一緒にお茶を飲んでみたい〈終〉
翌日の日曜日、しのぶは《しま藤や》のバイトに出かけることにした。いつものように、店の内側に掛けられた暖簾をくぐると、
「あれ? 葉次朗君」
前掛けをした葉次朗が、箒で掃き掃除をはじめていた。
「なんだよ。今日休みじゃなかったのか」
「うん。今朝、バイトに出られそうだって紀子ちゃんに電話したら、来てほしいって言われたから来たの」
「そっか。そんなら、今日はおれの出番はなさそうだな。それじゃあ 」
退散しかける葉次朗の行く手を、「はい、ストップー」と紀子が阻む。
「あんたも昨日一日働いてみてわかったでしょう? 本当は、土日はもうひとりバイトさんを雇いたいくらいなのよ。しのぶちゃんが優秀だから、何とかなってるんだからね。あんたも今日一日くらい、しっかり働きなさい」
塞がれた手を振り切ってまで戻る気はないらしい。葉次朗は口の中でもごもごとぼやきながら、掃除を続けていた。
「店の前掛け、似合ってるよ」
しのぶが冷やかすと、ふん、と葉次朗は鼻を鳴らす。
たぶん、照れているのだろう。
可愛いやつめと思いながら、しのぶは厨房に声をかけた。
「おやじさーん、昨日はお休みいただいちゃって、すみませんでしたー」
すると武弘は、ちょっとと言いながら、招き猫みたいにちょいちょいと手招きする。秘密の話があるらしい。
「なになに?」
興味津々に近づいていくと、
「しのぶちゃん、葉次朗のやつ、案外、この商売向いてるかもしれないよ」
なんて言い出した。
それは何より、と思いながら、しのぶは「へぇ」と返す。
「昨日一日働かせてみたらさ、客さばきとかうまいんだ。普段仏頂面のくせに、挨拶もさわやかなんだよ。意外だろう?」
いつになく上機嫌だ。
「関心なさそうに見えて、親父さんや紀子ちゃんの働くところ、ちゃんと見てたんじゃない」
「そうかなぁ。だと嬉しいよ」
武弘の顔がほころぶ。
「お店、継いでほしい?」
「そりゃあ、やってみてほしいけどさ。こっちからは継いでくれなんて言わないよ」
「なんで?」
「無理強いして務まる仕事じゃないからさ。草太朗なら無理しても多少はやれそうだけど、葉次朗みたいなやつは、これだ、と思った仕事じゃないと、身が入らないんじゃないかな。でも、そういうやつのほうが、こういう商売に向いてるんだけどね」
継ぐ気でいるみたいだよ、と教えてあげたかったが、差し出がましいので我慢した。
「じゃあ、葉次朗君に継ぎたいと思ってもらえるように、おやじさんも、もっともっと仕事頑張らないとねっ!」
しのぶの言葉に、武弘の顔が、電灯を点けたみたいにぱっと明るくなる。「若い人に発破かけられるのも悪くないねぇ」
武弘はよしっと腕をまくって、仕込みの続きに取りかかる。この腕で店を守り、家族を守ってきた、かっこよくて強い腕だ。
普段、紀子と二人でやっている店内の掃除も、一人加わるだけですぐに終わる。いつもより二十分も早く、まかないの時間になった。
「お? 今日はゆっくり食べられそうだなぁ。しのぶちゃん、今日のまかない何にする?」
「じゃあ、カレーそば!」
とろりとした餡のかかった汁物は冬のご馳走だ。
葉次朗が一瞬、いいなぁ、という顔をする。でも、草太朗みたいに、作ってくれとは言わない。こういうところが葉次朗である。
武弘が言う。
「葉次朗、おまえも同じでいいか?」
照れくさいのか、武弘は顔を背けたままだ。
「おれはいいよ。バイトさんじゃないんだから」
我慢している。いじらしい。しのぶは思わず助け船を出した。
「えー、一緒に食べようよー。近くでカレーの匂いがしたら絶対に食べたくなるって! 頼まないと後悔するよ」
大袈裟だなぁ、と葉次朗がぼやく。
「……じゃあ、食べさせてもらいます」
父親に向かって頭を下げる葉次朗は、もうすっかり《しま藤や》の跡取りのように見えた。
◇◇◇
テーブルの上におかずやご飯が並べられる。できあがったカレーそばを、そっとテーブルに置き、
「いただきます」
と四人で手を合わせた。とろける餡を箸でかき分けると、もわっとカレーの香りが上がってきた。
「んんっ!」
レンゲで汁を啜ったしのぶが唸る。熱々の蕎麦が喉を通ると、香りが今度は鼻へと抜けていった。
「この店、蕎麦屋なのに、カレーも美味しいよね」
懐かしいのに、華やかなスパイスとほのかな甘さが、他とは違う味わいになっている。
「ルーが自家製だからね」
武弘が胸を張ると、紀子も話に加わる。
「うちのカレーはバナナが隠し味なのよ」
一瞬、葉次朗の箸が止まった。少し前にしのぶとした話を思い出したのだろう。
「そうそう、皮が黒くなるくらい熟したバナナを入れるんだ。カレーもうちの隠れた人気メニューだからな。バナナがなくなったら死活問題だよ」
蕎麦を啜る葉次朗の耳が赤くなったのは、カレーの汁が熱々のせいだけではなさそうだ。
「そういえばしのぶちゃん、昨日はちゃんと、お父さんのお墓参りできた?」
いろいろな出来事が重なって断念した墓参りだったが、それらの事情をしのぶはひと言に集約させた。
「強風で電車が止まっちゃって、行かれなかったの」
昨日、駅のトイレ前での爆笑が収まったとき、しのぶのスマホにあやめから着信があった。今どこにいるか訊かれたので、紘人とふたりで自宅の最寄り駅に向かっていると話す。
するとあやめは、
「じゃあ、いっそのこと、これからみんなで食事に行こっか」
と言い出した。
あやめも強風で足止めを食らい、綿引や朋絵も、紘人に逃げられ意気消沈し、出かけるのをやめたらしい。
あやめは紘人に電話を代わってくれと言った。しのぶがスマホを差し出すと、紘人がおそるおそる耳に当てた。
「ヒロ君。朝、私に《しのぶを借りる》って言ったわよね? だったら、きちんと返しに来てちょうだいね。逃げたら許さないからね」
凄む母の声が、スマホから漏れてくる。紘人は小さく「はい」と答えた。
「うわぁ、《借りる》なんて、言わなければよかった」
そう言ってスマホを返し、うなだれる紘人がおかしかった。
あやめはすぐさま、自宅近くのファミリーレストランに、紘人の祖母を含む全員を集めた。二日連続で殴られた綿引の顔は、心配したよりも腫れてはいなかったが、痛々しさが残っていた。紘人は無言で、しのぶの隣に座った。
注文が決まり、店員を呼ぶ。
女たちから一人ずつ、メニューを順に言っていくと、
「綿引さんは?」
気を遣って、あやめが訊ねた。
「私はハンバーグと海老フライのセットで」
そう答える綿引に続いて紘人が、
「じゃあ、オレも同じので……」
と店員に言った。
朋絵と綿引が顔を見合わせる。紘人は相変わらず不機嫌そうに顔をしかめていたが、テーブルを囲んだ空間が、ふわりと温かくなった。
祈りが通じて電車が動き、すんでのところでトイレに間に合った。
ここでテーブルをひっくり返したら神さまの罰が当たる。紘人も、神には逆らわないほうがいいと思っているらしい。それ以降、紘人が口をきくことはなかったが、これまでのことを思えば大きな進展だった。
昨日はあれだけ風が強かったのに、今日は春のように穏やかだ。
「そういやぁ、昨日ラジオで、電車が止まったとか言ってたなぁ」
武弘は店の仕込みのとき、小さなラジオでAM放送を聞いている。
「あんまりガタガタいうから、外に出した暖簾が飛んでいくんじゃないかって思ったわ」
「じゃあ、昨日はお店も空いてたんだ」
「とんでもない。寒いと汁物が恋しくなるんじゃない? おかげさまで繁盛しましたよー」
紀子が歌うように言う。景気のいい話で何よりだ。
「繁盛してるのにどういうわけか、小遣いが少ないんだよなぁ」
ぼやく武治を紀子がたしなめる。財布の紐は、おかみの紀子がしっかり握っているのだ。
そんなやりとりを眺めながら、《しま藤や》の本当の名物は、中華そばやカレーよりも、この夫婦なのではないかと、しのぶは思った。
◇◇◇
夕方、暖簾を下げた葉次朗に、しのぶが声をかける。
「葉次朗君も温泉まんじゅう食べる?」
昨日草津旅行から帰ってきた店の常連さんが、お土産に名物の温泉まんじゅうを持ってきてくれたのだ。
武治と紀子は、まだ厨房で仕事をしているので、先にいただくことにする。
「今、お茶淹れるね」
「うん」
ほうじ茶を淹れる。店のほうじ茶は業務用の安価のものだが、それでも淹れ立ては香りがいい。
「はい」
テーブルに湯飲みを置くと、
「ありがとう」
と言って、葉次朗は、湯飲みにふうふう息を吹きかけた。
「あぁ、今日も忙しかったぁー」
ほうじ茶が疲れた体に染み渡る。香ばしさが喉を通って、鼻に抜けていく。温かさが体をくるむようだ。
はぁ、と息をついたとき、なるほどこれか……と、しのぶは思った。
「 一緒にお茶を飲んでみたい」
「んぁ? なんか言った?」
心の中でつぶやいたつもりが、うっかり口から洩れていたらしい。しのぶは慌てて、「なんでもない」と首を振り、まんじゅうを頬張りながら言った。
「来週は、葉次朗君がお茶を淹れる番ね」
葉次朗が切れ長の目を丸くする。
「これって、当番制なの?」
「そうだよ。 だから来週も、お店手伝ってね」
しのぶがにっこり笑うと、
「あぁ」
葉次朗はぶっきらぼうに返事をして、まんじゅうを一気に口へと放り込んだ。
〈了〉
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