『美山考』第3章 桑田郡
南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴
第3章 桑田郡
「和名類聚抄」(931~938年)によれば、「桑田」は「久波多」と訓じ、郡内には 12の郷が存在したとされる。
「日本歴史地名大系」を参考に、表3-1 に郷名と現在の推定地域を示し、図3-1 に推定地域をマークした。
図3-1 を概観すると、桑田郡に該当する地域の南部には比較的小さな郷域が密度高くあり、北部は各郷域が大きく、南北間にはマークがほとんど無いことが見て取れる。
資料によっては、横作郷(よこさく)を、楯作郷(たてぬひ)或は、摸作郷(もさく)とするなど、郷の存在そのものに諸説あり、推定地域については、不詳のもの、諸説あるもの等、特定できないものがほとんどのようである。
そのような背景があるものの「日本歴史地名大系」では、美山地域は大野地区を除き、弓削郷の広い地域を推定している。
川人郷(かわむと)は、「古事記」允恭天皇代に設置された河部(川での漁をつかさどる部民)が由来とされ、表3-1 記載の 3つの地域が候補にあげられている。
保津町を比定する説が有力なようだが、「京都府北桑田郡誌」では美山地域の大野地区を推定地域としており、美山地域の西側の範囲を示唆しているのかもしれない。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子の伝承(「第9章 伝承・人物」参照)が美山地域に残るのは、川人郷の所在地域に関係しているのではないかとさえ思えてくる。
また、「日本書紀」仁徳天皇16年条に、桑田玖賀媛の名前が見え、雄略天皇16年条では、国県に「桑」を植えさせ、秦氏(中世に美山地域を治めた川勝氏の祖とする資料があるらしい)を遷して、「漢部」を集めて云々、の記述がある。桑田郡に関わるものとして、気に留めておきたい文面である。
十六年秋七月詔、宜桑國縣殖 桑、又散遷秦民、使獻庸調。冬十月詔、聚 漢部、定其伴造者、賜姓曰直。
十六年の秋七月に詔(みことのり)して、桑 に宜(よ)き國縣にして桑を殖えしむ、又秦の民を散(あか)ちて遷(うつ)して、調庸を獻(たてまつ)らしむ。冬十月に詔して、漢部 を聚(つど)へて、其の伴造の者を定めよ、姓を賜ひて直という。
参考までに、京北地域の山国郷辺りは、平安初期の桓武朝のころから、長岡京や平安京の宮廷建築の木材供給地とされ、後に禁裏御料地となったようである。明治初頭の動乱期には、山国隊が官軍として戊辰戦争に参戦したことからも、同地域は古くから皇室との結びつきのあったことがうかがえる。
表3-1 郷と推定地域

図3-1 郷の推定地域

