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見くだしてしまう私の奥に、本当は「入りたかった私」がいた

人を見くだしてしまう。

「あの人たち、仲良しごっこみたい」

「そんなことまで褒め合う必要ある?」

「なんだか、あの人の話し方が気に食わない」

そんなふうに思ってしまう自分に、

「私って性格が悪いのかな」

と、私は思っていた。 

しかも、意外と見くだしてしまう。

それがずっと不思議だった。

どうして私は、こんなふうに人を見くだすんだろう。

もっと素直に、人を好きになれたらいいのに。

そう思っていた。

でもある日、その「見くだし」の奥に、

別の私がいることに気づいた。

その私は、人を見くだしたかったわけじゃなかった。

本当は――

入りたかった。



Zoomで「歓迎されていない」と感じた

先日、Zoom会に参加した。

講師が二人いて、楽しそうに話していた。

何度も参加している人たちもいて、お互いに話が通じている。

私は以前、一度質問したことがある。

でも、それきり。

常連の人たちのように仲良くなっているわけではない。

その場にいるうちに、なんだか私は、

「ここに歓迎されていない」

そんな感覚になってきた。

すると、心の中で、

「ふん」

となった。(笑)

「これって質問会になってる?」

「おしゃべりばっかりじゃん」

「講師もなんだか優しくない」

そして、みんなが優しいコメントをしているのを見て、

「そんなの必要?」

「仲良しごっこみたい」

とまで思ってきた。

しまいには、

講師の話し方まで気に食わなくなってきた。

ここまで来ると、ちょっと笑う。

でも、そのときは本気だった。



「私は、なんでこんなに見くだすんだろう」

私は、その「ふん」となっている自分を、そのまま感じてみた。

そこで出てきたのが、

「私、意外と人を見くだすんだな」

という気づきだった。

私はこれまで、それを自分の性格の悪さだと思っていた。

ひねくれているのかな。

素直じゃないのかな。

人を見くだす嫌な人なのかな。

でも、その日は違った。

「どうして私は、見くだすんだろう?」

と、その奥を見てみた。

すると、少しずつ別のものが見えてきた。



「輪の外」にいる感覚

私は子どもの頃、

「山に捨てる」

と言われたことがある。

お母さんと兄弟はみんなあちら側。

私は一人で道路に残された。

今思えば、あのとき身体に刻まれたのは、

「私は輪の外に置かれる」

という感覚だったのかもしれない。

みんなは一緒。

私は一人。

みんなはあちら側。

私はこちら側。

それは、ただ「寂しかった」というだけではなかった。

小さな子どもにとって、

「自分だけが外に置かれる」

という体験は、とても大きなものだったのだと思う。



「入りたい」と言えないとき、人はどうするんだろう

そこで、今日のZoomのことをもう一度思い出した。

講師たちが仲良く話している。

常連の人たちが楽しそうにやり取りしている。

私は、その輪の外にいるように感じた。

本当は、

「私も入りたい」

だったのかもしれない。

でも、

「入りたい」

と思っているのに入れないのは、痛い。

「私も仲間に入れて」

なんて思う以前に、

「私がここに入れる」と思えなかった。 

そんなとき、心は別の方法で自分を守る。

「別に入りたくないし」
「入れなくてもいいし」
「仲良しごっこじゃん」

そうやって相手の価値を下げることで、

自分が「入れてもらえなかった側」だと感じなくて済む。

もしかしたら私は、

見くだすことで、自分を守っていた。



見くだしは「攻撃」ではなく「守り」だった

もちろん、誰かを見くだすことが相手を傷つけることはある。

だから「見くだしてもいい」という話ではない。

でも、

「見くだす自分は性格が悪い」

と決めつけるのも、少し違うのかもしれない。

その反応の奥には、

傷つきたくない自分がいる。

寂しい自分がいる。

輪の外に置かれたくない自分がいる。

そしてもしかしたら、

「本当は入りたかった自分」

がいる。



「ああ、私、入りたかったんだね」

今回、一番大きかったのはここだった。

「なんで私はこんなに見くだすんだろう」

から、

「私は輪の外にいると感じたんだ」へ。

そして、

「本当は入りたかったんだね」へ。

そうやって見ていくと、

見くだしていた自分が、少し違って見えてきた。

嫌な自分ではなかった。

ずっと私を守ってきた自分だった。

「ここに入りたい」

「仲間に入りたい」

「私も一緒にいたい」

そう思っている自分を、傷つけないように。

「別に、こんなものいらない」

と思わせてくれていた。



家族のLINEを抜けるのが怖かった理由

このことに気づいたら、もう一つ思い当たることがあった。

家族のLINEを抜けることが、私は怖かった。

ただLINEから抜けるだけなのに。

「三人が結束するようで怖い」

「私は輪の外になる」

そんな感覚があった。

これも、同じなのかもしれない。

今の家族LINEと、子どもの時置いていかれた道路は、
もちろん同じではない。

頭では分かっている。

でも身体のどこかでは、

「みんながあちら側に行って、私は一人になる」

という古い感覚が反応する。

だから怖かった。

私は、今の出来事だけに反応していたわけではなかった。

昔の「輪の外」の感覚も、一緒に反応していたのだと思う。



私は「見くださない人」になる必要はなかった

この気づきがあっても、たぶん私はこれからも、

「ふん」

となることがあると思う。

人を見くだしたくなることもある。

拗ねることもある。

でも、もう少し違う見方ができる。

「私、今、見くだしてるな」

「ああ、輪の外にいる感じがしたのかもしれない」

「本当は入りたかったのかな」

そうやって、自分の中を見てあげる。

見くだしを無理やりなくそうとするのではなく、

その奥にいる自分を見つけてあげる。



追い出していた私を、もう一度迎えにいく

「見くだしてしまう自分は、性格が悪い」

そう思っていた私は、

その自分を嫌な人として見ていた。

でも今は、

「どうして私は、見くだしたんだろう」

と、少し立ち止まってみる。

その奥に、

寂しかった私がいるかもしれない。

輪の外にいると感じた私がいるかもしれない。

本当は入りたかった私がいるかもしれない。

そういう自分たちを、

「こんな私はいらない」

と、また追い出さなくてもいいのかもしれない。

見くだす私も。

拗ねる私も。

寂しがる私も。

入りたかった私も。

「ああ、そうだったんだね」

と、少しずつ見つけていく。

今まで自分の中から追い出していたものが、

少しずつ自分の暮らしの中に戻ってくる。

そのとき、

自分の中にいたものが、

また一緒に暮らし始める。

私は今、

そんなことを少しずつ覚えているところなのだと思う。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました🍃

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