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[連載③]あなたが図書館に行かない、その理由は三つある——文化施設の「不参加」

前回は、市議という政治家が、なぜこんなに見えにくいのか。
本人の怠慢だけではなく、選挙制度や二元代表制や広報の弱さが、市議を見えない存在にしているのではないか、という話をした。

今回は、この枠組みをまったく別の場所に持ち込んでみたい。

図書館と、ミュージアムだ。

ここで考えたいのは、ひとつの仮説である。文化施設に行かない人も、政治と同じように、三つの顔に分かれているのではないか。

しかも文化の世界では、その三つが政治よりもくっきりと、そして残酷に分かれているように思う。

「行かない」の中身を開けてみる

図書館に、もう何年も足を運んでいない人がいる。
美術館や博物館には、たぶん修学旅行以来行っていない。そんな人もいる。

外から見れば、どちらも同じく、ただの「利用しない人」。
図書館に来ない人。
ミュージアムに来ない人。
そういう人は十把一絡げにして「文化施設に関心のない人」として扱われる。

でも、本当にそうだろうか。
中身を開けてみると、そこにはやはり三つの顔が見えてくる。

ひとつは、満足。
本は自分で買う。調べ物はネットで足りる。映画も音楽も家で楽しめる。だから図書館がなくても、今のところ困っていない。これはまあまあ健全な不参加だと思う。

もうひとつは、諦め。
本当は少し気になっている。でも、あそこは自分の行く場所ではない気がする。難しそう。静かにしなければいけなさそう。何を見ればいいのか分からない。場違いに見られそう。作法を知らない自分が、入口で止まってしまう。行ってみたい、けど、入口の手前で引き返している。

そして、無関心。
そもそも、行くという選択肢が頭に浮かばない。子どものころ、誰かと図書館に通った記憶がない。美術館に連れて行かれた経験がない。だから「行きたい」という気持ちが、まだ一度も形になっていない。

行動はどれも同じ。
「行かない」
けれど、満足の不在と、諦めの不在と、無関心の不在は、まるで違う意味を持っている。

ここで効いてくるのは「文化資本」だ

政治の話では、諦めは「言っても変わらない」という無力感から生まれていた。文化施設の諦めは、少し質が違う。
文化施設に対する諦めは「ここは自分の場所ではない」という感覚から来ているんだと思う。

社会学者のブルデューは、趣味や教養やふるまいを含む文化的な資源を「文化資本」と呼んだ。大事なのは、文化資本がお金とは別のかたちで、家庭の中で相続されること。

幼いころから本に囲まれていた人。
美術館に連れて行かれていた人。
クラシック音楽や展覧会や読書が、特別なものではなく日常だった人。
そういう人は、文化施設でのふるまい方を、息をするように身につけている。

でも、その経験がなかった人にとって、文化施設は少し違う場所に見える。
入っていいのか分からない。
何を楽しめばいいのか分からない。
自分の服装や言葉遣いや知識が、足りないような気がする。

以前、別の記事にも書いたけれど、私は子どものころ、博物館や美術館に連れて行かれても、展示の中身をほとんど覚えていなかった。

覚えているのは、
館内で飲んだレモンスカッシュの酸っぱさ。
売店で食べたソフトクリームの味。
歩き疲れて、ベンチに座っていた時間。

正直に言えば、当時は退屈だった。
展示の意味なんて分からなかったし、早く帰りたいと思っていた。
時間を持て余していた。

けれど、その「退屈な時間」は、二十年後に人と人をつなぐ資本に変わった。

仕事の商談で、ふと土地や歴史の話が出る。
そのとき、かつて歩いた場所の記憶が反応する。展示の内容を正確に覚えているわけではない。でも、「あそこに行ったことがある」「その空気を知っている」という感覚が、会話の扉を少し開ける。

話がほどける。
相手の表情がやわらぐ。
信頼が生まれる。
あのときのソフトクリームが、巡り巡って契約につながっていく。

ここで重要なのは、文化資本の入口が「理解」ではなかったこと。
正しく鑑賞することでも、展示を説明できることでも、知識を増やすことでもなかった。

ただ、そこにいた。
誰かに連れて行かれて、その場所の空気を吸った。
退屈しながら、歩いた。
帰りに何かを食べた。

それだけの経験が、ずっとあとになって、自分と世界をつなぐ細い糸になる。

文化資本とは、最初から立派な教養として手に入るものではないのだと思う。多くの場合、それは「よく分からないけれど、そこにいた」という記憶から始まる。

美術に興味があったわけではない。
展示の意義を説明できたわけでもない。
ただ、誰かに連れて行かれて、その場所にいた。

その積み重ねが、あとになって「自分はこういう場所にいてもいい」という感覚をつくる。

我が家は、特別裕福だったわけではない。けれど私には、手を引いて連れて行ってくれる大人がいた。
展示を解説してくれる人ではなくてもいい。ただ、その場所まで連れて行き、退屈している私にソフトクリームを買ってくれる人がいた。
それは、あとから考えると、とても大きな資源だった。

誤解しないでほしいのは、文化施設に行けなかったからダメだという話ではないということ。
親の関心や努力だけで片づけられる話ではない。
時間、距離、交通費、仕事、きょうだいの世話、親自身の経験。いくつもの条件が重なって、「行ける」「行けない」は決まっていく。

ただ、子どもの側から見れば、結果として残るのは、
その場所に入ったことがあるか。
そこで退屈したことがあるか。
帰りに何かを食べた記憶があるか。
という経験。

そういう小さな経験の積み重ねが、「自分はこういう場所にいてもいい」という感覚をつくっていく。
裏を返せば、その経験が人生の早い段階で用意されなかった子どもは、同じ資本を受け取りにくい。

本人の努力不足ではない。
関心が低いからでもない。
知的好奇心がないからでもない。

ただ、その場所に入る機会がなかった。
文化資本の格差とは、親の善し悪しではなく、こうした小さな機会がどれだけ生活の中にあったかの差でもある。

利用者に応えるだけでは、格差が広がる

もうひとつ、やっかいな逆説がある。
施設が、来てくれる人に丁寧に応えれば応えるほど、もともと文化資本を持っている人たちは、さらに満たされる。

図書館を使いこなす人。
展覧会の歩き方を知っている人。
講座やイベントを見つけて申し込める人。
アンケートに意見を書ける人。
そういう人たちは、放っておいても来る。そして来れば、満足して帰る。

一方で、諦めの側にいる人は、誰にも気づかれないまま入口の外に立ち続ける。
施設の側から見れば、彼らは最初から存在しない。
そこにいないのだから、来館者数にも出てこない。
アンケートにも現れない。
満足度調査にも引っかからない。
意見を聞く相手として、そもそも視界に入らない。

こうして文化施設は、静かに格差を再生産してしまう。

来る人に応える。
声を出す人に応える。
使いこなせる人に応える。
それ自体は悪いことではなく、むしろ必要なことだ。
しかし、それだけでは足りない。

前回の政治で見た「声の大きい人ばかりが報われる構図」と、根は同じ。
むしろ文化のほうが、たちが悪いかもしれない。

政治なら、まだ「参加しよう」という言葉がある。
でも文化では、「好きな人が来ればいい」と言えてしまう。

その瞬間、入口の外にいる人たちは、最初からいなかったことになる。

でも、文化施設には政治にないものがある

ここまで読むと、文化施設の話は、政治の焼き直しに見えるかもしれない。
けれど、ひとつだけ決定的に違うものがある。

文化施設には、来なくても価値を受け取る人がいる。ということ。
一度も足を運ばない。
本を借りない。
展覧会を見ない。
イベントにも参加しない。

それでも、なくてはならない存在が「文化施設」だ。

自分は行かなくても、子どもが行ける場所。
災害のあと、地域の記録を残してくれる場所。
街の中にある、無料で入れる静かな場所。
自分の知らない誰かが、そこで救われているかもしれない場所。

そういう価値が、文化施設にはある。

ここで、政治にはなかった不思議な不参加が現れる。
来ない。
使わない。
でも、あってほしい。

これは、満足とも違う。諦めでもない。無関心でもない。
自分は使わないけれど、誰かのために残っていてほしい。
その存在を支える価値は感じている。

文化施設に「来ない人」の四つ目の顔。
それが「必要だと感じているけど行かない人」

そしてこの顔こそが、いま文化施設を苦しめている「稼げ」という言葉の、急所を突くことになる。

(連載④へ続く)


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