上野恭介は呪われている 第一話『背面ゆびきり』
【あらすじ】
強い霊感と少しの除霊技術を持つ高校二年の神田雅弘は、入学初日から生気のない顔をしている一年、上野恭介と知り合う。
上野は毎晩自分の家に向かって少しずつ近づいて来る謎の怪異に悩まされているという。謎の怪異に脅かされ、左肩には彼を蝕むように死人のような肌色をした悪霊の手が乗っている。――上野恭介は間違いなく呪われていた。
毎晩近づく怪異を祓う為に奔走する中で、神田は上野の過去と左肩に呪う死人の手の秘密を知ることになる。
都市伝説、怪談、宗教……あらゆるホラージャンルに手を出すエンタメライトホラー小説です。
半人前の祓い屋神田と、呪われた後輩上野が高校生活を謳歌しながら怪現象に立ち向かいます。
あれは、僕が高校に入ってすぐの出来事でした――
◇
「ねぇ、なんでそんなことするの? けーくんはまゆの彼氏でしょ? なんで他の女とホテルなんていったの? このまえ夜に電話したら出てくれなかったし、バイトばっかりでぜんぜん一緒にいられない。デートだってどこいくかまゆばっかり決めてるし、このまえお昼ごはんの予約とれなかっただってけーくんがやるっていったからまかせたのに予約しなかったから怒ったのになんで逆ギレするの? けーくんいつもそうじゃん。LINEの交換だってまゆがゆわなかったら交換してくれなかったぢゃん。どーしてまゆに冷たいの? まゆのことすきだってゆってくれたぢゃん!」
「あー」
ヒステリックに喚く女を前にして、俺は心底疲れた声が出てしまった。前原真由は確かに俺の彼女ではあったが、正直もう相手をするのも面倒なのでとっとと切りたい。ぱっと見清楚系でおとなしいので声をかけたが、ここまでアレな女だとは想像してなかった。
大体全体的にいつの話してんだよ。電話に出なかったのは一週間前でバイトめちゃくちゃ入れてたのは去年のGWの話だろ。昼飯の予約は一ヶ月前の話じゃねぇか。どの時点でもこいつは派手に癇癪を起こした後泣いて縋ってきたし、俺も一応悪いと思ったから謝って終わった話だったはずだ。LINEの交換にいたってはまだ付き合ってない時の話だ。大学の授業で同じグループになった、初対面の時の話だ。マジで疲れる。もう終わった話を蒸し返すのは良いとして(良くねぇけど)せめて時系列に沿って話せよ。なんで「私が嫌だった順」みてぇな選び方してんだよ。普通にややこしいわ。
「ねぇ、けーくん約束してよ。もう浮気しないって約束してよ。まゆのことだいすきだってゆって。愛してるってゆってよ」
「あー、うん、うん」
何度も何度もカッターナイフで傷つけてガタガタになった腕が俺の服に縋り付いてくる。リスカ痕は初めてヤる時に気づいた。それまでは化粧とか服とかで上手く隠されてたようで、正直騙された感が強い。
そもそも浮気がどうのこうの喚いてるけど、こいつのバ先ガールズバーだしな。これは半年前に知った。バイトの話変にはぐらかすなーと思ってたらデリヘル一歩手前みてぇなガールズバーで働いててやっぱ騙された感すげぇ。それ言ったらまた騒がれるから言わねぇけど。
なんて喚くか当ててやろうか?
『愛があるのとないとじゃ違うでしょ!?』だ。
あとは自分は仕事だからとかヤッてないからとか。正直もうどうでもいいわ。どうせどんな状況だって自分は絶対被害者だと思ってやがるだろうしな。
「ねぇ、ゆびきりしようよ。背面ゆびきり。ぜったい約束やぶれないように」
もう面倒くせぇから一旦言う通りにしとこう。変にサブカル入ってっから変なおまじないとかやたらやりたがるんだよなコイツ。
「夜十二時にね、鏡の前でゆびきりするの。鏡に背中むけてうしろでゆびきりして、その時鏡を見ちゃいけないの。そうしたらぜったい約束やぶれなくなるんだよ」
は? じゃあわざわざ夜十二時にまたこいつに会わなきゃなんねぇの? はぁーめんど。
ただこの状態のコイツを拒否したらまたヤベェくらいヒスするしな。とりあえず今日は付き合っといて、早めに切るか。
どうやったら切れっかなー。普通にフッてもまたヒスって暴れるだろうし、大学でリスカとか自殺未遂騒ぎ起こしたら面倒だし。
どうにかしてコイツから俺のことフッてくんねぇかな。マジでめんどくせぇ。地雷だわ地雷。
「これからもずっとずっと一緒だよ」
地雷女が不気味に笑う。気持ち悪ぃな。腕を組まれて振り払いたいのを我慢しながら、俺はこの粘着女から逃げる方法を考えていた。
◇
夜の十二時を過ぎた。
窓の外を見始めてから三〇分が経過している。そろそろつま先が冷えて痛くなってきた。左肩も痛い。
窓の向こうはすっかり闇に沈んでいた。青い街灯の灯りだけがポツポツと道に浮かんでいて、火の玉みたいだ。部屋が二階にあるから、火の玉の行列がよく見えた。
今日も、近づいてきている。
ペタペタと裸足でフローリングを歩いているような妙な音が、窓の外から聞こえてくる。
僕、上野恭介は三日前から怪異に悩まされていた。毎晩十一時三〇分を過ぎると、外からペタペタと音が聞こえてくる。それはどんどん近づいてきて、日に日に聞こえる時間が長くなっている――つまり、日に日に僕に近づいてきている。
昨日は、家の近くまで来ていた。今日はどこまで近づいてくるんだろう。
原因ははっきりしている。引越し当日、お化けが出るという噂の廃墟へ遊びに行ったせいだ。僕はもともとこの家で生まれて、小さい頃からその廃墟で遊んでいたから、懐かしくなって顔を出した。僕の家族は、小学校高学年頃から隣の県にある祖母の家で二世帯同居をしていたんだけど、祖母が亡くなって、さらに僕の入学する高校が生家に近かったので、また戻ってくることになったのだ。こっちの方が父の職場も近いし、ちょうど良いらしい。
それで、今や幽霊が出るとか、入ると一週間以内に死ぬとか、僕が知っているのよりグレードアップした噂を引っ提げた廃墟に顔を出してから、この怪奇現象がずっと続いているのだった。
ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた
ああ、近づいてくる。妙な音。家の前まで来て、それから音が壁を這って、登って、窓のすぐそばまで……窓、まで。
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
今までは不思議と音だけで、姿は見えなかった。なのに今日は、近づいてくるにつれて姿が見えるようになってくる。
ぼんやりとした像が、僕の部屋に近づいてくるにつれてハッキリとしてきた。
窓の端に張り付いたソレが、僕の目にははっきりと見える。
ベ タ ッ
嫌な音を立てて窓の端に現れたのは、人の手だ。
傷だらけでボロボロの、汚い手。爪は赤黒く変色していて、中指にゴツゴツとした指輪がついていた。肩の付け根あたりが腐ったみたいにドロドロで、かろうじてくっついているように見える。
見覚えのある手だった。
あの男の手。あの男がつけていた指輪。
「……」
僕が声も出ないくらい驚いてグロテスクな手を凝視している間に、そいつは窓の端からさらに上に行こうと動き始める。張り付いていた手が赤黒い糸を引いて窓から離れ、元の位置より少し高い場所に張り付いた。別の手も溶けるチーズみたいな糸を引いて、ベタッと窓に張り付く。
下からもう一つ、同じくらい汚い手が現れて、窓の端に取り付いた。何本あるんだろう、手。
あんな汚くてドロドロの手に張り付かれたら窓が汚れそうなのに、不思議と何事もなかったみたいに綺麗だ。
それからそいつはゆっくりと手を動かし、粘つく糸をひきなが体をくねらせ、窓を這い上ってくる。
ベ タ ッ ベ タ ッ ベ タ ッ
嫌な音がする。バケモノの全容があらわになり、そいつのせいで月明かりが遮られ、僕の部屋は真っ暗になった。
窓いっぱいに張り付いたのは、人間のパーツで作ったトカゲみたいな、気色の悪いものだった。胴体のあたりは人間のパーツかすら怪しい。ただの肉の塊というか、ぐちゃぐちゃになった人間の胴体がさらに腐り落ちているような感じで、見間違いでなければ、それは微かに脈打っているというか、微動して、表面が波打っているように見えた。
その波に合わせて、顔だろうあたりの肉塊が不自然に捩れ、目玉が一つこっちを覗き込んでくる。
ガタガタガタッ ガタガタッ
バンッ バンッ バンッ
窓に張り付いている三本の腕とは別の、でも間違いなく人間の手が窓を乱暴に叩く。叩く度に赤黒い糸が、ガムのゴミみたいに窓と手の間をふわふわと舞っていた。
敵意なのか殺意なのか、憎々しげに僕を睨みつける一つ目を、僕も睨み返すことしかできない。
なんとかしないと、明日には部屋に入ってくるかもしれなかった。
◇
「ケケッ、ケ痂痂痂痂ッ」
「戯喇ゲら戯喇ゲ喇戯ラ偈喇」
階段の縁あたりに大小さまざまな口がずらりと並んでいる。歯を剥き出しにして下品に笑い声をあげているが、奴らの笑い声が聞こえるのは俺だけだ。
聞くだけで悪意があると分かる笑い声を響かせて、奴らは小走りに階段を降りる女子生徒の足に噛みついた。
「あっ」
階段の縁、つまり地面に口がついているのだから、そいつが人の足を噛むというのはつまり、足首までがすっぽり気色の悪い口の中に入るということだ。気の毒な女子生徒は階段を踏み外したような錯覚に囚われ、そのままバランスを崩して転げ落ちる筈だった。
俺が彼女の腕を掴んだので、女子生徒は体を傾けたまま、目を白黒させるに止まったが。
「新入生か? 気をつけろ。廊下は走るな」
「はっ、はい……ありがとうございます……あの、先輩ですよね……? お名前を、聞いてもいいですか?」
「二年の神田雅弘。まあ、覚えなくてもいいよ。俺より面倒見の良い奴は山ほどいるから」
「い、いえ! あの、神田先輩……ありがとうございました!」
女子生徒が俺に礼を言って頭を下げ、今度はソロソロと階段を降りていく。
足元で忌々しそうに歪んだ口が「チッ」と舌打ちをした。舌打ちしたいのはこっちだが、こんな人通りの多い場所で舌打ちしたら俺は白い目で見られてしまう。仕方がないので憎しみを込めて文字通りの口だけ野郎を靴底で思い切り踏みつけてやった。
「伽ッ! 伽ァァアあァァ吾ァ吾ッ!?」
口が叫ぶ。吸い殻の火を消すかの如くかかとで入念に踏みつけてやった。
「祓い給え清め給え」
くたばれという俺の気持ちをブーケにして送りつけて窒息させてやろうと思ったら口だけ野郎が消えた。出会って数秒の出来事だ。さすが出会いと別れの季節だな。もう二度と会うこともないだろう。
今日は四月の初登校日だ。つまり高校一年の、今まで中坊だった連中が目をキラキラさせて校舎にやってくる。連中はやたらと浮き足立っているので、さっきみたいな事故は多い。大半は性悪幽霊の仕業だ。楽しそうにしている奴らがクズ幽霊のせいで怪我をするのも業腹なので、弱い幽霊なら除霊することが出来る俺も偶然を装ったりして助けているというわけだ。
幽霊なんてゴミだ。マトモな奴は死んだらとっととこの世から離れる。しがみ付いている奴にろくな奴はいない。例外はいない。いないと思ってないとこっちが殺される。
子供の頃には怖くて仕方がなかったそれを、俺は今や憎んですらいた。理由は何度も殺されかけたからだ。今は霊を祓う方法の基礎を教わった事で、なんとか暮らしていけている。日常生活を送る上では不自由していない。本格的に教わるのは高校卒業してからということでお預けになっていた。これ以上は生業にする為の方法だから、就職出来る年齢になるまではダメだと言われたのだ。
俺にこの手の事を教えてくれる『センセイ』とは今でも頻繁に連絡を取り合っていて、困ったこともあれば相談もする。仕事の都合で地元を離れているから会ったりはあまりできないけれど、頼りになる人だ。高校を卒業したら弟子入りする予定になっている。
俺は帰宅部なので放課後の用事は特にないが、部活に所属している奴はそうもいかないようで、学校のあちこちでは放課後だというのに部活勧誘の連中が忙しそうに声を張り上げていた。
(いや、放課後だからこそか)
昼間に部活勧誘をする連中は殆どいない。四月は部活勧誘の最盛期だ。むしろここでの成果が今後一年の命運を分けると言ってもいいから、みんな必死なんだろう。俺はそんな奴らを尻目に悠々と校舎を後にする。今日もゲーセンにでも寄るか。
どこか羨ましげな同級生の視線を受け流し、校門を抜けようとして足を止める。
ゾ ワ ッ
背中に虫が這いずるような、全身の毛が逆立つような感触がしたのだ。
背中に違和感はない。ただ強烈な不快感が虫の這いずる様を連想させただけで、理由はハッキリしている。異様な気配の大元は背中のもっと先にある。
「ねぇねぇ、君、写真部入らない? 備品豊富だから、自費で機材用意しなくても大丈夫だよ!」
(とか言ってお前結局自費で買ってただろ)
クラスメイトが部活勧誘に勤しんでいた。全く同じ口説き文句に応じて写真部に入り、一年目の夏休みにバイトをアホほど入れて一眼レフカメラを買った女だ。つまりあいつの勧誘文句には全く説得力というものがないのだが、勧誘されている新入生にそんなことがわかるはずもない。
「い、いえ、あの、すみません、もう入りたい部活が決まっていて……」
俺の感じた異様な気配は、その新入生から発せられていた。正確には奴の左肩と、その奥か。
猫背でペコペコと頭を下げる男の顔からは生気が感じられない。あまりにも気色の悪い雰囲気に、自然と眉間に皺が寄ってしまった。
これは、ただことじゃない。
「なあ」
だから、今すぐにでも逃げ出しそうなそいつに声をかけた。
「あ、神田くん」
先に反応したのはクラスメイトの方だった。新入生の方は一度派手に肩を揺らし、俺の視線の先を確認する。話しかけられているのが自分の方だと察すると、途端に俺の方にもペコペコと頭を下げ始めた。
「えっとっ、すみません! 僕、あの、もう入りたい部活決まってるので! それじゃあ!」
「あ」
バタバタと騒がしい足音と共に新入生が去っていく。
「神田くん、部活入ってないのにね」
というクラスメイトに曖昧な返事をして、俺は一瞬追いかけるかどうか迷った。
人と話すのはあまり得意じゃない。周囲にはきっととっつきにくい人間だと思われているだろう。
けれど、あの男は。
一度意識してしまうと、遠目からでもおぞましい雰囲気を発しているのがわかる。
随分引き離されてしまったが、追いかけるのは簡単そうだ。
用事があるのは、良いことだし。
そう結論づけて、俺は今日初めて会った新入生の後を追うことにした。
新入生が向かったのはオカルト同好会の部室だ。うちの学校のオカルト同好会部は、かつて有名なホラー映画監督やら怪奇小説作家やらが所属していたらしく、一部界隈で有名になっている。この高校にオカルト名門校という不名誉な称号を与えた元凶の部活だ。新入生は、俺が追いついた頃には部室内に一礼して部屋から出てくるところだった。おそらく入部届でも出していたんだろう。
ちょうど注意力散漫になっていたのを見計らい、腕を掴む。
男は目を見開いて、裏返った声を出した。
「えっ、な、なんで……!」
やっぱり生気が感じられない。心なしか顔色も悪いようだし、目の下に濃いクマがある。高校入学と同時にオカルト同好会へ入部するくらいだから自業自得の可能性は高いが、だからって放っておいて良いわけじゃない。
こいつは生きてる。死んでもこの世にしがみついてる、悪質なかまってちゃん連中とは違うんだ。
「このままじゃお前死ぬぞ。わかってんだろ」
男は目を見開いたまま固まって、しばらく俺の事を見つめていた。
◇
「なんでけーくん!! なんであんな女とLINEしてるの!?」
頭に響くキンキン声が、薄暗くて気味の悪い部屋に反響する。俺は思わず耳を塞いだ。もうこいつが泣こうが喚こうが知ったこっちゃねぇ。
「ちゃんと聞いてよ! けーくんがひどいことするからリスカだってまた始めちゃったんだよ! やめられてたのに! くすり飲まないと眠れないし! 夜目が覚めて不安で仕方がないの! 眠れないと手首切らないと安心できなくてぇ! けーくんが電話でてくれればこんなことしなくていいのに! けーくんぜんぜん電話でてくれないし! LINEだって返してくれない! そんなにあの女がいいの!? まゆのことだいすきってゆったのはウソ!? ゆびきりしたのに! 約束したのに! その指輪だってどうせあの女からのプレゼントとかでしょ! 外して! 今すぐ外してよ! なんでまゆと一緒にいるのにそんな指輪つけるの!? けーくんってそうゆうことするんだ! 最低!」
相変わらず飛躍がすげぇな。そもそも真夜中に電話に出ろっつーのが無理だろ。寝てるわ。しかもお前電話なげぇじゃん。メンタルボコボコで電話かけてくんならぜってぇ冒頭三〇分泣いてるだけじゃん。その間俺何してりゃいいのよ。暇だし、暇なら寝たいわ。なんでお前のクソザコメンタル安定させんのに俺の健康生贄に捧げなきゃなんねぇんだよ。指輪は自分で買ったやつだし、お前と知り合う前から使ってるだろ。
右手の中指にはめた指輪を見る。ゴツめのデザインが気に入っているシルバーリングだ。おかしいな、バイトの初任給で買ったってコイツにも話した気がするけど忘れてんのかな? それとも自分基準でアクセサリーは他人に買わせるもんだと信じて疑ってねぇのかな?
俺が上の空だと知ると、真由は目に見えて不機嫌な表情になった後、スッと無表情になって、今までの癇癪が嘘みたいな平坦な声で喋り始める。
「けーくん、あのね、まゆ、妊娠してるの」
「は?」
「うそじゃないよ。昨日病院でエコー写真撮ってきたの。けーくんの子だよ」
突き出された白黒写真は、咄嗟に判断できなかったものの、白い楕円みてぇなものが写り込んでいた。それが数枚。
マジで……?
「ねっ、だからねっ、結婚しようよっ! けーくん、この子のためにも一緒に頑張ろう?」
冗談じゃねぇ。こんな女に生涯寄生されるなんてごめんだ。大体こんなやつと結婚したってぜってぇマトモな生活送れねぇだろ。妊娠したかどうかも疑わしいが、万が一本当に妊娠してたとしてもこいつに育てられるガキはかわいそうだ。こいつが母親やるより施設に丸投げした方が絶対良い。
俺だってやっと本命の子といい感じになって、付き合えるようになったのに。ボロが出る前にこいつと別れなきゃなんねぇのに、なんだよこいつの執着心の強さはよ。俺はもうお前に興味なんかねぇんだから、とっとと別のもっとチョロそうな奴に寄生しにいけよ。
それともこいつ、俺がもう就職半分決まってんの知って金せびろうとしてんのかな。うちの大学ではかなり良い方の就職先だから、一生寄生するつもりか……?
マジで、マジで冗談じゃねぇ。ふざけんな。クソ、なんでこんな奴に声かけちまったんだ。俺人を見る目がなさすぎだろ。騙された。こんなことで人生棒に振るのかよ。ちょっと選択ミスっただけで? こんなクズ女になんで俺が騙されなきゃなんねぇんだよクソクソクソクソ!
いや、騙す方が悪くね?
頭に登った血がスッと引いていって、ついでに体温も下がっていく。
そうして俺は近くにあった石ころを持ち上げ、クソ女の頭上目掛けて振り抜いていた――
◇
「俺は神田雅弘。二年生だ。あー、信じられないと思うが、その……幽霊が見える」
「そうなんですね、すごいです! 信じますよ! 僕は上野恭介、一年生です。霊感のある人と知り合えて嬉しいです。よろしくお願いします」
判断が早い。バカかってレベルで判断が早い。
皮肉か、面倒だからスルーしてるのかと思いきや、真っ直ぐにこっちを見てくる顔から負の感情は読み取れない。オカルト同好会に入るだけあっていまいち正気じゃないのかもしれない。
「気づいてるかもしれないけど、お前今相当マズい状況だぞ。左肩の手、それどうした?」
「あー……その、この手も……関係あるかも……しれないんですけど……」
「どういうことだ?」
肩に乗った手は関係あるどころか直接の原因にしか見えない。それがどうして言葉を濁す必要があるのか。本体が別にいるということか?
上野と名乗った新入生は、憔悴しきった顔を床に向けてしまった。
「僕、先日この辺りに引っ越してきまして……小さい頃この辺りに住んでいたんです。だから懐かしくて、散歩がてら近所の廃墟に遊びにいって……あの、知ってますか? 四丁目の、幽霊が出るって噂の廃墟」
「ああ、昔殺人事件があったところだろ」
ニュースにもなってテレビに連日映しだれていたこともあったから知っている。四丁目のお化け屋敷。肝試しって奴か? それで厄介なのに目をつけられた? あいつら構ってくれる奴にすがりついてくるからな。それが面白半分でも半信半疑でも関係がない。
自分の眉間に皺がよる。この顔をすると大半の人間に引かれるわけだが、幸い上野は下を向いていたので、俺の不機嫌顔を見せずにすんだ。見ていたら逃げ出していたかも知れない。
「はい……あの、その、廃墟に遊びにいった日から、夜、お化けに付き纏われるようになって……」
「ふーん……」
上野の話によると、十一時三〇分を過ぎると素足で歩いているような、ペタペタという音が自分の部屋に近づいてくるということだった。昨日はとうとう窓に張り付いたらしいので、自分でも今日は部屋に入られるかも知れないと警戒していたらしい。
しかし、そうか。あの廃墟に行ったのか。
「惨殺事件があった場所なんかによく行こうと思えたな」
「いやー、その……昔よく遊んでたんで……」
「オカルト同好会に初日から入るくらいだから興味があったのかも知れないが、こういうこともあるから妙なところにホイホイ行ったりするなよ」
「えへへ……」
「本当にわかってんのかね……」
一〇年ほど前だったか、あの事件は。随分と惨たらしい殺し方だったらしく、報道番組は連日猟奇殺人事件として騒ぎ立てていた。
同時に、俺に祓い屋の技術を教えてくれたセンセイが調査に乗り出した事件としても、記憶に残っている。
直接の死因は撲殺だが、体を捻じ切られて細切れになった腕やら脚やらが現場に散らばっていたらしい。明らかに人間の力では不可能な所業。何せ骨ごと捻じり切られていたのだから、怪異絡みなのは確定だろう。だというのに、怪異の痕跡を発見できなかったのだと聞いた。
あの惨殺事件に関わった怪異が、上野に目をつけたのだろうか? こいつの左肩に乗る手はそいつの残滓か? だとしたら、なぜ一〇年もたった今動き出した? 言ってはなんだが、あの廃墟はセンセーショナルな殺人事件の現場ということで、上野以外にも肝試しを行っている連中は多い。だというのに、あそこで化け物にあったという話は聞いていない。話を聞かないのは単に俺の交友関係が狭いだけかも知れないが、何かあれば見える俺がその気配さえ察知できないということは、今まであの廃墟の肝試しで怪異に憑かれた奴はいないということだ。
「連絡先を教えてくれ。俺のセンセイにも一応相談してみるが、急には来れないだろうから、応急処置は俺がする」
「センセイ、ですか?」
「俺に幽霊どもの対処法を教えてくれた人だ」
「ああ、それは頼りになりそうです」
「あと、モノを見なきゃ判断できないから、夜様子を見に行ってもいいか?」
「あっ、はい。それはもう」
これで夜に外出する用事ができた。用事があるのは良いことだ。
化け物が出てくるのは十一時三〇分以降ということなので、余裕を持って一〇時くらいに顔を出せば問題ないだろう。
◇
というわけで、夜一〇時。俺は上野に教えてもらったあいつの家の前で、あいつを呼び出した。家の中に入るのは遠慮したほうがいいだろう。息子同様オカルト好きというのなら事情次第で喜ぶかも知れないが、まともな親なら高校生活初日に高校の先輩が夜遅く尋ねてくるなんて不安要素でしかないだろう。
上野が来たのは一〇時を五分ほど過ぎた頃だ。足音を立てないよう慎重に玄関を開けた男がそろそろと俺の元へ駆け寄ってくる。
「神田先輩、わざわざありがとうございます」
「いや、気にするな。ひとまず公園で話すぞ」
「わかりました。あ、缶のジュースあるんでよかったらどうぞ! 引越しの挨拶でもらったんです!」
「ああ……ありがとう」
上野が手渡してきたのは甘い炭酸飲料の缶だった。久しぶりに飲む。なんだか懐かしいデザインだ。
「じゃあ、行くか。部屋と家の鍵は閉めたか?」
「バッチリです!」
上野宅の近所にある公園は、滑り台とブランコがある程度の小さい公園だった。一応ベンチもあるのでそこに腰掛けるが、自販機すら近くにない。ジュースをもらっておいてよかったと思う。
「化け物は少しずつお前に近づいてくる。ならば、家に入られる前にお前が移動すればいい」
「でも、標的が僕なのか、僕の家なのかはわからないですよ……? 僕が移動したってわかるかどうかもハッキリしないですし……」
「ああ。だからこの公園で見張る。お前の家族に危害を加えられるのは避けたいからな。化け物がこっちを追いかけてきたら化け物の目が届く範囲で逃げる。理由を聞く限りターゲットはお前だろうから、お前が見つけられればお前を追ってくるとは思う。最終的な避難所は駅前のファストフード店だ。ここは二階建てだから、今までのパターンを考えると最後までは追ってこないんじゃないか?」
「すごい。さすが手慣れてますね!」
「これくらいはな。一応、想定外が起きても良いように清めた酒とお札は持ってきたから、もしもの時は使おう」
「すごい! 本物ですね! 見せてもらってもいいですか!?」
「お前……自分の命かかってるのに余裕だな……」
酒はそのまま持ち歩くとマズいので、百均のアトマイザーに入れて持ち歩いている。札はセンセイが神道系の人なので、刀印護符だ。俺も簡単な札なら準備できる。
上野も一枚くらい持ってた方が良いだろうと思って適当に渡すと、奴は目に見えて喜んで飛び上がった。
危機感がないな……麻痺してるのか……?
「わー! 陰陽師が使うやつですね! 左手の人差し指でなぞってから投げればいいですか!?」
「なんでピンポイントでそこだけ詳しいんだよ……もうやってあるから、普通に持ってるだけでいいぞ」
「お酒はスプレーに入れてるんですね! 幽霊に直接かけるんですか?」
「うん……まあ……あと寄りつかれたくない時前もって体にかけたりとかする……」
「虫除けみたいですね!」
「害虫みたいなもんだからな……」
一通り喜んだ後、上野は自分の分のお札をいそいそと財布にしまった。「わー、本物のお札だ。ドキドキするなぁ」とか言っている。やっぱりいまいち正気じゃないんだろうな。
「なんでそんなに嬉しいかね。死ぬかも知れないんだぞ、お前」
「うーん、昔からオカルトとか好きなんですよね。高校だって、オカルト同好会に入りたいから、受験勉強めちゃくちゃ頑張ったんですよ! ちょっと学力が見合わないので、テストとかヤバそうですけどね」
「人生振り回されてるな」
「そうかも知れません。でも、楽しいですよ!」
今まさに化け物に付け狙われているのに、今日の昼間は正しく死にそうな顔をしていたくせに、上野は笑顔で言い切った。俺としてはやめた方が良いと思う。他人の趣味に口出しする権利はないが、実際に命の危険があるなら注意喚起くらい許されるだろう。登山とかと同じだ。登山ほど爽やかじゃないが。
「きっかけはやっぱり、あの廃墟でした。四丁目のお化け屋敷」
そうか、お祓いした方がいいな。という言葉を俺は無理やり飲み込んだ。こいつなりの美しい思い出なのだろう。今後の事に注意喚起をするとしても、過去に冷や水を浴びせかけるのは違う。自重すべきだ。
「小学生の頃、あの廃墟でよく遊んでたんです。友達とかくれんぼしたり虫を探したり、秘密基地みたいにしてました」
「まあ、俺の同級生でもそうやって遊んでた奴いたよ。子供からしたら手頃だよな」
「そうなんですよね。きっといろんな人が出入りしてた。だから多分、お姉さんとも会えたんだと思うんです」
「お姉さん?」
「はい。僕には、オカルトが好きになるきっかけをくれたお姉さんがいたんです。その人とお話ししたり、いろいろ教えてもらうのが楽しくて、嬉しくて……だからあの廃墟は、僕にとって特別なんです」
上野が懐かしそうに語り出す。どうせまだ化け物が出てくるまでは時間があるから、暇つぶしがてら思い出話を聞くのも悪くないだろう。
もしかしたら、なぜこいつがあの幽霊の出ないお化け屋敷で化け物と遭遇したのか、原因とはいかないまでも、原因のヒントがあるかも知れない。
スマホの時計を確認する。ちょうど十一時だ。無言よりはマシだろうと思い、俺は上野の思い出話に耳を傾けることにした。
◇
僕はその日ひとりで遊んでて、お姉さんもひとりでした。お姉さんが僕に声をかけてくれて、いろいろお話したんです。
「お名前はなんていうの?」
「上野……恭介です」
人見知りの僕に、お姉さんはたくさんお話してくれました。
「お姉さん、ここでお化け探してるんだ! お化けとお友達になりたいんだよね!」
「お化けとお友達になんてなれるの!?」
「なれるよー! お姉さんも友達に教えてもらったんだけどね……」
驚く僕にお姉さんは「これをつかうんだよ」と笑って、こっくりさんのやり方を教えてくれました。五〇音と鳥居、「はい」と「いいえ」が書いてある紙と、一〇円玉を使うごく普通のこっくりさんです。
「恭介くんはまだ小さいから知らないよね。一〇円玉に指を乗せてね、呼びかけるんだよ。こっくりさん……こっくりさん……」
「わぁ……!」
本当に一〇円玉が動いて、僕びっくりしました。目に見えない存在と特殊な方法で話すなんて、それまでオカルトを知らなかった僕には衝撃で……本当に、雷に打たれたような気分になったんです。
お姉さんは、興奮しきりの僕にこっくりさんのセットをくれたんです! すごく嬉しかったなぁ……!
その日から、僕はあの廃墟に行ってはお姉さんに会おうとしました。お姉さんに会えなかった日は図書館に行って、お化けが出てくるような本を読み漁って過ごしたりして。
そのうち、学校であの廃墟に行ってはいけないということになったんです。なんか大学生が夜中に宴会とかやってるみたいで、ゴミやら注射器やらエロ本やらが落ちてるからって。
それでもお姉さんに会いたくて通ってたんですけど……えへへ。
◇
照れくさそうに頬を掻く上野を見ながら、俺は考える。
廃墟で行った降霊術が原因で化け物に付け狙われているのか? そうなると、こいつの前にお姉さんとやらの命が危なそうだ。関係性から見て、同時進行で狙われているか、すでに命がないかのどちらかだろう。こいつは中学生時代隣の市で祖母と暮らしていたらしいから、多分、こっくりさんが原因だとしたら、女の方は既に死んでいる。
(それか、こいつよりも遠方に引越しなりなんなりしていて、運よく逃げ出しているか)
だが、引っ越したくらいで追って来れなくなるような雑魚が、こんな禍々しい気配をさせるものだろか?
いまいちしっくりこない。もっと別の原因がある気がする。勘でしかないが、こういうことに関して俺の勘はよく当たる。
「ところであの、気になってたんですけど、先輩、幽霊ってどんな感じに見え……」
心底どうでもいいことを聞こうとした上野が身を乗り出す。そして、左肩を押さえて硬直した。そこには手が乗っている。ミシミシと音が出そうなほど強く上野の肩を掴んだそれが、奴の体を強引に引っ張っているようだった。
「おい、その手……」
そして、足音が、聞こえてくる。
ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた
スマホの時計を見る。いつの間にか、十一時三〇分になっていた。
化け物が出る時間だ。
足音は公園に向かってくるように、だんだんと大きくなっている。
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
上野の左肩に乗った手は、上野の体をしきりに引っ張っていた。痛いのだろう、さっきまでの笑顔が嘘のように、奴は顔を顰めている。
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
足音は着実に上野に近づいてきている。そして、左肩の手は上野をどこに連れていきたいのかわかったもんじゃない。こうして実際に双方を近くで見てわかった。間違いない。
別口だ。
こいつらは、足音と気色の悪い手は別々の化け物だ。
眉間に皺がよる。頭の血管が一本くらい切れたような気がした。もう不機嫌な顔を隠すつもりはない。今まではちょっと前まで中坊だった奴を怖がらせないよう気を遣っていたが、もう知ったこっちゃなかった。
俺の顔を見た上野の表情が引き攣る。顔が青ざめ、化け物を見たかのような怯えた目をしやがった。
知ったことか。騙す方が悪い。
「上野、てめえその左肩、別口じゃねぇか。黙ってやがったな」
俺の口から、俺でもちょっと引くような低い声が出る。
だが、自分が殺されそうな時に自分を殺すかも知れない奴を庇ってるバカがいたら誰だって腹が立つだろう。人間同士だったら犯人隠避、今後も複数の人間の命を脅かすのは確定だから、もっというなら犯罪幇助だ。犯罪だ。バカ野郎が。テメェも同罪だクソ野郎。
「そっちも放っておいたら近いうちに死ぬぞ。この後逃げた先で全部ゲロらせるから覚悟しとけよ」
「し、死んだ……」
上野がつぶやく。
「寝ぼけてんじゃねぇぞクズが。死なせねぇために吐かせんだろうが。死にてぇならその後勝手に死ね」
上野の左肩の手が、さっきより必死に上野の肩を引っ張っているように見えた。こいつはこいつで何考えてるのかわかったもんじゃねぇ。テメェはもう死んでんだから潔く死ね。
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
音が近づいてきている。とりあえずあいつらのことは後回しだ。今は足音の化け物に集中しないとマズい。
「かっ、神田先輩っ!」
上野が切羽詰まった様子で叫んだ。公園を出てすぐの歩道に化け物がいる。人のパーツで出来たトカゲのような造形だった。地面についているのは二本の手と二本の足。それぞれの付け根は腐って痛いんでいる。赤黒くぐちゃぐちゃの胴体は肉をこね合わせたような湿度で、腐り落ちる寸前のような嫌な色をしていた。頭のてっぺんに歯を剥き出しにした口があり、憎々しげに叫び声をあげてる。
「朽ッ、苦ソ蛾奇ッ! クソガキッ! コココッ、転ッ、蠱髏ッ、殺シッ、殺してヤ鶹ッ、殺シテヤルッ!」
上手く聞き取れないが、殺意が旺盛なようだ。声からして男だろう。波打つ肉塊の波紋に乗って、その口の近くにもう一つ別の口が近づいてくる。どうやら人間のパーツはそれぞれ体のいたる場所に移動できるらしい。こちらの口は女のようだ。唇に少し色がついている。
「蚓、ズ、ずっトいっショ、ズっ屠イっしょ……」
声色を例えるなら、ドロドロに煮詰まって焦げた水飴だ。一度着いたらまとわりついて離れない、水で洗っても落ちない甘ったるい汚れの塊。媚びるような笑みを浮かべて、殺意の溢れ出る口にへばりついていた。
「欝、スて、すて儺ィデェ、すテな異で、叉瞰、さみしィの……ケー麕、ケェエエェェェエクウゥウウンンンンン――」
舌打ちする俺の横で上野が目を見開いた。化け物はノロいものの着実にこちらへ向かってきている。俺に祓えるとは最初から思ってなかったが、これはさすがに――早く逃げねぇと流石にマズい。
「おい上野急げ! 逃げるぞ!」
奴の目線は化け物の背中、正確にはそこから生えている青白い手に注がれていた。羽根でも気取るように生えた二本の腕は、歩くのに使っているのと同様付け根がボロボロに腐って、溶けたチーズのような気色の悪い糸を引いている。手首には直線を描く傷がいくつも走っていた。おそらくリスカ痕だ。あれがある幽霊は大抵生前から粘着質なので五割り増しで厄介になる。歩くのに使っているのとは別の青白い足も二本生えているが、そっちは歩くのに使っている足に絡みつくようにして生えていた。
「走るぞ!」
固まっている上野の腕を引っ張って走り出す。幸い化け物の動きが遅いから逃げ切れるだろう。上野も呆然としながら、それでも足は動かしていた。最悪地面を転がして引きずって行くしかなかったのでありがたい。それでも奴の視線は化け物に釘付けではあったが。
「お……姉、さん……?」
上野の口から溢れた言葉に関しては、駅前についてからその他諸々とまとめてとっちめようと思う。
今はひとまず逃げるのが優先だ。幸い、化け物の目的は上野であって上野の家族ではないということは今確定した。なぜなら逃げる俺たちを追って、上野の家とは反対方向に向かっているからだ。
駅までは走れば十五分くらいで着く。運動部でもない人間には少しキツいかも知れないが、なんとかなるだろう。
化け物は見かけ通りトカゲのように身をくねらせ、思いの外素早い身のこなしで俺たちを追いかけてくる。本物のトカゲほど素早くはないが、あのちんたらしていた足音よりは早い。
「クソッタレが!」
すぐ取り出せるようにポケットへ突っ込んでいた札をトカゲに投げつけた。奴の顔面めがけて飛んでいった札がピタリと張り付く。
「ギャア亞ァッ! 伽ァァアあァァ吾ァ吾ッ!?」
悲鳴が聞こえた。決定打じゃない。せいぜい足止め程度だ。
しかし、それにしたって手応えがなさすぎる。妙な煙が出て異臭が立ち込めてはいるが……すぐ持ち直すだろう。俺の手に負えないといったって影響が少なすぎる。影でも相手にしているようだ。
(影か……)
本体が別だと考えた方がいいな。これだけ気色悪い見かけをしてるクセに、上野の肩にへばり付いてる手より気配が薄い。
ということは、ダメージも少ないはずだから、すぐに追いかけてくるはずだ。
「本気で走れ! 追いつかれるぞ!」
「はっ、はい……!」
中途半端に人間の形を保っている分、トカゲのような動作はそれだけで気色が悪い。デカいからなおさらだ。
あれは、人間二人分が混ざってできてるってことか? あの粘着質な女の方が何かしでかしたか。殺意があるのは男の方だが、上野が反応したのは女の方だ。縁があるから狙われたと判断して間違いなさそうだが、原因の縁はなんだ?
「せっ、先輩っ、あの、息が苦しいですっ……!」
「止まったら死ぬと思え!」
「そんなぁ!」
「クククククククククク苦疎娥軌キキキキコロコロ蠱髏蠱髏コロシテテテテテテ」
「欝テ莫ィでェ、鋤テ无ィデェ……」
ペタペタペタペタといつまでも足音がついてくる。気色悪い声の二重奏がうざったい。駅前に近づいて街灯や店の看板が増えてきて明るくなってきているのに、化け物は追撃の手を緩める気はないようだ。十二時近いということで、人が少ないのも原因かも知れない。
こっちは生身だから走るほど体力を消費するが、あの化け物は疲れというものを知らないらしい。奴との距離がどんどん狭まっている。声がすぐ近くで聞こえてくる。背中から生えているらしい青白い腕が赤黒い糸を撒き散らしながら上野と俺に手を伸ばしていた。目玉が四つ、顔の部分に密集してこっちを見てくる。頭のてっぺんから動く様子のない口が、両方ともガチガチと大きく歯を鳴らしていた。笑っているのか、威嚇しているのか。
「クソがっ……!」
死んでるくせに何様のつもりだ。なんて腹の立つ。怒りで体力が回復したような気がした。上野の腕を引っ張って、あと数メートル先のビルへ真っ直ぐ進む。
「すぐ二階に駆け込め!」
「はっ、はいっ!」
自動ドアが開くと同時に上野をビルへ押し込める。カウンターの店員が目を見開いたが、構っていられるか。すぐ背後に化け物が迫ってきているのだ。
「コココココ蠱髏蠱髏蠱髏蠱髏蠱髏蠱髏ロロロロロロロ」
青白い手が俺の眼前に迫っている。
このままだと一緒に自動ドアを潜ることになるかも知れない。そうなれば最悪だ。折角建物の中に逃げ込んで凌ごうと思っていたのに全てが水の泡になる。こいつは多分、自分で扉の類を開けることはできない。こういうタイプの化け物は大抵そうだ。扉の類に弱い。扉に限らず、境界線という概念に弱いのだ。こいつは本体が別口だからダメージを与えられないが、代わりにこういう奴らは法則みたいなものにもめちゃくちゃ弱いのだ。
(くたばれ!)
胸ポケットに入れていた酒入りのアトマイザーを取り出し、トカゲの化け物に向けて噴射する。案の定トカゲは自動ドアの前で怯み、男の方の口が短い悲鳴をあげた。
「……虫……蜂が、追いかけてきまして……」
驚きを通り越して怪訝な顔をしている店員に形ばかりの言い訳をして、ハンバーガーのセットを二つ注文する。順番待ちの札を持って二階のイートンインスペースへ行くと、上野がすぐに駆け寄ってきた。
「せっ、先輩っ! 大丈夫でしたか!? あの、すいませんっ、先に逃げて……」
「お前が狙われてるんだからお前が先に逃げるのは当たり前だろうが。一応飯買ってきたから、とりあえず腹に入れるぞ」
「あ、ありがとうございます……あの、奢らせてください」
「いや、いいよ。俺が勝手に買ったんだから」
「お願いします。助けてもらったので」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
窓側の席に移動して、店の外を覗き込む。
トカゲの化け物が入り口の前でウロウロしていた。こっちを見上げた顔のあたりで口が何やら動いているから、おそらく文句でも言っているのだろう。
「あの、アレって、僕ら以外の人には見えてないんですか……?」
「ああ。俺は元々見えるタチだし、お前はアレと縁がある上に狙われてるから見えてるだけだ。他の奴には見えてない」
「そうなんですね……」
トカゲの化け物は、俺たちの注文した飯が来るより前に気色悪い歩き方で帰っていった。十二時過ぎでよかった。客の出入りが激しかったら、自動ドアの開閉に紛れて入ってきたかも知れない。
「お待たせいたしました。ハンバーガーセットお二つお持ちいたしました」
「ああ、どうも」
フライドポテトとハンバーガーと炭酸飲料が二つずつ、狭いテーブルに置かれた。上野は俺に二人分の金を押し付け、少し暗い顔をしている。
俺は腹が減っていたので、まずハンバーガーの包みを開くことにした。
「何がいいかわからんから無難なもん選んでおいたぞ。食い足りなかったら追加で頼め」
「はい、ありがとうございます……」
ジャンクフードは久しぶりに食べるが、夜はやたらと美味く感じるな。いや、久しぶりだから美味く感じるんだろうか?
上野は頭を抱えている。まあ、家に毎日近づいてくるのとは別の疲労感があるだろうな。追いかけられるのは。
俺が食っている間、上野は頭を抱えたまま硬直していたが、やがて硬い表情で顔を上げる。
「先輩、結構長い話になるんですけど……いいですか」
俺は黙って頷いた。俺が食い終わるまでに決心しなければ、しばき倒してでも吐かせていた所だ。命拾いしたな、上野。
◇
さっき話した通り、僕は昔この辺りに住んでいて、廃墟で会ったお姉さんを慕っていました。お姉さんにはなかなか会えなくて、僕はお姉さんがどこの誰で名前は何て言うのかすら知らなかったので、あの廃墟に行くしか出来ることはなかったんです。
お姉さんに会えない日、たまにひとりでこっくりさんをしていました。こっくりさんが動くあの体験が忘れられなかったんです。
何度かチャレンジしていたら、ひとりでやってもこっくりさんが来てくれるようになりました。嬉しくて、こっくりさんとたくさん会話をしました。
やっとお姉さんに会えた時に、ひとりでやってもこっくりさんが来てくれたって報告しました。お姉さんがすごいって驚いてくれて、嬉しかったのを覚えています。
その日はたくさんお話しました。
確かその時に、お姉さんは彼氏さんとあの廃墟で背面ゆびきりをしたって言ってました。
先輩、背面ゆびきり知らないですか?
鏡を使ってゆびきりをすると、絶対に約束を破れなくなるっていう噂です。夜中の十二時に、鏡に背を向けて立って、後ろ手に指切りするんですよ。その時鏡を見てはいけないんです。
どんなお願いしたの? って聞いたら、内緒だって言ってました。でも、お姉さんは彼氏とずっと一緒にいたいからって笑ってて……。
お姉さんに会ったのはそれが最後です。お姉さんの彼氏さんが来て、僕はそこで帰りました。彼氏さんは僕とお姉さんの方を見てすごくいやそうな顔をしてたと思います。僕が帰る途中で喧嘩するみたいな声がして、お姉さんと彼氏さんが喧嘩してるのかなって思って悲しかったのを覚えてます。一緒にいたいって言ってたのになって……。
次の日からしばらく雨が続いて外に出られなくて、休みの日に久しぶりに晴れたから、僕は朝からあの廃墟に行きました。何でですかね。こんな時間には絶対いないってわかってたのに……。
近くまで行ったら、すごく変な臭いがしました。
説明できないような臭いです。今まで感じた事のない臭いだったから、動物とか死んでたら怖いなって思いながら中に入って
――そこで、お姉さんが亡くなっているのを見つけました。
壁に寄りかかって、雨と泥で汚れてて、顔は半分くらい黒くなってて……。
服装は最後にあった日のままでした。小さい虫がたくさん這ってて、お姉さんを食べていました。カラスとかもいて、僕を見つけて飛んでいって……。
お姉さんの姿は忘れられないのに、僕は自分がそのあとどうしたのか覚えていません。その日から何日も泣いて過ごして、こっくりさんに聞いたんです。
「誰がお姉さんをあんなふうにしたの?」って。
こっくりさんは《かれしがやった》と答えました。
《かれしがおねえさんをころしたんだよ》
《きょうすけくん かなしいね おねえさんがだいすきだったもんね》
《わたしもおねえさんがだいすきだったよ それなのにひどいね ひどいね》
《まだまだたくさんあそびたかったのに かわいそうなおねえさん》
《あいつはわるいおとこだ やさしいおねえさんをころした》
《わるいやつわるいやつわるいやつわるいやつわるいやつ》
《きょうすけくん わたしが いっしょに ころして あげようか?》
最初はやめてって言ったんです。
でもこっくりさんは毎日聞いてきました。
《いっしょに ころして あげるよ》
《おねえさんが かわいそう だから かたきうち しよう わたし と きょうすけくん で あいつ を ころそう》
《かなしいね あいつが しねば かなしく ないよ いっしょに ころそう》
《きょうすけくん あいつを いっしょに ころそう》
《はいって いって いっしょに ころそう》
《うなづく だけ で いいよ いっしょに ころそう》
《ころそうころそうころそうころそうころそうころそうころそうころそうころそうころそう》
《はいっていってはいっていってはいっていってはいっていってはいっていってはいっていってはいっていってはいっていってはいっていって》
そして僕はとうとう感情に負けて……泣きながら一〇円玉を『はい』に動かしました。
今度はそこからまた記憶がありません。自分の都合の良さにうんざりします。
最近少し思い出したのは、明け方木の上にいたことです。
大きな石を持っていました。どうやってそこまで上げたのかまるでわかりません。しかも裸足です。小さい枝が足に刺さっていて、痛いのに、なんで靴がないのわかりません。
自分では持つのが辛いほど石が重くて重くて、腕が震えているんです。
僕はその石を持ち上げました。腕からブチブチ変な音がしているのに止められません。
その石を、下にいる男性に――投げつけました。
たぶん、あれは夢とかじゃなくて、僕の、記憶です
僕は、あの男の人を……
殺し、たんです。
このことを思い出すまで僕は、こっくりさんがお姉さんの彼氏を呪い殺してくれたんだって、そんな事を考えていて……。
それですら、自分がそれを選んだことが恐ろしかったのに……。
僕はお母さんとお父さんに心配をかけて、引越しまでさせてしまいました。
彼氏さんの死に方はニュースで大々的に取り上げられていましたから、僕はそれを見るたびに震えてたんです。
そのうちこっちに帰ってきて、もう何もないだろうって、あの廃墟に行って……その日の夜から、あの木の上からの光景を見るようになって、あの、あの、アレが……迫ってくるようになって……
どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。
お姉さんが、僕を怒ってるんです!
彼氏さんのことが大好きだったから、謝ったって許してもらえっこないです。
僕は……僕は……自分では何も出来ない、決められない……弱虫です。
……こっくりさんが僕の肩を引っ張るようになったのは、お姉さんの死体を見つけた後からです。
最初はビックリしたけど、僕に危険が迫ってると引っ張ってくれるみたいなんです。僕は都合よく解釈して、こっくりさんに何も聞かずにいました。
きっと、この事件を知っている人を、同じ罪を犯した人を、失いたくなかったんです。だから先輩に、こっくりさんの、僕の左肩の手の話をされた時は、はぐらかしてしまって……。
神田先輩、先輩は僕のためにこんなに危ないことまでしてくれているのに、黙っていて、すいませんでした。
◇
「おこがましいことはわかってます……! 僕がこっくりさんと共謀してあの人を殺してしまったんです……! 殺されたって、仕方がないです……自業自得です……! でも、僕……まだ、生きていたくて……! もう少しだけ、死にたくない……!」
上野はとうとう泣き出してしまった。
俺の眉間には谷のような皺が刻まれていることだろう。さっきの上野の話じゃないが、頭の中からプチプチ音がするような気がする。
思った以上に胸糞な話だ。
あのリスカ女はなんの目的かガキに良い顔をして、自分が他人に自慢できると思っていることをひけらかして、ガキにインチキ臭い降霊術まがいの占いを教えた。男に良い顔をするためか、世間知らずなガキを利用してチヤホヤされるためか知らんが胸糞悪い。
あのトカゲの化け物がどうしてあんな形なのかもわかった。その背面ゆびきりとやらで、ずっと一緒とか離れないとかいう約束をしたから、死んでも‘’離れない”ようにあの形になったんだろう。
「安心しろ上野。お前が死ぬ必要はない。お前はクズ幽霊の口車に乗せられただけだ。お前が人を殺したわけじゃない。そのこっくりさんとやらがお前に人殺しをさせたんだ」
声が、多分今まで上野に話しかけた中で一番低くなっている。
(世間知らずの子供を……妄信と依存で自分に縛り付けるために、あえて選択させて、人ひとりを殺したってとこか。クズめ)
しかも話を聞く限り、後半はほぼ脅迫に近い。クソ野郎が。だから幽霊だの怪異だのなんてのはクズなんだ。死んでるくせに生きてる人間にちょっかい出しやがって。しかも世間知らずのガキを利用するために人殺しにまで仕立て上げやがった。上野に罪の意識を植え付けるためにあいつの体を使ったんだ。
クソ野郎。クズ、ゴミ、外道、カス、思いつく限りの罵倒文句でもまだ足りない。
これはチャイルドグルーミングだ。
優しそうな顔をして、親切を装って、子供に近づいて利用するためにしがらみでがんじがらめにする。
死んでるくせに、生きてる人間に、害意を持って、策を弄して、近づいて、この年まで利用し続けてきやがったのだ。
俺の敵意を察知したのか、上野の左肩に乗った手が強張る。上野の肩を強く掴み、痛みを与えているようだった。
「うっ……」
上野が小さくうめく。こめかみには血管が浮き出ているように見えた。目がどこか宙を見ていて、口を半開きにしている。そこから唾液が流れ落ちていた。尋常ではない。
これ、取り憑かれてないか?
「おい、上野……」
返事はない。奴の手がわなわなと動いて、胸ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
テーブルの上に広がった紙は、五〇音と鳥居、そしてはいといいえが書かれた、こっくりさんに使うのだろう用紙だった。かなり使い古されているが、文字が掠れたりした様子はない。
上野は相変わらず正気とは思えぬ顔のまま、さらに胸ポケットから一〇円玉を取り出し、人差し指を乗せる。とても意識があるとは思えない顔なのに、慣れた手つきで鳥居のマーク目掛けて一〇円玉を置き、指で押さえた。
とたん、上野の背中に腕が生える。
いや、あいつの背後から、何十という死人の手が、虫のように這い出してきたのだ。
上野の左肩に乗っているような手だ。そいつらが一斉に、上野の肩やら頭やらを無遠慮に触る。
まとわりつくように、湿度さえ感じさせるその触り方は、性的な媚びの気配を伴っていて吐き気がする。肩を撫で、頬を擽り、顎を持ち上げ、唇をなぞり、これは自分のものだと主張するように、そいつらは白目を剥いた上野の顔を覆い隠して行った。
気味が悪い。
腕どもの爪は黒く変色し、肌は不自然なほどに青白い。およそ生気というものを感じ取れないそれからは生気が感じられないのに、上野に対する執着は嫌というほど感じられた。トカゲの化け物に入っていた女といい勝負だろう。
腕の一本が上野の腕を強く掴んで、一〇円玉を動かし始める。
《きょうすけくん このひとにそうだんしても かいけつしないよ わたしが どうすればいいのか おしえてあげようね》
《いつもどおり きょうすけくんは わたしに そうだんしてくれれば いいんだよ》
《おねえさんと かれしは きみがしねば じょうぶつ できるんだ みんなで こちらに おいで》
《かれしは わるいおとこ だから じごくに おちる きょうすけくんと おねえさんは わたしとたくさん あそんで くらそう》
《いままでずっと わたしのいうことを きけば まちがい なかった だろう こんかいも そうだ》
《かれしを ころした きょうすけくんは おねえさんに あやまらなきゃ》
《わたしが いっしょに あやまって あげる からね》
《もういちど おねえさんに あいたいだろう》
《だいじょうぶ あのおとこは こないよ》
《わたしが はいめんゆびきり の ちかい を かいじょ して あげようね》
《だから おいで あのばけものは あしたも くるよ あしたは きみのかぞく を くいころす》
《きょうすけくん が ころしてしまった から あいつは ふくしゅうしに くるよ》
《このひとは まきこまれたら かわいそうだ きょうすけくんは やさしいこ だから つらいだろう かえって もらいなさい》
《かえって もらいなさい かえってもらいなさい かえってもらいなさいかえってもらいなさいかえってもらいなさいかえってかえってかえってかえってかえってかえってかえれかえれかえれかえれかえれかえれかえれかえれかえれかえれかえれしてもらいなさいかえれかえれかえれかえれ》
《きょうすけくん ゆるされたいなら こんや にじに おにわに おいで すてきなところ に いこう ね》
こんなに流暢に喋る化け物は見たことがない。
あまりの言い草に怒りを通り越して唖然としてしまった。
なんだこいつは。なんだ? 何を言っている? 本気か?
そもそも何でさっきから上野を自分の所有物みたいにしているんだ? 死んでるくせに何様のつもりだ?
上野の所有者は上野自身に決まってるだろう。
なのに、何を……何だ? なんのつもりだ? なんだこいつ? なんかもう笑けてくるな。こないか。そんなわけあるかクソが。
腕野郎が好き勝手喋って満足したらしく、腕の群れがやはり虫の群れのように消えていく。腕に覆われていた上野の顔が見えるようになり、白目を剥いていたはずの目が焦点を結ぶのが確認できた。
どうやら正気に戻ったらしい。
意識を取り戻した上野が慌て口の端についた唾液を拭く。それから、テーブルについた唾液も備え付けの紙ナプキンで必死に拭いている。
なんでお前が拭いてんだ。もはや上野の動作にさえ腹が立つ。腕の化け物のせいでテーブルが汚れたんだからその左肩の手にやらせろよ。
「あ、ぼ、僕寝てました!? えへへすいません! 最近寝てなくて……!」
「お前帰って庭に行く気じゃねぇだろうな」
俺は怒りが声に乗るのを止められなかった。上野がさも図星ですという風に「え゙っ」と裏返った声をあげたので、余計に腹が立つ。
「図星か……死ぬぞお前……俺が殺すからな……」
「えぇっ!?」
「いつもあんなに流暢に喋んのか? あのクズ野郎は」
「えっ、なんか怒ってます!? え、えっと、そ、そうですね、あんな感じです……!」
「ああやって無理矢理話してくるようになったのはいつからだ」
「あ、あー……こっちに戻ってきてからです……」
腹が立ちすぎて頭がおかしくなりそうだ。やっぱりもう腹が立ちすぎて笑えるな。ははは。ははははははははははははははは。はははは……
はーぁ。
俺はこっくりさんセットを片付けようとしていた上野の手を払いのけ、紙の上に手を叩きつけた。
「貸せ。俺が本当のテーブルターニングを見せてやる」
口元に自然と笑みが浮かぶ。多分目は笑っていない。殺意が笑顔から漏れ出していたのか、上野の顔が引き攣っていた。
知ったこっちゃないのでさっさと一〇円玉に人差し指を置く。ついでに上野の隣に移動し、あいつの腕も掴んで一〇円玉の上に人差し指を追うように誘導した。一〇円玉を無理矢理「はい」の上に置いて、動かないように押さえつける。
「オイコラ聞いてんだろクズ。背面ゆびきりの解除方法さっさと吐け。どうせお前にしかできねぇ事じゃねぇんだろうが。アレの本体が別にあるんだろ。おおかたその本体を壊せば解除ってとこか? どうなんだとっとと吐けクソ雑魚野郎が」
反発するように一〇円玉が動こうとするが、俺は渾身の力で一〇円玉を押さえつけた。コイツぜってぇ許さねぇ。一泡吹かせてやる。クソ野郎が。
「お前みたいな害虫は所詮生者の力を頼らざるを得ない。吐かねぇ気ならこっちにも考えがある。今日は清めた酒を持ってるからな。上野にひっかけてやればお前ごともがき苦しむんじゃねぇか? お前がゲロするまでかけてみるか? 俺は別にアホ上野が苦しんでも構わねぇ。それでも吐かねぇならお前をなんとしてでも消す。上野が死のうと、どれだけ時間がかかろうとだ」
上野が俺の横で「え、僕、死……?」とかなんとか言って震えている。ひと睨みして一〇円玉を押さえるよう指示すると、奴は震え上がって大人しくなった。
「お前がこの世界で人間サマに盾ついたことを後悔させてやらねぇと他に示しがつかねぇからな。どうする。何がいい? まずは酒か?」
一〇円玉は「はい」に固定されたままだったが、動きたそうにガタガタと震え出し、火で炙ったかのように熱くなった。上野が手を離しそうになったが、腕を掴んでやめさせる。どうせこんなもんで火傷はしない。火傷したところで死にはしない。
「えっ、あの、先輩、これ、質問しながら押さえつけるのアリですか?」
「人聞きの悪ぃこと言うんじゃねぇよ。押さえつけてねぇよ。見ろ、さっきからお行儀よくお返事してくれてるだろうが」
「え、酷くないですか……?」
「あぁ? 仲良くお話してるだけだろ。テメェ目玉腐ってんのか?」
「ひぃ……」
一〇円玉はガタガタ震えるだけで返事をする様子がない。お望みとあらばしょうがねぇな。上野を押さえつけていた腕を一旦離し、胸ポケットに入れていたアトマイザーを取り出す。まずは十円玉と上野どっちにぶっかけてやろうかな、と思案していると、突然閃いた。
《よる じゅうにじに ゆびきりにつかった かがみを わる》
どうせ閃くならどっちに酒を吹きかけるかの方が良かったが、まあいいだろう。
「ほぉー、そうかそうか」
一〇円玉を見下ろすと、ガタガタ震えるのが強まったようだった。なぜか上野もガタガタと震えている。
「ヤ、ヤクザァ……!」
あ、泣いちゃった。誰がヤクザだド突くぞ。
上野をひと睨みした後、一〇円玉に視線を戻す。
「最後にもう一つ。二度とお前の方からこっちに話しかけんな。お前にそんな権限はない。調子に乗んなクソ雑魚。お前らは質問された時だけバカみてぇに答えてりゃいいんだよ。今日はゲロしたから許してやるが、次はねぇぞ。わかったな? わかったら帰れ」
一〇円玉が動きたそうにしたが、人差し指で押さえつけ続けた。銅が異様なほど熱を持ち、ブルブルと小刻みに震え始める。どうしても動きたいようだったが、上下関係は徹底的に叩き込まないといけない。
しばらく押さえつけていると、一〇円玉の痙攣がふと止まった。温度も低下していき、なんの変哲もない一〇円玉に戻る。
「次ちょっとでも調子乗ったら殺す」
吐き捨てて一〇円玉から手を離す。全身がぐっしょりを汗で濡れていた。気持ち悪ぃな。気分も悪ぃし、最悪だ。
一気に気が抜けて椅子に座り込んでしまう。横にいる上野は口をパクパクさせて何か言いた気にしていた。生憎疲れ切っているので、他人を思いやる気持ちの余裕がなくて尋ねてやれない。
「悪い、コーラ貰うぞ」
自分の分は殆ど飲んでしまっていたから、上野のコーラを一気飲みする。息を整えて、声が出るようにするためだ。上野は少し勘違いしているようだから、説明した方がいいだろう。
「下手に出るとああいうのはつけあがる。あいつはだいぶつけ上がってるせいで力までつき始めてる。気をつけた方がいいぞ」
「あ、えっと……先輩、お祓いとか、できたんですね……」
「まだ半人前だけどな」
顎の下を拭うと、汗で手の甲が濡れた。ハンドタオルとか持ってくれば良かったな。
「だからほとんどハッタリだ。ああいう奴は力がついてきても所詮雑魚出身だからな。脅してやるとすぐ降参するやつも多いんだよ。言葉が通じればこそだけどな」
上野がどこから出したのか、ハンドタオルを差し出してくれる。コイツ準備がいいな。「ありがとう」と礼を言って受け取り、体を拭く。これ洗って返した方がいいな。
「オカルト好きにしたら釈迦に説法かもしれないが、テーブルターニングってのは元々占いだ。占いの結果ごときで生きんの諦めてんじゃねぇよ」
とりあえず、ひと段落したので食いかけのハンバーガーとポテトを片付けたほうがいいだろう。汗を拭いてから上野と対面になるように座席を移動する。ハンバーガーもポテトもすっかり冷めていてテンションが下がった。せっかく久しぶりにジャンクフード食うのにな。全部腕野郎のせいだ。やっぱり一回くらい酒引っ掛けてやれば良かった。殺すまでいかなくても、もがき苦しんでいるのを見ればいくらか溜飲が下がる。
「とりあえず明日はお前部活休め。そんで放課後俺と廃墟と鏡確認しに行くぞ。お前の家からどのくらいかかるかも確認しときたい。あのトカゲ、獲物見つけた後は案外動きが早いからな。そんで改めて十一時にお前の家に集合だ。できるだけ本番までに手順を確認してスムーズに進めるようにしたい」
「は、はい。わかりました……! 部活はまだ本格的に始まってないですし、他の部活も友達の付き合いで見に行くって言えば大丈夫だと思います」
「お前友達いたんだ」
「い、いますよ!? い ま す よ!? 当たり前じゃないですか!?」
「その言葉は今俺を傷つけたぞ」
「ぁっ……!」
「察し、みてぇな顔すんじゃねぇド突くぞ」
「理不尽じゃないですか……!」
「うるせぇな。これ食い終わったら家まで送ってくからな」
「えっ、優しい……ありがとうございます……」
大丈夫だとは思うが、目を離した隙に腕野郎が上野の意識を乗っ取って庭に放置なんてことになったら困る。今までのパターンを見るに、こっくりさんをやる以外の“操縦”はできないんだろうが、念の為だ。命狙われてるやつをひとりで帰すの、普通に後味悪いしな。
「おい上野。絶対に夜中二時に庭行くなよ」
「は、はい。大丈夫です! 行きませんよ」
結果として、俺の考えは完全に杞憂だった。上野の左肩に乗ったクズは今のところおとなしい。なんかの縛りでもあるんだろう。選ばせることに意味があるのか。なんか腹立ってきたな。嫌がらせしてやろう。
「雑魚が調子づくといけないからこれやる」
「わっ」
上野の家の前で別れる直前、胸ポケットに入れたアトマイザーを投げ渡す。清めた酒が入っているから、少量ではあるが護身用くらいにはなるだろう。
「これ、御神酒ですよね!? いいんですか、貰っちゃって……!」
「俺が清めた酒だが、センセイのお墨付きだからな。それ、寝る前にでも体か部屋にまいとけ。財布に入ってる札も部屋に置いといた方がいいぞ。お前からしたら上等なインテリアだろ」
「あ、ありがとうございます……!」
今から家帰んのダリィな。もうこの時間なら寝ないで学校行ったほうが良い気がする。もう今すぐ気絶したい。家に帰るのがしんどい。体が重い。玄関の前でぶんぶんと腕を振る上野を玄関に押し込め、鍵をかけさせてから帰路につく。
なんかどっと疲れが出てきた。
(今回はなんとかなったが、あのクズ、相変わらず肩に手をかけてやがった。上野が妄信してやがるからそうなるんだ。つけこまれやがって……)
汗かいてるから、帰ったらシャワー浴びた方がいいだろうな。漫画喫茶に泊まってしまいたいが、未成年だし、騒ぎになるのは面倒だ。もう何もかもが面倒だな。投げ出したいことばっかりだが、そうも言ってられない。
(正直なところ、半人前の俺じゃああいつの存在をどうにかはできない。あいつの意思も読めない。引き下がるのも含めてあのクズ腕野郎の想定内だったりしたら……クソッ……またムカついてきた……)
腹が立つ。もう今日はずっと腹が立ちっぱなしだ。なんで生きてる人間が死んだ化け物どもに振り回されなきゃいけないんだ。腹が立つ。本当に腹が立つことばっかりだ。
(大嫌いだ。心が弱い奴の隙につけ込んで操って、甘い汁を啜るクズ野郎が……俺は……大ッ嫌いだ……!)
◇
翌日は最悪のコンディションだった。朝は寝坊しかけて朝飯を食いっぱぐれるし、授業中は眠くて完全に意識が飛んでいた。今度誰かに頼んでノートを見せて貰うなりなんなりの救済措置が必要だと思う。今日の分は念入りに復習しないとマズいな……。
「せ、先輩……神田先輩……お疲れ様です……」
「お、おう、上野……いくか……」
殆ど意識を飛ばした状態で昼間のタスクを終え、俺と同様フラフラになった上野と放課後合流する。まずは上野宅と廃墟間のルート確認と、移動時間の計測だ。
「廃墟は歩いて三〇分くらいです。自転車なら一〇分くらいですかね。多分ですけど、あのお化けって廃墟から僕の家に来てると思うんですよね。それで、三〇分くらいかけて廃墟から僕の家にたどり着く」
「話を聞く限り接点は廃墟だ。移動時間もだいたい合ってるし、化け物どもはセオリー通りに動く奴が多い。それを前提にして動こう。どうせ足音が三〇分間聞こえてくるのは間違いないんだ。どこから来ようと最大限引きつけて、足止めしておくに越したことはない。そのほうがアクシデントも避けられる」
まず上野の家に行って、そこから廃墟へのルートを確認した。昨晩の公園を通り抜けて、駅の少し手前で曲がる。駅まで追いかけてきたことを考えると上野を最優先で追ってくるだろうから、ギリギリまで引きつけて鏡の破壊に向かったほうがいいだろう。
「昨日、トカゲ野郎に酒が効くのは確認済みだ。昨日の公園あたりで待ち伏せして、酒をぶっかけて足止めする。その間に鏡を壊すぞ。獲物を見つけた後の移動速度がネックではあるが、道に適宜酒を吹きかけることで障害物にする。半人前と素人のコンビだが、一応道具の準備に関しては合格を貰ってる。鏡を破壊するまでの時間稼ぎにはなるはずだ」
「さすが先輩……手慣れてますね……! 暴力沙汰になると水を得た魚のようです!」
「お前に酒は効かないが、かわりに酒瓶をお見舞いしてやってもいいんだぞ」
「ひぇ……」
眠気でテンションがおかしいのか、上野に緊張感は見られない。強がっている可能性もあるが、どうだろうな。
「あ、先輩、アレです、アレ」
上野が指さした廃墟は、俺がニュースで見ていた頃より老朽化が進んでいた。年数を考えれば順当だろう。やはりニュースで見たときより背丈の伸びた、枯れた草むらの中にぽつんと灰色の建物が鎮座している。扉はガラス押戸だが、鍵も扉も破壊されているので入りたい放題だ。廃墟になる前は小さな会社だったらしいが、なんの会社かは誰も覚えていない。ガラスこそ周囲に散乱しているし、厳密に言うと崩壊の危険性もあるので小学生なんかは口を酸っぱくして近寄るなと言われるのだが、子供の冒険心を満たすのに非常におあつらえ向きの作りをしていた。フェンスとかで囲ったほうが良いと思うが、それすら惜しいのだろう。敷地を囲う黄色い鎖と立ち入り禁止の看板は、やんちゃしたい子供が入れ食いになる優秀な釣り餌だった。昼から夕方くらいは小中学生が木の棒を振り回して走り回るのだが、夜になると高校生から大学生あたりの連中が煙をまき散らすので、周囲の家は不審火を警戒してピリピリしているというわけだ。流石に例の殺人事件以降は曰く付き物件扱いなので、多少人足が遠のいたと聞いている。ただし誤差の範囲だ。しかも足が遠のいたのは木の棒を振り回す平和なタイプの連中が大半で、不審火の原因になりそうな奴らは気にせず寄ってくるというから地域住民はさぞ頭が痛いだろう。
「俺が先に見てくるから、お前は外で待ってろ」
「は、はい」
見たかぎり妙な気配はないが、トカゲの化け物と上野がここで鉢合わせなんて事態は避けたいからな。割れたガラス扉を跨いで中に入ると、スニーカーがガラスの破片を踏んでジャリッ、という音がした。
人の気配はない。放課後ここで遊んでたクソガキはもう家に帰ったのかもしれない。社会の不良債権がたむろするのは日が落ちてからだしな。かといって今日たむろされるのも邪魔だな。さすがに十二時になったらどっかに寝に帰るだろうか。というか前々から疑問だったんだが、こういう場所にたむろする不良債権はどこから来て何時頃どこに消えるのだろう。
「あれが鏡か」
ケガをしないように慎重に扉を跨いで顔をあげると、すぐに鏡を見つけることができた。壁に埋め込まれた大きな鏡で、掠れているものの、右下に社名のようなものが入っている。杜撰な環境に置かれているにもかかわらず、ドアと違ってヒビひとつ入っていないのが不気味だった。見かけはなんの変哲もない鏡なのに、鳥肌が立つほど悍ましい気配が漂っている。トカゲの本体はこいつで間違いなさそうだ。
化け物の姿は見当たらない。じゃあ昼間はどこにいるんだという話になるのだが、化け物なんてそんなものだ。連中は物理法則が通用しないので、つねに質量を保存しているとは限らない。上野の左肩にいる糞虫も千手観音モードになるのはテーブルターニングやってる時だけだしな。トカゲ野郎も上野にお百度参りする時以外はそもそも出現してすらしていないんだろう。ターゲットに目を付けたら餌に食いつく時以外どこ探してもいないとか、自己中心的で現実に唾吐きかけるような怪異連中にはよくある話だ。舐め腐りやがって。
「先輩なんでちょっと怒ってるんですか?」
「ちょっと考え事してたら腹立ってただけだ。トカゲ野郎はいないからお前も入っていいぞ」
「めちゃくちゃ血の気が多い……」
上野もビクビクしながら建物の中に入ってきた。ガラス扉を跨ぐ仕草が俺より手慣れてるので多分常習犯だ。所作に反社会的な臭いが染みついている。
「先輩、今凄く失礼なこと考えませんでした?」
「気のせいだろ」
「そうかなぁ……」
上野が仕切りに首を傾げている。俺は話題を変えることにした。
「しかし、思ったよりデカいし保存状態もやけに良いな。金槌で壊せるのか? コレ」
「一応金槌二本持ってきましたけど、試してみます?」
「いや、ここで壊して、化け物を退治する手段がなくなったら最悪だ。ぶっつけ本番でいく」
「手違いがあったら困りますもんね……」
必要な道具は俺が全部リュックにまとめて持ち歩くことにして、ひとまず解散した。次は上野宅前に十一時集合だ。俺も酒と札を持って行くために一旦家に帰らないといけない。清める酒は恵比寿商店で融通してくれる手筈になっていた。清めも札作りもそこでやらせてもらえる。修行の一環なんだそうだ。今までずっとそうして世話になっていたから、出世払いでもなんでも、いつか店に金を落とさないとな。
道具の準備ができたらまた出かける。面倒くせぇな。荷物まとめたらゲーセンで暇つぶしでもしようかな。
(しかし……上野の奴、昨日の今日で大丈夫かね)
昨日はトカゲ野郎の正体を知って参っていたようだった。よりによって懐いてたメンヘラとその彼氏の合体事故ってオチだからな。精神的ダメージはかなり大きい筈だが、俺が見る限り落ち込んでいる様子は見られない。それこそ会ったばかりの俺の所感なんぞなんの役にも立ちはしないのだが、無理をしているんじゃなかろうか。
今日の作戦も、自分で言い出しておいてなんだが、かなり綱渡りだし、不確定要素が多い。そもそも情報提供者が悪意ある糞腕虫なのが最大の不安要素だ。あえて情報にミスリードを含ませている可能性は多分にある。そのための事前確認ではあるし、事前にセンセイにも相談しているが……嫌な予感がする。昨日からずっと不安が拭いきれない。
除霊の真似事を何度かやってる俺でさえこれなんだ。当事者である上野の不安はどれほどだろうか。
俺も霊障で悩んでいた時期があるから、今のあいつを他人とは思えない。化け物に殺されそうになってるなんて、普通誰にも相談できないからな。俺はセンセイに助けてもらった。今度は俺が助ける番だ。
どんなに不安だろうと、やるしかない。
俺は準備のため恵比寿商店に向かい、そしてその足でゲーセンに向かった。
備え付けのベンチでぼーっとするか、メダルゲームで時間潰すかの二択になりがちなんだが、ベンチでぼーっとしてると浮くから、何回かはメダルゲームをやることにしてる。メダルゲーム、メダルあればタダだし、時間が無限に消えるからな。ゲームやってると余計なこと考えなくてすむし、リラックスできる。今夜は失敗が許されないので、いつも通りに過ごして、なるべく肩の力を抜いておきたい。
結局一〇時ギリギリまでゲーセンで時間を潰して、家から持ってきた食パンを腹に詰め込みながら上野の家へ向かった。
上野が家から出てきたのは、一〇時五五分。玄関に鍵をかけてから俺に小さく頭を下げた。
「こんばんは、先輩」
「ああ、よろしく」
やっぱりどこか緊張しているようだ。まあ、そうだよな。こいつにとっては生きるか死ぬかだもんな。
俺は視線を上野の顔から左肩に移した。相変わらず腐れ腕ゴミが鎮座していたので、見えるかどうかはわからないが思い切り睨み付けてやる。
「妙なことしやがったらぶっ殺すからな」
もう死んでたとしても殺すし、死ななくても殺す。
決意を込めて吐き捨てるとなぜか上野まで怯えていた。お前には言ってねぇよ。
「廃墟までは自転車で大丈夫ですか?」
「歩いてたら追いつかれるだろうからな。二ケツ頼むぞ。俺酒撒かないといけねぇから」
「うぅ……体力勝負だ……」
昨日話を聞くのに使った公園へ向かう。あそこなら待ち伏せするのにちょうど良いからな。三〇分ほど余裕があるので、再度段取りと荷物の再確認、自転車の点検をして待つ。清めた一五〇ミリの酒瓶が四本と、札が三〇枚。全部恵比寿商店で融通してもらって、恵比寿商店で作業させてもらったから、本当に頭が上がらない。
「先輩それ買ってくれたんですか!? すいません、後でお金払いますね……!」
「いや、恵比寿商店で融通してもらってんだよ。今までもお世話になってる。俺の訓練の一環だからお前は気にするな」
「いや、でもこんな危ないことしてもらって申し訳ないんで! 何かお礼させてください!」
「……なら後でなんか飯奢れよ」
「もちろん喜んで! お金ないんでサイゼでいいですか!?」
「順当に一番安いやつ選ぶじゃん。いいよ、後でサイゼな」
「感謝の気持ちを込めてサイドメニューおつけしますね!」
「店員かな?」
札をズボンやらシャツのポケットに突っ込んでいると、上野が「ゴーストスイーパーですね!」と喜んだ。呑気なのか呑気に見せかけているのか、付き合いの浅い俺ではわからない。気がつけば時計は十一時三〇分を示し、遠くから裸足の足音が聞こえてきた。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
音がどんどん近づいてくる。これを三〇分間聴き続けるのはなかなかにキツい。今日だけでもキツいのに、上野はこれを何日も聞き続けているのだから恐れ入る。しかもあいつの場合、これは自分の命を狙う足音だ。
ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た
曲がり角、地面から二〇センチほどの位置に影が現れた。ぬるり、と嫌悪感を煽る滑らかな動きで顔を出した化け物は、やはり腐った肉の塊に、人間の手足をとってつけたような形をしている。出来が悪い上に悪趣味な、いいところが一つも見受けられないトカゲのオブジェだ。そいつは二本の足と二本の手で大地を踏み締め、溶けたチーズみたいな赤黒い糸を引きながらこちらに近づいてくる。
「きょおすけくーん、こっちだよー。いっしょにあそぼうー」
は?
今こいつ喋ったか?
生意気にも人語を喋りやがったのか? 女のものらしいちょっと色のついた口がパクパクと動いている。そこからでた声が、バケモノとは思えないくらい流暢な人語だった。
「あ……お、お姉さ……」
おそらく上野が懐いていたメンヘラ女の声なのだろう。上野が明らかに動揺している。感情というものが介在しない、恐ろしいほどの棒読みなのに、あいつは知り合いの声だというだけで酷く動揺してしまった。
ゴミトカゲもそれが狙いなのだろう。どうやったかは知らないが、小賢しい真似をしやがる。ふざけやがって、何様のつもりだ? なんだお前。何考えてんだ。
はぁ?
はぁ????
「調子こいてんじゃねぇぞこのクソトカゲ野郎が!」
バリン――!
俺は怒りに任せて、酒瓶で化け物の頭をぶん殴ってしまった。お前のせいで俺の酒が一五〇ミリほど無駄になったぞゴミ野郎が。
「ギャ、蛾ャ亞痾ァアアァアァ婀痾ァアアァ痾亞婀鈳錏ァアア――!」
男と女の声が混ざったような、聞き苦しい悲鳴が聞こえた。頭に直撃してガラス瓶が割れたのに血のひとつも出やがらねぇが、酒を浴びて苦しいんでるようだ。これで人語を真似る余裕なんざなくなっただろう。化け物は化け物らしくうめき声だけ出してりゃいいんだクソが。
「行くぞ上野!」
「あっ、あ、あの、でも……」
「時間がねぇんだ早くしろ!」
上野の背中を押して、自転車に乗せる。俺は荷台に飛び乗って次の酒瓶を取り出した。一本クソトカゲのせいで無駄にしちまったからな。公害野郎め。すぐに落し前つけさせてやる。泣き喚きながら地獄に堕ちるとこ見て指さしてゲラゲラ笑ってやるからな。ぶっ殺してやる。絶対にだ。
「蛾ャ亞痾ァアアァアァ婀痾ァアアァ痾亞婀鈳錏ァアア――!」
化け物はまだ苦しんでいた。まだ苦しみ方が足りねぇ。もっと苦しめ。そんで死ね。
吠える化け物をチラチラと気にしつつ、自転車に跨った上野はぐずぐずと鼻を鳴らしていた。
「せ、先輩っ、そのお酒……お、お姉さんが、辛いみたいなんです……! なるべくかけないであげてください……!」
「あ゙ぁ゙⁉︎」
どうやら上野はあの声にすっかり騙されてしまったらしい。俺がひと睨みするとノロノロと自転車を漕ぎ始めたが、いつまでも化け物の方を気にしている。クソッタレが。無理して平気な顔してるからだ。一気にガタガタじゃねぇか。
ただ、目を覚まさなければ、こいつが死んでしまう。
「あいつはもう死んでる! ただの化け物だ!」
化け物がこちらを見た。動き始めたものの、先ほどより鈍い。生きてる人間を騙して追い詰める化け物。こいつのせいで生きてる人間が苦しんでいるし泣いている。クソ野郎が。
絶対こいつの思い通りになんてさせてたまるか。
「ここにいるのは化け物だけだ! お前の大切な人も、お前が殺した男もいない!」
自転車の後輪を足で叩いて、走るように促す。やっと上野が動き始めた。けれど、まだ鼻を鳴らしている。涙を袖で乱暴に拭うのが見えた。指摘するほど鬼じゃない。
「何を言われようと、どんな声だろうと耳を貸すな!」
こいつは徹頭徹尾、誰かに騙されていただけだ。あの廃墟でお姉さんとやらと出会ってから、ずっとだ。
上野は悪くない。悪くあってたまるか。
悪いのは、世間知らずのガキを、心の弱い奴を、自分のために都合よく利用しようとする奴だ。唾棄すべき害虫。生きてる人間を利用しようとする寄生虫ども。死んだくせに現世にしがみつくガムのゴミみてぇな連中が全部悪い。ゴミならゴミらしく焼却処分されてりゃいいものを道端にへばりつきやがって。
とっとと消え失せろ公害爬虫類め……!
俺は酒瓶の蓋を外して、あいつと俺たちの間に酒で境界線を作る。ただでさえ弱っているんだ。こんな簡単な結界でも、乗り越えるのは辛いだろう。害虫め。せいぜい無様にのたうち回って苦しみやがれ。
上野の目が揺れていた。けれど、足は止まらない。きちんと自転車のペダルを漕いでる。前に進んでいる。
「きょうすけくぅ――ン! きょおすけくんまでぇ――! おねえさんのこコロそうとしてるのぉおぉお⁉︎ いたい――! いたいよぉ――! いたいよおぉオォああァアアァァあぁああぁあああたスけて、たすけてよぉおおぉおお――!」
「死ね」
ほぼ無意識だった。俺は無意識に酒を撒く。投げつけると言ったほうが正しいか。俺のを手を離れた酒が真っ直ぐな軌道を描いて腐肉の顔部分に当たる。
「虚許境キョ傴スケ苦ゥン――! キョウスケ栩ンマデェエェ――! ォオ悪峯ネねネォ姉サン篦ノノコトコココ蠱髏蠱髏タスタスタス咫咫咫咫咫――!」
腹が立ちすぎると人間思考を放棄するんだな。良い経験になった。今後に活かそうと思う。腹立って雑魚を踏み潰しても、記憶がなかったら全然スッキリしないもんな。
「おい上野急げ! なるべく引き離すぞ!」
「うっ……はっ、はいっ……!」
自転車のスピードが上がる。俺はまた酒を撒いて、道路に化け物避けの境界線を引いた。案の定、トカゲ野郎はオウムより下手くそな人語のモノマネで何ごとか叫びながらのたうち回っている。
自転車なら廃墟までは一〇分程度だ。その一〇分が、化け物に追われながらだととても長く感じる。道路に撒かれた酒に当たる度、トカゲ野郎が足止めされるのでそれなりに引き離したとは思う。
幸い、今日は廃墟に不良どもはいなかった。それかもう帰ったのかもしれない。時間は十二時を回っていた。
上野が自転車を道路脇に乗り捨て廃墟へと入って行った。俺も後を追う。リュックから金槌を二本取り出して、片方を上野に押し付けた。事前に酒を吹きかけておいた金槌だ。ついでに三本目の酒瓶を取り出し、直接廃墟の入り口に酒を撒く。
「これで少しは時間を稼げる! 早く鏡をぶっ壊すぞ!」
鏡は相変わらず廃墟にそぐわないほど小綺麗で、夜中に見るとより一層不気味に思えた。
まず上野が金槌を振りかぶり、鏡に叩きつける。
ガキンッ!
「うわっ!」
甲高い音と共に、上野が弾き飛ばされた。清めた酒をかけた金槌でもダメか。長期戦になりそうだな。札もダメだろうか?
試しに俺の金槌に札を巻きつけてみる。どうにかなる気は全くしなかった。
ガキンッ!
「くそっ!」
やはり結果は同じだ。ふたり同時にやっても結果は変わらない。悲鳴のような金属音が響き渡るだけで、鏡にはヒビ一つ入らなかった。
「なるほど、こういう妨害か……!」
本当に小賢しい真似しやがる。こいつさえ壊してしまえば勝てるってのに……!
「なんとしてでも壊すぞ上野!」
「はっ、はい……!」
おそらく廃墟の入り口まで来たであろう化け物の、うめく声が聞こえてくる。男の喚き声と女の叫び声が混ざって、聞くに耐えない騒音だ。
「ナンで无ン出喃デナンデェェエェエェェ穢獲ェ! 軟デ堕列ダレだれモまゆヲあいして吼レ薙違ナイナイナイナンデダレモまゆヲアイシテクレナイ薙違ィィ違ィ! ミンナニミンナニ瞰ンナ瓊ヤサ易埜左ヤサ四苦叔使駆シテ窶埜ニミンナニヤサシクシテルノ二ィイィ威萎ィィイィィ! 意地悪萎璽倭嚠イジワルいじわるぅウゥゥウ傴膿ゥ! 怪麕啓皹ケークン埜箏ハナサナイハナサナイ離サ薙ィ骸カラカラカラ骸骸骸ケークンハサナナイカラァ痾ァ!」
「屍ネ錙褹死ネシネ死褹錙祢苦疎怨勿苦疎怨勿クソオンナ負眞穢オマエお前ノセイデォ前篦醒セイセイ棲シネクソ女オ前ノセイデェ穢ェェエェェ!」
呻き声が口論の様相を呈してきた。やはり生前から自己中だったらしいな。上野は、お姉さんとやらのクズな部分は見た事がなかったらしく、心底驚いているようだ。
「上野! 手を止めるな!」
「はっ、はいっ!」
しかし何度金槌を打ちつけても鏡はびくともしない。このまま続けていても埒が明かないんじゃないか? 他の方法を考えた方がいい。
だけど、これ以上何をすればいいんだ……?
廃墟の入り口あたりでウロウロしているトカゲは撒いてある酒に触れる度暴れ回っていて、水もないのに腐った水のような臭いがここにまで充満してきていた。奴が好き勝手なことを叫んで暴れる度に、ビチャビチャグチャグチャと水気を多分に含んだ音が鳴り響いている。あの腐った肉が、清めた酒の影響でさらに腐食しているのかもしれない。
「羌キョウキョウ況キョウきょうすけくんなんでいうことがきけないのおおお! わるいこ! わるいこぉっ! だいっきらい! だいっきらいィっ! これだからがきなんかだいっきらあああああァいっ!」
「このっ……!」
こっちが鏡から手が離せねぇと思って調子に乗りやがって、また上野に揺さぶりかけるつもりか性悪クソゴミトカゲめ。どうやって痛めつけてやればマトモな感覚を身につけやがるんだ歩く公害野郎が。
「おい上野、お前しばらくひとりで鏡殴ってられるか?」
上野にこれ以上あの化け物のヒトマネを聞かせないほうがいいだろう。多少タイムロスだが、多めに酒をかけてオウム以下の猿真似なんぞする余裕を奪ってやる。リュックから酒瓶を取り出して上野に尋ねた。が、返事がない。
もしやそんなに余裕がないのか? 俺の想像以上に、精神にダメージがいったのかもしれない。今心が折れたら命が危ない。その時は殴ってでも正気に戻さなければ。
「おい……!」
上野の方を見ると、金槌を持ったまま目を瞑っている。
余裕がない、というのとは少し違う気がした。雰囲気が凪いでいる。奴は一度深呼吸をして、金槌を握り締め、そして俺の方に視線を向けた。
「先輩、大丈夫です。僕、なんとか鏡を割ってみます」
まっすぐな目だ。揺れていないし、涙も引っ込んでいる。さっきまで半泣きだったのが嘘のようだ。
「僕がもたついたせいで時間がないです。先輩――危険ですけど、あの化け物を、足止めしてくれますか?」
トカゲ野郎が顔見知りの幽霊だと知ってから、上野は奴を化け物とは呼んでいなかったように思う。
きっと、踏ん切りがついたのだろう。あのトカゲを、化け物として切り捨てることにした。半泣きで俺に言われるまま自転車を漕いでいた時とは違う、明確な意思と決意がそこにあった。
綺麗な思い出は砕け散っただろうが、でも、もう心配いらないだろう。
「方法はあるのか?」
俺が尋ねると、上野が一〇円玉を取り出してにっこりと笑った。こんな満面の笑みを見たのは、こいつに会ってから初めてな気がする。
「先輩に教えてもらった通り、僕もやってみます。本当のテーブルターニング」
きっとこいつは、大丈夫だ。
「任せたぞ」
「はい!」
力強い返答を背に受けて走り出す。なにか策があるのだろう。俺もちょうどゲロトカゲをぶん殴ってやりたかったところだ。持っていた酒瓶の中身を口に含んで、握った拳に吹きかける。これで殴ると化け物どもによく効くんだ。どうしても始末したいけど図太いクソ野郎がいた場合、俺はこうやって直接ぶん殴ることにしている。今まで失敗したことはない。失敗したら今頃生きてないからな。
「テメェは絶対殺す」
酒の境界線を飛び越えて、化け物の目の前に踏み込む。
腰を思い切り捻って上半身だけ横を向く。首から上は獲物からそらさない。肘は直角に曲げたまま、斜め下に照準。
この化け物、なんにもいいところがないと思ってたが、頭が下にあるのは長所だな。思い切り殴りやすい。
「死ねッ! 肥溜めハ虫類ッ!」
体重をかけて殴りつける。昨日からの恨みつらみを全部拳に込めて振り下ろした。酒に触ってのたうち回っている腐肉に拳をめり込ませる。
見かけ通り腐っているらしい肉は、俺が殴った途端ブシュリと音を立てて赤黒い水が周囲に飛び散った。感触もブヨブヨのゴムを殴ったようで気持ちが悪い。
「繧ョ繝」繧「繧。繧「繧「繧。繧「逞帙ッ!! >逞帙>逞帙>逞帙>逞帙>逞帙>繧」繧、繧」繧!!」
「徹頭徹尾見苦しい野郎だなテメェは」
トカゲのまき散らした汚水は、生ゴミのような臭いがする上にドロッとしている。油の塊のような粘度だ。触りたくない。あの汚水の詰まった腐肉も出来れば触りたくないが、殴ったほうがダメージは与えられるんだから我慢するしかないか。境界線に触れたときはまだ人語を真似しようとする余裕があったのに、今は理解不明な雄叫びを上げるばかりなのが少しいい気味だった。
「縺ヲ繧√繧医繧ゅd縺」縺ヲ縺上l縺溘! 谿コ縺呎ョコ縺呎縺呎縺呎ョ縺コ!」
「ははっ! なに言ってっかわかんねぇよバァーカ!」
ゴツい指輪をつけた前足(手)が俺に掴みかかってくる。姿勢が低いので必然俺の足を狙った攻撃だ。バックステップで"結界"の中に避難する。腕だけなら酒の境界線を越えられるようだ。酒に触れなければ大丈夫ってことなんだろうか。
下の腕で無理なことがわかると、今度は背中に生えていた生白い手が顔側面まで移動してきて、俺の首に掴みかかってきた。
「気色悪ぃんだよ、触んな!」
両拳で腕を挟み込むように殴りつける。何度か繰り返すと、パキッと音がしてトカゲが後退した。生っ白い腕がブラブラ揺れているので、骨が折れたんだろう。
「生前のリスカが骨までイッちまってんのか? 枯れ枝折った時のほうがまだマシな音するぞ!」
「菴輔h繧ッ繧ス繧ャ繧ュ險ア縺輔縺險ア縺輔縺險ア縺輔縺! 谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺驍ェ鬲斐繧九!!」
「五月蠅ぇわめくな大人しく死ねッ!」
頭であろう部分を殴ると、また赤黒い汚水が飛び散って俺の服を汚す。生ゴミの臭いが酷くなった。汚れも臭いも残ったらどうしてくれんだクソッタレハ虫類め。クリーニング代と慰謝料寄こせ。
「谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺!」
化け物が怒り狂ったように暴れて、床に撒かれた酒に触れる度、腐肉が煙を立てている。焼けてんのか? なんで? 奴がもがく度ビチャビチャグチョグチョと嫌な音がする。全身から赤黒い液体とチーズみたいな糸が飛び散り、生ゴミと腐った水の臭いがどんどん強くなっていく。
冗談抜きで吐き気がしてきた。
(そういやこいつ、どうやって酒の境界線越えたんだ?)
今のところ、多めに酒を撒いた境界線を化け物が越える様子はない。奴は廃墟の入り口付近をウロウロして、体液を周囲にまき散らしているだけだ。境界を越えようとする度に藻掻いてうめき声をあげ、その度体液をまき散らしている。
(もしかしてわざとか? アレ)
酒が撒かれて色の変わった地面の上に、奴の汚物がぶちまけられる。赤黒い色に変わった場所は、あいつが触れても変化がないようだった。
「クソ野郎が……!」
結界を不浄で上書きしてやがる。
つまりこのあたりが奴の体液塗れになれば、境界線を乗り越えられるわけだ。今までの境界もそうして乗り越えてきたんだろう。ということは、道はこいつの汚物だらけか。
「マジで気色悪ぃなテメェ。ゲロ吐きながら歩くんじゃねぇよ公害トカゲ」
「驍ェ鬲斐繧九驍ェ鬲斐繧九驍ェ鬲斐繧九驍ェ鬲斐繧九驍ェ鬲斐繧九驍ェ鬲斐繧九驍ェ鬲斐繧九!」
汚物の上に酒をかけてやると、ハ虫類が怒り狂ったように身もだえる。汚物からは白い煙が立ち上っていて、それがあまりにも臭かった。ドロドロのゲロが臭いだけならまだ我慢できるんだが、気体になって周囲に充満するのはマジで気持ち悪い。酸素が薄くなったような気分だ。息苦しくて変な汗が出てくる。目眩がしてきた。穢れが充満しているせいだ。こいつの汚物が――
「繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ!」
化け物が呻く。呻く? 違うな。見間違いでなければ、口が二つとも笑っている。歯を見せて下品に声を上げて笑っているのだ。
もう一発殴ってやろうと思って足を踏み出し、俺は自分の体が大きく傾くのを自覚した。
「あ?」
片膝を地面に突く。目が回る。吐き気がする。
ヤバい。なんで早く気づかなかったんだ。こんな化け物の撒き散らす体液も煙もマトモなわけがない。穢れの塊だ。人間が触っていいもんじゃない。
あいつの汚物が酒で蒸発する時気体になって、希釈された代わりにこっちまで流れてきたんだろう。臭いも体液も穢れだ。吸い込むのも服にかかるのもダメに決まってる。
クソ野郎が、一丁前に罠なんざはりやがって……!
(いや、本体じゃないからって舐めてたんだ。俺のミスだ)
半人前の俺ではあるが、酒も札もセンセイには合格を貰ってる。それでも俺自身はまだ修行中の身だし、一応お祓いの真似事ができるってだけだ。敵わないと思ったら逃げなきゃいけないし、よっぽどの雑魚でもない限り、何か行動を起こす時はセンセイに相談するように言われている。
俺は半人前だから。本来なら人の命を預かるような真似はしちゃいけないし、少しでも危ないと判断したら化け物に喧嘩を売っちゃいけない。
だからってごめんなさい俺が間違ってましたとはならねぇけど。
「繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ!」
化け物が笑い声なんだか鳴き声なんだかわからねぇ雄叫びを上げた。身震いした腐肉から赤黒い吐瀉物がまき散らされて、糸を引きながら地面に落ちる。そのネバついたゲロの上を、トカゲ野郎が歩いてきた。酒の境界線を乗り越えてくる。
俺はまだ上手く動けない。
それどころか、さっきのゲロが腕にかかって焼けるように痛かった。酸でも被ったみてぇだ。くそ野郎が。諦めてたまるか。人間舐めんな。目に物見せてやる。
「汚物トカゲが……」
三本目の酒瓶をひっくり返して、俺の背後に酒を撒く。酒はあと一本だ。その酒瓶を逆さに持って握りしめる。札の方はまだまだあるからな。酒はここで使い切っても問題ない。
「縺弱c縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺!」
「うるせぇ死ねっ!」
バリンッ――!
襲いかかってくる化け物を酒瓶で殴り飛ばしてやった。酒とガラスが飛び散り、悲鳴を上げたクソトカゲがのたうちまわる。臭ぇな、呼吸するんじゃねぇよ。息してんのか知らねぇけど。
「このクソがっ!」
割れた酒瓶の尖った部分をトカゲの顔に振り下ろしてやる。体液が撒き散らされて鬱陶しいし眩暈がするが、構ってられるか。絶対殺してやる。今ここでこのトカゲを仕留めてやる。逃してたまるか。後悔させてやる。泣いて謝っても許してやらねぇ。死ね。今ここで死ね。
何度も酒瓶を振り下ろすうちに、奴の顔面から体液がとめどなく溢れ出して止まらなくなった。背中に生えた腕がビクビクと痙攣している。口がふたつとも金魚みてぇにぱくぱく動いた。無様な野郎だ。なんでまだ動いてんだ。もう酒瓶は穢れの体液まみれでシュウシュウと煙をたたている。トカゲの顔は色の悪いミンチみてぇになっていた。まだ足りねぇな。もう一息か?
酒瓶を奴の顔に突き刺すと、だいぶ柔らかくなっていたおかげで深く刺さって抜けなくなった。投げ捨てるのも危ないし勿体無かったのでちょうどいい。これは褒めてやってもいいな。
「テメェみてぇな化け物でも首絞められたら苦しいのか?」
馬乗りになって腐肉の首を掴む。絞め殺すつもりで力を込めると、奴のゴツい方の手も俺の首を掴んだ。
面白れぇ。確かに俺は半人前だが、ミンチトカゲに殺されるほど弱いつもりはねぇぞ。
「良い度胸だクソトカゲ野郎! 絞め殺してやるよ! 覚悟しろコラァッ!」
◇
上野恭助は鏡の前で跪いていた。
いつも使っているこっくりさんの用紙に、一〇円玉。硬貨は鳥居の位置ではなく、「はい」の上に置いて、人差し指で押さえている。
目を瞑って、深呼吸して、目を開く。
あまり時間は残されていないから、急がなくてはならない。失敗は許されない。そうなったら、おそらく神田も巻き込んでしまうから。
「こっくりさん、こっくりさん。いらっしゃいましたらお越し下さい」
一〇円玉は動かない。いつもなら、一度呼びかけたらすぐに来てくれるのに。さっきから左肩が痛かった。やめろと言われているようだった。
そうだろう。こっくりさんは上野の命が欲しいのだ。だから上野が生き延びようと足掻くのは面白くない。言うとおりになんかしてくれるはずがない。
でももう上野は知っていた。気持ちを強く持てば――負けないという意思があれば、彼が神様のように思っていたこっくりさんも、人間に従うのだと言うことを。
「こっくりさん、こっくりさん。お願いです。僕の言うことを聞いて下さい。お願いです、鏡を割るのをお手伝いしてください。これまで僕は貴方の言うことをたくさん聞いてきました。僕を助けるような口ぶりで、貴方が僕を良いように使っていただろうことはわかっています。昨日の貴方の言い分に、僕は言いたいことがあります。お姉さんの恋人を殺したのは僕だけじゃない。僕と貴方だ」
はい、と言わされた。そう思わなかった時が今までなかったわけではない。だけどそれは罪から逃げているような気がして、自分が選んだのだという責任から逃げているような気がして、深く考えることができなかった。それを一度してしまったら、こっくりさんが全て悪いと思ってしまう気がして――ずっと一緒にいてくれたこっくりさんに申し訳がなかったし、こっくりさんが悪いのだといって、こっくりさんを怒らせることも、話す相手がいなくなるのも恐かった。自分の罪を自分ひとりで背負うのが恐かったから、今まで目をそらしていた。
――もう、逃げない。
「僕と貴方は共犯者です! 対等の筈です! 貴方が僕を好きに操るだけでは対等ではありません! こっくりさんお願いです、たまには僕の言うことも聞いて下さい!」
一〇円玉が震えたような気がした。動こうとしているのを上から押さえつける。神田がやっていた事、彼が見よう見まねだと言ったそれを、さらに真似る。うまく出来ているかは自信がない。それでもやらなければ。
死にたくないし、死んで欲しくない。
こっくりさんに『ころしてあげようか』と尋ねられた時よりも明確に、鮮明に、強烈に、上野の心は今その二つの言葉しかないのだ。
彼は過去に類を見ないほど集中していた。時間がない。なんとしてでもこっくりさんに言うことを聞かせなければいけない。その一心だった。
だから、気づかない。彼の背後から黒ずんだ腕が山のように出てきて、体を触り始めても。
気づかない。押さえ込んだ一〇円玉が燃えるような熱を持ち、彼の肌を焼いていても。
気づかない。一〇円玉を睨み付ける彼の目が、徐々に変色していても。
気づかない。強膜が黒く染まり、瞳孔が白く変わっても。
気づかない。媚びたように彼に触れる腕が、引き留めるように絡みついてきても。
気づかずに――血を吐くように、懇願するように、あるいは、断罪するように、"命令"を下した。
「か が み を こ わ せ !!」
上野の肩に乗っていた死人の手が、一〇円玉を押さえていた上野の手に重なる。
そして死人の手が、上野の手を導くように引っ張った。
促されるまま、上野は指先を目の前の鏡へ伸ばす。一〇円玉を押さえていた時のまま、指先で鏡に触れる。
殴りつけるわけではない。ただ撫でただけだ。
それだけで、鏡に、ヒビが入った。
「あ」
と上野が声を上げる間に、彼の呼吸すらかき消すように、音がする。
聞いたことのない、けれど『なにかが壊れているのだ』とはっきり解る、ひび割れた音だった。
スチール缶をプレスする音に近いだろうか。一〇〇個くらいのスチール缶を、個人使用のプレス機で一気に壊したらこんな音がするのかもしれない。
鏡がヒビ割れる度にパキパキバキバキと、何重にも重なって破壊の音が鳴り響く。
先ほどまで上野の姿を映していた鏡が真っ白になった。曇ったのではなく、細かいヒビが幾重にも重なって、鏡としての役割を果たさなくなったのだ。
腕の群れが引いていき、真っ白になった鏡だけが残る。
「はい」の場所に鎮座した一〇円玉は熱を失い、そして腕も上野の左肩に乗るひとつだけになった。
「割れた……?」
上野が恐る恐るつぶやくと、声を合図にしたかのようにぱきん、と小枝の折れるような音がする。
途端、どれだけ金槌で殴っても割れなかった鏡は、砂のようにサラサラと、小さな粒子になってその場に小さな山を作った。どこかから吹いてくる隙間風が、砂のようになった鏡を吹き飛ばし、山が小さくなっていく。周囲にキラキラと光る塵が広がり、やがて目視すらできなくなっていく。
あまりにもあっけない終焉だった。
上野が呆然としている背後で、突然悲鳴が響く。
「縺弱c縺ゅ≠縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺ッ!」
獣じみた絶叫だった。命の危機を察した生き物の、悲鳴なのか怒号なのか、恨みなのか、あるいは全てがないまぜになったような音。
振り返ると、トカゲの化け物がのたうち回っている。その体が頭上からドロドロに溶け始め、腐った臭いが上野の方にまで漂ってきていた。
神田は化け物の横で咳き込んでいる。命は無事であるようだ。思わず胸を撫で下ろす。
これで終わった。やった。先輩も無事だ……。
上野が肩の力を抜いたのとほぼ同時に、風が吹く。
上野の方から化け物に向かって、突風のような、鋭い風が。
「え?」
上野にはよく見えなかった。そもそも彼には霊感がないからだ。その時起こった出来事を正確に把握していたのは神田だけだ。
上野の左肩に取り憑いていた死人の手が、化け物の首を掴んだ。
ドロドロに溶けて既に原型のないトカゲを振り回す。何度も床に叩きつけられた化け物は、ドロドロの体液を飛び散らせて体積を減らしていく。
耳を塞ぎたくなるような絶叫と共に取り出されたのは、女の霊だった。
「雖後d繧√騾」繧後陦後°縺ェ縺?蜉ゥ縺代繧?a縺ヲ隱ー縺句勧縺代‼︎」
悲鳴を上げた女の霊目掛けて、上野の背後から湧き出た腕の群れが飛んでいく。我先にと取り合っては女の体を力任せに引きずり、半透明で無防備な魂が千々に裂けた。
表情は苦痛と恐怖に歪み、助けを求めるように細い腕が神田と上野に向けて伸ばされる。
彼女の腕の内側には、カッターでつけたであろうリストカットの傷跡がいくつも走っていた。
「蜉ゥ縺代‼︎ 縺企。倥>、蜉ゥ縺代‼︎」
もはや人語の様相を呈していない悲鳴。懇願。それらを押さえ込むように、幾重にも腕が群れて、重なり、女の魂を絡め取る。
「雖後?√>繧?=‼︎ 縺?d縺√≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ=縺ゅ=縺――‼︎」
耳にも体にも突き刺さるような悲鳴を最後に、女は腕の群れに千切られ、刻まれ、轢き潰されて、かき消えた。
「――……」
そして、静寂。
神田も上野も、ただみていることしかできなかった。
「……こっくりさんが、お姉さんを……あの彼氏から、救ってくれたってことですか……?」
「………………お前、夢でも見てたのか?」
上野は霊感がないため正確に全容を把握できず、神田は体力気力ともに限界だった。さらに上野は、自分に憑いたこっくりさんを無理やり従わせている。
今ここで事実を説明すれば、さらに憔悴するだろう。
「……まあ、今度、機会があれば説明してやるよ」
結局神田は自分の体力も限界だったため、問題を先送りする選択肢をした。
いずれ話さなければいけないかもしれないが、もう十二分に傷つき疲れ果てた男に追い討ちをかけてしまうほど、鬼ではないのだ。
◇
結局、俺と上野が動けるようになるまでには少し時間がかかった。なんとか廃墟から出てきた頃にはスマホが午前一時を示していて、ここから家に帰って風呂に入って寝なきゃいけないのかと思うと別の疲労が襲いかかってくる。
一方、上野は自分の命を狙う怪異がいなくなったこともあってか、疲労困憊ながらも顔色がよく、スッキリした表情を浮かべていた。
「神田先輩! この度は本当に本当にほんっとーにっ! ありがとうございました! 僕、多分先輩が声かけてくれなかったら冗談抜きで死んじゃってたと思います! まったく見ず知らずの僕に声をかけてくれて、助けてくれて、本当にありがとうございました!」
上野が深く深く頭を下げる。ここまでされるとなんだか照れ臭い気分だ。確かに人の命がかかっているのだと自分を奮い立たせてはいたが、正直、上野につきまとう怪異どもに腹が立ったという理由が大きいのだ。
「お前、もうこっくりさんを頼りにするのはやめとけよ」
照れ隠しも入って、少しぶっきらぼうな声になってしまった。それでも上野は気分を害した様子はなく、ニコニコと笑っている。
「はい! 今まで僕はなんでも相談しすぎてました。そしてなんでも言うことを聞きすぎてました。僕とこっくりさんは対等だって今日決めました! 舐められたら終わり、なんですもんね!」
「…………」
なんか違うな。
俺が思ってたのと違うな。
「……なんかあんま、伝わってねえな」
どうしようかな。化け物の末路とかやっぱり気を遣わないで今教えちまったほうがいいかな。
俺が途方に暮れている事なんて知らずに、上野が満面の笑みで手を差し出してきた。
人差し指の先端が、火傷で爛れている。もしかしたらこっくりさんの時にまた一〇円玉が熱を発したのだろうか。やっぱり関わり合いにならねぇほうがいいな、あのクソ腕虫。
「神田先輩! これからもよろしくお願いしますね!」
はぁー……。
「……ああ」
長いため息の後、俺は後輩の手を握り返した。
こっくりさんに関しては、後で説得しようと思う。細かく説明すればまあ、さすがに目が覚めるだろう。
第二話
第三話
