株主への言い訳の代わりに重役が夜逃げをした。取引所では諸会社の持分が投げ売りと買い煽りの間を乱高下し、儲けた者より、青い顔の者のほうが目に見えて増えていった。海の彼方の胡椒の木は一本も減っていないのに、低地の国の身代だけが、確かに減ってゆくのである。
しかも、眠っていた番人が、ようやく目を覚ましつつあった。リスボンとゴアは、香料の海に紅毛の帆が年々増えるのを、いつまでも指をくわえて見てはいない。一六〇一年、ゴアより精鋭の大艦隊が発し、諸島の海から紅毛人を根こそぎ掃討せんと、まずバンテンの沖に現れた。大小三十隻に及ぶ威容である。おりから居合わせたオランダの船は、わずかに五隻。ところがこの五隻、逃げなかった。年の瀬の三日にわたり、風上を取っては舷側の砲を浴びせ、取り囲まれれば擦り抜け、大艦隊の足並みを散々に乱した末、ついにこれを退かせたのである。
イベリアの海の壁が書割にすぎぬことは、かつてアゾレスの丘からリンスホーテンが見抜いたとおりであった。だが同時に、五隻の綱渡りがいつまでも続く道理のないことも、眼のある者にはひとしく見えていた。番人が次に、倍の艦隊を仕立てて来たら、どうするのか。
富の報せと、共食いの帳簿と、迫りくる戦の煙と。この三つが半年遅れ、一年遅れで、次々と低地の国へ届く。そしてそれを、机の上で全部まとめて読んでいた男が、一人いたのである。
ところ変わって——ハーグ、ホラント州議会の一室である。
ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト。齢五十四。役目の名はホラント州法律顧問というが、その実、連邦七州の舵を一手に握る、事実上の宰相である。スペインとの長い戦を切り回し、諸州の喧嘩を裁き、若き総督マウリッツの武勲を金と外交で下支えする——低地の国の台所と外向きの顔とを、この男が一人で兼ねていた。書類を読む速さは人の三倍、いちど読んだことは何一つ忘れぬ、と敵にまで言われた男である。
その机の上に、東方がらみの書類が年々積み上がっていた。諸会社の儲けの噂。アチェの凶報。仕入れ値高騰の訴え。ポルトガル艦隊来襲の急報。そして諸外国からの探り——ことにイングランドとフランスが、オランダの成功を横目に、自前の東方進出を企み始めているという報せである。
賢相の執務の部屋には、壁一面に低地の国の地図が掛かっていた。ある晩、遅くまで残っていた書記が、主が地図の前に立ったまま長いこと動かぬのを見て、恐る恐る声をかけたという。地図の御覧になっている所に、何かございますか、と。賢相は振り向かずに答えた。
「見ておるのは地図ではない。地図の外よ。……この国は小さい。土は低く、人は少なく、敵は大きい。この国が生き延びる場所は、この地図の中にはないのだ」
翌朝、諸会社の重役たちへの召状が発せられた。
一六〇一年の暮れも押し詰まった頃、賢相は各地の会社の重役たちをハーグに呼び集めた。アムステルダムの新旧両社、ゼーラントの面々、ロッテルダム、デルフト、ホールン、エンクハイゼン。同じ卓に着かせてみれば、まあ、仲の悪いこと。挨拶より先に嫌味が出る。
「ゼーラントの船が、われらの開いたバンテンで値を吊り上げなさる」
「開いた、とは片腹痛い。海はアムステルダムの持ち物でござるか。神は海を万人に開かれたはず」
「ほう、万人に。ではポルトガル人にも開かれておるわけだ」
賢相は、しばらく黙って言わせておいた。言い分が出尽くし、卓の上の空気が煮詰まった頃合いで、おもむろに口を開く。低い、静かな声である。
「諸君の帳簿を、まとめて読ませてもろうた。仕入れは五年で倍に近づき、売値は年々崩れておる。このまま参れば、十年を待たずに、全部の会社が倒れる。順に、ではないぞ。もつれ合うて、一度に、である」
座が、静まった。
「そこでだ。会社を、一つにしていただく」
たちまち卓が沸き立った。冗談ではない、うちの身代をアムステルダムに呑ませる気か、いや呑むのはこちらの迷惑だ、と喧々囂々。賢相は騒ぎがひと巡りするのを待って、続けた。
「呑むのでも、呑まれるのでもない。束ねるのだ。アムステルダムはアムステルダム、ゼーラントはゼーラントのまま、各々の部屋を保ち、出資も艤装も部屋ごとに行えばよい。ただし旗はひとつ、値決めはひとつ、そして——剣もひとつ」
「剣、と仰せか」ゼーラントの重役が眉を寄せた。「われらは商人でござる」
「商人だからこそ、よ」賢相は初めて、卓の上に身を乗り出した。「諸君はバンテン沖の首尾を聞いたであろう。五隻で三十隻を退けた。見事である。だが次は五十隻が来る。その次は百隻ぞ。ばらばらの会社が、ばらばらの船団で、そのたびに運試しをするおつもりか。——よいか、諸君。わしは胡椒の値のためにばかり言うておるのではない。戦のために言うておるのだ。スペインとの戦は、フランドルの野だけで戦われておるのではない。敵の富の源は東方にある。東方で敵の富の管を締め上げる会社は、それ自体がひとつの軍船である。条約を結ぶ権、砦を築く権、兵を養う権——国家の持つ牙を、この会社に持たせる。連邦議会の名において、な」
商いの寄合が、いつのまにか軍議になっている。重役たちは顔を見合わせた。儲け話と国防とを一枚の紙に書いてみせるのが、この宰相の年来の手口であり、そして、その紙を破れた者がいまだかつて一人もいないのである。
されど、話はその日には決まらなかった。部屋割りの比率で揉め、重役の頭数で揉め、ゼーラントは対等を叫び、アムステルダムは身代の重みを一歩も譲らない。会合は幾度も流れ、そのたびに賢相は倦まず、書状を書き、人を遣り、州議会と連邦議会の間を行き来した。総督マウリッツも軍略の見地からこの策を支え、剣と算盤の双方から、諸会社は外堀を埋められてゆく。それでも商人たちは粘った。低地の国の商人というものは、溺れかけてなお、浮き輪の値段を値切る人種なのである。
そしてその談判の卓上に、また一通、剣呑な報せが載せられた。海峡の向こう、ロンドンからである。曰く——イングランドの商人ら、東インド航海の独占特許状を女王よりすでに得たり。初の船団は、すでに海の上に在り、と。
賢相は書面を静かに置き、一同を見回して、呟いたという。
「……急がねばならぬな」
思えばオランダの成功こそが、ロンドンの胡椒の値を吊り上げ、テムズのほとりの老商人たちの尻に火を点けたのである。鎖を破った者は、破られた鎖の番人だけでなく、鎖の外で様子を窺っていた者たちをも呼び寄せる。海が一度開かれれば、それを見て黙っている国は、この欧州にひとつもないのであった。しかもかの国は船乗りの数も海の武勇も低地の国に劣らず、女王エリザベスは、かの無敵艦隊を破った当代随一の勝負師である。さて、倫敦の冒険者たちはいかにして特許状を勝ち取り、いかなる顔ぶれで初の帆を張るのか。次回「女王特許状を老商に授け 倫敦の冒険者初めて帆を張る」を待たれよ。
(第三回 了)

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