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一緒にお茶を飲んでみたい〈7〉

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 改札を通り、やってきた電車に乗る。
 日差しはあるが、風が強く、行楽日和とは言えない。そんな気候も手伝ってか、電車内はわりと空いていた。

 端の席に横並びに座る。視線は自然と車窓に向けられた。冬空を左右に渡すように、黒い線が伸びている。延々と連なる線は辛抱強く、途切れることなく続いていく。しのぶはどこまでも伸びていく架線かせんを眺めながら、電車の振動に身を委ねていた。

  あの事故のとき、車に乗っていたら声がしたんだ」
「え?」
 沈黙に耐えられなくなったように紘人が話し出す。
 紘人はこれまで詳細な事故の話をしたことがない。初めてのことに、しのぶは思わず背もたれから体を離した。

「車内が一気に狭くなって、父親の姿も見えなくなった。運転席が潰れたんだ。それなのに、蚊の鳴くような声で、『ドアを開けて外に出ろ』って声がした。オレはその声の言うとおりにして、ドアを開けた。今から考えると、なんで普通にドアが開いたのか不思議で仕方がないよ。車から出ると、ボンネットから煙が出はじめた。それ以外の記憶はない。思い出そうとしてももやがかかるんだ。だから、事故のことを訊かれても、ずっと何も覚えてないって言ってた。でも……でも、どうしても……あの声だけは忘れられない」

「その声って……」
「父さんの声以外ないだろう」
 紘人は顔を覆う。
「運転席が潰れてるのに、聞こえてきたんだ。隙間があったのかもしれないけど、今更どうしてかなんてわからないよ。結局、車は燃えちまったからな」
 指の隙間から覗く紘人の目に、憎悪の色がにじむ。
「……だからオレは、絶対に父さんを裏切れない」
 声が地をうように低く響いた。

「母さんは父さんが死んだとき、『ずっとわたしたちを見守っててね』って言った」
 紘人はそう言って震えるように息を吐き出す。
「まさか……まさか、あんな男に抱かれるところまで、父さんに見せるつもりかよ。考えただけで虫唾むしずが走る!」
 吐き捨てるように紘人は言った。

「あの世にいる父さんが、母さんのそんな姿を見て傷ついていると思うと、耐えられない。こんなの父さんが可哀想だ……」
 血が滲んでいるような悲痛な声が、しのぶの胸を揺さぶる。

 父は、あの世で自分たちを見ているのだろうか。見ているなら、今頃、あの事故で死んだ父たちは、何を思っているのだろう。
 それを考えたところで、その想像はすべて自分が作り出したものでしかない。亡き人を慮っおもんぱかても、残るのは自分の手垢のついた思いばかりだ。
   父はこう思っているに違いない。
 そんな想像がかえって、紘人自身の苦しみを白日の下にさらしてしまう。

  ヒロ。傷ついているのはお父さんじゃない。ヒロ自身だよ。お父さんが苦しむんじゃないかっていう思いは全部、ヒロ自身の苦しみなんだ」
「は? 何言ってんだよ」
「お父さんが本当にどう思っているかなんてわからない。それを想像して悩むってことはさ、自分が悩みを作り出しているのとおんなじなんだと思う。だから、ヒロが再婚を許してあげれば、ヒロの中にいるお父さんも再婚を許してくれると思うよ」
「は? マジで何言ってんの? 意味わかんねーよ」
 紘人はそう言い捨てると、むっすりと黙り込んだ。
 しのぶは向かいに座る男性客が、ペットボトルのお茶を飲んでいるのが目に入った。ホット用の小さいペットボトルには、《ほうじ茶》と書かれてある。

「そういえば綿引さん、朋絵ちゃんにほうじ茶を淹れてあげたいんだって」
「はぁ? なんだよ急に」
「昨日、ヒロが綿引さんを殴って帰った後にちょっと話したんだ。そしたらさ、朋絵ちゃんと夫婦になって、一緒にお茶を飲みたいんだって」
 紘人は怪訝けげんな顔をした。

「確かに、夫婦になれば触れ合うこともあるだろうけど、抱き合うばかりが夫婦じゃないよ。人生、それ以外の時間のほうが長いんだもん。あたしだったら、お母さんにお茶を淹れてあげたいって言ってくれる人が現れたら、安心するけどなぁー」
「なんでだよ」
「いつもさ、あたし、お母さんに悪いなぁって思ってたんだ。あたしがいなければ、再婚して子どもが生まれて、今頃、もっとのんびり暮らしてたんじゃないかって考えちゃうんだよね。あたしがお母さんの人生を不自由にしてるんじゃないかって、ずっと苦しかったんだ」

 しのぶは父の一周忌のときのことを思い出す。父の親戚たちが、酒を酌み交わしながら話をしていた。そこで交わされる噂話は、聞き心地のいいものばかりではなかった。まだ若い未亡人への興味からか、話題は《あやめが再婚するかしないか》という話にまで及んだ。このとき、その場に母はいなかった。どうして自分だけがそこにいたのかまでは覚えていない。
《子どもがいるから再婚もままならないだろう。気の毒だねぇ》
 誰かが口にしたひと言が、意味の理解を越えてしのぶの胸を刺した。
   あたしは邪魔な子なんだ。
 そのとき不意に思ったことが、今日の今日まで、しつこく尾を引いている。

「でもさ、もうそんなこと考えるのやめるよ」 
「当たり前だろ。ぶーがそんなこと考えてるって知ったら、あやめさん、絶対に悲しむぞ」
 紘人は顔をしかめた。さっき一緒に死のうと言っていた人間がするお説教は思えない。
「そうだね。だからヒロも《死ぬ》なんて、もう二度と言わないでよ」
 しのぶはお返しとばかりに言うと、紘人は押し黙った。

「ヒロのお父さんが、朋絵ちゃんの再婚をどう思っているのかはわからない。でもね、ヒロが簡単に《死ぬ》なんて言ったら、ヒロのお父さんが悲しむってことくらい、あたしにだってわかるよ。そんなにお父さんを《裏切れない》って言うならさ、お父さんが救ってくれた命を粗末にするようなこと、絶対に言ったらだめだよ」
 しのぶが力強く言うと、紘人は反省するように頭を垂れた。

「……ごめん」
 紘人が風の音に掻き消されるような、小さな声で謝ったとき、電車がギギギと音を上げた。
 車体が静かに動きを止める。
 窓から外を見ると、次の駅にはまだ遠いようだ。停止信号かと思っていたら、《強風の影響で運転を見合わせた》と車内アナウンスがあった。

  お父さんたちが、『樹海に行くな』って言ってるみたいだね」
「そうだな」
「電車が動いたら、次の駅で降りて戻ろっか」
「おう」
 紘人がほっとした顔をする。
 風が電車の窓枠をガタガタと叩いている。これはしばらく動かないかもしれないと思っていると、紘人は不満そうに口を尖らせた。

「なぁ、ぶー」
「だから、ぶーって、呼ぶなっての」
 いつもの返事をすると、紘人はため息交じりに言った。
「……オレが、母さんにお茶を淹れてあげるんじゃあ、駄目なのかな?」
 紘人のやるせない思いが、心の中を吹き抜けていくようだった。

「そりゃあ、淹れてあげたら喜ぶよ。朋絵ちゃんも嬉しいと思う。  でもさ、あたしたち子どもが親に《してあげられない》こともあるんだよ。あたしたちだって友達に話せても、親に言えないことってあるじゃない? 変な言い方だけどさ、そういうのって《お互い様》なんだと思うよ」
「そういうもんかなぁ」
「たぶんね」
「じゃあ、せめてさ、夢枕にでも立ってくんないかな」
「ん?」
「オレ、父さんが本当はどう思っているのか知りたいよ。父さんがオレに『母さんの再婚を許してやれ』って言ってくれれば、オレだってさぁ……」
「許せる?」
 紘人はしのぶの問いに答えず口ごもる。そう簡単にはいかないようだ。

「そのうちさ、紘人にもすっごく好きな人ができれば、綿引さんの気持ちもわかるようになるんじゃない? 夫婦になって、一緒にお茶を飲んでみたいって気持ちがさ」
「そういうもんかなぁ」
「たぶんね」
 しのぶは、紘人が自分のことを幼なじみとしか見ていないことをわかっている。運命共同体のように肩を寄せ合ってきたが、ずっと一緒にはいられない。紘人と同じ道を歩いてきたと思っていたのは錯覚で、二人はずっと、隣り合った別の道を歩いていたのだ。

 ふたりは黙ったまま、電車が動くのを待った。
 ガタガタと窓が風に揺れる。まだしばらく、電車は動きそうにない。しのぶは、自分の座っている席のシートが小刻みに揺れているの感じて隣を見る。
 すると、紘人が脚を動かして、貧乏揺すりをしていた。

「ちょっと、何してんの、みっともない」
 しのぶが言うと、紘人は耐えかねたように声を絞り出した。
「……しょんべん、いきたい」
「へ?」
「なんか急に……きた」
 強い風に吹かれたせいで、冷えたのかもしれない。
「空のペットボトルとか持ってないの?」
「……ない」
 あっても、こんなところで、どう使えばいいのだろう。電車の連結部分に行ってこっそりと……なんて考えたが、いやいやさすがにまずい、と思い直す。
   これは緊急事態だ。
 こうなったら、できることはひとつしかない。

「ヒロ。神様に祈ろう」
「は?」
「神様に、『朋絵ちゃんの結婚を認めますから、トイレに間に合わせてください』って祈るんだよ」
「はぁ? なんでオレがそんなこと祈らなきゃいけないんだよっ!」
「何よ。あんた、ここで漏らしたいの?」
「ぜってー、やだ」
「だったら祈りなさいよ。あたしもついでに祈ってあげるから」

 背に腹は代えられない。しのぶが顔の前で両手を組むと、紘人もそれにならった。ぎゅっと目をつむり、息を詰める。祈り続けるふたりの耳に、動きのある音が、ガタ、と聞こえてきた。風かもしれないと警戒したが、車体は徐々にスピードを上げた。

「ヒロ! 動いた!」
 紘人はうなずいている。もう、声も出せないらしい。
「もう少しで駅に着くよ」
 励ますしのぶの言葉に、紘人はこくんこくんと首を動かす。その様子は、子どもの頃と少しも変わらない。

 駅に着き、プシューと音を立てのドアが開いた。電車が吐き出した生き物のように二人は駆け出し、改札へと続く階段を下りていく。股間を押さえる紘人の様子は滑稽だったが、誰よりも真剣だった。しのぶは、駅のトイレに飛び込む紘人を見送る。

「ふはぁーっ!」
 男子トイレの中から、世にも珍妙な声が洩れ聞こえた。間に合ったとも、間に合わなかったとも取れる声に、しのぶは身構える。

 しばらくして、紘人が出てきた。
 しのぶは思わず、下半身に目を移す。  そこに濡れた形跡はない。
「ま……間に合った」 
「よかったぁー!」
 二人は手を取り合う。

 緊張感が解けると同時に、おかしさが込み上げてきた。しのぶが笑い、紘人も笑う。互いの爆笑につられるように、二人は笑い続けた。何事かと、身を引く通行人の目も気にならなかった。なんでこんなにおかしいんだろうと思いながら、しのぶも紘人も腹を抱えて笑った。

最終話につづく

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