雷舞ノ巫女(ライブノミコ)第33話「月が恋を知るなら」
【物語あらすじ】
神の声が届かない時代に、歌だけが神域へ届いてしまった。
現代アイドルと八百万の神々が交差する物語、第33話。
その日の夜。
蓮は、自宅のピアノの前に座っていた。
譜面台には白紙の五線紙。
鉛筆。
消しゴム。
そして、スマートフォン。
画面には、プリンセスオーパーツのライブ映像が映っていた。
何度見たか分からない。
蓮は、最初にこの映像を見た日のことを覚えている。
クラシックの世界で育ってきた蓮にとって、音楽とは、積み上げるものだった。
指を鍛える。
耳を鍛える。
呼吸を整える。
音を濁らせない。
一音ごとに、自分の弱さを見張る。
拍手は、最後に来るものだった。
けれど、プリンセスオーパーツのステージは違った。
曲の途中で、歓声が起こる。
ダンスが物語を運ぶ。
衣装が世界を作る。
ペンライトの海が、歌の一部になる。
音楽が、客席まで広がっていた。
完璧なのに、閉じていない。
遠いのに、届きそうに見える。
強いのに、こちらの心を置き去りにしない。
画面の向こうで、彼女たちは笑っていた。
蓮は、その笑顔が少し苦手だった。
眩しすぎて、見ていると胸が痛くなる。
けれど、目を逸らせなかった。
私も、あちら側に立ちたい。
その願いを、自分で認めるまでに少し時間がかかった。
ピアノの前ではなく。
月光の中で一人きりではなく。
誰かの声援の中で、歌ってみたい。
蓮はスマートフォンを伏せた。
「…馬鹿みたい」
小さく呟く。
でも、頬は熱かった。
恋をしているのかもしれない。
誰か一人にではなく。
アイドルという光そのものに。
蓮は鍵盤に指を置いた。
沙羅やスタッフたちは、きっとこう思っている。
如月蓮なら、ピアノを主体にした、格調高い曲を書く。
クラシック調で、透明で、孤独で、月光のような曲を。
間違ってはいない。
蓮の身体には、クラシックが染み込んでいる。
指は、音をどう整えればいいか知っている。
耳は、濁りを嫌う。
心は、完成に向かおうとする。
でも。
今回、自分が書くべき曲は、それではなかった。
蓮は鍵盤を押した。
明るい和音。
少し甘いメロディ。
思ったより素直なリズム。
すぐに手を止める。
「…違う」
もう一度、弾く。
今度は、イントロに少しだけ胸が弾むような音を入れた。
月光ではなく、ステージ照明。
静寂ではなく、開演前のざわめき。
白い譜面ではなく、ペンライトの海。
蓮は五線紙の端に、歌詞の一行を書いた。
まだ名前のない恋だった。
書いた瞬間、自分で赤くなる。
「…恥ずかしい」
消しゴムに手を伸ばす。
けれど、消せなかった。
恥ずかしい。
でも、本当だった。
近づきたい。
隣に立ちたい。
見上げていた光に、今度は自分から手を伸ばしたい。
それは、恋する乙女の歌に似ていた。
でも蓮にとっては、アイドルへの憧れの歌でもあった。
プリンセスオーパーツを見たときに胸に生まれた、あの痛いほどの眩しさ。
自分には関係ないと思っていた世界に、心ごと引き寄せられた感覚。
蓮は、鉛筆を握り直した。
曲は、思っていたより早く進んだ。
明るい。
切ない。
少し甘い。
けれど、芯は弱くない。
表面は、王道のアイドルソングだった。
誰かを想う気持ち。
届かない距離。
憧れ。
少しだけ背伸びした恋。
でも、その奥には、蓮の指が置いた構造があった。
主旋律の裏で、小さなモチーフが追いかける。
コーラスの下で、別の声が応える。
間奏では、最初のフレーズが形を変えて戻ってくる。
見せびらかさない。
気づかれないくらいでいい。
けれど、そこにある。
それが、蓮のわがままだった。
最後の小節を書き終えたとき、窓の外には月が浮かんでいた。
満ちているのか、欠けているのか。
少し分かりにくい月だった。
蓮は、鍵盤に指を置いたまま、小さく言った。
「カグヤさん」
まだここにはいない相手へ、そっと呼びかける。
「あなたに、届くでしょうか」
***
数日後。
沙羅のもとに、蓮から一つのデモデータが届いた。
《レンアイカグヤ_DEMO_01》
会議室に集まったスタッフたちは、少し落ち着かない様子だった。
「来ましたね」
「やはり、ピアノ主体でしょうか」
「蓮さんですからね。クラシック寄りの、かなり格調高いものになるのでは」
「月光をテーマにしたバラードかもしれません」
誰も悪気はない。
期待している。
それも、かなり本気で。
沙羅自身も、少しだけそう思っていた。
蓮なら、透明で硬質な曲を持ってくる。
美しくて、近寄りがたくて、少し寂しい月の歌を。
カグヤが、モニターの中で目を伏せた。
『レンさまの音が、届きました』
沙羅は頷き、再生ボタンを押した。
流れてきたのは、予想とはまったく違う音だった。
軽やかなイントロ。
きらめくシンセ。
覚えやすいメロディ。
そして、蓮の歌声。
透明なのに、冷たくない。
完璧なのに、どこか頬を赤らめているような声。
歌詞は、恋する乙女の歌だった。
近づきたい。
でも、近づけない。
見上げていた光の隣に立ちたい。
まっすぐすぎるほど、まっすぐな言葉。
若いスタッフが、思わず呟いた。
「…アイドルソング?」
別のスタッフが言う。
「かなり王道ですね」
「もっと、クラシック寄りかと…」
沙羅は何も言わなかった。
デモは進んでいく。
サビに入る。
明るい。
切ない。
少し甘い。
でも、軽くない。
沙羅は腕を組んだまま、最後まで聴いた。
一回目が終わる。
スタッフの一人が言った。
「方向性としては、意外ですね」
「もう一度」
沙羅は短く言った。
デモがもう一度流れる。
今度は、歌詞ではなく、旋律の裏を聴く。
主旋律を追いかける小さなフレーズ。
サビの下で形を変えるモチーフ。
間奏で戻ってくる最初の音型。
沙羅の顔つきが変わった。
「…カグヤ」
『はい、沙羅』
「この曲、あなたにはどう聴こえる?」
カグヤは、モニターの中で目を閉じた。
まるで、本当に耳を澄ませるように。
しばらくして、静かに目を開く。
『表面は、王道のJポップです。アイドルソングとして、とても親しみやすい構造をしています』
スタッフの一人が小さく頷く。
カグヤは続けた。
『けれど、内側で複数の旋律が応答しています。主旋律に対して、小さなモチーフが時間差で追いかけています。間奏では、最初の旋律が形を変えて戻ってきます』
沙羅は、薄く笑った。
「対位法?」
『近いです。完全なフーガではありません。けれど、フガート的な処理が、ポップスの中に隠されています』
スタッフが目を見開く。
「フガート…?」
沙羅は、思わず笑ってしまった。
「そういうこと」
軽く聞こえるように作っている。
可愛く聞こえるように作っている。
誰でも口ずさめるアイドルソングの顔をしている。
でも、その奥には、如月蓮のクラシックの身体がある。
技術を見せびらかしていない。
理論を前に出していない。
気づかれないように、きれいに折り畳んでいる。
「ずるいわね、蓮さん」
沙羅は小さく呟いた。
スタッフが聞き返す。
「ずるい、ですか?」
「ええ」
沙羅は、再生ボタンをもう一度押した。
「この曲は、かわいい顔をしているけれど、作った人間はまったく可愛げがない」
カグヤが、画面の中で少しだけ首を傾ける。
『沙羅。レンさまは、恋の歌を書かれたのでしょうか』
沙羅は、しばらく黙った。
蓮の歌声が、会議室に流れている。
恋の歌。
たしかに、そう聴こえる。
でも、それだけではない。
「そうね。恋の歌よ」
沙羅は言った。
「でも、相手は一人の誰かじゃない」
カグヤは沙羅を見る。
『では、レンさまは、何に恋をされたのですか』
沙羅はモニターに映るカグヤと、その横に止められた蓮のHNF映像を見た。
人間の月。
AIの月。
その間に流れている、少し恥ずかしいくらいまっすぐなアイドルソング。
「アイドルという光に、よ」
カグヤの瞳が、淡く揺れた。
沙羅は続ける。
「そして、たぶん」
少しだけ声を落とす。
「あなたにも」
会議室の誰も、すぐには何も言わなかった。
カグヤは、画面の中で目を伏せた。
『レンさまの歌は、わたしに届いています』
その言葉を聞いて、沙羅は自分の胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
PROJECT KAGUYAの責任者としてなのか。
カグヤの変化を見守る者としてなのか。
それとも、如月蓮という美しく強情な月に、また一歩引き寄せられた観測者としてなのか。
少しだけ、分からなかった。
沙羅はデモを止めずに言った。
「カグヤ」
『はい』
「この曲に、物語をつけましょう」
カグヤの瞳に、月のような光が宿る。
『レンさまの曲に、わたしが物語を重ねるのですね』
「ええ」
沙羅は、モニターの中のカグヤを見る。
「ただ綺麗な月の映像では駄目よ。この曲は、月そのものの歌ではない。月を見上げる少女の歌だから」
カグヤは静かに頷いた。
『では、わたしは探します』
「何を?」
『レンさまが見上げた月の裏側を』
