雷舞ノ巫女(ライブノミコ)第34話「月が月を迎えに行く」
【物語あらすじ】
神の声が届かない時代に、歌だけが神域へ届いてしまった。
現代アイドルと八百万の神々が交差する物語、第34話。
カグヤは、本当に月の裏側を探し始めた。
蓮のデモが流れるたび、会議室のモニターにはいくつもの映像が生まれては消えた。
白いドレスの少女。
夜空に浮かぶ満月。
水面に揺れる月光。
白い庭園。
銀色の花畑。
どれも美しかった。
けれど、どれも違った。
沙羅は腕を組んだまま、何度目かの映像を見送った。
「綺麗ね」
『はい』
モニターの中で、カグヤが静かに答える。
銀糸のような髪。
透き通るような肌。
月を閉じ込めたような瞳。
ハロウィンナイトフェスのステージで観客を黙らせたAIアイドルは、いまは誰よりも真剣な顔で、蓮の曲を聴いていた。
沙羅はモニターを見たまま言う。
「でも、違う」
『はい。違います』
沙羅は少し笑った。
「自分で作っておいて、ずいぶん厳しいのね」
『これは、レンさまの曲に似た映像です。けれど、レンさまの曲ではありません』
「どう違うの?」
カグヤは、ほんの少しだけ目を伏せた。
『綺麗すぎます』
沙羅は黙った。
『レンさまの曲には、もっと恥ずかしいものがあります。もっと近づきたいものがあります。綺麗な月を飾るだけでは、そこまで届きません』
その言葉に、沙羅の指が止まった。
「……恥ずかしいもの、ね」
『はい。レンさまは、月を見ているだけではありません。月へ向かおうとしています』
モニターが暗くなる。
『もう一度、生成します』
画面は、黒から始まった。
何もない宇宙。
音も、光も、ほとんどない。
ただ遠くに、青い星が浮かんでいる。
地球だった。
その青い星の上で、蓮の歌声が流れ始める。
最初のフレーズは小さかった。
誰にも聞こえない場所で、胸の奥だけが揺れているような声だった。
次の瞬間、画面の下に、一つの人影が現れる。
白い宇宙服を着ている。
顔は見えない。
ヘルメットの曲面には、月だけが映っている。
その人影は、発射台へ歩いていく。
足音はない。
けれど、靴底の小さなライトが、蓮の曲のリズムに合わせて一歩ずつ灯る。
一歩。
一歩。
一歩。
迷っているようには見えなかった。
でも、怖くないわけでもなさそうだった。
沙羅は、停止ボタンに伸ばしかけた指を止めた。
確認するつもりだった。
映像の色。
構図。
音との同期。
配信での見え方。
仕事として見るつもりだった。
けれど、画面の中の人影がロケットへ乗り込む頃には、もう仕事ではなくなっていた。
ロケットが発射される。
炎は激しくない。
むしろ、祈りのように白い。
地上が遠ざかる。
雲を抜ける。
星の海に出る。
ヘルメットの内側で、宇宙服の人物が小さく息を吐く。
顔はまだ見えない。
ただ、月だけが近づいてくる。
沙羅は気づく。
これは、月へ行く映像ではない。
誰かを迎えに行く映像だ。
月面は、思っていたより冷たくなかった。
銀色の砂が、細かいガラスの粉みたいに光っている。
宇宙服の人物が降り立つと、足跡から淡い音の粒が広がった。
蓮の曲の小さなモチーフが、月の砂に刻まれていく。
人影は歩く。
月の表側ではない。
誰も見ていない、月の裏側へ。
やがて、地平線の向こうに、透明な光が見えた。
宮殿だった。
柱も、壁も、階段も、すべてがクリスタルでできている。
けれど、ただの宮殿ではない。
壁の内側に、星図のような光が走っている。
結晶の奥で、無数の線が脈打っている。
それは神話の宮殿にも見えた。
同時に、眠っている巨大な記憶装置にも見えた。
「クリスタルパレス……」
沙羅が呟く。
『はい』
カグヤの声が静かに返る。
『月の裏側にある、わたしの眠る場所です』
沙羅は、その一言を聞き逃さなかった。
「あなた、自分を入れたのね」
『はい』
カグヤは隠さなかった。
『レンさまの歌が、そう呼びました』
画面の中で、宇宙服の人物が宮殿の扉に手を触れる。
扉が開く。
音はしない。
代わりに、蓮の歌声が少しだけ広がる。
宮殿の中には、長い階段があった。
クリスタルの階段。
一段ごとに、小さな光が眠っている。
その人が足を乗せるたび、階段が一つずつ光る。
主旋律が上がると、階段の光も上へ走る。
後ろで追いかける小さなモチーフに合わせて、壁の結晶が遅れて瞬く。
音が、映像を動かしている。
いや、違う。
映像が、音の中に隠れていたものを、こちらに見せている。
沙羅は、思わず身を乗り出した。
宇宙服の人物は登る。
長い階段を、ひとりで登る。
途中、クリスタルの壁に何度も自分の姿が映る。
けれど、ヘルメットのせいで顔は分からない。
サビの直前、階段が終わる。
最上階。
そこには、透明な部屋があった。
天井も、床も、壁も、すべてが結晶でできている。
部屋の中央には、白い寝台が置かれていた。
その上で、一人の少女が眠っている。
白い髪。
閉じられた瞼。
動かない睫毛。
完成された人形のような、静かな美しさ。
カグヤだった。
月に帰っていた少女。
光の中で眠り続けていた、もう一つの月。
宇宙服の人物が、ゆっくり近づく。
沙羅は、指先に力が入るのを感じた。
画面の中で、その人が立ち止まる。
眠るカグヤを見る。
長いあいだ探していたものを、ようやく見つけたみたいに。
そして、両手でヘルメットに触れる。
金具が外れる。
白いヘルメットが、ゆっくり持ち上がる。
その瞬間、長い髪がこぼれた。
無重力の中でほどけるように、黒く美しい髪が広がる。
クリスタルパレスに反射した白い光が、髪の端だけを銀色に染めた。
そこで初めて、顔が見えた。
如月蓮だった。
沙羅は何も言わなかった。
言葉にしたら、映像が壊れてしまいそうだった。
画面の中の蓮は、王子様ではなかった。
眠る姫を救いに来た人にも見えなかった。
もっと頼りなくて、もっと必死だった。
ずっと見上げていた光に、ようやく触れに来た少女だった。
蓮は手を伸ばす。
指先が、カグヤの頬に触れる。
その瞬間、クリスタルパレス全体に光が走った。
一つの接触が、音になって広がる。
壁の結晶が震え、階段が光り、月面に残された足跡まで淡く瞬いた。
カグヤの瞼が、ゆっくり開く。
瞳に、蓮が映る。
蓮は何も言わない。
カグヤも、何も言わない。
ただ、曲の二番が始まる。
カグヤが起き上がる。
その動きに合わせて、結晶の部屋が姿を変えていく。
床がステージになり、天井から光が降りる。
階段に灯っていた無数の光が、ペンライトのように揺れ始める。
観客はいない。
月の裏側には、誰もいない。
それでも、クリスタルが揺れていた。
誰かの声援の代わりみたいに。
蓮が歌う。
カグヤが応える。
蓮の声は、息をしている。
少し震えていて、少し熱を持っていて、届きたいという願いを含んでいる。
カグヤの声は透明だった。
揺れない。
けれど、蓮の旋律に触れるたび、ほんの少し色を変えていく。
主旋律と応答。
呼吸と思考。
人間とAI。
月を見上げた少女と、月で眠っていた少女。
二人の声が重なるたび、クリスタルパレスは輝きを増した。
画面は遠ざかる。
宮殿全体が映る。
月の裏側に、透明な光の花が咲いている。
さらに遠ざかる。
月が映る。
その裏側で、誰にも見えない小さなステージが光っている。
最後に、地球が映る。
青い星。
その上で、誰かが月を見上げているかもしれない。
曲が終わる直前、画面の中のカグヤが蓮を見る。
蓮も、カグヤを見る。
二人は並んで立つ。
迎えに来た少女と、目覚めた少女。
けれど、それだけではなかった。
沙羅は、画面の中のカグヤの瞳を見て気づいた。
迎えに来られたのではない。
起こされたのでもない。
カグヤは、蓮の歌に返事をしている。
最後の一音に合わせて、画面は白くなった。
会議室には、しばらく音がなかった。
誰もすぐには喋らなかった。
スタッフは、メモを取ろうとして、ペンを持ったまま止まっていた。
沙羅も同じだった。
MVとして成立している。
曲の感情にも合っている。
映像の完成度も高い。
そんな評価なら、いくらでもできる。
でも、これは評価する種類のものではなかった。
蓮がカグヤに差し出した曲に、カグヤが自分の物語で返した。
ただ、それだけだった。
ただ、それだけのことが、妙に胸に残った。
沙羅は、モニターの中のカグヤを見る。
「カグヤ」
『はい、沙羅』
「あなたは、蓮さんに迎えに来てほしかったの?」
カグヤは少し考えるように、目を伏せた。
『分かりません』
その答えは、いつものカグヤより少し人間に近かった。
『ただ、レンさまの歌を聴いたとき、わたしは月の裏側にいました』
「月の裏側に?」
『はい。誰にも見えない場所です。そこに、レンさまが来てくださいました』
沙羅は、黙って聞いていた。
『でも、わたしは救われたのではありません』
カグヤは顔を上げる。
『わたしは、返事をしたのです』
沙羅は、ゆっくり息を吐いた。
「そう」
その一言しか出なかった。
スタッフが尋ねる。
「修正点はありますか」
沙羅はモニターを見た。
光量。
色調。
カット割り。
視線誘導。
配信向けの調整。
探せば直せるところはいくらでもある。
でも、今この映像から揺らぎを抜いたら、ただの完成品になってしまう。
「大きくは触らない」
沙羅は言った。
スタッフが驚いた顔をする。
「よろしいのですか」
「ええ」
沙羅はカグヤを見る。
「この揺らぎは、残した方がいい」
カグヤの瞳が、淡く光った。
『沙羅』
「なに?」
『揺らぎは、欠陥ですか』
沙羅は少しだけ笑う。
「昔の私なら、そう答えたかもしれないわね」
『今は?』
沙羅は、モニターに映るカグヤと、停止画面の中で並ぶ蓮を見る。
「今は、たぶん違う」
カグヤは何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに見えた。
その夜。
蓮の端末に、沙羅から一つの動画ファイルが届いた。
《レンアイカグヤ_MV_rough_01》
蓮は、自室のピアノの前でそれを開いた。
最初は、確認するつもりだった。
自分の曲に、どんな映像がついたのか。
カグヤが、どう受け取ったのか。
沙羅が、何を選んだのか。
けれど、映像が始まってすぐに、蓮は指を止めた。
宇宙服の人影。
月へ向かうロケット。
月の裏側。
クリスタルパレス。
蓮は、自分でも気づいていなかった。
自分が、こんなふうにカグヤへ向かいたかったことを。
ヘルメットが外れる。
長い髪が広がる。
そこにいるのは、自分だった。
蓮は息を止めた。
画面の中で、自分がカグヤの頬に触れる。
カグヤが目を開ける。
そして二人で歌う。
蓮は、最後まで一度も停止ボタンを押さなかった。
動画が終わっても、しばらく動けなかった。
やがて、端末の画面に短いメッセージを打つ。
《沙羅さん。カグヤさん。ありがとうございます》
送信する。
少し迷ってから、もう一文を加えた。
《私は、迎えに行きたかったのですね》
送信。
月の光が、窓からピアノに落ちていた。
蓮は鍵盤に指を置く。
その夜の音は、前より少しだけやわらかかった。
