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『美山考』第9章〔知井C〕芦生・白石・佐々里【260401】

南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴

エリア地図13〔知井C〕芦生・白石・佐々里

エリア地図13〔知井C〕芦生・白石・佐々里


5090S1 熊野権現神社

5090S1 熊野権現神社(2024.10.14)

所在地:芦生
創建:未詳
祭神:熊野神
氏子:芦生
例祭:4月10日「わさび祭り」 ※「第10章 行事と食文化 - 表10-2 行事の記録 - 2025年4月10日 芦生のわさび祭り」参照
由緒等:未詳


5110S1 八幡宮

5110S1 八幡宮(2024.10.14)

所在地:佐々里
創建:未詳
祭神:応神天皇
氏子:佐々里、白石
例祭:4月27日「囲垣祭」 ※「第10章 行事と食文化 - 表10-2 行事の記録 - 2025年4月29日 佐々里の囲垣祭」参照
由緒等:境内に「大鹿退治伝説の里」と「囲垣祭の由来」の立札あり。
佐々里区文書に佐々里八幡宮の由来が記されている。(「第11章 伝承と人物  4. 香賀三郎(甲賀三郎) 3)佐々里」参照)

元明天皇の和銅6<613>、丹波の国の山奥に八つの頭をもつ巨大な鹿がおり、都の人々を恐怖におとしいれ、村々の農民は田畑を荒らされ大変な被害を受けていた。
天皇は武将甲賀三郎源兼家に大鹿退治を命じた。兼家は、豪勇の武士を引き連れ、弓削八幡宮で武運を祈り、険しい山道を二人の弟子に道案内され、八丁山へ、衣懸山から佐々里川上流、栃柳谷の山の中へと進んでいつた。そして布滝の岩屋から出てきた八頭の大鹿に兼家は矢を放ち目を射た。
大鹿の血は、岩や道を染め(赤石ヶ谷)、ついに倒れ、兼家は大鹿の首をはねた(まないた岩)。
兼家は、家来共々神の加護と武運に感謝し、佐々里に洞を建て、八幡大明神を祀り、都への路についた。家来の中にこの地に永住した者の子孫が今日まで続き、これを後に智伊(知井)十苗といい、知井之庄開拓の先人と伝えられている。
(十苗は、林、勝山、高野、大牧、中田、東、長野、名古、中野、津元)

【大鹿退治伝説の里】

囲垣祭とは、村民全員が講中になり、満十五歳になった若者の元服を祝う儀式と祭りである。囲垣とは、元服した若者の名前を記して八幡宮の境内に立て掛ける木札をいう。佐々里の囲垣講の起源は、遠く江戸時代以前にまで遡る。他村の者が佐々里村の立木を再三再四伐採した。奉行所に訴え裁判となったが、その際村の若者の雄弁が力となり、北の方水流れの分は佐々里の所有であるとの裁判が下された。それが元和の旧暦3月27日(現在は4月27日、※更に現在は4月29日 )であったことからこの日に囲垣祭が行われるようになり、今に至っている。

【囲垣祭の由来】

5110T1 最勝寺

5110T1 最勝寺(2025.04.29)

所在地:佐々里
山号:弘誓山
宗派:真宗大谷
本尊:阿弥陀如来
創建:大治3<1128>
開基:良忍
由緒等:
・昭和43<1968>本堂改築
・昭和47<1972>梵鐘、鐘堂建立
もとは河内谷門坊寺の末寺で真言宗であったとする。
文明7<1475>蓮如上人が加賀国で起こった一向一揆と守護勢力の戦いを避けるため、越前国吉崎御坊から、小浜を経て紀伊国に向かう道中、佐々里の本村である南村に立ち寄った際(佐々里は古文書などに「南村出郷」とあり南村より分村、天正14<1586>~文禄元<1592>)、真言宗の寺院であった南村福正寺の正善法師・若法師兄弟(「大正郡誌」は南村の兵部卿(浄頓)、中将(浄頓の弟)とする)が蓮如上人の教化によって浄土真宗に帰依し、若法師は蓮如上人より祐善という法名を賜って最勝寺を再興した。
のち、祐西(新田義貞の族大島讃岐守義政の裔)が住僧となり、天正年中<1576頃>、信長の本願寺攻めのとき、信長軍を防ぎ、門主教如より賞せられたとする。
園部藩主小出対馬守から位牌安置所となり、明治に至るまで、同藩主歴代及び家老小出孫兵衛祖先の位牌を蔵し、毎年菩提を弔ったとする。


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